帝国談義:二つの帝国
1.カラク=イオ
「大丈夫だ。誰も忌み嫌ってなんかいないから安心しろ」
「殿下がそう仰るなら安心ですわ」
スオウの言に、見事に安心しきった笑みを浮かべるユズリハ。
幼子が浮かべるような絶対の信頼感に満ちた表情。それは見る者に、羨望に近い感情を抱かせる。
世のことを知れば知るほど、そんな表情を浮かべるのは難しくなるためだ。それを浮かべることも、あるいはその顔を向けられることも、希有といっていい関係姓であろう。
一瞬目を奪われたその顔に軽く首を振り、改めて口を開こうとして、参謀たる女性は結局それをやめた。代わりに椅子から立ち上がって深く一礼する。
「殿下。けして殿下の論を邪魔するつもりはありません。しかしながら、いかにここが魔界の外であり、いかに幹部しかおらぬ場とはいえ、殿下のお立場で氏族について語るのは、危ういことであると愚考いたします。ここはぜひ、私めに引き継がせていただきたく」
頭を下げ続けるスズシロに視線を移して、スオウは短く頷いた。
「ん」
顔を上げ、前に出てくる彼女に指示棒を渡し、スオウは入れ替わりに自分の席に戻る。
スズシロは皆に改めて一礼して話し出した。
「いま申し上げました通り、殿下のお立場では氏族の均衡について話すことは危険と言えます。いえ、この場にいるほとんどの者はそうでしょう。しかしながら私ならば問題ありません。なにしろ翡翠氏出身です。なにを言おうと誰も文句は言えません。ええ、言わせませんとも」
リディアが両目を寄せておかしな顔をしながらスオウにささやきかける。
「……なあ。なんかノリが変じゃねえか?」
「……彼女は氏族関係では敏感なんだよ。正直、翡翠氏は虐げられがちだからな」
「ははあ」
二人がこそこそと言葉を交わしている間にも、スズシロは話を続けている。彼女は席ですでに書いていたらしい紙をその手に掲げていた。
そこには一連の数字が並んでいた。
「これは現在の長老院における各氏族に割り当てられている員数です。上から黒銅宮、金剛宮……」
彼女は言いながら、一つ一つ数字を指さしていく。彼女が示した氏族の名前と数字の対応をまとめると以下のようになる。
黒銅宮:60
金剛宮:51
水晶宮:48
白銀氏:30
瑠璃氏:29
琥珀氏:28
瑪瑙氏:28
辰砂氏:20
翡翠氏:6
「これでおわかりでしょう。けしてユズリハを忌み嫌っているのではありません。怖れているのです。黒銅宮を」
「中堅氏族でも倍以上ですか……。それは確かに……」
スズシロが断言するのに、エリが考えるように言った。魔族の氏族がどんなものか、エリはこれまでのつきあいでなんとなくはわかったつもりになっていたのだが、明確な数字を見せられると、改めて思うところもあるのだろう。
もちろん、長老院の員数が、そのまま氏族の影響力を示すわけではないだろう。たとえば氏族の経済力や、実質的に領有している土地の資源などを加味して考えなければいけないはずだ。
おそらく、三大氏族である水晶宮と中堅氏族の中でも最大の白銀氏との差は十八という員数だけでは量れない。
しかし、一つの指針にはなるだろう。
彼女がちらりと見ると、ゲール帝国第十一皇女も、面白そうにその数字を眺めていた。
「黒銅宮の、ましてや宗家の姫たる者が志願したとなれば、これは自分たちが出る幕はないと白銀氏や瑠璃氏の者たちが思うのもうなずけます。長老院での決議ならば、二氏族、あるいは三氏族が協力できることもあるかもしれませんが、一組織での栄達を考えるとそれは難しいですよね」
「……我が氏族が多数を占めているのはわかりますし、それを警戒するというのもわからないとは言いませんけれど」
ユズリハは再び小首を傾げつつ、慎重な口調で言葉をつむいだ。
「殿下の親衛隊へ積極的に参加することを諦めるほどのものとは思えませんわ。親衛隊の募集時点では正妃たる思宮殿下もご存命でしたもの。唯一の立場を望むことは最初から無理な話。けれど、寵姫や幹部というならば、複数人も不思議ではありませんでしょう? なにもわたくし一人が志願したからといって避ける必要はないはずではありませんこと?」
彼女の主張も理解できないではない。
歴代の帝を見れば、親衛隊から幾人もの妃を娶った者や、信頼できる側近を見出した者が多数を占める。目をかけられる者はけして一人ではないのだ。
「そこはそれ、四柱の方々ですもの」
それに反論を示したのは、スズシロではなかった。ミズキが灰金の髪を揺らしながら、楽しげに笑っている。だが、その笑みにはどこか嘲るような色が含まれていた。
