お使いの角度は正常ですか?
疲れた身体を引きずるようにして急行列車に乗り込む。疲れている時に限って満席である。不必要に脚を広げ、二人分の座席を占拠している若者を見る。睨まれる。目を逸らす。べ、別に負けた訳ではない。私が、争い事が嫌いな優しい性分であるだけだ。
ドアの前に立ち、流れていく風景を眺める。外が暗いせいで、くたびれたサラリーマンがガラスにうつっている。私も年をとった。いや、娘が高校生になったのだから、私も年老いて当然だ。そう自分に言い聞かせながら、娘のことを考える。
我が娘ながら、可愛い子に育っていると思う。中学になった頃から家での口数は減ったが、それはきっと一時的なものだ。思春期という奴だ。私にもあったのだから娘にもあってしかるべきだろう。
しかしきっと、大学生になって一人暮らししたら実家が恋しいと言い出すに違いない。生まれて初めて、親のありがたみに気づくだろう。そして、お喋りで快活な娘に戻るはずだ。
しかし、次に娘の満面の笑みを見るのはあれだ――彼氏だ、彼氏が挨拶しに来た時だろう。私もいつか言われるのだ、結婚させてくださいとか娘さんをくださいとか言われるのだ。
お義父さん、娘さんと結婚させてください。
…………。
ああああん、めっちゃ嫌だああああああああああ。
ぷあぁーん、と音を立てて電車は走る。普通列車しか停まらない駅を通過する。駅のホーム、いちゃつく学生カップル。あ、キスした。あいつらキスした。電車が通過する瞬間なら、向かいのホームのやつに見えないと思ったのだな。乗客にはしっかり見えているというのにけしからん奴らだもっとやれ。
……待て。あの制服見たことあるぞ。今朝見たぞ。ちょっと待て、あれ…………。
ええぇええぇぇえええ、うちの娘じゃあああああぁぁああん!!
ぷあぁーん。
――見てしまった。
娘が、他の男とチューするところを見てしまった。
もっとやれとか思ってしまった。
やめろ。今なら切に願えるやめろ。やめてくださいお父さん死んじゃう。
でも待て、今、すごーく気になることがあった。
見間違いではなかった。すごく気になった。
なんだあれ。――なんだあれ!!
三十分後。なんでもない顔で帰宅した娘に、私は言った。
「日曜日、彼氏を家に呼びなさい」
――彼女の家に呼ばれた。会ったこともない、彼女の父親に呼ばれた。一体どういう事だろう。結婚を前提に付き合っているのかね、とか言われるのだろうか。高校一年が付き合うのってそんなに重い話だったっけ。いきなり彼女パパが出てくるような話だっけ。
一見地味かつ誠実に見える、けれども最大限のおしゃれをした。それと、手土産のお菓子を念のため。花束とかはいらないだろう。
彼女の家はどこにでもある住宅街の、どこにでもありそうな一軒家だった。特別広くもないし特別綺麗でもないが、特別狭くもないし特別汚くもない。つまりは普通だ。
インターホンを鳴らすと、彼女が出た。戸惑ったような、面倒くさそうな顔で一言。
「お父さんが、二人きりで話したいって」
えぇぇええぇええ、僕何か変なことしたあああぁぁぁあぁぁあ!?
家にお邪魔し、お義父さんがいらっしゃるという二階へ。
ていうか、お義父さんって呼んでいいのかな。しかし他になんて言うんだ。
悩みつつもドアをノックし、返事を待ってから開ける。物腰柔らかそうな中年男性がそこにいた。中肉中背、少し薄くなった髪、垂れた目と眉。いきなり人を呼びつけるタイプには見えない。
「今日は急に呼び出してすまなかったね。まあそこに座りなさい」
お義父さんにすすめられたのは、デスクの椅子だ。僕はお土産を渡すタイミングも分からず、とりあえず椅子に座った。
お義父さんは、ベッドに腰掛ける。あ、ちょっと内股だ。暑いのか、Yシャツのボタンをひとつはずす。ちらりとこちらを窺う目は少し潤んでいて、…………。
なんか、構図がおかしくないですか。
「すまないね。客間とかないんだよ。しかし、人に聞かれるもアレな内容だったから」
「は、はあ……。あ、いえ、お気になさらず」
しまったいきなり返事をしくじった。
しかしお義父さんはそんなこと意に介する風もなく、いきなりこう切り出した。
「見ちゃったんだよ。君とうちの娘が、駅のホームでキスするところ」
うっわああぁああぁああぁマジかよぉおぉぉおぉおぉぉおおおぉぉ!
「君がそういう顔になるのも無理はない。まさかと思うよな、見られるなんてと思うよな。しかも、彼女の父親に見られるとか思わないよな。でも見ちゃったんだよ三日前に。夕方五時五十八分そら駅発、六時二十六分にうわの駅を通過した急行。それの三両目の三番目の扉の前に私は立ってたんだよ。グレーの背広に紺の水玉ネクタイをしていたサラリーマン。あれが私だ」
こまけええええぇえぇええぇええぇえええ!!
