第十四話 渦巻く思惑
「何と、神子殿ではございませんか!」
舞踏会から一週間。前方からそんな声が聞こえたのは、アドリエンヌさんの授業を終えてぶらぶらと城内を歩き回っているときのことだった。
「……こんにちは、ネルヴァル侯。舞踏会以来ですね」
うわぁ、と呻きたいのを必死に堪え、笑顔でそう返す。彼は顔を輝かせると、深々と頭を下げた。
「おお、覚えていてくださったのですね、光栄でございます。先日は大変失礼致しました」
彼が言っているのはリオネルさんにやり込められて、挨拶も無しに逃げて行ったことだろう。私は「いえ」と微笑むと、ふと首を傾げた。
「そういえば、城の中で会うのは初めてですね。侯爵はあまり城には来ないと聞いていたから、驚きました」
「神子殿の存在を公に発表して以来、他国からの干渉が急激に増えましてね。陛下のお手を煩わせるまでも無いようなことは、私ども貴族に任されているのです。……ところで神子殿、今日はシリル殿下とご一緒ではないのですな」
「ずっと一緒にいるわけじゃないんです。シリルはほら、王子として色々とやることがありますから。私はその間に、この世界のことを色々と勉強していて」
「そうでございましたか。……無礼を承知で申し上げますが、神子殿」
不意に、侯爵が声を潜める。その顔はいかにも私を心配しているのだといった風に歪められていたけれど、声に浮かぶ悪意までは隠しきれていなかった。馬鹿にするような声色は、恐らく私に向けられたものではないのだろう。
「出会ったばかりの貴女には上手く隠していらっしゃるようですが、幼い頃のシリル殿下は、少々悪い噂が目立ちましてね。忠実な家臣たる私の口から全てをお話しすることなどとても出来ませんが、どんな手を使って他の貴族たちを懐柔したのやら――」
「こんなとこにいたんだ、ニナ! 探したわ」
侯爵の言葉に割り込むように、そんな声が響く。見ればこの間友人になったばかりの少女が、銀髪を翻してつかつかとこちらに歩み寄ってきた。彼女は私の隣に立つと、睨みつけるようにネルヴァル侯を指差す。
「貴方ね、さっきから聞いてれば、シリルの悪口ばっかり言って! 忠実な家臣はそんなこと言わないと思うわ」
「おやクレア様、盗み聞きとはお行儀の悪い」
彼女の姿を見るなり、彼は嘲るような笑みを隠そうともせずに答える。ムッとしたように黙り込んだクレアの代わり、彼女と一緒にいたハルがいつも通りの口調で返した。
「俺もクレアも聞くつもりは無かったんですけどねー」
「そんなことよりニナ、一緒に庭園に行く約束だったでしょ? 忘れてたの?」
「え? ……あ、そうだったね、ごめん。すっかり忘れてた」
本当はそんな約束はしていないどころか、今日は二人に会う予定すらなかったのだけれど、クレアとハルの考えていることはすぐに分かった。調子を合わせるように頷くと、クレアは勝ち誇ったような笑みを侯爵に向ける。
「というわけで、ニナは忙しいの! 残念だったわね!」
「ええ、そういうことであれば、私は退散すると致しましょう。またお会い出来れば幸いです、ニナ様」
意外なことに、彼はあっさりと引き下がる。一礼し去って行く彼の姿が見えなくなったところで、私はほっと胸を撫で下ろした。侯爵が消えた方向を、クレアが「もう!」と睨みつける。
「感じ悪ぅい! 本っ当嫌な奴よねあいつ、ニナもそう思わない?」
「あんなのに目ぇつけられるとか絶対祟られてるよなお前、お祓いとかした方がいいぞ!」
二人に同時に詰め寄られ、私は思わず苦笑する。舞踏会だけなら笑って受け流せたのだが、二度目ともなるとそうはいかなかった。
「……やっぱり、目つけられてる、かな?」
「うん」
「間違いない」
やはり同時に返ってくる肯定。僅かに声を潜め、クレアは「だってね」と続けた。
「あいつ、すっごく女癖悪いのよ。侍女にも何人か侯爵に言い寄られたって人がいるんだけど、その人たちの話じゃ城下や自分の領地じゃもっと遊んでるって」
