第153話「乙女のくもりなき瞳」
石は女の子の手で軽く握れるほどの大きさで、これといった特徴は無かった。大呪文の触媒に使うアイテムであるので、神々しい様子で七色に光っていたり、逆に禍々しい妖気を放っていたりするのを密かに期待していたアレスだったが、見た目ただの石である。その辺に転がってそう。確認役のズーマがいなかったら、差し出されたそれを窓からポイッと投げ捨ててしまいそうなほど何の変哲もない代物である。
「間違いない。この魔力。確かにサージルスの石だ」
断言するズーマ。ここはその言葉に従うほかないアレス。
それにしても、いくら有言実行の人とは言っても、まさか昨日の今日で約束を果たしてくれるとは思ってもみなかったアレスは、王女のその行動の早さに舌を巻いた。
「大した話ではありません。宝物庫まで歩いていって、取ってくるだけですから」
王女は微笑して言うと、ズーマを見た。「呪文はいつかけられます?」
「今すぐにでも、殿下」
「では、そうしてください」
ズーマはアレスを見た。アレスはうなずくと、部屋を出ていた方がいいか、尋ねたが、
「リシュ嬢に裸になってもらう必要などない。その辺の三流魔導士と一緒にしてもらっては困る」
溢れる銀髪を掻き上げながら答えるズーマはムダに優雅である。
拍子抜けするほど簡単に目的の物が手に入って、とはいえ、ここに来るまでに少々苦労したのでそれを考えれば相応だろうと思い直したアレスは、何はともあれ、宝物庫に襲撃をかけないで済んで一応ホッとした。そうして気を引き締めた。まだ魔法をかけるための道具が手に入っただけである。それでもって、本当に少女の死病が癒えるのかどうか、確認しなければならない。
「今日はイヤ」
ズーマが近づくと、エリシュカは椅子を蹴るようにして立ち上がり、少しテーブルから離れるようにした。
室内の戸惑いの視線を集めて、エリシュカは体を緊張させている。一歩でも誰か近づけば、すぐにでも動けるようにしている風である。動いて何をするのかはあまり考えたくないなあ、とアレスは思った。そして、大変残念なことに、何かされるのであればそれを引き受けるのは自分の役目であることも、アレスには分かっていた。
「ちょっとふたりだけで話させてくれ」
アレスは室内を見回すようにして言うと、「来るんだ、エリシュカ」と言って、さっさと部屋のドアに向かった。ドアで待つと、エリシュカは少しの間、警戒するような目をしていたが、もう一度アレスがうながすと、しぶしぶといった調子で足を動かした。揃って、廊下に出たアレスは、少し歩いて部屋から遠ざかってから、振り向いた。立ち止まったエリシュカは、プイと横を向いている。
アレスは、何か言いたいことがあるならストレートに言うようにと、落ちついた声で告げた。
「何も言いたいことなんかない」
「じゃあ、何だって『今日はイヤ』とか言うんだよ」
「気分が乗らないの」
「キミが男の子だったらぶんなぐってるとこだぞ。何が気分だ。ここに来るまでにみんなどれだけ苦労したと思ってる。キミはみんなの苦労に応える義務がある。先に言っておくけど、頼むから、『頼んだわけじゃない』なんて言うなよな。もしもそんなこと言ったら、こっちにも考えがある」
「婚約、解消するの?」
「いーや、キミの性根を叩き直してやるんだよ。文字通りの方法でな」
アレスの両肩に、柔らかな手が触れた。
「……いなくならない?」
エリシュカは、アレスの肩に手を置いたまま、つま先立ちして視線の高さを揃えた。ふっくらとした瞳に哀切を秘めた固さがある。
「わたしのビョーキが治っても、いなくなったりしない?」
その声には明らかな不安の色があった。
アレスの胸にすっと落ちるものがあって、エリシュカの様子がおかしかった理由がやっと分かった。いったいこの女心というものをいつか自分は、当の女の子から説明されることなく、自ら理解できるようになるのだろうか、とアレスは思って、その見込みの薄さに心中ため息をついたが、自分に落胆して遊んでいる場合ではないことにすぐに気がついた。
「オレはどこにも行ったりしないよ」
アレスは穏やかに言った。
「ホント……?」エリシュカは疑わしそうな目をした。
「信じろよ」
「でも、男はウソをつく生き物だから――」
「なに、その恋愛の達人チックなセリフ」
「そうライザが言ってた」
「またその人!」
アレスは自分の肩からエリシュカの手を外すと、その手を軽く握った。つま先立ちをやめたエリシュカの顔は、アレスの少し下にある。
「病気が治ってもキミが嫌って言うまで付きまとってやるから安心しろ」
「本当ね?」
「オレは本当のことしか言わない」
エリシュカはホッと胸をなで下ろしてから、くもりが拭われた青空のように澄んだ目で、アレスを見た。じっと見られて照れたアレスが、視線をそらすと、
「病気が治ったわたしを置いて、ひとりだけで姉さまを助けにミナンの王都に行くかもと思ってたの。でも、そんなことないんだよね」
明るい声が耳を打った。
アレスは、思わずピクリとした。
エリシュカの曇りなき眼は、そのわずかな動きを見逃さなかった。