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淫獣伝

「僕の名前は」


「タカヒロ・サヤマ」


「僕の居場所は」


「ここだ。この場所こそが、君の帰るべき場所だ」


「僕はこれから、どうすればいいのだろう」


「ずっとここにいればいい。スキルを忘れていてもいい。アイテム欄を開けなくてもいい。君はここにいればいい」


「でも、僕は貴女を知らない。貴女のことを覚えていない」


「私が君を覚えている。君のことを理解している。君を確かに必要としている」


「僕はここに、いてもいいのでしょうか?」


「ずっといればいい。君はここにいればいいのだよ」


 暗闇の密室。三方の壁には見上げるような本棚が備えられ、それでも収まり切らなかった本や羊皮紙が、吐き出されるように床へと溢れ出していた。


 雪崩を起こした古文書と、乱雑に積み上げられた紙の束。足の踏み場もないほどに散らかった部屋では、黒髪の男女がひっそりと抱き合っていた。


 柔らかく男を抱擁する白衣の美女と、彼女の優しさにぎこちなく応える長身痩躯の青年。震える男の手が背中へと回った時、女は優しく微笑んだ。


「君の居場所はここだ。これまで通り、私の助手として生きていけばいい」


「そのことを覚えていなくても?」


「君が私の助手だという事実は変わらない。そう、何も変わらないんだ」


 眼鏡の奥から見つめる瞳に、青年は限りない慈しみを感じた。


 この女性は、自分を必要としているのだということを強く感じた。


 だからこそ、彼は――佐山貴大は、縋りつくようにエルゥの体を抱きしめた。


 締め付けるような抱擁。だが、黒髪のエルフは微笑みを崩さず、逆に貴大の背中を優しく撫でて、彼の不安を和らげる。


 そこには、確かに愛があった。貴大とエルゥの絆があった。記憶が失われても消えない繋がりが、二人の心を結んでいた。


「君はここにいなさい。ずっとここにいてもいいんだよ」


「エルゥさん、エルゥさん」


「そう、ずっとここにいて――そして、」


 薄闇の中で、エルゥはそっと貴大の耳元に呟いた。


「モルモットになってくれればはっ!?」


「エルゥさん!?」


 鈍い打撃音。直後、エルゥはずるりと床へと崩れ落ち、弛緩した顔を貴大に晒した。


 白目をむいてのびるエルゥは、口の端から赤い舌をだらしなく垂らし、一筋の涎をしたたらせた。身体は芯を失ったかのように力なく横たわり、その四肢は壊れたマリオネットのように投げ出されている。


 そして、彼女の側頭部には、見事なたんこぶが一つ。貴大がそのことに気がついた瞬間、彼は手を取られ、エルゥの研究室から連れ出されていた。


「き、君は……確か、セリエちゃん」


 貴大の浅い記憶に残る少女の名前は、セリエ・ポルト。ふわふわとした栗毛とベレー帽が特徴である少女は、木製のハンマーを王立図書館地下の廊下に放り捨て、空いた左手でも貴大の腕を引いた。


「エルゥさんを殴ったのは君? だ、駄目だよ、そんなことしちゃ。打ち所が悪いと、最悪、死んじゃうかもしれない」


「大丈夫です。あれは叩いた相手を【気絶】させるだけのハンマーなので、安全です」


「撲殺専用ハンマー!? なんて恐ろしい……!」


 記憶をなくした貴大は、【気絶】という名の状態異常も知らない。彼は全てを忘れてしまった。名前も、家も、〈アース〉のことも――そして、自分が持っている力のことも。


「ここまでくれば安心ですね……いいですか、タカヒロさん」


「は、はい」


 無事、王立図書館を脱出したセリエは、貴大へと振り返り、彼の手をぎゅっとつかむ。


「あの人は悪い魔女なのです。騙されてはいけません。今度、巣の中へと引きこまれたら、もう戻れないかもしれません。街中で声をかけられても、決して、あの人にだけはついて行かないようにしてください」


「エルゥさんは、魔女だったのか……!」


 思い返せば、貴大と接する間、エルゥは終始笑顔だった。


 街角でばったり出会った時も、王立図書館へと連れて行かれる間も、地下研究室にいた時も、貴大へと送られる親愛の笑みは崩れなかった。そう、まるで、仮面でもつけているかのように――!