「典型的な駄目貴族じゃねぇか!」
「それとほら、トゥルヌミール以外の公爵家はみんな年頃の女の人がいるでしょ? そっちは随分前に片っ端から声かけて玉砕してるんだから」
「そっちは……財産目当てってこと?」
本当にハルの言う通り、聞けば聞くほど駄目貴族だ。私の問いに、彼女は首肯する。
「多分ね。ネルヴァルは侯爵家の中じゃそこまで偉くないもの。侯爵ってだけで十分偉いんだからそこで満足しておけばいいのに、もっと権力を握ろうとしてるって、マリルーシャが」
「……待て、何でそこでマリルーシャなんだ?」
「被害者の一人なんだって。ちょっと付き合ってすぐばっさり振ったって言ってたけど」
「それだ! だからリオネルさんあんなに怖かったんだ!」
クレアの言葉に、私は思わず大声を返した。二人は一瞬きょとんと顔を見合わせると、どちらからともなく乾いた笑みを浮かべて頷き合う。
「ああうん、リオネルさん怖いよな。超怖い」
「マリルーシャが絡んだときだけね。正直、シリルが頑張って仲直りさせていなかったら今頃どうなっていたか」
遠い目で嘆息すると、クレアは不意に私を見た。
「そういえば、こっち帰ってきてからマリルーシャに会ってないなぁ。ねえニナ、シリルかリオネル辺りから何か聞いてない? 来月辺り生まれるって言ってたんだけど、私もハルも多分その頃にはまたいないわよねぇ」
「あー、まぁそこまで長居は出来ないよなぁ……」
「聞くも何も、私まだマリルーシャさんに会ったことないからねー。あ、そしたら多分来月辺り会うのかな?」
普段一緒にいるのがシリルかアドリエンヌさんのどちらかだからだろう、彼女の名前は毎日のように聞くせいか、もう既に知り合いのような気がするけど。クレアが答えようとしたところで遮るように鐘の音が響いた。同時に、二人が顔を歪ませる。
「あっ……」
「やべっ」
「……ご、ごめん、何か時間取らせちゃったみたいで」
二人が何か用事に遅れそうなら、もしくは既に遅刻が決定してしまったなら、それは私を助けたせいだろう。謝ると、二人は苦笑した。
「や、説教だからさ、逃げたい気持ちもかなりあったんだけどな?」
「それは逃げないで早く行った方が良いと思うよ……でもありがとう、助かったよ」
「どういたしまして! 本当気を付けてね、ニナったら可愛いから慣れてるかもしれないけど、ネルヴァル侯は性質悪いから」
「うん、気を付ける。それじゃ、また後でね」
走っていく二人を見送り、静かに息を吐く。
……性質が悪い、というクレアの言葉は、紛れもない事実なのだろう。侯爵と相対した二度とも、欲に曇る瞳が、その奥に燃える歪んだ炎が、はっきり見えていたのだから。
◆◇◆
「だから言ったでしょうに」
「うん、まさかあそこまでカタリナの言う通りになるとは……」
暗い地下牢も、慣れてしまえば恐怖は感じない。ここにはカタリナ以外の誰もいないし、そもそも彼女を閉じ込める水晶が放つ光で、その周囲だけは明るいのだ。クレアやハルと別れた後、ちょうど見張りがいなくなる時間であることに気付いた私は、いつものようにここに下りてきていた。
呆れるような彼女に、私は勢いよく顔を上げて続ける。
「でもそんな、流石にカタリナが言っていたような……侯爵がシリルに何かするだとか、そんなことは起きない、よね? だってほら、シリルは次の王様でしょ? それがいなくなっちゃったらアネモスが混乱するのは目に見えてるし、侯爵だってそこまでは……」
「あら、分かりませんわよ? 聞いている限り、その侯爵というのは権力を欲しているようですし。国王、なんて最高の権力者だわ」
「……シリルの代わりに自分が国王に、ってこと?」
ぞくっ、と背筋に冷たいものが走る。ありえない、だってそんな、そんなこと。……ありえない? 本当に? 私が出会ったネルヴァル侯は、どんな人物だった? 国の未来と自分の欲の、どっちを優先するような人間に見えた?
