深淵の魔蟻
君たちは、「アビス・アント」という魔物を知っているだろうか。女王の指令の元、どのような国の軍隊よりも規律ある動きで人々に害をなす昆虫型モンスターだ。彼らは、生息する場所を選ばない。洞窟、密林、火山帯、湿地帯……ありとあらゆる地域で、彼らはコロニーを作り上げる。
想像してほしい。レベル150~180に達する1m大の蟻の群れが、突如として君たちの生活圏を浸食していく様を。暴食な彼らが通り過ぎた後には、何も残らない。
一般市民など、五秒もあれば彼らのランチとして骨も残さず食い尽されてしまうだろう。そのような生態を持つ危険な蟻型モンスターは、当然A級の討伐対象となっている。一匹でも見つかれば、国を挙げての大討伐隊が組まれるほどだ。
そんな恐ろしい「アビス・アント」が、もしも君の家で息を潜めていたとしたら……?
今回は、そんなケースを一緒に見ていこう。
彼女は、飢えていた。
忌々しいニンゲンの魔術師に窮屈な箱の中へと閉じ込められ、どれほどの時が過ぎたのか。魔素によって生命を維持する魔物は、何を摂取せずとも百年単位の刻を生きることができる。だが、飢えないわけではない。
元が生物である魔物は、本能を色濃く残している。
彼女も、例外ではなかった。
気が狂いそうなほどの飢餓の中、再生能力を持つ自らの腕を齧っては解放の日を待つ。女王である証の、妖しげな美しさを持つ透明な翅は見る影もなく皺が寄っている。艶やかに黒く光る体皮が白く濁り始めたのはいつの頃だろうか。
それでも彼女は、ただただ解き放たれるその時を待つ。蓄積された怨嗟を晴らし、腹が捻じれそうなほどの飢えを思いのままに満たす時を。
それは、もうすぐそこまで来ていた。
彼女には分かる。自らを縛りつける結界が、その力を無くそうとしているのを。
魔素を供給する魔術師が死に、結界は消滅しようとしていた。
そして始まる、絶望へのカウントダウン。レベル200もの彼女が解き放たれれば、衰弱しているとはいえ、容易に止められるものではない。
騎士団が駆け付ける頃には、周辺住民は彼女に食い尽され、その魔素の量だけ「アビス・アント」が産まれているだろう。そうなってしまえば、生半可なニンゲンでは対処は不可能だ。
この世に地獄を作り出す深淵からの使者……「アビス・アント」の名は、そのことを如実に表していた。
ピシリ。
どうやら、結界が崩壊を始めたようだ。ピシピシと音を立てて、彼女を閉じ込めるガラス製の箱がひび割れていく。それに比例するかのように彼女の体には活力が甦り、その複眼には赤い光が灯り始める。
パリーン!
それから間を置かず、遂に砕け散った魔を封じる結界。彼女を縛るものは、もはや何もない。
この世への最誕を憎たらしいニンゲンへと知らしめるかのように、彼女は高らかに叫び声を上げて、行く手を塞ぐ木の板を突き破った!
「キシャアアアアアア~~~~~~!!!!」
「あ? でけえシロアリだな、おい」
ブシュゥゥゥ~~~~~~!!!!!!
「ギャシャアアア~~~~~~~!?!?」
光溢れる現世へと舞い戻った「アビス・アント・クイーン」を出迎えたのは、殺虫剤の洗礼だった。大きく開けた口でまともに吸い込んでしまい、のたうち回る女王アリ。そこへ、更なる追撃がかけられる。
「んん? よく見りゃ「アビス・アント・クイーン」じゃねえか!? なんてもん飼ってんだ、ハロルドさんの親父……!!」
顔を青くして、魔導式の噴霧器で殺虫剤を振りかけ続ける貴大。
だが、いくら元は虫とはいえ、この魔蟻は人々に恐れられる女王アリだ。そのようなもの、牽制にしかならないとばかりに立ち直り、彼へと勢いよく飛びかかった!
「キシャアアアアアアア~~~~~~~~!!!!」
「うわ、キモッ! 【スナイプ・エッジ】!!」
サクッ。
「ギシャアアァァァァァ~~~~…………」
虫が苦手な貴大による本気の投げナイフだ。瞬時にアイテム欄から引っ張りだした対ボス用の装備や貴大のステータスが相まって、女王アリは脳天を貫かれて一撃で絶命した。
貴大の喉笛を噛み切ろうとした強靭な顎も、目的を達することなく魔素の煙となって、本体諸共消えていった。
「ああああ、キモッ! キンモーッ! でかくなっても、虫は虫だよ。もういねえよな……? やだやだ、さっさと仕事終わらせて帰ろ……」
「アビス・アント・クイーン」が飛び出してきた隠し部屋を恐る恐る覗きこんで確認した貴大は、腕を擦って部屋を出ていった。
「ご苦労様でした、タカヒロさん。はい、これが今回の報酬ね」
「ありがとうございます」
「それで、お父様の別宅の状態はどうでした? やはり、シロアリが巣食っていましたか?」
「ええ、いましたね……でっかいシロアリが。なんか、ちっちゃい隠し部屋の壁が崩れてました」
「まぁ、怖い! やっぱり、取り壊すべきかしら。でも、お父様が「あの家は壊してはならん」って亡くなる前に言ってたのよ。なんでも、「災厄が解き放たれる」とかなんとか……その内自分で何とかするって言い張ってたんだけど、ぽっくり亡くなっちゃって……やっぱり、魔術師は偏屈でいや~ね、おほほ」
「ははは……」
「ごめんなさいね、変な依頼しちゃって。でも、家の使用人も忙しくって。タカヒロさんは、こういう時に頼りになるわね」
「どうもです……ははは」
ハロルド夫人から報酬を受け取った貴大は、夕暮れの街を一人で歩きながら、ぽつりと独り言を漏らした。
「危険生物飼ってたのがバレたくないってのは分かるが……せめて、家族には言っとけよ」
貴大は、深淵の女王アリを単独討伐したにしてはやけに軽い報酬袋をちゃりちゃりと手遊びしながら、は~、と白い息を吐きつつ家路についた。
「……このように、研究対象として秘かに捕獲された「アビス・アント・クイーン」が小国を滅ぼした、というケースがあるのです。皆さんも、興味本位で魔物の捕獲など行ってはいけませんよ。彼らは、いつ、どのような形で牙を剥くかわからないのです」
「「「はい、先生!」」」
生徒の興味を喚起するエピソードも交えたエリック教諭の魔物学の授業は、今日も生徒に好評だった。