「――……まあちょっとびっくりしたよ。ちょっとだけね? 娘も年頃だからそういうことする年頃になったのかって年頃の娘の年頃の早さにびっくりする年頃になる程度に年頃だけびっくりしたんだけどまあそういう年頃だから」
めちゃくちゃびっくりしてるじゃないですか落ち着いてください。
お義父さんは更にボタンをひとつ外し、上目遣いに僕を見た。おかしいですから、この空気おかしいですから。
年頃の娘の年頃の行動に心底驚いたらしい年頃のお義父さんは、やがて大きなため息をついた。薄い笑顔で僕を見る。しかしすぐに真顔になった。
「今日は、そのことについて君をお呼びしたんだけど」
「は、はい……」
「君さー、あれなんなの?」
「す、すみません、つい……」
「つい? ついってなに?」
「あ、あのそれは」
「ついついしちゃったキス、で『あんな角度』になるの!?」
…………え?
「私めっちゃ見てたんだよ! 君と娘のキス! で、思ったの! ないわー、あの角度はないわー」
「え、ええと、角度、と申しますと」
「そりゃ君、キスするときの顔の角度だよ!」
お義父さんは至極真面目な顔で言った。
「普通さー、傾けるじゃない? 右か左かはともかく、どっちかに傾けるじゃない? 右か左かについては後述するとして、どっちかに傾けるもんだよ君。じゃないとキスしづらいでしょ? お鼻が邪魔でしょ? それがなに? 娘も君もまっすぐ前向いてるじゃない。傾いてないし曲がってないし何あれ。純愛映画のポスター?」
「え、ええと……」
「青春と純愛をアピールしたいポスターほど、二人が前を向いてるって思ったことないかい? 顔傾けないの。はにかんだような笑顔で二人とも目をつぶってて、キスせずに俯いてたりもするんだけどとにかく顔は傾けてないの。お日様バックにして後光さしてるところで向かい合ってんの。まさしくそんな感じだったよ君と娘のキス。初めて見たよあの角度を実際にやってる人。やりにくくないの? できないとは言わないよ、でもやりにくくないかって聞いてるの。鼻どころか歯が当たったりしないのあれで?」
「ええと……」
「いや聞きたくない、娘とのキスの感想は聞きたくないよ君」
「す、すみません……」
「――初々しい感じはしたよ確かにね。高校一年にふさわしい角度だったとは思う。真正面を向いた二人。お互い不慣れな感じでね、『四月に出会って、お付き合い始めたところなのかなー』って想像できる角度だったよ確かにね。五月中旬の高校一年にぴったりな角度だった。しかしあえて言おう。ないよあれは。あれはないわー。それとも、ギャグマンガのキスシーンみたいに口をすぼめるつもりかい? ないわー、うちの娘相手にそんなの絶対にやめてほしいわー」
「は、はい……」
「やはり顔を傾けるべきだと私は思うんだよ。私はね?」
「はい……」
「で、娘が傾こうとしないのなら、男が傾くべきなんじゃないかな? だってそうでしょ。一方が真正面向いてて一方が傾く場合ってさ、『傾いてる方が攻め』なんだよ君。『キスしようとしてる方』が傾くの。それとも君は、娘に傾けって言うの? 娘にキス『させる』の? それでも君は男なのか?」
「い、いえ、いや、はい? あの、僕は男です……」
質問が続きすぎて、否定すべきなのか肯定すべきなのかも分からない。しかしお義父さんは、満足そうに何度も頷いた。
「よろしい。ならば君が傾くべきだよ。角度は大切だよ君。ああなんで、現代社会はお辞儀の角度を覚えさせるのにキスの角度は覚えさせないんだろうね!」
そんな授業があったら怖い。
「ところでそろそろ、右傾斜と左傾斜の話をするけれどね。君、自分がキスするとき、右か左のどちらに顔を傾けるかは分かってるの? 傾けやすいのはどっち?」
「えっ」
「キスの利き腕みたいなもんだよアイドルも歌ってただろう!! しかし断っておくがね君、利き腕とキスの傾斜の方向は関係ないんだよ! 仮に君が右利きだとしても、キスは左に傾くタイプかもしれない! 自分がどちらなのか分からないのなら、今実演して!」
「じ、実演!?」
ま、まさかお義父さん、
「私にそんな趣味ないよ! キスを想像して、実際に首を傾けてみろって言ってるの!」
「は、はい!!」
それでもお義父さんの前でかよぉおおぉぉおおぉおおおん。
「――……なるほど、君は右傾斜派だな」
「はい……」
おうちに帰りたい。
「この世界には、右傾斜派の人のが圧倒的に多いそうだよ。ちなみに僕は左でね。ファーストキスではすごく苦労したんだ。まあこれも後述しよう」
そんなこと話していいのかお義父さん。
「あいにく私は、娘がどちら傾斜派か知らない。君も恐らく知らんだろう。なにせ、あの傾斜ゼロの真正面キスだからな」
