プロローグ 遥かなる川のこちらとあちらで
一部に残酷、グロテスクな描写などがあります。苦手な方、15歳未満の方は読み飛ばしていただくようお願いします。
2020年 アイスランド
12月20日深夜・首都レイキャビク
「700アイスランドクローナになります。ありがとうございました」
運転手が愛想のよい笑顔を浮べて料金を告げた。
クリスマスを間近に控えた夜の町は、うっすらと舗道に積もった雪を掻くボランティアの人々と、そろそろまばらになってきた酔客で、まだそれなりに賑わっていた。
私はこの季節が一年で一番好きだ。街灯の下、緑がかった青色の影を雪道に落としてそびえるクリスマスツリー。古き時代を象徴する世界樹の、精神的な末裔。
タクシーを下りて局の階段を駆け上る。タイムカードのスタンプはどうにか定時ぎりぎりだった。
「おはようございます!」
「おはよう、イングリッド」
廊下を行きかう同僚達と挨拶を交わし、着替えもそこそこにノーメイクのまま、ミキシングルームを通り抜けて第6スタジオに滑り込む。
薄い色のサングラスをかけた中年のパーソナリティが、目ざとく私を見とめて親指を立てた。
「遅刻するかと思うたぞ、イングリッド」
太く低い、声量のあるバリトン。マイクのカフはまだ下がっている。私はまだ少し弾む息を抑えながら、彼にウィンクで応えた。
「何とかセーフです。うちの母が曜日を間違えちゃってて」
「親のせいにするでない」
ほぼ同時に、番組のオープニングテーマが流れ始めた。目の前のメインパーソナリティ――ソールはカフを上げて、よどみのない調子でそれにトークをかぶせていく。
(やあやあ、今宵も寒さいや増すレイキャビク、皆様方にはいかがお過ごしであろうか。クリスマスまであと4日、ハンギキョート(註1)の仕込みは万全でござるかな?
拙者の生国でクリスマスといえば、伴侶に恵まれぬ男女がモニターの前で電子のイコンにケーキを供え、持てる者たちの爆裂四散を祈願する日なれど『他人の不幸をもたらす魔術は己の幸福を対価にしなければならぬ』ともいう。それは割に合わぬ取引だ。
皆も心してこの神聖な旬間、隣人の幸せと世の平和、来る新年の幸を祈り寛容の心を持って穏やかに過ごされたい。
ではタイトルコールといこうか。
『ビョルンハルダのラキ山大噴火アワー!』
お相手は拙者、ソール・ビョルンハルダと――)
私も、カフを上げた。
(アシスタントのイングリットでお送りします!)
(今週も日が変わるまでの1時間、遥か極東の島国、このアイスランドと同じ火山の島ニッポンの、世界をリードするサブカルチャーと音楽を拙者が紹介しよう! まずは一曲目――)
* * * * * * *
女子高生バンドを主人公に据えた、日本製の古いアニメのOP曲がかかっている間、私はカフを下げて、ソールに話しかけた。
「えっと、ただのリスナーだった学生の頃から不思議に思ってたんだけど……ソールさんの喋りって、どうしてそんな大時代で古風なんですか?」
笑いを漏らしながらたずねる私に、目の前の中年男はすこし居心地悪そうになった。
「ああ、これか。ちと仔細あってな。そもそも拙者は古ノルド語を先に学んだので、いかでかアイスランド語の発音や構文に影響が出るものぞ」
ソールは名前こそ北欧風だが、出自はニッポンだ。赤銅色の潮焼けした肌に半白の髪が、長いこと洋上で生活していたことを偲ばせる。彼がパーソナリティに抜擢された経緯を私は知らないが、この番組は新年に放送3周年を迎える。アイスランドで一番新しいラジオ局、『Riki-774』の看板番組のひとつだ。
「あら、それって変じゃないですか? 私たちアイスランド人は、アルファベット導入以降の古いノルド語文献を読んで理解できるっていわれますけど……それは発音などについては考慮外ですよね」
現代のアイスランド語は、文法などは古ノルド語のそれとかなりの部分で共通しているといわれている。だが入植からの長い年月で、実際の音韻などは大きく変化してしまった。もはや別物なのだ。
