聖女の優しさ
遠くから、ガタン、ゴトンと、何かが揺れる音がする。
その音に釣られるかのように、眠りの淵に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していくのを感じる。
ああ、そうか。俺はいつの間にか眠っていたのか。
安息日を惜しむように、夜遅くまで、自分の部屋で映画なんぞを観ていたんだが。どうやら、寝落ちしてしまったらしい。
切った覚えはないから、映像水晶はつけっぱなしなんだろうな。壁に向かって、チャプター画面を映し続けているに違いない。
早く起きて、再生を止めなければ。そうしなきゃ、家のメイドに折檻されてしまう。
「……だらしがないですよ、ご主人さま」
「……おしおきです、ご主人さま」
「……イカの相場が下がりますね、ご主人さま」
まどろみの中で、鬼メイドの言葉が甦っては消えていく。
ああ、早くしなきゃ。速攻で起きて、映像水晶を止めなきゃいけない。
それは、頭では理解できていることだ。そうしなくちゃいけない理由も、そうしなければ何が起きるのかも、十分に理解している。
だが、体がどうにも言うことを聞いてくれない。
まぶたは全然持ち上がらないし、頭は枕から一ミリたりとも浮き上がらない。体は弛緩し切っているし、映像水晶を止めるべき手はタオルケットを離さない。
あ~、いかん。いかんいかん。このままだと、俺の朝飯が粗末なものへとミラクルチェンジしてしまう。ただでさえやる気が下がる月曜の朝に、それだけは避けたいんだが……俺の体は、やっぱり睡眠を優先しているようだ。ちっとも起きようとしてくれない。
まあ、最悪、カオルんところに転がり込めば、朝飯は何とかなるけど……。
「……ヒモみたいですよ、ご主人さま」
「何だ、このタイミングのいい幻聴は!?」
妙に生々しい言葉のおかげで、俺はツッコミを入れながら跳ね起きてしまった。
「って、あ、あれ? どこだ、ここ?」
そして、俺は自分が変な場所にいることに気づいた。
ガタン、ゴトンと揺れる床。壁と天井は木組みの枠に布を張った幌だ。前後の壁は大きく開いていて、その一つから流れていく街道の風景が見える。
視界を反対に向ければ、御者台に座り、馬の手綱を引いている奴の背中が見えた。間違いない。ここは俺の部屋じゃなくて、馬車の荷台だ。
冒険者時代に何度も世話になったからよくわかる。これは、行商人とか、小規模な冒険者グループが好んで使う、2~4人用の小型馬車だな。一頭立ての割りに荷台や足回りがしっかりとした作りで、そのせいでスピードは出ないが、安定感は抜群という代物だ。
馬車を買ったら、逆に小回りが利かなくなる。しかし、長い道のりを歩いて進むのは辛い。そんな時に、行商人の馬車や乗り合い馬車に乗せてもらって、代わりに護衛を引き受けていたものだ。
っとと、懐かしさに浸っている場合じゃないな。今考えるべきことは、何で俺が馬車に乗せられているかだ。
昨晩は酒なんて飲まなかった。気絶をした覚えもない。寝落ちしたとしても、自室のベッドで横になっているはずなんだ。
それがなぜ、見知らぬ馬車で寝転がっていたのか。陰謀だとか、犯罪に巻き込まれただとか、同居人たちは黙って俺を見送ったのか、とか、色んな疑問が湧きあがってくる。
だが、首を捻ってばかりいてもしょうがない。ここは一つ、ストレートに御者台に座っている奴を締め上げることにしよう。
「おいっ! お前は誰だ? なんで俺はここにいる?」
少しきつめの声で、叩きつけるように疑問をぶつける。すると、薄桃色のシスター服を着た少女が、にこりと笑って振り返って……ん?
