③サーベルタイガー
「はいはい、ちょいとごめんなさいよ♪」
ミケランジェロさんは豊満な胸と尻で改を圧迫し、電話ボックス大の空間に相部屋する。
現役JKと密室に二人きり――。
白いうなじが目の前をちらつき、シャンプーのフルーティーな香りが鼻を擽る――。
――が、改の脳裏には「監禁」の二文字しか浮かばない。
果たして、生きてここを出られるだろうか。
「……今気付いちゃったんですけど、ここ男子トイレですよね? なんでフツーに入って来ちゃってんの、アンタ」
「細けぇこと言うなよ♪ 呑み屋なんて乱パの前哨戦みてぇなもんだろう? 男と女がトイレにしけ込んだって、誰も気にしねぇよ♪」
乱暴なのか率直なのか微妙な発言をすると、ミケランジェロさんは谷間からライターとタバコを取り出した。どっしりと洋式便器に跨った彼女は、事後のように深く吸い、鼻の穴から煙を噴き出す。
「……って言うかね、誰もそんな風に思っちゃってませんでしたよ。俺、明らかに心配されちゃってたもん。こう、『お札は靴下に隠しておいたほうがいいよ』みてぇな感じで」
「なんだァ? アタイに性的魅力がねぇってかァ?」
巻き舌気味に凄み、ミケランジェロさんは改の胸ぐらを掴む。
バッキバキに反り返る二本の指――狙いは改の目玉だ。
「あります! あるでございます! Fな乳とか最高っス!」
光を失いたくない改は、心にもない賛辞を述べ立て、ビシッと敬礼する。
「いやらしい目で見るんじゃねぇ♪」
一端のJKのように甲高い悲鳴を上げたミケランジェロさんは、デスクローっぽく改の頭を掴み取る。鐘を搗くように振りかぶり、改の脳天を壁に叩き付ける。鈍い衝撃音と共に火花が舞い、壁に天井に放射状の血痕が散る。スイカ割りの後みたい。
「模範解答を教えてくれよぉ……」
心の底から呟くと、改は便器の横に丸まり、頭を抱える。
これ以上、脳にダメージを受けるのは本当にマズい。事件が解決する頃には、カーロス・リベラになっている。
「アタイに文句があるってぇのかい!?」
恫喝しながら腕捲りし、ミケランジェロさんは便器の横にあったボットンを振り上げる。
何をするかは決めていない。考えるより先に凶器を取る人なのだ。改の周囲では彼女のことを、「JK界のタイガー・ジェット・シン」と呼んでいる。
「な、何だ、今の音は!?」
ドアの外から聞こえて来たのは、困惑のあまり上擦った声。
大騒ぎしている内に、中條がトイレへ入っていたらしい。
て・めぇ・の・せ・い・だ・ぞ♪ い・た・み・く・ら・い・た・え・ろ♪
口パクで伝えたミケランジェロさんは、ボットンの柄で改の頬をグリグリする。
お・と・こ・じゅ・く?
口パクで言い返した改への制裁は、スリーパーホールドだった。これ以上音が立たないようにしてくれるなんて、彼女とは思えない配慮だ。おかげで心音も小さくなってきた。
男女が一つの個室に入っていてもおかしくない状況は!?
