アンスヘイムの評定
シグヴァルドの娘フリーダは当年とって十四歳。族長の地位を退いた祖父と二人きりで、村の一角を占める大きな古い家に暮らしている。
彼女は日々にうんざりしていた。特に家が貧しいというわけではないが、とにかく人手が足りず仕事が多すぎるのが不満だった。
朝から井戸で水を汲み、三十頭におよぶ羊を午後遅くまで放牧。朝夕の食事を用意し、時に機織りや繕い物まで――それら『女の仕事』一切合切が彼女の細い肩にかかっている。放牧に使う犬は少し前に老衰で死んで、遠くの集落に子犬の譲渡を頼み込んだきりだ。
祖父インゴルフは六十過ぎ。まだかくしゃくとしたものだが、彼は彼で違う方面で忙しい。族長の座を甥に譲った後もなにかと相談事を引き受けるし、村で一番の腕前を持つ木工職人でもある。彼の仕事は村で共有する船にまで及んでいた。
(奴隷が一人欲しいなあ……)
ここしばらくフリーダの心を占めていたのはそんな願望だった。おとなしくて力が強く、何でも言いつけられる男手がこの家に一人あれば、どんなに楽になるだろう。北方人の集落には珍しいことらしいのだが、この村にはあまり奴隷がいない。最も裕福な家でほんの数人を使っているくらいのものだ。
現族長、フリーダには従叔父に当たるホルガーが、村の若い男たちを連れてイングランドへ遠征に出ている。そろそろ帰ってくるはずだった。遠征で捕虜を手に入れれば購入費無しで奴隷にできる。
そんなわけで、カーヴ船『鎖蛇号』の帰還を告げる角笛を聴いたとき、多感な少女の胸はいやがうえにも高鳴ったのだ。
いつものように港に向かい、船着き場から少し離れた場所でホルガーを待つ。男たちが沢山の積荷を船の甲板下から取り出し、肩に担いでいるところを見ると、襲撃は大いに成功したらしい。
フリーダはほっと一息つく思いだった。これまでのところ冬の間の食料は何とか確保できそうだったし、来年以降に魚や肉を保存するための塩も、あれらの財物を交易都市に持ち込めば潤沢に手に入るだろう。
遠征がうまくいけば、村中が豊かに暮らせるのだ。
ホルガーが肩に人間を担いでいる事に気が付いて、フリーダの興奮は頂点に達した。
(奴隷だ! 本当に捕虜を連れ帰ってくれたんだ!)
桟橋を降りてきた族長に、フリーダは息を弾ませて駆け寄った。
「ホルガー兄さん! その肩の上の男……奴隷ね!?」
祖父の甥だから世代は一つ上になる。兄さん、と呼ぶのは正確ではないのだが、彼女はホルガーのことを兄と呼び、慕っていた。彼女の周りに、年の近い親族と言えば彼しかいなかったのである。
ホルガーの返事は彼女の想像とは少しだけ違っていた。
「あー、いや……帰りの航海でちと妙なことがあってな。その時にこの男を拾ったのだ。必ずしも奴隷というわけではない」
従淑父のあいまいな返答に、彼女は若干の失望を味わった。
「ええ……どういうことなの? じゃあ何、客人?」
「どう扱うかはこれから決めるのだが……こやつ、あるいは妖術師かもしれん。気を付けてくれ」
そう言いつつも、ホルガーは荷物とその男を抱えたまま、半割にした丸太で舗装した道を、フリーダの家へとまっしぐらに歩いていく。フリーダは慌ててその後を追った。
「ねえ、そんな変な男を私の家に持ち込まないでよ」
「お主、あんなに奴隷を欲しがっておったではないか」
ホルガーはきょとんとした顔になった。
「でも、まだ奴隷じゃないんでしょ」
「だからそれを今から決めるといっておるのだ。他の家は手狭すぎるから、伯父上の家でな」
「兄さんの家は駄目なの?」
相談事をするなら族長の家でやるのが筋合いでは、ということだ。だが、ホルガーにはいささか妙なこだわりがあった。
