脱走
* * * * * * *
目を開くと、そこは天井板がなくむき出しの梁材が見える、薄暗い木造の屋内だった。
口元にかかったごわごわした荒い織りの布と、狼か何かの毛皮の感触が、俺に現状を再び認識させた。まだ少し頭が痛んだが、どうやらこれといって後遺症は残っていないようだ。
ゆっくりと身を起こす。土を踏み固めた土間に長方形の炉が切られていて、その両側にはちょうど居酒屋の座敷席のような少し高くなった床がある。その部分は土間に沿って柱で等間隔に区切られている――俺が寝かされていたのはそんな場所だった。
(ヴァイキングの住居か……? 本で読んだそのままじゃないか)
好奇心と純粋な感動を覚える。寝ている間に溜まっていたものか、なぜか両のまぶたから涙があふれて頬を伝い落ちた。
炉には種火程度の小さな火がとろとろと燃え、何とかしのげる温かさを屋内にもたらしている。温度を意識したところで、俺は自分が着衣の大半をとりのけられて下着姿で寝ていたことに気が付いた。
(外の様子を見たいけど、流石にこの格好じゃ出歩けないぞ)
辺りを見まわす。服は土間に据えられたテーブルの上にあったが、その周りに積み上げられた自分の所持品一切合切を見つけて、頭がカッとなった。
(くそ、あいつら勝手におれの持ち物を!)
靴下履きのまま土間に駆け下り――靴もテーブルの上だった――持ち物をかき集めてダッフルコートにくるみ込む。スマホ、手帳を収めた防水チャック付きのホルダー、ノック式のボールペン。照井が楽屋に置き忘れたのを拾ったものの、返せずじまいの百円ライター。ギターのチューニングに使う調子笛。何かの時に病院でもらった、抗生物質の残薬。
まずは服を身に着けた。コートはまだかすかに湿り気を帯びているようだが、俺はいったいどれだけ眠っていたのか?
あれこれと些末なことが頭に浮かんで忙しいが、自分が肝心かなめの問題から目をそらし続けていることも自覚できていた。
足場のない高所に取り残されたような心細さが俺を締め上げる。周囲の状況から判断する限りここはヴァイキング時代の北欧のどこかで、だとすれば恐らく元いたところに帰るすべはないのだ。憧れたはずの時代とロケーション。だが、実際に放り込まれるとなると話は別だ。
言葉もろくにわからない。慣れない環境で病気になっても、まともな医者もいないはずだ。人間はちょっとしたことですぐに死ぬ。第一に――
(腹が減った……)
めまいのするような空腹。ここまでほとんど意識を失うか眠ったまま過ごし、その間飲まず食わずだ。唇は渇ききって、上下が溶接されたように貼りついている。
何か食い物はないか。頭の中がその一色に塗りつぶされた。暗い屋内に視線を走らせると、右手奥のほうにオレンジ色の明かりがもう一つ見えた。別の炉だろうか?
その方向から漂ってきた空気は、嗅ぎ慣れないものではあるが食物の匂いを帯びていた。何かの肉が煮られて発する、油じみた湯気が漂っている。
ジーンズに足を通し靴を履きなおして、俺はふらふらと土間を奥へ進んだ。コートと手荷物は寝床にぶちまけたままだ。
そこは隣り合った別棟らしかった。寝床のあった場所の三分の一ほどの広さで、壁や床には所狭しと桶や袋、壺が並べられ、乾燥させた植物の束がつり下げられている。そのかすかな芳香が鼻をくすぐった。
「hatta!」
不意に厳しい語調の声が響いた。恐らくは命令形――俺は反射的に足を止め、声のした方向を見た。
炉の前に、こちらに背を向けた誰かが立っている。癖のない金髪を後頭部で束ねて、銀製の髪飾りで留めている小柄な女――肩のあたりの肉づきの薄さからすればまだ十三、四歳というところ。ほんの子供だ。
炉には大きな鍋が自在鉤によく似た道具でつり下げられていて、彼女はそれを木製の杓子でかき混ぜていた。
「Þú vaknaðir?」
炉の方を向いたまま、少し優しい口調で少女が語りかけてくる。だが意味はわからないし、どう返事をしたものか。
「あ、あいむはんぐりー。ぎみーさむしんとぅいーと」
ひどい緊張と、英語で意思疎通を試みるのが適切かどうか、という迷いのせいで変な発音になった。
彼女は振り向いたが、いぶかし気に俺を見つめるばかりだ。もう一度。
「はんぐりー」
腹のあたりを手でさすり次いで人差し指を口に突っ込む動作をして見せると、彼女はどうやら理解してくれたらしかった。
「Ert þu svangur?」
彼女の次の言葉はそんなふうに聞こえた。くすっと笑うと木製の大きな椀に鍋の中の物をよそい、両手でこちらに差し出してきた。穀物の粥のようだ。
「た、たっけ」
昔読んだ小説で断片的に知っていたデンマーク語で謝意を伝える。少女がほほ笑んだところを見ると、どうやら意図するところは伝わったようだった。
俺が椀を受け取ると、彼女は空いた手で傍らの桶から水を一杯、やや小さな椀に注ぐとそのまま俺を手招きし、先に立って歩き出した。
寝床のそばにあったテーブルに水の椀が置かれ、彼女はその席を指さした。「ここで食え」ということらしい。俺は仕方なくそこに座り、手渡された木のスプーンで粥を口に運んだ。
ライ麦か何かを水で煮て、塩とチーズで味をととのえたものだ。何かの肉も入っている。記憶にあるだけでもたっぷり十時間は絶食していたため、俺はひどくがっついて粥を腹に収めた。慣れない味だが不味くはない。少なくとも俺を飢えさせるつもりはないらしい。