「要するに、古ノルド語はもう口語としては死に絶えてます」
そんな言語を話し言葉として習得するなんてことは、普通に考えて不可能じゃないだろうか。
だけど、ソールの言葉は明らかに変だ。私が知っている一番長生きのお年寄りが話す言葉の何倍も古臭くて、言い回しやリズムはまるでスノッリ・ストゥルルソンの著作を朗読しているみたいに感じる――そんな調子で、話す内容と言えば日本のアニメの話題だったりするのだけれど。
「頭のよい女人がいい加減な説明を受け入れんのは、昔も今も変わらんな……きちんと話すと少し長い話になるのう。話さぬではないが――番組が終わった後にでも、どこか落ち着いた場所でなら。いささか遅くなるが夕餉などともにいかがか?」
あきれた! この人、いくら外国人でも、女性を食事に誘う意味くらい知ってるでしょうに。
でもまあ……悪くはない。私だって別にこの年になってそういう経験が無いわけじゃないし、ソールは男性としてもそこそこ魅力的だ。
私の戸惑いに反応するかのように、ミキシングルームからは冷やかしの声が上がり、彼はガラスの向こうへ否定のしぐさで手を振って見せた。
「違う、違うぞ! 拙者こう見えても心中に操を立てた女人が居るのだ。軽々しく食卓と寝室が地続きの会食などいたさぬわ!」
……ホント、変な人だなあ。
* * * * * * *
875年 10月某日
ブリテン島 ノーサンバーランド
川の辺に生い茂ったアシの間から、一羽のワタリガモが飛び出し、羽ばたいて瞬く間に西の空へ消えた。薄く曇った鈍い青を切り裂いた、鮮やかな黒と白。
低い丘陵の間を蛇行して流れる川の、消えかけた中洲に根を張ってしがみついた、ひねこびたセイヨウヤナギの木立が水面に落とす影。その暗く沈んだたたずまいを、銀色に光る波を引いてかき乱すものがある。
カモを脅かしたものは、16対のオールで水を掻いて進む、船首に竜頭を飾った一隻の船だった。
「太鼓がないと呼吸があわせづらいな」
「黙って漕げ。間近に寄るまで気づかれたくない」
オールについた仲間の愚痴を、ホルガーは舵柄を掴んだまま押し込めた。目指すのはこの川のもう少し上流にある修道院だ。
最近は彼らノース(註2)の故地にもキリスト教が広がってきてはいるが、今のところは所詮、フランク王国などキリスト教を掲げる国の商人との交易を、円滑に進めるための方便でしかないことが多い。
彼らにしてみれば、神に仕える修道士たちに対して何の遠慮もありはしなかった。
武装もせずに寄り集まり、財物を蓄えて使いもせずに質素な生活を送る奇妙な奴輩。ならばわれらの手で奪い取り、冬の厳しい寒さを迎える故郷に、貴重な穀物や塩、体の温まる酒をあがなう代価として持ち帰るのが、財の正しい使いみちというものではないか。
はっきりと言葉に組み立てて考えたわけではないが、ホルガーの思考はおおむねそのような流れであった。
名も知らない川を、さかのぼれる限りさかのぼって目標に近い浅瀬へと漕ぎ寄せ、その小ぶりなヴァイキング船『鎖蛇号』は錨を入れた。
金属と皮で補強された頑丈な円盾を船の舷側から抜き取り、左腕にたずさえると、男たちは数人の見張りを残してぞろぞろと船を降りた。
その右腕には、三角形の斧頭をそなえる片手斧。これ一つ取っても恐ろしい破壊力を持つ武器だが、何人かの裕福な戦士は、それに加えて腰に幅広の剣を吊っている。
村の近隣で湖沼の泥から得た素朴な塊鉄に、交易で手に入れた異国の良質な鋼を重ね合わせて、老練の名工が丹念に鍛えた業物だった。
二、三合も打ち合えば折れるでもなく不甲斐なく萎え曲がる、そんな形ばかりの粗悪な剣も多い中で、その鍛冶師が鍛えたものは堅牢な鉄の兜を断ち割り、フランクの小札鎧をバターのように切り裂いてなお良くその切れ味を保つのだ。
刈り入れの終わった耕地を踏みにじり、点在する薮を目隠しに徒歩で接近する。修道院からは煮炊きの煙が幾条も立ち上り、冬を前に豊富な食料を備蓄していることが伺えた。