 エルゥの瞳の奥に垣間見えた、不穏な光を思い出した貴大は、顔を青ざめさせて細かく震える。


 その弱々しい姿に、セリエは涙を浮かべながら、握りしめた手にますます力を込めた。


「思い出してください。貴方は勇者なのです。魔女を御し、龍をも下す勇者様なのです。どうか、そのことを思い出してください。力と記憶を取り戻し、昔のように威風堂々と構えていてください」


 あどけない少女の、涙ながらの懇願。


 しかし、肝心の貴大は、困った顔をするばかりだった。








 謎の遺跡で記憶をなくした貴大は、アルティらの手によって、王都グランフェリアへと戻された。


 何でも屋〈フリーライフ〉と、出迎えたユミエルを不思議そうな顔で見つめる貴大。彼の記憶喪失を知らされたユミエルは、思わず貴大へと縋りつき、彼の目をじっと見つめた。


 部屋へと案内した。愛用のマグカップを見せてみた。慣れ親しんだ揺り椅子に座らせてみた。


 しかし、返ってきた言葉は、


「記憶にない」


 という無情なものだった。


 それからの一週間、ユミエルは貴大の記憶を取り戻すべく、方々を駆け回った。高名な医者に診てもらった。知り合いの聖女に祈ってもらった。薬師である老龍に頭を下げた。


 ありとあらゆるつてを頼り、ユミエルは貴大の記憶を取り戻すべく、やれることなら何でもやった。しかし、結果はどれも芳しくなく、貴大の記憶は欠片たりとも戻る兆しを見せなかった。


 何ら解決法を見つけ出せないまま、一週間。消沈するユミエルに気を遣い、貴大は独自に記憶回復に向けて動き始めた。


 グランフェリアの街を歩いて回れば、何かを思い出すかもしれない。景色や建物、ちょっとした何かがきっかけとなり、記憶を取り戻せるかもしれない。


 そう考えた貴大は、地図を片手にこっそりと家を抜け出してきたのだが――。


 その矢先に、エルゥによる拉致事件だ。貴大はすっかり委縮してしまい、戦々恐々としながら家路を急いだ。


「見慣れない街を歩こうというのが、そもそも間違いだったんだ。グランフェリアは大都会だっていうし、悪い人だっていっぱいいるはずだ。現に、家を出て五分でエルゥさんに捕まったし。ああ、あのままあそこにいたら、僕はどうなっていたんだろうか。魔女っていうぐらいだから、鍋で煮られていたのかな。やっぱり、都会って怖いなあ……うう、早く帰ろう」


 両手で肩をこすりながら、貴大はおっかなびっくり、上級区の大通りを歩く。道の端で地図を広げながら、進んでは止まり、進んでは止まりを繰り返しながら自宅を目指した。


 上級区の王立図書館から、中級区の何でも屋〈フリーライフ〉。慣れた者ならば一時間ほどで踏破できる道のりだが、今の貴大にとって、グランフェリアは魔都にも等しい。


 大まか過ぎる地図もいけなかった。巨大な王都を収めるには、たった一枚の羊皮紙では小さすぎたようで、貴大が持ち出した地図には、主要な通りと建築物しか描かれていない。


 遠くに見える塔の名前すら知らない貴大にとって、この地図はいささか頼りなかった。中級区には辿りつけたのだが、そこで気を緩め、近道をしようとしたのがいけなかった。


 路地に次ぐ路地。行く手を塞ぐ袋小路。三階建の住居やアパルトメントで構成された迷路に、貴大はあっという間に現在位置を見失ってしまう。


 自分が今、住宅街の奥まった場所にいることは分かる。だが、そこがどこなのかは分からない。でたらめに歩いたところで、大通りに戻れるかどうかも分からない。


 道は四方に続いているが、それがかえって八方ふさがりの状況を生み出している。広げた地図に顔を埋めた貴大は、背中に冷や汗を浮かべながらそわそわとその場で足踏みをした。


「もしかしなくても、迷子だよね、これ。ううう、ど、どうしよう」


 青ざめた顔をあちらこちらに向ける貴大。困り果てた彼に、しかし手を差し伸べる者はいなかった。


 ――かに、思われたが。


「わんっ!」


「わっ!?」


 ベビーブロンドの髪をした、大柄な獣人少女が貴大に跳びかかった。


 たまらず後ろへ倒れた貴大に、のしかかったまま頬を舐める少女。犬のような尻尾をぶんぶんと振りたくる彼女には、見覚えがある貴大だった。


「確か……クルミア、ちゃん?」


「わんっ!」


 名前を呼ばれたクルミアは、向日葵のような笑顔を見せた。


 貴大が記憶喪失になったという話は、貴大がグランフェリアへ帰ってきた日のうちに広まっていた。出不精のようで意外に顔が広い貴大の異変は、それだけ噂になりやすく、人々の口から口へと『貴大、記憶喪失!』のニュースは広まっていったのだ。


 当然、下級区に居を構えるブライト孤児院にもこの噂は届いており、ゴールデンレトリバーの特徴を持つ犬獣人少女、クルミア=ブライトも、貴大の記憶がなくなったことは知っていた。