「うちには母上がおるのに、こんな怪しげな男を入れるわけにはいかん」
「待って、ちょっと待って! それで私がいる家には怪しげな男を持ち込んでいいって、意味わからないから!」
憤慨しながらも、ホルガーの肩の上に担がれたその珍客を見上げる。ひょろりとした体つきだがずいぶん体の大きな男だ。見たことのない布地のズボンと、精緻に織られた素晴らしい仕上げの外套を着ているのがわかった。履いている靴も、革職人のロルフが目の色を変えそうな精巧なものだ。
「兄さん……この男、もしかしたら相当な貴人なんじゃないの? 何だかのっぺりした間抜けな顔だけど」
「ほう。アルノルも似たようなことを言っていたな……」
二人は顔を見合わせた。
「どこで見つけたの?」
ホルガーは困った顔になって言葉を濁した。
「それがどうも、なあ。我らはノーサンブリアで修道院を襲った後、海へ向かって河を下ったはずだったが……いつの間にか見たことのないおかしな河をさかのぼっていた」
「おかしな河?」
「うむ。石組みが全く見えないように築かれた、途方もなく巨大な石橋があちこちに架かっておってな。岸辺には小さな月のようなものがいくつも並んで灯っていた……辺りには何やら胸の悪くなる、沼地のような瘴気がうっすらと漂っていて――」
ちょどそこまで話したとき、二人はインゴルフの家の戸口をくぐる形になった。
「伯父上! インゴルフ伯父上! ただいま帰りましたぞ!」
インゴルフは床に切られた長方形の炉の前で、戸口の方へ顔を上げた。鍛冶師に頼まれた木彫りの細工ものに手を入れていたのだが、甥が戻ったとなれば後回しだ。
「おお、戻ったか。その様子だと首尾よくいったようだな……はて、肩の上のその男は? 見慣れぬ風体だが」
「どう言えばよいか――」
「なんだか冥府みたいなところから拾ってきたんですって」
言葉に詰まるホルガーの横からフリーダが口を挟む。ホルガーは不作法をとがめるでもなくうなずいた。
「なるほど、冥府とはよく言ったものだ。してみると存外、こ奴はあそこから我らを救い出してくれた恩人と言えるかもしれんな」
ホルガーは改めてインゴルフにも、帰路の奇妙な体験を語った。
「……何より驚いたのは川岸を走り抜けていった獣だ……目から満月のような明るい光をこう、一ケーブル(約180m)ほど先まで照らしておって。それが何頭も鎖蛇号を追い抜いていったものだ」
「カーヴ船よりも速いだと?」
インゴルフの目が驚きに見開かれる。
「で、この男が高い橋の上から飛び込んできたのを引き揚げた後、、ようやく我らはそうした奇怪な場所から、このホルザランド(註)の沖合に戻ったというわけなのだ」
「ううむ、いかにも信じがたい話だが……その男を見るに法螺とばかりも言えんようだ」
年長者二人が青ざめてため息をつく。フリーダもその男をしげしげと眺めたが、まつ毛が泣いた後のように濡れているのに奇妙な感じを受けた。
謎めいた男は空いた寝床に寝かされ、毛皮が何枚か掛けられた。その間に村の中でも知恵や経験の豊富な男たちが、何人か呼ばれて炉の周りに詰めかける。フリーダは彼らに弱い飲み物を注いで回る、あまりありがたくない役目を与えられた。
男は浅い寝息を立てて眠っている。一同は炉のそばのテーブルの上に、男の持ち物を並べて吟味していた。
ロルフもこの席に呼ばれていた。革に限らず様々な工芸品に目が利くため、重宝されて遠征に出ていたが、謎の男からはやや離れたところにいたのだ。彼は案の定、男の靴にひどく惹き付けられた様子だった。
「すごい靴だ」
片方を手に取ってためつすがめつすると、靴職人は深いため息をついた。