「すみません……」
「娘も恐らく、君が右傾斜派だとは知らないはずだ。だからだね君、まず君が傾くんだよ。しっかりと傾くんだ。しっかりきっちり傾いて、娘に訴える。『俺は右傾斜だ! だからお前も今度から右に傾け!』とな。そしたら娘もきっと、君に合わせて傾くようになってくれる。無言の宣言というのは実に大切だぞ、君」
そんなやりとりしてるのかなあ皆……。
お義父さんは指を組み、ニュースキャスターのような深刻な顔をした。
「ではそろそろ、私のファーストキスの話をしよう」
「は、はい……」
「私のファーストキスは大学一年だ。相手は当然、お付き合いしていた女性だ。そしてその彼女は、君と同じく右傾斜派だった。――ところで君、もしも右傾斜派の人と左傾斜派の人がキスすることになったら、どうなると思うかね」
「えっ……」
「たとえばこれが右傾斜派同士の場合、なんの不自由もないのだよ。自分が右に傾き、向かい合った相手も右に傾く。なんらおかしい点はない。ところが、ファーストキスで舞い上がっていた右傾斜派と左傾斜派だとどうなるか」
お義父さんはうなだれた。
「お互い、同じ方向に傾いたのだよ。想像してくれ。男が顔を傾け、同じタイミングで女が『同じ方向』に顔を傾けたらどうなるか」
――――――ひどい。
「鏡に向かって首をかしげてる感じだよ君。鏡に向かってキスしようとしたような感じになったのだ。だって彼女が。彼女がね!! 同じタイミングで!! 私と同じ方向に傾くから!!」
「そ、そうですね……」
「それでだな。私が相手に合わせようと思い、右に傾く。すると同じタイミングで、彼女も私と同じ向きに傾いたんだ」
さらにひどい。
「同じ方向に顔を傾け、相手に合わせようとして反対に傾いたら相手も同じ方向に傾く。鏡に向かって顔を右に左に傾げるような行為。それを、私と彼女は八回続けた。八回だよ君! 道で、向こうから歩いてきた人を避けようとしたら同じ方向に避けてしまい、二人してその場でしばらく反復横飛びしてから『すみません』と苦笑し、ようやくすれ違うアレ! アレでも八回はないよ!」
「ええ、ええ」
「――結果、私と彼女はキスする前に顔が真っ赤になり、興奮のあまり息が切れた」
色々と酷い。
「ちなみにその彼女というのが後の妻であり、娘の母なのだが。あいつは右傾斜派なんだ、君と同じく」
要らん情報を知ってしまった。
「だからね、お互いにまっすぐな真正面キスをしている今こそ、どちらかが先に傾いて、『自分は右』とか『自分は左』だと訴えておくのが大切だと私は思うんだよ。じゃないと、私みたいになるかもしれんだろう! 左右に頭を振って、お互い恥ずかしい思いをするかもしれんだろう!」
「は、はい!」
「キスには、サイン・コサイン・タンジェントが必要なのだよ君!!」
それは違うと思う。
「――……うん。でも君、いい子だな」
急に、お義父さんが普通のことを言った。色んな意味で驚いた。
「最初はどうなるかと思っていたのだよ。君と出会ったら殴るかもしれんと思っていたのだ。だってね、蝶よ花よと育てた娘なんだよ君。分かる? その娘が、男とキスしてるのを見た私の心境。しかも傾いてない、角度のないキスだよ君」
「す、すみませんでした……」
「いやいいんだ、分かってくれたならいいんだ。そういう角度に目がいっちゃう親がいるというのも覚えておいてくれ。あと、もうちょっと人気のない所でキスしてくれるかな。駅のホームとか案外見えてるからね」
「はい……」
「今日、私が言った大切なことは覚えているかな」
僕はようやく、お義父さんの顔をまっすぐに見た。
「キスするときは、顔を傾けます」
「うん。しっかりだよ、しっかり傾けるんだよ!」
お義父さんはようやく満足そうな顔をした。そして言った。
「私、君にだったら『お義父さん』って呼ばれてもいいなあ」
「えっ」
「頑張るんだよ。――娘を任せた」
あああああ、頑張ろう。次のキスではちゃんと傾いて、彼女とお義父さんに認められよう……!!
「お前その顔の角度なんなの? PERFECT HUMANかよふっざけんな」
しっかり顔を傾けて、しっかりフラれました、お義父さん……。
この小説は呪われていた!
あなたは今後、キスをするときに相手の角度をいちいちと観察してしまい、『あ、左なんだ……』『ちょっ、おま、顔傾けすぎじゃない!?』などと考え吹きだしてしまう!
称号【ムードクラッシャー】を手に入れた!
小説を読んでいる最中、自分は右傾斜派か左傾斜派かと悩み、顔を傾けてしまっていたら手遅れである!
鏡に向かって顔を傾けていたら一大事だ!
称号【文章に踊らされたマリオネット】を手に入れた!
呪いを解くためには『うわの空』『パフェ』が必要です!