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第 1 章 「サヨ伝説」

「あ、光った」

 昼間の蒸し暑さがうそのように、谷間の空気は冷たさを帯び始めている。まだ短い葦の葉が風にそよいでいる。

 田の蛙がいっせいに鳴きだしたが、人の気配を異変と感じたのか、ぴたりと鳴き止むとあたりは再び静まりかえった。

 瀬の音がこだまし、静寂を際立たせる。


 生駒延治は優が指さす先を見透かした。木々の暗い枝下あたり。徐々に迫る夕闇。

 さっきまで泳いでいた無数のおたまじゃくしやイモリの姿は、もう判然としない。空はかろうじて青さを保っていたが、深い山に囲まれた小さな村にはいつしか闇が降り、蛍がつかのまの乱舞を始めようとしている。


 緑がかった小さな白い光が、林の暗がりをスーッと横切って消えた。

「よかった。ひとつだけでも見ることができて」

 優がうれしそうな顔を見せて、軽やかにせせらぎ沿いの小道を駆けてくる。

 大きくウェーブした長めの髪が揺れる。広がりつつある薄い闇の中で、レモン色のシャツがほんのりと光っているように見えた。

「あ、こっちにも」

 生駒はこわばった膝をさすりながら立ち上がった。振り返ると、目の前で白い点がぐっと力を込めたように強く光った。そして力を抜くように消えた。

「ふたつ見られたな」

「あ、ノブ、いいやん」

「ん?」

 生駒の墨色のTシャツの脇腹に白い光がとまっていた。そっと両手を添えると、光は難なく手の中に収まった。

「見せて」

「ほら」

 危険を察知したように、先ほどまでの悠長な光り方ではなく、アラームのように激しく点滅している。

「逃がすよ」

 手を開き、ふっと息を吹きかけると、蛍は光を発したままゆっくりと飛び立った。


「蛍ってさ、死んだ人の霊って言わない?」

「そう?」

「さっきの蛍。ノブの知ってる人かもよ」

「うへっ」

「ハハ、ビビッてる」

「しょうもないことを」

 ひとつの記憶が蘇ってくる。一年前、川に身を投げて死んだ娘……。

「ほらほら、気にしてる」

「しつこいな」

 生駒は橋を見上げた。あの日、あの橋の上で、娘は谷を渡る風に長い髪をなびかせていた。

「さ、行こうか。そろそろ時間や」

「なんか、あまり気乗りしてないみたい」

「まあな」

「声が暗い」

「メンバーがなぁ」


 屋敷に人の気配はなかった。


サヨ伝説


 江戸時代の末期のことである。世が動乱の期を迎えることになる少し前の時代。

 これまで鉄の統率を誇っていた幕府の力にほころびが目立ち始めていた。


 日本各地で社会変革の萌芽が、長い冬を越した草々が雪解けとともに動き始めるように、さまざまな形で表れ始めていた。それは折から襲った飢饉をきっかけとする農民の暴動の形を取ることもあったし、下級武士のクーデターという形を取ることもあった。また、幕府の目を盗んで藩が独自に開発した鉱山での苛烈な労働に耐えかねた農民や罪人が起こした暴動、というような形を取ることもあった。


 そして争いに破れたものたちは、山中深く逃げ込み、隠れ里を築いた。しかし彼らが落ち着いたところは耕作に適さない深い山の中で、自給自足の暮らしを営むことができない。おのずと彼らは周辺の村々を襲い、食料や生活に必要な品を略奪することによってしか生計を立てることができなかった。


 この地域にもそんな隠れ里があった。

 しかしどの村の長も山賊退治を藩に掛け合うことをしなかった。それと引き換えに、藩の役人がなにかにつけてちらつかせている街道の普請を村に押しつけて来ることを恐れていたのである。

 しかも役人は、万一その山賊の討伐に失敗したときに自らの職責を失うことを恐れ、その約束を反故にする懸念もあるからだった。村としても、山賊に襲撃されてもそれは一時的なものであり、延々と続く負担や働き盛りを普請の現場に奪われるより、まだましだったのだ。


 そんな不穏な時代の出来事である。


 ある新月の夜、ひとりの若い女が、庄屋の屋敷において両親や一族のものと別れの杯を交わしていた。傍らに、五穀を詰めた小さな袋、提灯、菅笠といった旅装束が調えられていた。

 普通の旅でないことは、女が白装束に身を固めていることからわかる。屋敷の奥にある、村人の信仰厚い岩代神社の神及び山ノ神に、今年の豊作を祈願する貢物として出立しようとしていたのである。


