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口減らし、ということは――
「どこか、お悪いんですか?」
前世の姥捨て山のお話しかり、ふつう口減らしと言ったら、労働力にならないものから切り捨てるものだ。
そうして食料供給と食料消費の釣り合いを取り、全体を生き残らせる。
前世でも今生でも、飢饉となれば老人や病人から減らし、健康なものや役畜なんかを生き残らせる……のだけれど。
目の前のディネリンドさんは、多少顔色が悪いけれど、どうにも健康そうに見える。
「違うわ」
「へ?」
「ウィル、そりゃエルフの思考じゃねぇ」
メネルが眉間にしわを寄せつつそう言うと、ディネリンドさんが頷いた。
「そうね。その通り」
「……えっと、どういうこと?」
どうもこうもねぇ、単純な話だと、複雑そうな顔をしてメネルは言った。
「気高きエルフは、弱者を見捨てない」
確信を伴った声だった。
「いくら暮らしていけなかろうが、エルフが老人や病人を捨てるわけがねぇ。
見たとこ周りは危険域だらけの、完全孤立した集落だ」
辺りには淀んだ川と、泥湿地ばかりが延々と続いている。
「食料が減産するたび、動けて戦える連中が志願して、自発的に外に向かってるんだろ。
……どの方面かに脱出して、人里に到達して救援を呼べれば最上。そうでなくても口は減る、と」
違うか、とメネルは言った。
「そうね、その通りよ。――ていうか、弱った人を追い出すとか馬鹿じゃないの?」
ディネリンドさんは真顔でそう言った。
弱いものは守られるもの、強いものは先に身を削るもの。
それが当然のことだと、ごくごく自然にそう言った。狂信や盲信の気配もなく、本当にどこまでも、自然な調子で。
「つくづくエルフだよなぁ……」
「なにそれ。褒めてるの? 貶してるの?」
「褒めてるんだよ、ったく」
メネルの視線は、まるで眩しいものを見つめるようだった。
「…………」
エルフは誇り高い。
そう何度も聞いていた。皆が口を揃えてそう言った。
なるほど、こういうことなのだ。
「……エルフは、変わらんのう」
ゲルレイズさんが、ぼそりと呟いた。
彼の顔についた古傷が、口の端がつり上がることによって歪んでいた。
それから幾つか細かい話をすると、僕は改めて話を切り出す。
「ディネリンドさん、集落に案内して頂けませんか? 山に向かう道筋を教えて頂ければ、こちらも出来る限りのことをします」
「ディーネでいいわ」
彼女はヒュドラにやられて解けっぱなしだった金の髪をかきあげ、首の辺りでくくり直すと、
「願ってもないことよ。助かるわ」
そう答えて、頷いた。
◆
それからしばらく船を進め、湿地の中、狭い支流を進んでゆくと……日が暮れる頃になって、森が見えてきた。
けれど、それはゲルレイズさんの話にあったような、美しい森ではなかった。
重病に侵された末期の患者のような、濃密な死の気配。
森の木々の幹は、ところどころ不気味に変色し、力なくしおれた枝からは、半ば茶色く枯れた葉が垂れ下がっている。
流れに沿って、森の中へ、船に乗ったまま漕ぎ入ってゆく。
「…………」
とても薄いけれど、毒気を感じる靄。
あちこちから殺気めいた、凶猛な生命の気配。
皆が眉をひそめた。
予想はしていたけれど、明らかに正常な状態ではなかった。
「ひどいものだな」
「ええ、実際ひどいものよ」
舵棒を取るレイストフさんの率直なつぶやきに、あっさりとディーネさんは返した。
「森はすっかり穢れて、年々、壊死するように縮退してゆく。
獣は狂ったような気質の、奇怪なものばかり。
泥地に囲まれて、どこに行けば他のまともな勢力と接触できるかもわからない。
おまけに唯一、目印になる山は、悪魔と竜の巣よ」
そう彼女が呟いた瞬間。
再び西の方角から、竜の唸りが響く。
ギャアギャアと怪鳥が飛び回り、森のなかの奇怪な獣たちが、恐れて縮こまる気配がした。
「……おまけに最近は、あの調子。もう終わりなんじゃないかって言うものもいたわ」
「これは、《忌みことば》の影響――だけじゃねぇな」
「ええ。邪竜の瘴気よ」
「……邪竜の?」
竜は山の中にいるはず。なぜこちらに――
「ドワーフたちが地下に張り巡らせた隧道よ」
その答えに、ルゥとゲルレイズさんが、顔を歪めた。
「私たち《花の国》のエルフと、《くろがねの国》のドワーフとは、良くも悪くも隣人だった。
地上にも地下にも、たくさんの道があったわ。そして漏れ出る竜の瘴気は、隧道を伝って森の各所から流れ出した。
――そして今も、流れ続けている」
「それは……」
「…………」
「……気にしないで。別にドワーフの貴方たちに含むところがあるわけじゃあないの。ただの現状の説明。それだけよ」
さっぱりとした調子で手を振ると、ディーネさんは語り続ける。
「このあたりは妖精の力も薄れているし、水も空気も食べ物も毒気を含んでいるわ。
……長く生きているものほど、その蓄積にやられて死んでゆく。もう、臥せって動けなくなっている者も多い。
麗しの《花の国》なんてはるか昔。滅びを受け入れるつもりも、誇りを失うつもりはないけれど……それでも今は、いいとこ半死人よ」
船が進んでゆく。
いくつかの柵が見え、家々が見えてきた。
汚れ、くたびれ、くすんだ白亜の家々。