粥を平らげ息をついて顔を上げると、少女はこちらへ向かってあいまいに笑い、自分を指さして「フリーダ」と言った。それが彼女の名前らしかった。
現代人の感覚に照らす限り、なかなかの美人だ。北方人に特有の白い肌。金髪は後頭部から肩へポニーテール風に流れ落ちている。広めで明るい額の下では青みを帯びたグレーの瞳が、炉の明かりを映して輝き燃えていた。
まだ食い足りなかったので、俺はおずおずと空になった木の椀を差し出した。フリーダは少し眉をしかめて微笑むと一度厨房へ戻り、やや軽めによそった椀を再び俺の前に置いた。そして、寝床のほうを指さして何事か言うと、そのまま戸口から外へ出て行った。
厨房から射していた火灯りが消えたところを見ると、炉の火は消していったのだろう。つまり、しばらく帰ってこないということだ。
さて、何とか食事にはありついたがこれからどうしたものか? スマホをポケットから出して手に取る――画面は真っ暗だ。
何をやっても起動しないところを見ると、もう電源が尽きているらしい。そうでないとしても川に落ちて浸水し、そのあと海水まで浴びているはずだ。だいたい起動したところでネットにつながるわけもないのだが、メールも確認できず各種アプリも使えないことがなにやらひどく心細かった。
ついでに持ち物をもう一度チェック。手帳はどうやら無事。ボールペンも問題ない。照井のライターはこの先大いに役に立ちそうだ――俺には喫煙の習慣はなかったが、こんな原始的なところですぐに火をつけられる道具があるのは心強い。
俺は床の炉から燃えさしの薪を一本引っ張り出し、左手で掲げて土間の上を進んだ。戸口から外に出ると、陽光が俺の目を灼いた。思わず顔を押さえてうずくまる。
しばらくして視力が回復すると、俺は周囲をうかがいながら、身を低くして物陰伝いに進んだ。船の上で殴り倒された記憶が俺に警戒心を強めさせていた。
辺りに漂う針葉樹と腐植土の匂い。胸深く吸い込むと、北ヨーロッパのほとんど手付かずの自然の中にいるのだと実感できる。からりと晴れ上がった上天気だが、時折ひどく強い風が吹き付けて首をすくめさせた。
低地の所々にしがみつくように生えた広葉樹が、葉を黄色や赤に染めているところを見ると、ここでもやはり季節は秋深い頃だと思われた
村は入り江から少し上がった緩やかな斜面に広がっていて、北側の岩山から湧き出た水が、一筋の小川となって蛇行しながら居住地を大まかに二分していた。見たところ主な家屋だけでおおよそ十世帯前後。長館と呼ばれる形式で、すべて平屋だ。
村の中には「ベェー、ベェー」といった感じの鳴き声が響いていた。時折「ピーッ」と魂消るような悲鳴が混ざる。正体はすぐに分かった――羊だ。
村の中央にある井戸付きの広場に羊が集められている。餌の乏しくなる冬に備えて、余分を肉にしてしまうらしい。広場には大勢が集まって、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
男二人ほどで羊を引き出してくる。羊が血の匂いをかぎつけて少し暴れるが、男の一人が素早く足払いをかけ、あっという間に地面に引き倒してしまった。ヘッドロックのような体勢で頭を押さえ込むと、大き目のナイフで頚動脈を掻き切る。血が噴き出し、辺りの地面が真新しい血で赤く濡れた。
しばらく足をばたばたさせてもがいていた羊が動かなくなると、男の一人が腿の付け根辺りに傷をつけて息を吹き込んだようだった。すると皮と肉の間に空気が入り込んで、羊はぱんぱんに膨らんだ。
腹側からナイフを入れて皮を剥ぎ取っていく。内臓を抜き取り頭を切り落とし、蹄やそのほか余分なパーツを取り去ってあっという間に羊の枝肉が一丁上がり。解体が済んだ肉は持ち主がそれぞれ家へ持ち帰る、という段取りだった。
生き物を殺して食べるなんて残酷――そんな甘ったるいことを言うつもりは毛頭ない。だがその光景は俺に衝撃を与えた。ここでは人と家畜がひどく近いところで生きている。肉を食うなら自分の手で家畜を屠るしかないが、これまでそんなことは考えてもみなかった。
彼らの手際――無駄も迷いもない洗練された動作と、慈悲深いとすら思わせる速やかな処理。ここで暮らすにはあの手際を身につけなければならないのだ。
そう思った瞬間、胃のむかつきを覚えた。吐くほどではなかったが、自分の身体が本能的なところで現状とその先にある生活を拒絶していることを実感した。
(そうだ……ヴァイキングの生活は航海して旅して戦うだけじゃない。解ってたはずだ。耕して、家畜を肉にして、敵を殺して敵に殺されるんだ……)
ぞっとする。言葉もろくにわからないまま、いやおうなしにそんな生活に飛び込んでしまうとは前後の見境がないにもほどがある。
それに、遠征先で船に飛び込んできた男を殴り倒してそのまま連れてきた場合、彼らはそいつをどう扱うか? 普通に考えれば捕虜だ。連れ帰って奴隷にするのが慣例のはず。ああ、それなら二十一世紀の日本で低賃金で働く方が、よほどましなのではないか?
どうすればいいのかわからなくなった。気が付くと人の集まる場所を避け、駆け出していた。村を囲む柵を越えて踏み出し、荷車のわだちが深く刻まれた草深い道を通って裏手の山へ向かってひたすらに走った。