 当時、この村は現在と同じように小さな村で、度重なる山賊の略奪に加え、数年来続いた飢饉によって困窮を極めていた。

 もはや神仏に頼るしか残された道はない。人身御供の娘はもう戻ってくることはない。神に召されて天に昇るのだ。そしてこの村には神のご加護が下されるだろう。これが最後の選択肢である。村の長老である采家の筆頭、久次郎が村人に説いた。

 村人はその言葉を疑うことはなかったし、たとえ疑いを持ったとしても、村全体の生死に関わる決定に反対することは許されなかった。


 これに先立ち、屋敷の裏には木戸が設けられていた。神社へは娘ひとりが向かわねばならない。誰も人身御供を追うことがないよう、また、恐れた娘が舞い戻ることがないようにするために。


 娘の名はサヨ。歳は十六。

 久次郎の一族、分家である忠八の娘であった。


 はたして、宵闇が迫るころ、時ならぬ横笛の音が山中から聞こえてきたときを見計らって、サヨは裏木戸をくぐった。そしてゆっくりと振り向くと見送りの両親たちに深く頭を下げた。

 ごうごうと音を立てて燃え盛るかがり火に照らされて、サヨの白い顔に朱色の影が踊っていた。


 サヨは頭を上げると、もう誰の顔も見ることなく、毅然として前を向き、真っ暗な木立の中に足を踏み出していった。

 死出の旅路の供をするように、装束の肩に蛍がとまっていた。その放つ光が三度も明滅しない間に木戸は硬く閉ざされ、屈強の男共がその扉を固めたのである。


 久次郎はサヨを送り出した夜、まんじりともすることなく朝を迎えた。一番鶏が鳴き、空が白み始めるとき、寝ずの番をしていた男に木戸を開けさせ、誰も追ってくるなと言い置いて神社に向かった。久次郎は村おさであると同時に神社の神主も兼ねていた。村の代表であり、まとめ役であり、村人の生死を分けるさまざまな決め事を実行する立場にあった。


 屋敷と神社とは五町と離れていない。しかし久次郎はなかなか戻ってこなかった。

 日が昇りきり、空気が暖められて、山あいに川霧が発生する時刻になっても姿を見せなかった。


 久次郎の妻、ギンは気が気ではなかった。久次郎はサヨの姿がないことを確かめるとすぐに戻ってくるはずなのに、戻りが遅すぎる。しかし居ても立ってもいられなくなったギンが、とうとう息子の義助を岩代神社まで見にやらせたのは、もう陽が天空の中央に差し掛かってからのことであった。


 しかし義助は屋敷を出るや否や、すぐに戻ってきた。

「たいへんだ!」


 ギンを先頭に、久次郎の郎党が木戸を駆け抜けていった。

 そして彼らが見たもの。それは鮮血に染まったむくろだった。


 うつぶせに倒れた久次郎。

 その亡骸の下で、サヨの着ていた白装束に血が染み込んで不気味な文様を描き出していた。


 久次郎は木戸からほんの一町ほど離れた山道の途中で死んでいた。木々に囲まれ、一段と薄暗い曲がり道。

 岩代川の瀬の音があたりにこだましていた。

 すでに無数のハエが、久次郎の顔や腕のいくつもの無残な切り傷に群がっていた。


 ギンはその場で、久次郎が切り殺されたことを居合わせたものたちに口止めした。そしてすぐに村の若い者を動員し、村から出る街道や間道を走らせるよう指示を出した。夜の間、木戸は閉ざされていた。しかし、森の中を抜けて逃げ出してくることはできる。


 サヨを探せ!


 ギンは久次郎の亡骸を屋敷に持ち帰り、新しい衣服に着替えさせて庭からよく見える座敷に安置した。

 ギンは焦っていた。村人たちがサヨを追っていたが、もうすでに相当の時間が経っている。もう陽が傾きかけていた。

 探し出すのだ。なんとしても陽のあるうちに。

 そして予定通り、神社に向かわせるのだ。


 しかし、なかなかサヨは見つからなかった。


 ギンは考えた。

 サヨは今まだ、木戸の向こう側のどこかに隠れているのではないか。

 そこでギンは木戸の外側を屋敷に沿って注意深く歩いた。

 そして見つけた。屋敷を取り囲む板塀の一部が破りとられていることを。


 母屋の床下に隠れていたサヨが捕らえられたのは夕刻になってからである。


 サヨを守るように枯れ草が体を覆っていた。もとより、その草はサヨを隠すために事前に持ち込まれていたものである。そして引きずり出されたサヨは、自分のものではない男物の着物を身に着けていた。