「大氏族の方々は、人数が多いだけに、氏族的紐帯がそこまで強くありませんわ。帰属意識があるのは氏族そのものではなく、その中の分家でしてよ」
「まあ、それはそうですね」
そこでスズシロが口を挟み、リディアたちに向けて、魔界の氏族は部、氏、支氏、分家、二次分家、三次分家……というように分かれていることを説明した。
それも規模によって異なり、三宮のように全ての階層を持っているものもあれば、辰砂や翡翠のように氏が一番上で、その下が直に分家となっているものもある。そして、たいていの場合、強烈な帰属意識は二次分家あたりにあるのだと彼女は説明した。
「すいません。どうぞ続けてください」
「いえ。説明の労を省いてくださってありがたいですわ」
スズシロが言うのに、ミズキが軽く頭を下げて言葉を続ける。
「ともあれ、大氏族の方々は、それぞれの大氏族に属しているという意識はあってもそれほど強いものではありませんの。ところが、中堅氏族ではその意識が少々強くなりましてよ」
それは、実際にまとまって動くほうが有利であるからだ。大氏族なら、ある程度の分家単位で動いてもなんとかなることが中堅氏族では氏族の大半を動かさねばどうにもならなくなる。ならば、最初から意思統一をはかっておいたほうがいい。
そんな風に考えているのだと、ミズキは説明した。
「長老院における員数を見てもおわかりの通り、中堅氏族といえど、まとまればそれなりの影響力を持ちますわ。それこそ、重大な案件でも、中堅氏族がどこの大氏族につくかで決まってしまう程度には。故に、彼らは誤解してしまっておりますのよ」
そこで彼女はまた笑った。
「はっきり言いますと、四柱の方々はその通称通り自らを柱と思っておりますの。三大氏族はまとまりのない名ばかりの集団に過ぎず、自分たちの氏族こそが魔界の柱であると。自分たちはまとまって動けるから強いけれど、図体のでかい大氏族はかえって動きが鈍くなるといった考え方ですかしら。結局は、自分たちこそが魔界を動かしているのだと、まあ、そんな風に思ってらっしゃいますのよ」
感心したような空気がその場に流れた。その中でもスズシロは微妙な表情を浮かべている。ただし、ミズキの言葉を否定するというような風情ではなく、賛成したいけれど、おおっぴらにそんなことは言えないというような微妙な表情であった。
「たしかに、先に仰っていたとおり、複数の幹部や寵姫の内の一人に入り込むことは可能であったかもしれません。けれど、それでは柱たる氏族の方々は満足出来ませんのよ。常に上に三大氏族がいるような状況は」
「そこまで彼らが尊大であるとは言いませんが」
そうスズシロはなだめるような口調で割って入る。
「余裕のない者ほど、自分の地位や立場にこだわることはよくあることです。立場の悪い者が突っ張るのもけして珍しいことではありません。四氏族もそうだとは言いませんが、校尉学校首席や次席が揃っているのを見て、分が悪いと判断するのはありそうな話だとは思いませんか?」
三大氏族出身者、かつ成績の良い者がいるならば、そちらが当然に優先されると考えるのはありそうなことだ。
「もし、それで優秀な者が辞退したとしたなら、少々もったいない話だな。いまここにいる面々の実力は疑うべくもないが……。なにも大隊長級になれずとも、成せることはあるというのにな」
スオウは残念そうに自分の顎をなでながらそんなことを言った。それから、声の調子を変えて、周囲を見回す。そのおどけた動きに、場の雰囲気が緩む。
「それに、俺の恋人ならもっと簡単になれる」
「それはここ最近の話でしょう」
スズシロの呆れたような声と共に、皆が笑い声を立てる。ひとしきり笑いが起きた後で、すっと手を挙げる者がいた。
「ちょっと聞きたいんだがよ」
「はい」
リディアの挙手に、スズシロが短く応じる。
「ここまでの話を総合すると、政治を動かすのが氏族で、その氏族に対して一人一人が帰属意識を持つってことでいいのか? その強弱はともかくとしてさ。要は、魔界の住人は氏族の活動を通じて魔界全体の政に関わってるってことだよな?」
「正しい理解だと思います」
「で、その政に従って実際に社会を動かしてるのが軍だと」
「そうですね。軍が基幹です」
ふむ、とリディアは頷く。そこで彼女は卓に腕をついて身を乗り出した。おかげでその圧倒的な存在感を持つ胸がさらに強調される。
「じゃあさ、その軍と氏族が対立したらどうすんだ?」
