第11話「新たなる帝国を」
「国民国家」の形成。
イタリアやドイツは統一国家に、更には「日本」も近代国家へと踏み出した1870年前後の世界。
各国は「国民統合」の為に、「初等教育」の普及や「言語」の統一を行った。
その結果、著しい「ナショナリズム」の高揚と、「自民族中心主義」による排外的傾向が生まれる。
これにより生まれた愛国心の所為で、「植民地獲得」競争や「軍拡」競争が激化し、第一次世界大戦へと時代は向かって行く。
また、エスノセントリズムにより、少数民族、特に「ユダヤ人」は迫害され、遂に「ドレフュス事件」(1894~1906年)が起きてしまう。
これはフランス軍のドレフュス大尉がユダヤ人という理由だけでスパイとされてしまった事件である。
背景には、普仏戦争でドイツに敗れたフランスの経済的ダメージと、ドイツ憎し!ドイツへの復讐を!と鼓舞するフランス軍部によって煽られたナショナリズムがあった。
「はwww冤罪とかwwwフランス軍マジキチwww」
と、文豪の「ゾラ」が軍部を弾効したことを機に、国民の世論が二つに分かれる大問題へと発展した。
「フランス軍とかwwwマジwww」
「軍を馬鹿にするな、自国の軍だぞ常考」
結果、ドレフュスの無罪が判明し、軍部の威信はオワコン。
一方、ユダヤ人達は・・・。
「もう俺らだけで国家建設したろーぜwww」
と、自らの国家建設を求める「シオニズム運動」が始まる。
このシオニズム運動は、「パレスチナ」に「ユダヤ人」国家を建設しようとする運動である。
その中心都市は「エルサレム」。
「よっしゃー、ユダヤ人全員集合!」
シオニズム運動を始めたのは「ヘルツル」。シオニズムの「シオン」とは「エルサレム」のことである。キングダムハーツじゃないよ。
また「ロスチャイルド家」は兵藤会長並みに金持ちで、イギリスやフランス政府にもエルサレムを取り戻す為の資金援助を惜しまなかったりと、世界の金融を左右した。
スエズ運河買収の為の資金をイギリスに貸したりもしていたという。
こうしてユダヤ人が盛り上がる中、ロシアではなんと大規模なユダヤ人排撃「ポグロム」が起こる。
これにより、ユダヤ人は迫害され、アメリカ合衆国への移民やシオニズム運動の高まりに繋がったと言う。
-イギリス-
1870年代―「大不況」
「どうせ俺なんか・・・。」
「アメリカ・ドイツ」の工業化の前にパーフェクトハーモニー、すなわち「世界の工場」(えっw)の地位を失ったイギリスはやさぐれた。
そして「世界の銀行」へと転換。「俺達にも掴める光が在る・・・。」とかワケのわからんことを呟いて世界の銀行になったのだから、実は凄い国なのかもしれない。
この大不況により、様々な社会主義団体が結束。「ウェッブ夫妻」らが「フェビアン協会」を結成し、1900年には「労働者代表委員会」が開かれ、その後1906年には「労働党」が結成された。
この労働党の特色は、これまでの「マルクス主義(階級闘争の理論)」に対し、「議会制民主主義」を基に社会をより良くして行こうというものだった。
この労働党の最高権力者は書記長。「初代書記長」には「マクドナルド」が就任した。
I'm love'in it.ってバカ。一切関係ないわ。
また1911年には「国民保険法」が制定され、「失業」「年金」など労働者の生活改善が目指された。
ところで、国はどうなっているのかというと・・・。
1875年、ロスチャイルドの資金援助もあり、保守党(トーリー党)ディズレーリ内閣は「スエズ運河株」を買収。
これを機に、イギリスは帝国拡大を目指して行く。
まずはスエズ運河を伝い、「エジプト」へ内政干渉。もちろんエジプトが黙っているわけもなく、1881~82年に「ウラービー」が反英運動を起こし、「エジプト人のエジプト」を訴えた。
これがエジプト初の民族運動だったという。
「ねじ伏せろ、全てを。」
イギリスはこれに対し軍隊で対抗、鎮圧。エジプトを事実上の「保護領」とする。
そのままナイル川をさかのぼり、「スーダン」へ南下。1881年から「マフディー(救世主)」を名乗るイスラム教徒の反乱を受け、イギリスの「チャイニーズ・ゴードン」将軍が戦死。
これによりイギリス世論はブチギレ、10年がかりでスーダンを占領した。
更にイギリスはアフリカ大陸を南下、1898年に「ファショダ事件」が起こる。
イギリスがアフリカ大陸を「縦断」していたのに対し、フランスは「横断」。