「そうなればアネモスは終わりね。今の国王は嫌な奴ですけれど、王として優秀なのは間違いありませんわ。王子についてはまだまだ甘いですけれど、その国王の実子で賢者の教え子ですもの、時が経てばそれなりにはなるでしょう。ですが自らの欲望しか見えていない人間が王座についてしまえば、国は滅びますわ」
私が黙り込んだのに気付き、カタリナは嘆息する。
「人の心、というのは私の得意分野ですから、直接見れば何を企んでいるかなんて一目瞭然なのですけれど。流石にここまで連れて来いというのは無茶ですものね。こちらから出向くわけにもいきませんし」
「待って、それ」
彼女の言葉に、私は顔を上げた。そうだ、この環境に慣れてしまってすっかり忘れていたけれど、彼女はここに封印されているのだ。だから動けなくて、だから出られなくて、だけどそれは、つまり。
「本当に、出来ないの?」
「何がですの?」
「カタリナがここから出る方法って、本当に無いの?」
私の問いに、彼女は沈黙する。少しして、呆れたような声が返ってきた。
「私が何故ここにいるのかお忘れかしら。アネモスへ戦争を仕掛け、賢者を脅して裏切らせ、どちらの国からも数多の犠牲者を出した、狂気に呑まれた王女……ほら、これだけでも十分に、投獄されて然るべきでしょう?」
「それは……確かに、許されることじゃないかもしれないけど。でも、私にはカタリナがそんなに悪い人だとは思えないし、狂ってると思ったこともないよ」
私にとって彼女は、この世界で出来た初めての友人で、頼りになる相談相手で……カタリナが悪人だなんて、今更思えない。それでも、彼女は馬鹿にするようにくすくすと笑った。
「演技かもしれませんわよ? 貴女に封印を解かせるためだけに優しくしたのであって、目的を果たせばアネモスに復讐するかもしれませんわね。もちろん、アネモスに降りた神子がどうなろうと、私の知ったことじゃないわ」
「出来るの? 私ならカタリナを解放出来るんだね? あ、でも何か特殊な魔法とか呪文とかいるのかな」
「ニナ? 話を――」
「何を言われても、私はカタリナを信じてるもの」
にこり、と微笑む。それは彼女には見えないはずだけれど、それでも再びカタリナは絶句した。
「忠告したはずですわ。簡単に人を信じるな、心を許すなと。」
「簡単に、じゃないよ。私なりに、カタリナと出会ってからずっとずっと考えて、そうして決めたこと。たとえ貴女が本当に悪人だったとしても、それは変わらない。貴女を信じ続けるし、そのことを後悔なんてしない。……人を信じるって、そういうことでしょ?」
「……呆れた。本当にお人好しですのね、貴女」
やがて、聴こえたのは諦めたような嘆息。見上げると、彼女は普段通りの口調で続けた。
「今すぐには教えませんわ。貴女がしようとしているのは、見方によってはアネモスを裏切る行為ですもの。その上、私は用が済めば貴女を見捨てて逃げるかもしれませんわね。その覚悟が出来たら、またここに来なさいな」
「良いの?」
「貴女が言い出したことでしょう? どうなっても知りませんわよ」
「うん、大丈夫。ありがとう、カタリナ!」
「……この流れで、貴女が礼を言うのはおかしいでしょうに」
カタリナの言葉に、私は笑みを返してみせる。
彼女の言葉に、何度も救われた。だから救いたいとか、そういうわけじゃない。単純に、傍にいてくれたら心強いだろうと……会いたいときに会えれば良いなと、そう思ったのだ。
こんばんは、高良です。久々に予定通りの更新! ……いえ、はい、頑張ります。
ハルクレ書いてると頭の中が騒がしいです。最近どんどん空気化が進んでいるのですが忘れないであげてください作者はたまに忘れます。
前半・後半通して何やら怪しい雰囲気ですが……?
そうそう、気付いたら枯花連載から一年以上経っていたのですね。びっくりです。こんなに書き続けられるとは思ってもみませんでした。
ちょうど一年前の今日、第一部の第九話を投稿していたようです。まだヒロインがクレア(とマリルーシャさん)くらいしかいなかった頃の話。懐かしいなぁ。
完結までの道のりは遠いですが、これからもよろしくお願いしますね。と一周年ぴったりの時に言えたら格好良かったんですがね?
では、また次回!