 サヨは、直ちに久次郎の血糊が染み込んだ白装束を再び着せられ、今度は采家の一族の中から選ばれたふたりの屈強な男に付き添われて神社に引き立てられていった。

 男の手にはサヨを縛りつける縄があった。


 まもなく、吾一という村の若者が庭に引き立てられてきた。サヨが着ていた着物の持ち主である。

 吾一は自分がサヨを逃がしたことを認め、サヨを愛する思いがさせたことであり、夜が来ればふたりで村を抜け出すつもりであったと白状した。


 夜、ギンは村人を屋敷に集めた。

 庭の中央には急ごしらえの柱が立てられており、裸にされ、両手を頭上高く縛り上げられて宙吊りにされた吾一がいた。


 見せしめの儀式が始まった。


 神への供え物を奪った村の大罪人である。この吾一の行いのせいで、神はお怒りになり村の長老、久次郎には死が下された。村人全員の祈りをこの男に背負わせ、死をもって神のお怒りを鎮めるのだと宣言した。


 まず、ギンが笹のように細い竹の槍を手にした。

 先が鋭く削り出されている。それを力任せに、ギンを見据えていた若者の顔面に突き立てた。


 グワッと声をあげる吾一。


 槍は右目を突き刺していた。

 ギンの顔面に血しぶきが散った。


 ギンはそれを拭おうともせず、第二の竹やりをサヨの父、忠八に持たせた。

 吾一は忠八を睨みつけた。左目には怒りがみなぎっていた。

 忠八が近づくと、吾一があらん限りの声でサヨの名を叫んだ。今や神社のどこかに縛りつけられているであろう恋人の耳に届けとばかりに。


 忠八は怖気づいて、吾一の前で竹槍を構えたまま、立ち尽くす。


 逆上したギンは忠八の腕を掴むと、自分の体ごと吾一に押し被さった。よろめいた忠八が吾一の体を離れると、持っていた槍は若者の左脇腹を貫いていた。

 再びあたりに血が飛び散った。


 こうして、采家の男どもが一巡し、続いて村の男が誰ひとり余すところなく吾一の体に槍を突き立てたころには、夜はすっかり更け、月が西の空に移っていた。

 何十本もの細い竹槍を全身に突き立てられ、もはや目も見えず、血まみれになっても、吾一はまだかすかな息の中でサヨの名を呼んでいた。


 ギンが庭の巨岩を示し、この上に罪人を、と命じた。

 地面から柱が引き抜かれ、吾一の体が揺れた。その反動で鈍い音をたてて右腕が肩からちぎれ、吾一は左腕だけで柱にぶら下がった。

 女どもの悲鳴が夜の庭に響く。


 岩の上に柱ごとごとりと投げ出された吾一。

 多くの材木が放り上げられ、やがて吾一の体は見えなくなった。血が平石から滴り落ち、石の根元に生えている青しその葉を赤く染めていく。


 吾一の父、喜三郎は、采家の男たちに両脇を抱えられて、この惨劇の一部始終を見ていた。

 母はその場にうずくまり、一心に経を唱えていた。

 ギンはかがり火の中のたいまつを一本引き抜くと、喜三郎に押しつけた。


 こうして吾一は体中に槍を突き立てられ、生きながらにして焼き殺された。

 七度生き返り、八度死んだといわれた惨劇であった。


 そして、サヨの家族と吾一の家族は、川向こうの耕作に適さない急な斜面に移住させられ、その地を開墾するように命じられたのである。

 たった二軒の集落。それが東村の起こりである。


 しかし娘を差し出すという、この神への貢物の儀式は、それ以降、途絶えた。

 数年来の豊作が村を潤したからであった。


 そして繰り返し襲ってきた山賊の姿もぴたりと影を潜めていた。

 山中に鉱脈が見つかり、鉱山を開発しようとする藩の手によって山賊は討伐され、降伏したものは鉱夫として雇い入れられたからである。


 食い詰めた農民の中にも鉱夫として山に入ったものがあった。

 しばらくして村にひとつの噂が広まった。

 久次郎が村を救うために考え出した神への貢物の儀式は、真っ赤な嘘だったというのである。山賊との密約だったというのだ。


 久次郎が山賊と結んだ密約とは、三年おきに村の娘を差し出す代わりに村が襲われることを免れるというものだったという。久次郎は、村人の信仰の厚い岩代神社の神及び山ノ神に豊作を祈願する貢物として娘を差し出すと偽ったのである。

 村人の不審をかわすため、最初の人身御供となる娘は采家の一族から選ばれた。それがサヨである。


 やがて、村人の前に姿を現したある人物によって、その決定的な証拠がもたらされることになった。

 そして屋敷では、村人の、特に東村の忠八、喜三郎の家族の怨念の象徴となっている庭の巨岩に土を掛けて埋めてしまったのである。

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