「軍務に就いているならば、優先されるのは軍です」
迷いの無い答え。
その即答を、誰も否定しなかったし、その空気もなかった。これは建前だけの話じゃないな、とオリガはその場の空気でそう判断した。
当然のことだが、リディアが質問している間の周囲の観察は彼女の役割であった。
「じゃあ、軍人じゃなかったら?」
「それはその者の考え次第でしょう」
「なるほどなあ。魔界ってのは、軍の規律を中心に動いてるんだな」
リディアは深く深く頷いた。それから、体を背もたれに戻し、横目でちらっとスオウのことを見た。
「あんたの国も、そうなるのかい?」
「……しばらくの間はな」
「なるほどなあ」
そう繰り返してから、彼女は勢いをつけて椅子から立ち上がった。
「よければ、そろそろゲール帝国の話をしようか」
前に立っていたスズシロにも、先に話していたスオウにも異論はなく、そういうことになった。
2.ゲール帝国
「魔界が軍を中心とした帝国なら、うちは商売を中心とした国だ」
指示棒を持って前に立ったリディアは楽しげな調子でそう断言した。
「エリも言ってたが、うちの国は、元々アルブレヒト侯国として出発した。建国は降臨暦前235年っていうから、千五百年前くらいだな。数十年の誤差はあるかもしれねえが、百年の誤差はねえはずだ」
「ほへー……。すごいですね」
思わずというようにカノコが言うのに、豪快な笑みで応じるリディア。
「まあな。一応は、現存する世界最古の国家ってことになる」
現状、この大陸に存在する国家が――魔界も含めて――神々の降臨以後に作り上げられたものであることを考慮すると、それは確かに誇っていいことであった。
なにしろ、ゲール帝国の前身たるアルブレヒト侯国は殺戮人形の襲来さえ凌ぎきったのだ。いかに当時の領土がその被害の中心地から離れていたとはいえ、それは間違いなく偉業であった。
「さて、そのアルブレヒト侯国は、そもそもゲルシュター隊商団によって作り上げられた。要するに、大陸を縦横無尽に移動しながら商売をしてた連中が本拠地として整備したのがアルブレヒト侯国なわけだ」
そこで、リディアは地図の一点を指示棒で指した。
「その本拠地は、トゥーリンギア南方にあった。見てくれればわかると思うが、消失海からも穢れた地からも遠い場所だな。ここが当時の感覚からすると安全地帯だったってことだな」
それから、彼女は地図の上で指示棒を滑らせた。
「こっから膨張していって、第二帝国の崩壊やらがあってまたひっこんでって繰り返しながら、いまではトゥーリンギアのほとんどを領有してるわけだ。あとは、各地の租借地だな」
「租借地?」
フウロが首を傾げながら繰り返す。その口調からして、そもそもその単語の意味がわかっていないらしかった。
「他の国の領内に借り受けている土地のことですよ」
そんなフウロにエリが説明を加える。
「ゲール帝国は、商売をするために各地で土地を借りているんです。物資の集積や、あとは街道の治安維持のための兵を置いたり」
「他国で?」
「貸しているほうにも利点はあるんですよ。それこそ、ゲルシュターの隊商団が来てくれるってだけでもありがたいですし、それを守るために兵を動かすのも自分でしなくていいわけですから」
「へえぇ……」
驚いたように目を見張るフウロ。エリと彼女のそのやりとりに、リディアは苦い表情を押し隠そうとした。
もちろん、利点だけがあるわけではない。その土地をゲール帝国に貸すことでの不利も当然生じるのだ。
たとえ街道の商人たちを守るためであっても、その国の領内で他国の兵が動くことはあまり歓迎されない。さらに、ゲール帝国はその土地を拠点に情報収集をおおっぴらに行っているし、時にそれを通じて外交圧力をかけることもある。
それらの不利益と、ゲルシュター隊商団のもたらす利益とを秤にかけて、各国はゲール帝国の租借を許しているのだ。
「まあ、そういう租借地も含めて、ゲール帝国の人間は、領土をあくまで商売の拠点と考えるくせがある。この土地ならどんなものが作れて、それをどこに持って行けばいいか、常に考えてるような連中ばっかりだ。もちろん、どこの国だって支配する層はそういうもんだろうけどよ。うちはその傾向が激しい」
指示棒を弄びながら、リディアは続ける。
「そんな帝国の基となったゲルシュター隊商団だが……。これは、元々そういう血縁集団だったって言われてる。穢れた地を踏破することに一族で挑んだ連中だとな。その始原ゲルシュター集団から発したのが、帝国で三十八ゲルシュターあるいは二十四ゲルシュターって言われる貴族家だ」
