第39話『友人として来たのです』
ところは変わって、ベルリンのドイツ首相官邸。
「我々は本気で戦いたくないのです、首相」
「攻め込んで来ている側の国が、本気を出したくないとはどういうつもりだ?」
「ならば、ノルウェー風に申し上げましょうか。我々はあなた方の友人として来たのです」
「………………っ!!」
紙とペンで書類が決裁していた時代ならば。
間違いなくペンをへし折っていただろう。そんな怒りの表情で、デグナー独首相は拳を握りしめた。
アルダナ少佐はにんまりと笑いつつも、追撃の言葉を投げかけず、反応を待つ。
「………………いや、どうということはない」
デグナー首相はぎりぎりのところで、爆発しそうな怒りを抑えきったらしい。
アルダナ少佐がデグナー首相に告げた言葉は、かつて中立国のノルウェー侵略したナチス・ドイツの侵攻部隊指揮官が放った言葉である。
(その意味は……伝わっているはずだ)
α連合国は無駄な血を流すことを望んでいない。
しかし、降伏はしてもらう。そういうことである。
事実、ナチス・ドイツのノルウェー占領は介入してきたイギリス軍との戦いこそ熾烈だったものの、ノルウェー軍自身の抵抗はほとんどなかったのだ。
「あなた方の帝国にノルウェーが含まれていないのは、偶然ですかな。歴史的な遺恨ですかな」
「E連合をドイツ第四帝国などと呼ぶネガティヴキャンペーンは、聞き飽きている」
「ですが、その実態はどうです?
生産力のあるあなた方ドイツが、弱い国々の富を吸い上げ、繁栄を謳歌しているだけではありませんか」
「E連合はヨーロッパ統合体だ! 誰が勝者でも敗者でもない!
王者も貧者もいない!」
「とはいえ、莫大な負債を抱えた国に対してもそう言えますか? たとえば、20年前のギリシャに対して?」
アルダナ少佐はどこまでも友好的にそう言った。デグナー首相は押し黙る。
国家破産としか言いようのない負債を抱えたギリシャに対して、ドイツを主体とする当時のE連合諸国が、どれだけ無情な緊縮を迫ったかは、2035年の経済史において特筆される事項となっている。
(そう……まるでヴェルサイユ条約でドイツがそれを強いられたように)
あまりにも無慈悲で。無情な条件を突きつけた急先鋒がドイツであったことは、歴史の知るところである。
「そもそも、あなた方の統合通貨であるユーロというのがいけない。
最強国のドイツと貧しい国々で通貨の価値が同じだったとすれば、どれだけ努力したところで差がつくのが当然ではありませんか」
「……何が言いたい」
「ドイツのじゃがいもが10ユーロ。ギリシャのそれが20ユーロとしましょうか。
当然、同じじゃがいもだ。カルフォルニア牛とコーベ牛じゃあるまいし、2倍の値段なんて正当化できない」
「農業政策の統一は! 欧州統合体理念の最たる━━!!」
「結果として、ギリシャのじゃがいも農家は滅亡する」
爆弾が破裂するように、ぽん、と拳を開く仕草を見せながら、アルダナ少佐は言った。
「工業製品でもまったく同じことです。ドイツのBMW、VW……イタリアのフィアット、フェラーリ……それらはいい。
では、それ以外の自動車メーカーはどうするのです?
同じ性能を実現するために、BMWは5000ユーロ、フィアットは6000ユーロだとしましょう。チェコのタトラに同じことが出来ますか?」
「それは彼らの努力不足、技術不足だ!!」
「既に先行している者は常にそう言って、追随者を叩くのです。そして、己の優位を守ろうとするのです。
あわれ、タトラは10000ユーロかけても、あなた方と同じものはつくれません。
結果として、チェコの自動車産業は滅亡する」
再び、アルダナ少佐は拳を開いてみせた。
「他の産業でも同じことですよ。
これが各国が独自の通貨を持っていれば違いました。市場は賢いですからね。力のないチェコの通貨は安くなり、自動車を魅力ある価格で輸出できる……産業は存続し、雇用も守られます……。
もっとも、我がα連合国も主権を持った多数の州が緩い連合を組んでいる連合国です。国家としての統一性は理解します。
しかし、E連合はあまりに急ぎすぎでした。戦争を遠ざけたいと願うばかり、恐るべきパンドラの箱を開けてしまった……」
「君はハーバード・ビジネススクールから派遣されてきたのか? そんな講釈を聞きたいわけではない!」
「━━私は現状に対する、最良の解決策を持ってきたのですよ、首相」
その時になって、初めてアルダナ少佐は。
「……君、なんだその顔は」
「笑顔です」
「それが笑顔だと?」
そう、その時になって初めてアルダナ少佐は、社交の仮面を取り去った。確かに笑っている。しかし、その笑顔は文民のそれではない。
たとえるなら、厳しい訓練を終えた新米海兵隊員が、教官を射殺するために待ち受けている……そんな時の笑顔だった。
「私には息を潜めていた猛獣が、遂に狩りの獲物を発見したときの笑顔に思える」
「似たようなものではあります。