 噂を聞いた途端に駆けつけて、貴大に知らない人を見るような目で見られた時は悲しくなった。いつもは頭を撫でてくれる貴大の手が動かないのを見ていると、声を上げて泣きたくなった。


 そのような状態にある貴大が、こうして名前を呼んでくれることが嬉しい。反射的に頭を撫でてくれることが嬉しいクルミアだった。


「わうわう」


「わわっ、くすぐったいよ、クルミアちゃん」


 喜びのあまり、ついつい犬語になってしまうクルミアは、仰向けに倒れた貴大に馬乗りになり、彼の顔をなめ回す。


 見様によっては濡れ場に見えないこともない光景だが、幸か不幸か、周りに人はいなかった。


「わふっ!」


「あはは、クルミアちゃんは無邪気だね」


 一回、二回と貴大がクルミアの頭を撫で下ろすと、元気印の大わんこは、気持ちよさそうに目を細め、ぐりぐりと貴大の手に頭を押し付けた。


 その遠慮のなさに微笑みを浮かべた貴大は、寝転がったまま、更にクルミアの頭を撫でようと――。


けだもの……っ!」


「はっ!?」


 突き刺さる視線を感じた。刺々しい、非難の感情を覚えた。


 慌てて顔を上げた貴大が見たのは、クルミア似の獣人少女だった。クルミアの髪を長く伸ばし、服を落ち着いたエプロンドレスに変え、雰囲気を大人っぽくした少女。


 彼女は、汚らわしいモノを見るような目で、クルミアに手をかける貴大のことを見ていた。


「あっ!? い、いや、これは違うんです!」


 パッと両手を離し、クルミアから離れる貴大を、少女は変わらず剣呑な目つきで見つめていた。


「記憶がなくなったと聞いていましたが、なんのなんの。どこも変わっていませんね。この手の早さは、流石、タカヒロさんといったところでしょうか」


「えっ、えっ!?」


 クルミアを守るように抱き寄せ、貴大から引き離した少女の名は、ゴルディ。クルミアと姉妹同然に育った犬であり、最近、犬獣人への転生を果たした少女である。


「その様子だと、私に手を出したことも忘れていますね? それに、クルミアに手を出したことも」


「いいっ!? 手、手を出したって、君たちにっ!?」


 ゴルディの口から飛び出した衝撃的に発言に、貴大はのけぞらんばかりに驚いた。


「そうです。タカヒロさんは、事あるごとに私たちを呼び出して、全身を舐めしゃぶるように撫で回しました。何時間も『運動』をして、それだけでは飽き足らず、ベッドでも一緒に『寝ました』。わ、私なんて、何度裸で街中を歩き回されたか……」


「あ、う、え……!?」


「その様子では、私たちの年齢のことも忘れていますね? 私は十二歳。クルミアに至っては十歳です」


「十二っ!? 十歳っ!?」


 身体の大きさと年齢のギャップに、貴大は思わずゴルディの言葉を否定しようとした。だが、記憶を失ってから初めてクルミアに会った時、確かに、ユミエルから紹介されたではないか。


『この子は、クルミアちゃん。十歳の女の子です』


 と――!


「未だ幼い女の子に手を出すなんて、犯罪ですよ、犯罪! この責任……とっていただけるのでしょうね?」


「責任!」


「結婚しかないでしょう。私たち二人を、お嫁にもらってくださいよ、タカヒロさん」


「け、結婚!」


 ぼそぼそと耳に囁かれるゴルディの声に、ビクリ、ビクリと痙攣をする貴大。彼の中では、常識と良識と責任と罪悪感がぶつかり合い、激しい火花を散らしていた。


「な、何てことだ……! 記憶を失う前の僕は、小さな子に手を出すロリコン野郎だったのか……! ど、道理で、ユミエルちゃんやルートゥーちゃん、アルティちゃんやセリエちゃんとか、周りに小さい子が多いと思った!」


「さあ、今こそ責任を果たす時……って、あれ? タカヒロさん?」


「うあああああ……! 何てことだ! 成人前の女の子たちの純潔を散らして回るなんて、畜生のすることじゃないか! あああ、僕は、僕は何てことを……! きっと、『これだけ身体が大きかったら合法だろ、グヘヘ』なんて言ってたんだ!」


「タカヒロさん? あれ? おーい、おーい」


「淫獣だ! 僕は人間じゃない! 淫獣だったんだ! うわああああっ!」


「え、ちょ、タカヒロさーん!? どうしたんですかーっ!?」


「タカヒロッ!?」


 貴大は、がむしゃらに走り出した。


 獣人少女たちの制止を振り切って、遮二無二、どこかへ向かって駆けて行った――。


 残されたのは、残念そうな顔をしたゴルディと、最後まで会話が理解できず、首をかしげているクルミアだけだった。




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