――いいぞ。襲撃が首尾よくいけば、少なくとも食料はふんだんに手に入る。
胸中にそう定め、仲間の準備を確認すると、ホルガーはひと飛びに藪陰から走り出て、割れんばかりの声で鬨を上げた。
「アアアアアアアァンスヘイイイインッム!」
アンスヘイム――故郷の村の名前である。叫んだところで実は同じノースやデーン(註3)の戦士の間では何ほどの効果も無いが、ここブリテンの気弱な農耕民にとっては、ノルド語の鬨の声ならいずれにしても恐怖の的であることに変わりはなかった。
修道院の庭は瞬く間に殺戮の場と化した。汚れたような灰色のフードを目深にかぶった男たちが、女のように悲鳴を上げて逃げ惑う。
逃げるものは追う必要がない。抵抗するものはただ機械的に無慈悲に斬られ突かれて、武器をさらに強く鍛える焼入れの油と変じた。
「ハハァーーッ!」
一同の中でも最も若く血気盛んなヨルグが、修道院の防備に派遣されていたと思しいサクソン人兵士の顔面を、正面から斧で割り伏せた。たちまち着衣といわず盾といわず返り血で染まるが、特に意に介す様子もない。
「いいぞ! 帰ったらお前にも剣をやろう。新しく鍛えたものでも戦利品でも、好みのものをな!」
気前よくそう請合うと、ホルガーは左手から近づいてきていた別の兵士に、向き直って盾ごとの体当たりを見舞った。
「気づかんとでも思ったか!」
そのまま大人の拳ほどの身幅のある重い巨剣を振りぬき、敵の首を刎ねる。統御を失った体がよろけ、数歩足踏みした後、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
踏み倒された鶏小屋から逃げ出した数羽の鶏が、けたたましく鳴きながらその周囲を駆け回り、あるいは軒の高さまで飛び上がった。
収穫は満足のいくものだった。穀物、手のかかったつづれ織りの布、銀製の祭器やサラセンの金貨。奴隷にするような女が見当たらず一部に不満の声もあったが、もとよりアンスヘイムに閨で使うのみの女を食わせるゆとりはない。
「女がほしければ嫁をとれ。きちんと働いて一家を任せられる賢い女をな」
幸い、村には年頃の未婚の娘も何人かいる。
「ホルガー、あんたは嫁を取らんのか? そろそろ良い頃合だろう」
「ホルガーは先に従姪殿を、さっさと片付けたいのさ! そうだろう?」
口が廻り悪知恵の働くアルノルが、顎ひげを捻りながら囃し立てた。交易都市などでは実に頼りになるが、時々いささか悪ふざけが過ぎる。
「アルノル! ロキの外套につかまって歩く小童め。だがあれが気がかりなのは確かに真実だ。片付いた暁には俺の嫁取りにお前も知恵を貸せ」
「心得た! われらが族長、『膝砕き』のホルガーよ。この『鷹の目』アルノルの知恵はあんたを助けるとも」
哄笑がどっと起こり、船は舳先をまわして下流へと向かう。ノーサンブリアの王国は今では見る影も無いが、それでもぐずぐずしていれば追捕の兵を差し向けてくるくらいの力はまだ残っていよう。
水路が、海がある限り、ノースにデーン――ヴァイキングの戦士たちを止められるものはない。
だが、いつの間にか船の周りを霧が深く包み、自分たちがまた川の流れに逆らって進みだしていることに、彼らは気づいていなかった。
(註1)
ハンギキョート:
アイスランドで伝統的に食べられる羊の燻製。新年など特別な時期には欠かせないもの。ネットで画像検索すると羊の頭そのままのものが出てきたりする。
(註2)
ノース:
ノース人。中世初期に活躍したヴァイキングのうち、主にノルウェーを根拠地とした人々。アイルランドやアイスランドなど、主に北西方面へ進出し、探検と植民を行った。
(註3)
デーン:
ヴァイキングのうち、ユトランド半島、のちのデンマーク一帯を根拠地とした人々。西ヨーロッパの大陸部からブリテン南部にかけて広く活動し、ときに大規模な略奪を働いた。イングランドでは東部のいわゆるデーンローに定住して農民化していった。