よろしいですか、首相閣下。認識の相違は大なり小なりあれど、E連合は━━少なくとも経済的には、かなり行き詰まっています。
これは同意して頂けますか?」
「………………」
1980年代に東ドイツの熱心な共産党員が、西ドイツとの経済格差を指摘された時のような顔で、デグナー首相は肩をすくめてみせた。
「ですが、今、進行している事態は、この経済問題を一挙に解決できるのです」
「どういうことだ?」
「既にフランスが我々との単独停戦に応じた以上、E連合の中で強力な国家はドイツだけと言ってもよいでしょう。
これからあなた方の経済は否応なしに混乱します。しかし、我々と強力な取引関係をドイツが結ぶならば……」
「……最小限の混乱で、ドイツがリーダーシップを保ちながら、E連合の経済的問題を解決できると?」
「そういうことです。これはむしろチャンスです」
━━もし。
(アドルフ・ヒトラーとシャハト総裁が現代に蘇ったのならば……あるいは、この男のようなことを言うかもしれないな……)
デグナー首相は考える。
アルダナ少佐の言葉は忌々しいことにおおむね当たっている。
E連合の経済は長年にわたって憂慮すべき低成長と債務肥大の極みにあり、もともと国力の小さかった構成国からの突き上げは凄まじいと言ってもよいレベルだった。
それを押さえ込むことが出来たのは、ドイツとフランスという遠い昔のWintel連合にも似た、勝ち組タッグがあらゆる言葉でE連合市民を懐柔してきたからに過ぎない。
(もともと、E連合の目的とは……)
経済共同体でもなければ、移動の自由を保証する楽園━━ただし、犯罪組織にとっても━━ではない。
「……今回の戦争は君たちから仕掛けてきたものだ」
「そうです、首相。あなたはあくまで被害者だ。E連合は被害を受けた側なのです」
E連合の目的は、たった一つ。
欧州諸国が永遠に戦争を起こさないようにする。
(そうだ。E連合の目的は、ただそれだけだったのだ)
そして、ただそれだけのことがあまりにも永いの間、実現できなかったために、欧州地域は二度の世界大戦すらも引き起こしたのだ。
「停戦後、君たちの望む条件は? ベルリンの分割占領かね?」
「ばかげた話ですな。我々は一切の占領や進駐、領土の削減を行いません。
ただ一つ。人工知能技術に対する法規制を撤廃してほしいのです」
「人工知能の規制……?
ああ、確かに雇用保護のために、E連合域内の企業は人工知能による合理化に一定の制限がかかっているが……」
その時、デグナー首相はアルダナ少佐の提示した条件について、深く考慮することはなかった。
(まあ、α連合国は人工知能が主要産業だ……その売り込みだろうが)
ありがちな戦勝国が望む市場開放の一つ。
そんなふうに考えるだけだった。
(むろん、他にも何か企んでいるのだろう。
だが、確かに今はまだ……我が国で大規模な破壊が行われたわけでもない。それよりも、E連合の経済問題を解決できるなら、悪くない提案だ)
━━ヒト種族の政治家として、大国の首相まで上り詰める。
それは個としてきわめて優秀であることに他ならない。デグナー首相は愚か者ではない。思慮もある。想像力もある。
ただ、ヒトとして達し得る知性を超えた先までは、その理解が及ばない。
それはどうしようもないことだった。
「よろしいですか、首相。
まず独仏が停戦することで、政治的大混乱が生じます。この間にECBを抱き込んで、通貨としてのユーロを国ごとに分割してしまうのです」
「……たとえば、フレンチ・ユーロ、イタリア・ユーロといったようにか」
「そうです。そして、その際の交換比を任意に決めてしまうのです。
これは一種のデミネーションであり、長い間、通貨統一を強いられていたE連合の問題点を一挙に解決する魔法の手段なのです」
「……確かに魔法だ。一度戦争に負けでもしなければ取れない魔法だが」
「あなた方ドイツ人が悪魔よりも恐れるハイパー・インフレーションよりはマシというものです。
ここで現在の歪みきった国力比を一気に正します。
然る後、ライヒス・ユーロに統一するもよし。過去の通貨に戻すもよし。
重要なのは通貨統合という目的のために、財政が破綻するという本末転倒ぶりを正すことなのです」
「……君の言葉だけを頼りにして、直ちにヤーと言うことはできんが」
デグナー首相は既にうっすらとした笑みを隠せなくなっていた。
「どうやら我々にとってもメリットのある提案だ。
真剣に検討し、今日中には答えを出そう」
「よろしくお願いしますよ、首相」
「君はどうする? ここで待っているかね?」
「せっかくですから、観光名所でも回ってみます。
祖父が東西ベルリン検問所で勤務していたらしくてね……一度見てみたいと思っていたんですよ」
「そうか、では夜にまたここで」
「またここで」
アルダナ少佐とデグナー首相は堅い握手を交わす。
出会いの険悪さと打ってかわって、別れはひどく友好的であり、見つめ合う視線は情熱的ですらあった。
そして━━ここまでのやりとりは、ほぼ国家戦略人工知能システム『ハイ・ハヴ』が想定した通りだった。