「ずいぶん幅がありますね?」
「ああ。減ったんだよ。取り潰されたのもあるが、子孫が続かなかったものもある。養子を取ったものの、結局そいつもさっさと死んじまってだめになったなんてのもあったな。そうして三十八家あったのが、三百年前には二十四家まで減って、それからは固定されてる」
スズシロの疑問に応じてから、リディアはその側近のほうにあごをしゃくった。
「たとえば、オリガのゼラ=ゲルシュター家もそうだ」
「うちはゼラ=ゲルシュターの中でも本家じゃないっすけどね」
リディアはその答えに肩をすくめ、なにも言わなかった。代わりに皆のほうを向いて話を続ける。
「で、この二十四ゲルシュター、あるいは三十八ゲルシュターはゲルシュター本家、つまり皇帝の一族を中心とした親族集団だと言われている。だが、当たり前の話だが、こりゃ嘘っぱちだ」
「またはっきり言うな」
「うん。なにせ、みんなわかってることだからな」
平気な顔でスオウに応じてから、彼女はその端正な顔を歪めて笑みを刻んだ。
「いや、もちろん、現在の二十四家に関しては、正直、みんな血縁はあるぜ。なにしろ、千五百年だ。貴族が皇帝の一族と結ばれるのは当たり前だし、血が混じらないわけがない。だが、その発祥まで遡って血が繋がってたってのは、こりゃ伝説だ。ああ、いや、義兄弟の契りとかそんなもんだと思うべきかもしんねえな」
「つまり、ある程度の集団ではあったが、必ずしも血族集団ではなかったと」
スオウは彼女に確認を取りつつ、ありそうな話だ、と思ってもいる。穢れた地を踏破して、大陸の通交を回復させようと挑んだ者たちが揃って血縁だったというより、そうした行為のために集まった集団が後から血縁を結んだというほうが実にありそうな話ではないか。
そして、それを言祝ぐために、元より一族であったとするのもまたありそうなことである。
「そういうことだな。だが、そのあたりを本当のことにしようとしてか、皇帝一族は昔から子が多い。千五百年経ったいまでも、息子を八人、娘を十一人作るくらいだから。言っておくが、こりゃ、死産や名付けられる前に死んだ子を抜いた数だぞ」
つまり、リディアの父たる当代の皇帝は、二十人以上子を作っているということだ。その中でそれなりに育った者が十九名。
なかなかの子だくさんぶりである。
「魔界では考えられないわねえ……」
特に魔族にとっては、シランがそう呟くくらいには異質だ。
今上帝がサラ皇女一人しか作らなかったのは――継承の意味でも――ほとんどあり得ないことであったが、その弟であるヤイトもスオウとメギの二人しか子がいない。
だが、男子二人というのは皇族として珍しいことではなかった。
歴代の皇帝を見ても、五人以上子を成した者はわずかだ。
魔族の認識からしてみれば皇族とはそういうもので、おそらくは継承争いをしないために後継者を絞っていると取られていることだろう。
実際にはそこには皇帝家の『相』が深く関係してくるのだが。
「他国でもそこまでは多くないんじゃないかな。そういうこともあって、ゲール帝国の場合、継承権を得るために一定の取り決めがある。帝室に生まれても、それだけじゃ継承権は得られねえ」
リディアの声が張り詰めていく。はっとしたようにオリガが彼女を見た。
「継承権を望む皇族は、十八歳になるまでにその旨を皇帝に申し出る。そうして、それから十年の間に、帝国が課した試練を果たさなけりゃならねえ。たとえばその時起きてた戦争で戦功をあげるよう命じられたやつもいる。貴族の間でこじれきった問題を解決するために送り込まれたやつもいる。そして、この身に課されたのは、とある土地で代官を務めることだ」
「姐御」
「いいんだ、オリガ」
気遣わしげな側近の声に、リディアはさらに真剣な調子で応じた。彼女の瞳はまっすぐにスオウを向いている。
「皇子には、はっきり告げてある。この身が試練を果たそうとしていることも、その先もな。だから、この場にいる連中が知って困ることはねえ」
あまりに真摯なその声に、スオウは思わず苦笑する。もちろん、なにも彼女はここで弱みを見せる必要はないのだ。スオウが納得している以上、幹部たちへの伝え方は、別の形でも構わなかったのだから。
だが、事実を糊塗するのは彼女の好みではないようだ。
「当然だが、試練として与えられた土地は過ごしやすい場所じゃねえ。『荒れ野』に程近い、見捨てられたような土地だ。そこから五年で益を引き出す。それが課せられた試練だ」