「分厚い皮をこんな細かな縫い目で、均一に縫い合わせてある。おまけに底に使われているのは……皮でも木材でも、コルクでもない。いったいどんな職人がこれを作ったのやら」
「ふむ。おぬしほどの靴屋にそこまで言わせるか……」
「こんな靴があったら、森の中や山の中、陸路の旅もずいぶんと楽になることだろう……水がしみこむこともあまりなさそうに見える。なんとか作り方を聞き出したいもんだ」
靴は一同の手から手へとまわされ、皆がその細工に息をのんだ。
水先案内人のアルノルが、テーブルに置かれた手のひらほどの物体をさし示した。
「そっちは何だろうな? 磨かれた表面からすると鏡として使えそうだが、黒い鏡とはいかにも奇妙だ」
鍛冶師の息子、ヴァジがその物体の表面を指で撫で、黒く太い眉をしかめた。
「そうだな……裏側の材質も見慣れんものだ。琥珀とも象牙とも違う。鹿の角でもない」
男の服からは他にも妙なものばかりが出てきた。
鮭の肉の色をした琥珀めいたものでできた、短い棒。親指ほどの大きさの開け方のわからない小さな瓶は、中にわずかな液体が封入されているのが見える。
鈍い銀色の薄板に不思議な方法で埋め込まれた、丸く成形された陶土の欠片のようなもの。互い違いに六本の筒を束ねた、奇妙な小さな笛。
新しいものがテーブルに置かれるたびに、一座からは畏怖のため息が漏れた。
「奴はトールと名のったな。神の名だが、よもや……」
「まさか。だが小さいとはいえ楽器があるのだ。こやつは楽師か詩人の類なのかもしれん」
一同は途方に暮れた。村でこういったことに一番明るそうなのは、ホルガーの母ゲルダだ。宮廷詩人の父を持ち巫女の修行を積んだこともある、威厳に満ちた女性だが、彼女をこのような怪しいものに触れさせるのははばかられる気がした。
何か障りがあるのではないかと思えるほど、それらの品々は異質だったのだ。
「ともかくだ。この男に何か不思議の技があるのなら、いずれ村の役にも立つだろう。俺の見立てでは、こいつはフィンの地からさらに東の草原に住むという連中の、同類ではないかと思える」
アルノルがそう言った。ずっと東方には、このような凹凸の少ない顔立ちの人々が住むという。
彼は続いて男の手を指さした。
「それにこれを見ろ。屋外で泥仕事をしたことなどないような滑らかな指だ。間違いない、こいつは貴人だよ……奴隷にしておくよりもいい方法があるぞ。言葉を教えて知恵を出させようじゃないか」
(やっぱり! 知恵者のアルノルと同じ見立てだなんて、私もまんざらじゃないじゃない)
フリーダは内心得意になった。だが直後にホルガーがとんでもないことを言いだした。
「よし。ではこの男はやはりインゴルフ伯父上に預けよう。家のことにも少しは使えるだろう。あと、言葉はフリーダが教えるがいい」
「私が!?」
思わず年長者の男相手に反駁するという不作法をしでかしてしまった。だが、従淑父は気にする様子もなく彼女に答えた。
「奴隷に言葉を教える技は、我が母上から手ほどきを受けただろう。上手くやってくれよ」
確かに。遠征先から連れてきた奴隷は、言葉が通じないことが少なくない。大叔母ゲルダはそうした技術にも巧みだった。
「奴隷じゃないんでしょ?」
「そうだな。叔父上の個人的な家臣とでも言うことにするか」
「家臣なんて、そんな大げさな……」
ことの成り行きにフリーダはあきれるばかりだったが、とにかく男手が、色々と指図して使える男手がやってきたことに違いはないようだった。
註:ホルザランド
ノルウェー西部の一地域。現在のベルゲンの周辺に当たる、温暖で雨の多い地域。