「おはよう、タカヒロくん。もうお昼前だよ。タカヒロくんって寝ぼすけさんだね。ふふっ」
「メ、メリッサ?」
俺を乗せてドナドナしようとしていたのは、最強聖女、メリッサ・コルテーゼだった。
すわ誘拐か!? と思っていただけに、見知った顔の登場にはホッと一安心。しかし、動機がまだ、いまいちよくわからない。
何でこいつは俺を馬車に乗せているんだ? それも、眠っている隙に、断りもなく。
「あっ、歯磨きするなら、そこのバッグの中だよ。ユミィちゃんに手伝ってもらって、ちゃんと準備しておいたから」
晴れやかな笑顔で馬車の中を指差すメリッサ。見ると、そこには俺が愛用しているバックパックが転がっていた。
驚くことに、自室の枕とタオルケットまである。何だろうな、この用意のよさは。何だか嫌な予感がしてきたぞ……。
「いや、その前に、メリッサさん? 少しお聞きしたいことがあるのですが……」
「うん? なあに?」
「どうして私は、馬車に乗せられているのでしょうか?」
迷える子羊の、至極当然の問いかけ。それに対し、我らが聖女様は、それは難しいことじゃないんだよ、とばかりに、笑顔で応えてくれた。
「えへへ、驚いた? 実は、サプライズで、タカヒロくんに私の巡察を手伝ってもらうことに……」
「脱出!」
シュバッ! 目にも止まらぬ速さで馬車から飛び出していく俺。
「【ソウル・バインド】」
「グエーッ!?」
ビターン! そして、チートじみた拘束系スキルで縛り上げられ、地面に落下した俺。
光の鎖でがんじがらめにされた俺は、情け容赦なく進んでいく馬車に引かれ、小石混じりの街道でガリガリと削られていく。
「あー、駄目だよタカヒロくん。逃げちゃ駄目だってば」
しばらくして、馬車は歩みを止めてくれたが、カンストレベルの聖女がぷんぷんと頬を膨らませながら下りてきた。
逃げたくても逃げられない。俺は、あいつのスキルと笑顔が何より怖い。
「は、離せー! 俺をどうするつもりだー!?」
一人で何でもできるカンスト聖女様が、わざわざ俺を巡察に連れていく。一体、どこを見て回るというのか。
魔の中部地方か? それとも魔界か? いずれにせよ、説明もなしに強制連行をしかけるという時点で、この上ない危機感を覚えてしまう。
大人しくついていけば、命はない。俺は、メリッサの笑顔から、そこまでを読み取ることができた。
「どうもしないよ。ただ、ついて来て欲しかったの」
「ダ、ダンジョンか!? 魔王が封じられたダンジョンにかー!?」
「あはは、まさか。病院も教会もない村を巡察するだけだよ。お爺ちゃんお婆ちゃんの病気を治してあげるの」
「え、えぇ……?」
おかしい。それじゃまるで、普通のシスターの仕事みたいじゃないか。俺を連れて行かなくても、十分にこなせることだ。
どこに俺が必要となる要素があるって言うんだ? 自慢じゃないが、他人を治癒するスキルなんて一つも覚えてないぞ、俺は。
「お、俺は何をしなくちゃいけないんだ?」
他に何かあるのだろうか。そう思って訊いてみるも、
「ううん、何もしなくていいよ」
という答えが返ってくる。
おかしい。だとすると、俺がここにいる意味が本気でわからない。メリッサは、何の意図があって、俺をこっそり馬車に乗せるなんてことをしたのだろう。
こんがらがる頭であれこれ考えてみるも、さっぱり答えはでない。しかし、現に、メリッサは何が何でも俺を連れて行こうとしている。
一体こいつは、何がしたいんだ……?
「えへへ、実はね、タカヒロくんにお休みをあげようと思ったの」
「へ?」
【ソウル・バインド】で簀巻きにされた俺を背負ったメリッサが、にこっと笑ってこう答えた。
休み? え? 今日は月曜日なのに、休みってどういうことだ?