見慣れぬ船を見て、よろよろと、幾人かのエルフたちが姿を現す。
「――だから、邪竜を討とうとする勇者が、外から来るなんて思わなかったわ」
夢みたい。
ディーネさんが呟いたその言葉には、色々な想いが滲んでいるように聞こえた。
今まで、僕たちが来るまでに。
病に侵されて、幾人が死んだのだろう。
縮退する森と、減少する食料に、外の世界との接触を求め、幾人が帰らぬ旅に出たのだろう。
――間違いなく、彼女の知る人たちも、そのなかにいたはずだ。
邪竜の問題が顕在化するより早く、もっと探検の手を進めていれば。あるいは、救えた人もいたのだろうか。
僕がそんな、埒もないことを考えた瞬間――ディーネさんはふわりと、体重を感じさせない動作で舳先に歩を進めると、くるりと僕たちに向けて振り向いた。
「ようこそ《花の国》へ」
右の手のひらを左の胸に。
そっと足を引き、頭を下げる古式の挨拶。
「――歓迎いたしますわ、勇者さまがた」
浮かべた笑みは、咲きほころぶ花のようだった。
◆
それからしばらくは、慌ただしくなった。
ディーネさんの事情説明もそこそこに、僕はとにかく重症者を治療させてほしいと願い出た。
――いきなりやってきた見知らぬ人間に、弱っている同胞たちを晒して良いものか。
エルフの集落の主だった人たちも悩んだ様子だったけれど、ひたすら頭を下げ、どうか治療させて欲しいと頼み込むと――
「ごほッ……これほどの武具を持つ戦士が、ごほ、ごほッ、そこまで言うのだ。恥をかかせるな」
古傷のある、真っ白な髪のエルフの長老が、僕たちの武具を見て許しをくれた。
何度も何度も、ひどく咳き込みながらだった。
「その咳。治しましょう」
「ゴホっ。待て。私よりも、まず治癒が必要な者が――」
「すべて治します」
後か先かの問題だ。
目についたところから片っ端から治すつもりだった。
「馬鹿をいうな。祝祷術による治療は、気力、集中力を著しく削る。そう何人も――」
「百人や二百人でしたら問題ありません」
「ひゃく……っ!?」
ディーネさんを含め、一堂に会していたエルフの里の面々がぎょっと目を剥いた。
「全て癒せますし、癒やします」
言いながら祈る。
軽く目を伏せると深く集中し、灯火の神様の助力を請う。
次の瞬間には、ぼんやりと光が浮かび、長老の咳は消えていた。
だいたい数秒のそれに、エルフさんたちがどよめき、あるいは絶句した。
一呼吸のうちに深い祈りに達する。マリーの教えを受け、そして日々の祈りを繰り返し、自然に達した境地だ。
たとえ奇跡を授かった神官といえども、鍛錬を繰り返し、それができるようにならなければ、戦いのただなかには身を置けない。
「――症状の重い人を集めて下さい。集められない人は順に出向きます」
辺りを見回して言う。
「大丈夫。すべて癒やします。――グレイスフィールの、灯火にかけて」
胸に手を置いてそう告げると、エルフさんたちは頷き合い、動き出した。
それぞれに分担を決めて、集落の各所に走ってゆく。
……そうして僕が集落の全員を癒やしきる頃には、すっかり日が暮れていた。
「はー……」
そうしていま僕は、集落の外れ、淀んだ水の流れの前で息をついていた。
里の方からは、かすかに楽の音が聞こえてくる。
衰弱で死の床につき、手足さえ麻痺していたような重症者が、次々と起き上がったのだ。
みな手足がふたたび動くことに涙を流して喜び、友人知人誰かれ構わず抱き合い、歓声をあげれば、そのまま食べ物と飲み物と楽器を持ち寄り、宴が始まるのも自然の流れだ。
僕も主賓として、すっかりもみくちゃにされて、幾度も果実酒を飲まされた。
ゲルレイズさんやルゥも、エルフさんたちに何やら盛んにしゃべりかけられていたし、レイストフさんもエルフさんたちのお酒に静かに付き合っていた。
メネルなど、すっかり酔っ払ったディーネさんに引っ張り回されて、焚き火の前で慣れない踊りを踊っていた。
薄曇りの空に月もおぼろな、良い夜だった。
「…………」
けれど――自分に《毒消しの祝祷》をかけて血中からアルコールを抜いておく。
この地域では、いつ戦いになるかわからない。
完全に酒精に身を委ねることは、できない相談だ。
……と、ふと、羽音がした。
ばたばたと翼をはためかせ、僕の傍のねじくれた木に、一羽の大鴉がとまる。
艷やかな黒の羽に、どこか不吉な紅の瞳。
【――旅は順調かね?】
不死神の、《遣い鴉》だ。
「ええ、とりあえずは……って、イタタ……」
鴉がしゃべるたび、脳裏に灯火の神さまの警告が、ガンガン鳴り響く。
――すみません、落ち着いて下さい神さま、大丈夫です。
【ハハハ。君は本当にグレイスフィールに愛されているな。……私にも愛されてみないかね?】
「ご冗談を。――それで?」
真紅の瞳を見据える。
……真っ黒な鴉は、なに、警告さ、と前置きしてこう言った。
【引き返すなら、おそらくここが、最後の機会だ】
同時。大地が、揺れた。
地の底から響くような、唸りが聞こえる。
――ォォォォォォオオオオオオオ……
西の山脈から、唸り声が聞こえる。
魂を鷲掴みにされるような、恐ろしい響き。
唸りが終わるとともに、沈黙が落ちる。
エルフの里の楽しげな楽の音も、音に怯えるように止まっていた。
【もう一度だけ言う。――挑めば、死ぬぞ】
紅の瞳が、射抜くように僕を見つめた。