プロローグ(1)
プロローグ
森の奥に分け入ると、それだけで感覚が鋭敏になってくる。風の音、木の葉の動き。わずかな異変と大きな変化が、混ざりあってアミネを包んだ。
ふと、違和感を覚えた。
――この森は、まだ生きている。
聞いた話と実際は違っているようだった。
命ある森の息吹は、風を揺らし、透明な光を放ち、まぶしいまでの洪水になって流れてくる。
ふと気をそらすと、そのまま流れにどこかへつれ去られそうだった。
先には、剣を携え、背に小弓を負った兵が、歩みを進めている。さらにその先には、鉄の大鉈をふるい、通れるだけの道を作る、兵の姿。
だが、光の洪水に気づいているのは、アミネ一人だった。
ほかの巫女とともであれば、おたがいに注意できたかもしれない。だが、あいにくここに派遣されたのは、自分だけ。
外の世界は、兵が守ってくれる。内側の世界は、自分自身で守らなければ。
アミネは意識が光の洪水に流されないように気を張った。そして、前をいく兵士の背を、かわりにじっと見つめた。甲冑に身をつつんだ逞しい背中。
兵はあたりに気を配るようにして横を向いた。すっと鼻筋の通った精悍な横顔。
ふいに兵士は振り向いて、そのまま、足の運びを落とすとアミネに並ぶ。森の気配には気づかなくても、一行を指揮するまだ若いこの兵士は、人の気配には敏感だった。いまも、後ろから見つめただけなのに、アミネの視線に何かを感じ取ったのだろう。
「どうしましたか、アミネ様。ご気分が優れませんか」
「お気遣い、ありがとうございます。そのようなことは、ありませんので」
そういって、アミネはぎこちなく微笑んだ。兵士もにっこりと微笑みを返す。
「そうですか。……でも、もし何かありましたら、すぐに言ってください。わたしにできることならば、何でもさせて頂きますので」
「あ……、ありがとうございます」
アミネはあわてて目を伏せた。笑顔をまっすぐに見られない。どんどん顔が火照り、心の臓が早く打ってしまう。
人の機微に聡いこの兵士のことだ。すでに、この気持ちは気づかれてしまっている。それでもなお、ごく自然に接してくれた。
それは、巫女としての立場で話をしている時でさえ、自分が特別な存在であることを忘れさせてくれる。上下のつながりではなく、力あるものと守るものの関係でもない。ただ、ともに旅を続ける仲間。彼に導かれる他の兵も、つられるように少しずつ、心を開いてくれた。
だから、今度の旅は、今までの巫女としての生活では感じたことのない、強いつながりを人との間に持てた。それだけでただ、うれしかった。
「できれば、ずっと輿をお使い頂ければよかったのですが。ここまで来ましたが、あいにくの悪路で。申し訳ありません。ムラまではあと少しですから、どうぞご辛抱ください」
そうだった。この森を抜ければ、旅も終わる。ふたたび征伐のために森を旅することがあっても、他の兵士たちとは、こんな打ち解けて心安い関係は望めないだろう。
二度と会えなくなる。
そう思うと、ずっとずっと旅が続けばと願わずにはいられない。
そして、巫女ではなく、ただの娘であったならば……。
はしたない。そう分かっていながらも、思わないではいられなかった。
だが、巫女には巫女の役割がある。とくに選ばれたシルメトの巫女には。
アミネは背筋を伸ばすと、はきはきと答えた。
「われらシルメトの巫女は、森を封じるがその役目です。道なき道を行くのも務め。修練は積んでおります。ご安心ください」
「頼もしいお言葉です。ところで、こちらの方角で間違いないですか」
「はい。でも……実は……。すこし、川の近くに寄ってもらえますか」
「もちろんです」
兵士は声をひそめた。
「……『連中』がいるのですね」
アミネは無言でうなずく。
「わかりました。ありがとうございます、アミネ様」
兵士は一礼すると列の先へと戻った。部下の兵士に指示を出して、隊列を整える。密集して特にアミネのまわりを重点的にかこむような配置になっていた。
倒木をまたぐ。枝葉が折れる音が、いやに大きく響いた。