間の話6「ヴァレンスの先行きにかかる暗雲」
朝政という言葉がある通り、古代、政は朝、行われていた。日の出とともに、宮中にある朝庭と呼ばれる庭に入り、そこで重大事案を審議したのち、朝堂と呼ばれる室内でこまごまとした政務を執る。昼頃になるとお仕事はおしまい。退廷しなければならない。
かつては大陸中の国々がそれを慣行としていたが、今では、古い国体を維持するここヴァレンスのみが古きに従っているくらいのものだった。
ミストラス卿はいつものように朝まだ明けやらぬうちに床を離れ、身支度を整えると朝庭に、いの一番に入った。卿は上背はないものの、引き締まった体つきをしており、眼光は猛禽類のように鋭い。じろりと睨まれれば、大人でも泣き出したくなるようなたたずまいである。ミストラス卿は、ヴァレンスの国政を預かる五人の大臣の一人であり、席次は五位である。すなわち、王女を除けば、このヴァレンスで五番目に偉い人間であるということになる。
卿は、今朝は、ある決意を固めていた。それは現在のヴァレンスの情勢と大いに関係がある。ヴァレンス国内は現在、怨嗟の声で満ち満ちている。前年のクヌプスの乱によって、国土は荒廃し、人心は落ち着かず、その結果の不作・盗賊の横行によって、民は塗炭の苦しみに喘いでいる。その苦しみを除くことが、政務をあずかる者の役割であり、除けないのだとしたらせめて軽減しなければならない。そのためにどうすべきか卿なりに考えたところ、
――一刻も早く殿下に聴政を執ってもらうことだ。
という結論に至った。
現在、王女は先王の喪と称して玉室にお隠れになり、ほとんど政治に関与していない。その代わりに政治を取り仕切っているのが、大臣席次一位のグラディ卿である。グラディ卿の政治的能力は、まことに残念なことに、かなり限定的である。それは、現在のヴァレンスの状況が、先王亡きあと、どんどん悪くなっていることからも明らかである。グラディ卿は己の保身のことしか頭になく、現在のヴァレンスの状況を把握する力や、まして未来のヴァレンスを思い描く力など全くない、とミストラス卿は見ている。
そうしてそれは他の大臣たちも概ね同じだった。民が苦しんでいようと、ここ王都ルゼリアとは別の天地のできごとであると無視を決め込んで、何の対応もしようとしない。その無反応が、前年のクヌプスの乱を招いたというのに、のど元過ぎれば熱さを忘れるのたとえ通り、クヌプスという名も彼らに取っては遠い昔の響きであった。
――殿下自らが親政なされば……。
状況が変わると、ミストラス卿は考えている。王女には政治的能力が十分にある。それは、前年のクヌプスの乱のとき、病床にあった前王に代わりよく百官を指揮してことに当たったことからも窺える。少なくとも現在の大臣連よりはよほどマシだろう。あと一カ月ほどで戴冠式があり、それからは王女の、いや女王の親政が始まることは確実であるが、一カ月も待てない状況である。卿がキャッチした情報によれば、各地で不穏な動きがある。今すぐにでも、政治のやり方を改める必要がある。
そのための諫言をミストラス卿は今日朝庭で行うつもりであった。王女は朝庭に出ることさえも稀であるが、今日は新しい月の始めであり、この日だけは必ず朝庭で王女自ら訓示を行うことになっている。チャンスである。逆に言うと、これを逃せばもう機会は無い。
朝庭に他の大臣たち、それより下の文武の官が集まって来た。そして、ひとりの女官が王女のおなりを告げた。一斉に頭を下げる大臣、文武の官。「みな、頭を上げよ」という女官の声に応じて、顔を上げたミストラス卿は、喪に服す者の身につけるべき粗衣をまとった王女を見た。王女は、庭の北側にしつらえられた座の前で、訓示を施したのち、朝政の始まりを告げた。
基本的に発言を許されるのは、大臣だけである。第一位のグラディ卿から始まり、第四位の大臣に至るまでそれぞれ、ヴァレンスの平和と繁栄、それをもたらしている王女の有徳について、朗々と述べた。
「天地は順行し、百穀実り、人心は和しております。これ全て、先王に孝を尽くす殿下の御徳のおかげでございます」
要は、「現在ヴァレンスには何の問題もありません」と言ったのである。
王女はそれを気分良さそうに聞いていた。
――何を言ってやがる!
他の大臣の発言はいつものことではあるが、ミストラス卿に吐き気をもよおさせた。
いよいよ、ミストラス卿の番になった。
卿は居ずまいを正すようにした。
「申し上げたき儀がございます」
卿は、ヴァレンスの現状をつぶさに訴えた。他の大臣の顔がすぐに険しくなるのが、卿からよく見えた。しかし、そんなことは知ったことではない。卿はお構いなしに続けた。そうして最後に、
「このような現在の状況を作った責任は、わたしを含めた五大臣にあります。どうぞ、殿下におかれましては、五大臣を罷免の上、新たな大臣を任命し、合わせてご自身で政務をお執りになられますよう、伏してお願い申し上げます」
そう言って、深々と頭を下げた。
言いたいことを言い切った卿の胸は晴れた。あとは、王女の「その言や善し」というお言葉を聞くだけである。きっと王女はそう言ってくださるだろう、という期待が卿にはあった。しかし――
「ミストラス卿」
「はい、殿下」
「そのような愚言は二度と聞きたくありません」
現実は残酷であった。
卿は、一瞬、何を言われているのか分からなかった。それだけ、王女に寄せる信頼が大きかったとも言える。誠心を尽くした言葉であれば分かってくれると確信していた。
「我が国のさまについては、グラディ卿から聞き、良く知っております。それに、大臣たちはよくやってくれています。なぜ、卿はそれに異を唱えるのです」
「しかし、殿下――」
「黙りなさい。二度とそのようなことを申さぬよう」
「殿下、どうか――」
「黙れと言いました!」
ミストラス卿は畏れいって、頭を下げた。
下げた頭の中に、ヴァレンスの暗い未来が描かれていた。