スーダンの「ファショダ村」で両軍が衝突し、戦争になり兼ねない状況に。
しかし、ここはフランスが空気を読んで譲歩し解決した。フランス君KYじゃなかった。古いか。
南部では「ケープ植民地」にイギリス人が多数入植。
ここは1815年以前は「オランダ領」だった。このオランダ人の子孫「ボーア人」はイギリス支配を避けて北方に「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」を建国。
ここでは莫大な「ダイヤモンド鉱」や「金鉱」が発見された。何この勝ち組。
「私は“アフリカのナポレオン”の異名を持つ、最強の帝国主義者だ!」
この厨二臭い変態は「セシル・ローズ」。ケープ植民地の首相で、どんどん植民地を増やそうとした。
どんどん鉄道や通信網を敷設したという。
そして、「南アフリカ戦争」(別名:ボーア戦争)開幕。
「1899~1902」の3年間行われた。
イギリス政府はボーア人の国家がイギリス人移民を迫害しているとの理由で宣戦布告。
ケープ植民地にボーア人国家を併合し、「1910年」に「南アフリカ連邦」(現・共和国)を建国した。
そして、イギリスは南アフリカの「ケープタウン」、エジプトの「カイロ」、インドの「カルカッタ」を結ぶ三角地帯を鉄道・通信網で支配し、勢力下におさめようとする帝国主義対策、「光のピラミッド」!じゃなくて「3C政策」を推進したのだった。
-フランス-
普仏戦争での敗北から、フランスは国民感情として「ドイツへの憎悪」が増大していた。
そしてフランスのナショナリズムは海外への「投資」を通じて帝国拡大政策へと向かう。
しかし、一方では外国ではなく自国に目を向けることを望む動きも。
1905年「統一社会党」結成。
これが、国際的な反戦運動の中心組織となるのだ。
さて、イギリスのアフリカ縦断に対し、フランスは横断をしていた。
1830年「アルジェリア出兵」以後、アルジェリアはフランスの直轄支配を受けていた。
更にフランスは1881年「チェニジア」を保護国化。さらに南下して広大な西アフリカを領有すると、今度はアフリカ東部に1888年「ジブチ港」を建設。1896年には「マダガスカル」を領有し、西から東へアフリカ大陸を横断して行ったのだ。
そして、1898年「ファショダ事件」。この時、何故フランスは空気を読んだのか?
それはドレフュス事件の所為で、国内の世論が2つに分かれ、政治論争の真っ最中だったからだ。
とても戦争が出来る状況ではなかった。
しかし、ここで空気を読んだことにより、次第に両国は歩み寄る。
「1904年」、「英仏協商」成立。
フランス「イギリスさんイギリスさん、エジプトへの優越権をどうぞどうぞ。」
イギリス「いやー、貰ってばかりじゃ悪いですよー。フランスさんもモロッコへの優越権をどうぞどうぞ。」
なんともまぁ和やかな雰囲気である。これにより、イギリスは「エジプト」に、フランスは「モロッコ」に優越権を持つことを互いに認め合う。
彼らがこう仲良くしている理由は一つ。「ドイツ」に対抗する事だった―。
-ドイツ-
「1890年」、「ビスマルク引退」。
ドイツ皇帝「ヴィルヘルム2世」は社会主義者弾圧を取りやめようとしたが、彼らの危険性を未だに感じていたビスマルクはそれに反対。解雇されたのだ。
こうして、ヴィルヘルム2世の親政が始まった。
「私は天才皇帝なのだ!フーハッハッハッハッハッハ!」
無能なワルズ・ギルみたいなヴィルヘルム2世は、「世界政策」を進め、「大艦隊」を建造。イギリスと競争になり対立。
更にオスマン帝国に進出し、「バグダード鉄道」の敷設権を獲得。これはオスマン帝国を南下政策の足がかりにしていたロシアとの対立を生む。
このイギリスやロシアとの対立はビスマルクが最も恐れていたことであった。
つまり、ドイツは踏み出してしまったのだ。戦いの中へ足を。
バグダード鉄道の敷設権獲得により、ドイツは「バグダード」「ベルリン」「ビザンティウム(デンドロビウムでない)」を結ぶ「3B政策」を展開。パクリも良いとこだ。
そして、ビスマルクの引退と共に「社会主義者鎮圧法」は廃止となり、1890年には「社会民主党」が成立。
彼らは「ベルンシュタイン」の理論を採用。これはマルクス主義を修正して、議会を通して国民の意思を尊重しながら社会改良を実現しようとする考え方で、これを「修正主義」と呼ぶ。ダサいな。
この修正主義は、以後のヨーロッパの社会主義運動の中心となるのだった。