一方で、彼女は全てを語っているわけではない。
その試練をくぐり抜けるだけなら船を開発する必要もないことも、皇帝となるため、あえて困難な道を行くということも告げていない。
あの夜、スオウに告げたことの全てをここで話すつもりはないようだった。
「五年……と仰いますが、これから五年でして?」
「いや、あと三年だ。今年を入れてだが、結果を出す時期を考えれば、ちょうど三年と思ってくれていい」
ミズキは自分の問いかけの答えに、なるほどと頷いて考え込む。
幹部たちは一様に彼女と同じく考え込んでいた。三年で自分たちがどこまで進めるのか、あるいはどれだけの支援が可能であるのか。
そんなことを考えているのだろう。
スオウがリディアたちと盟約を結んだことは、彼女たちも承知している。当然のことではあるが、盟約相手にはゲール帝国の中で有利な立場になってもらわねばならない。
そのために出来ることを、彼女たちは考えているのだった。
「もし、それに失敗したら、リディアさんは皇族の地位を失うのですか?」
「いや、エリ。皇族は皇族だよ。ただし、帝位継承権は失う。それから、適当な貴族の家に追いやられるだろうな。これは男でも女でも同じだぜ。継承権を失ったんだから、あとは血縁で帝室を支えろってな」
「なるほど……」
エリは複雑な表情で頷いた。彼女の方を向いて、リディアも小さく頷いた。
「政略結婚くらいは覚悟してる。だがな、それにしたって希望を持てるものもありゃ、不本意なものもある。そうだろ?」
「それはそうです。そう思います」
エリはなぜか妙に勢い込んで言った。その婚約者たる男は黙って頬をかいている。
リディアは彼に向き直り笑いかける。実に気持ちの良い、しかし獰猛な笑みだった。
「自分の望みのために動くならともかく、帝室のために押しつけられた結婚なんてのは、まっぴらごめんだ」
それから、彼女は照れ臭そうにわずかに目を伏せて、こう告げたのだった。
「だから、頼むぜ。我が未来の良人君」
「もちろんだとも、我が未来の花嫁」
†
「色々と学べてよかったですね」
「特にゲールのことはな」
あの後も、リディアによるゲール帝国の講義は続き、ゲールにおける政治の形態から、帝位を争う相手の皇子たちのことまで様々なことをスオウたちは吸収していた。
いまもその場に残っているのはスオウとスズシロの二人だけだが、天幕には先ほどまでの議論の熱がわずかに残っているような気がした。
「ただし、軍事的な話は一切ありませんでした。皇女殿下が苦手なこともあったでしょうが……」
「そこはこちらで探れということだろうさ。実際、攻め込むような事態になれば、その頃にはまた事情が変わっているはずだ」
「それもそうですね」
そこでカラク=イオの参謀は少し黙り、しばしためらうようにしてからスオウに話しかけた。
「それにしても、殿下は皇女殿下を信頼なさっておられるのですね。エリだけならばともかく彼女たちがいるところで、あそこまで踏み込むとは思いませんでした」
「殺戮人形と我々の体のことか?」
「はい」
皇帝家の者が、魔族の成り立ちについてあそこまではっきりと語ったことだけでも驚きであったが、それを人界の者に漏らすとは、まさに驚天動地の出来事である。
よほどの信頼がなければ出来ることではなかった。
「彼女は俺を信用してくれているからな。それにあれはとんでもない天才だぞ」
「それは認めます。人界にあって船を利用しようなどと……。ですが、殿下、だからこそ……」
「だからこそ、伝えなければなるまい」
スズシロの憂慮の言葉を遮って彼は続ける。
「俺は人界の者たちを良いように操るつもりはない。だが、だからといって自ら道を切り拓こうとしている者を真実から遠ざけるようなことはしたくない」
「はい。わかりました」
しばらく考えて、スズシロは頷く。彼のやり方を彼女も納得したのだろう。
それから、彼はスズシロのほうを向いて微笑んだ。
「一つ思ったことがある」
「はい?」
「リディアはすこぶるいい女な上、時代を動かすに足る人物だ」
「はい」
「そんな者が生まれた時代に、三界制覇を目指す俺が人界にやってきた。実に楽しいことになりそうじゃないか」
スズシロはまじまじと自らの主の顔を見た。
だが、スオウの笑みは崩れない。
いつしか彼女もそれにつられたように微笑んでいた。
「退屈だけはせずに済みそうですね」
(第三部 人界侵攻・龍玉編に続く)