ますます混乱する俺を諭すように、メリッサは丁寧に説明を続ける。
「タカヒロくんは、最近、頑張っているでしょ? 何でも屋のお仕事に、夜の街の見回りとか。人一倍頑張って、疲れているだろうな~、っていっつも思ってたの。だから、お休みをあげることにしたの」
「え? 休み?」
とん、と俺を馬車の荷台に下ろして、メリッサもその場に座る。そして、人好きのする笑顔で、俺の手をとった。
「『お仕事のお手伝いをしてもらう』ってウソの依頼を出して、タカヒロくんを連れ出したんだよ。こうしたら、ユミィちゃんもごまかせるでしょ?」
「お、おお……?」
「安心して。依頼は出したけど、タカヒロくんは何もしなくていいから。三日だけだけど、ゆっくり休んでいてね」
悪戯が成功した子どものように、メリッサはくすりと微笑んだ。そしてメリッサは、また御者台に乗って馬を走らせ始めた。
俺? もちろん、メリッサに……いや、聖女様に向かって祈りと感謝を捧げていたさ。
「せ、聖女様……!」
思えば、俺の知り合いはみんな、ああしろ、こうしろと要求ばかりだった。休日になっても自由な時間は少なく、誰かしらに引きずり回されることが常だった。
そいつらに比べて、メリッサはどうだ。聖女様は俺に、「何もしなくていい」と言ってくれたぞ! 月曜日なのに連休を与えてくれたぞ!
「ついて行きます! どこまでも、一生ついて行きます!」
「あはは、大げさだよ」
照れたように笑って謙遜するメリッサ。
いやいや、それだけのことをお前はしてくれたんだ。俺にとって、『何もしなくていい休み』というのは値千金の価値がある。
それをポンと与えてくれたんだ。休んでいていいと言われたとはいえ、出来る限りのことはさせてもらいますぜ!
「とはいえ、しばらくは何もなさそうだけどな」
圧倒的な解放感に満たされながら、俺は馬車の荷台にごろりと横になる。草原を吹き抜けていく夏の風が肌をくすぐり、興奮からわずかに火照った体を覚ましてくれる。
うーん、気持ちのいい日だ。こんな日に旅情を味わえるなんて、まったく聖女さまさまだな。
そう言えば、もうすぐ昼だと言ってたな。ようし、せめてもの感謝の印に、昼飯は俺が作ってやるか! 冒険者生活で慣らした旅人料理を、たらふく召し上がるといい!
「なあ、メリッサ。昼飯は俺が」
「ククク、馬鹿めっ! 隙を見せたなぶらあああああああっ!?」
ビュン! メリッサに話しかけようとした俺の横を突っ切って、馬車の遥か後方へと飛んでいく『人の形をした何か』。
俺の頬や幌に、ピピッと血糊が散って、何だかとってもスプラッタ。
俺の見間違いじゃなければ、幌の上から飛び込んできた暗殺者っぽい格好の男が、メリッサに瞬殺されたっぽい。
だって、ほら。メリッサさん、男にかました裏拳を、シルクのハンカチでふきふきしてますもん。
「……あ、あれ、は?」
全身が硬直してしまい、俺はそれだけを口にすることで精一杯だった。
「え? あれ? ああ、いつもの人だよ? 『元』怖い人たちから送られてくる、黒い服の人たち。街の外に出ると、いっつも襲ってくるの」
「迷惑だよねー?」と、笑って返り血を拭うメリッサ。
その姿に、俺も親指をピンと立てて、ものっそい笑顔で返し、
「脱出!」
シュバッ! 目にも止まらぬ速さで馬車から飛び出していく俺。
「【ソウル・バインド】」
「グエーッ!?」
ビターン! そして、チートじみた拘束系スキルで縛り上げられ、地面に落下した俺。
「もー、駄目だよ? あんまりやんちゃしたら、体が休まらないよ?」
「やだあ! 俺、お家に帰るぅ!」
「駄目だってば。仕事ってことで出かけているんだから、今帰ったら、ユミィちゃんに怒られちゃうよ?」
チートスキルと、何でも屋の契約。二つの鎖に縛られて、俺は逃げ場をなくしてしまう。
「大丈夫だよ。変な人の相手もわたしがするからね。タカヒロくんは、何もしなくていいんだよ?」
「う、うああああああああ!?」
白桃色の聖女の笑顔は、他の誰よりも純粋だ。
しかし、今の俺には、その純粋さが何よりも怖かった……。
今年最初の更新です。
みなさん、あけおめ!