中條の疑念を晴らすべく、改は思考を巡らせる。
ダメだ。右脳を検索しても、左脳をひっくり返しても、ロクな案が出て来ない。どうも脳味噌を働かせるには、酸素の供給量が絶対的に足りないらしい。酸欠によって霞んでいく脳内で、「乱パ」と言う単語だけが金色に輝いている。
「欲しかったんだろう?」
淫靡に囁いた改は、いかにも脱いでいるようにズボンのチャックをカチャカチャ弾く。徐に谷間をまさぐったミケランジェロさんは、バタフライナイフを取り出し、改の頬をペチペチ叩く。まずは指を詰めてもらおうか、だ。
「……フリ! 演技! アクト!」
「……何だ、芝居か♪」
残念そうに呟いた彼女は、改の小指に当てていたナイフを谷間に引っ込める。
演技と聞いて、女優魂が騒ぎ出したのだろう。
よぉーし♪ と意気込んだ彼女は、女の子らしく小さな咳払いを漏らす。
「おおお~っ♪ ち、ちくしょうっ♪ こ、こんなのってあるのォ♪ 悪魔♪ 人殺しっ♪ あああ~♪」
個室の改とドアの外にいる中條、ずっこける音がハモった。
「何だ!? 何してんだよ!?」
正気とは思えない雄叫びを聞いた中條は、怯えた声を発しながらドアの縁に指を掛ける。ドアによじ登り、個室の中を確かめるつもりだ。
「そんな喘ぎ声聞いたことなかったり!」
「出典ゴルゴ13第七四巻第二三一話『見えない翼』♪」
華麗に論破した彼女は、再び改の鼻先にボットンを突き付ける。
度重なる口答えへの罰として、面の皮を吸い取る気だ。
「……バレちゃう! バレちゃうから!」
奇跡が起こりでもしない限りあり得ない自重を促しながら、改は脇目も振らずに後ずさる。一歩半で残酷な壁に背中がぶつかった。
「どんなにバタバタしても平気だよ♪ テメェの名演のおかげでな♪」
悪魔が腕を突き出した瞬間、残像と化すボットン。咄嗟に首を傾ければ、ヒュッ! と鋭い風音が改の耳元を掠める。柔らかな吸盤が壁にめり込み、粒子の粗い粉塵が視界を曇らせていく。
面の皮を剥ぎ取る? 甘かった。彼女は頭蓋骨及び背骨を、改の胴体からボットンするおつもりだ。もうプレデターだ。
チッ♪ と心底悔しげに舌を打った彼女は、壁に片足を押し当て、ボットンを引っこ抜く。スポン! と吸盤が外れた途端、丸く陥没した壁から砕けたタイルが剥がれ落ちた。
「レクイエムくらいは弾いてやるよ♪」
葬儀での活躍を約束すると、ミケランジェロさんはモーツァルトのレクイエムを口ずさみ始めた。迷うことなく改の左胸を見据えた彼女は、心臓を一突き出来る高さまでボットンを振り上げる。
――が、そこで唐突に動きを止めた。
良心が働いた? いや、悪意の遠心分離器に掛けたら、空気しか残らない人だ。この間も遊びのないアルゼンチンバックブリーカーで、未来ある少女の背骨をへし折ろうとしていた。
まさか焦らしている?
ひと思いに楽にするのではなく、死の恐怖を堪能させる気か!?
慎重に慎重を喫しながら表情を探ってみると、彼女は珍しく真剣な顔をしていた。何かを探っているのか、細かく震える眉を眺めていると、触覚を動かすアリが改の頭を過ぎる。
「……んだ、この辛気臭ぇ音は?」
怪訝そうに吐き捨てた彼女は、髪から耳を掘り出し、手を添える。
「フルート? ピッコロ? いや、もっと高ぇな♪ それに空気の震え方……金属にしては柔らかいし、木管にしては硬すぎる♪ 陶器か?」
「音ぉ?」と疑念丸出しの口調で聞き返し、改は首を傾げる。
聴覚に意識を集中させても、改の耳には換気扇の回転音しか聞こえない。
ついにご自慢の耳にまで、ホッピーの毒が回ったか?
思わず心臓ボットンが確定の一言を吐きそうになった改は、慌てて口を押さえる。
キィィィ!
脈絡なく聞こえてきたのは高音。
電車の急ブレーキに似たけたたましい音。
悲鳴――音源はドアの外だ。
改は即座にドアを蹴破り、個室の外に飛び出す。
その瞬間、目に飛び込んできたのは、壁際に追いやられた中條と、彼に組み付く猫背の男。
いや、「男」かは言い切れない。
ボロ布をツギハギしたような灰色の外套で、全身を包み隠している。
骨と皮ばかりの姿は、「餓鬼」とでも形容したところか。
肋の浮き出た胸とは真逆に、ぽっこりと膨らんだ腹。枯れ枝に皮を巻いたように痩せこけた四肢。人間とは逆に曲がった膝は、一見すると陸上競技用の義足を着けているかのようだ。