第十三話 波乱の前触れ
「疲れてない? ニナ」
他国からの使者たちへの挨拶……実際には僕とニナを見るなり彼らから近寄ってきたのだが、それが一段落したところで彼女を振り返る。僕の視線に気付くと、ニナはにこりと微笑んだ。
「思ったより人が多くてびっくりしたけど、まだ大丈夫だよ」
「それは良かった。でもちょっと落ち着いたみたいだし、少し休憩しようか」
広間の端、食べ物や飲み物が置かれたテーブルへと歩み寄る。休んでいる貴族たちからは少し離れた、あらかじめ用意されている席にニナを座らせると、ちょうど侍女が持ってきたワイングラスを受け取って、彼女に手渡した。
「はい。ここに出ているのは殆どがお酒だからね。そうじゃないのもあるけど、誰が注いだかも分からないものには手を付けない方が良い」
「うん、分かってる。ありがとう。……シリルのは、お酒?」
「……飲めなくはないんだけど、そこまで強くもないんだ、僕は」
もう一つのグラスを侍女から受け取り、少女に苦笑を返す。
「他国からの招待だったり、僕が主役だったりするときは、流石に飲まないわけにもいかないんだけどね。今日は流石に、酔って醜態を晒すわけにはいかないから。そうなってしまうほど飲んだこともないけど、念のため」
「うー、未成年……」
答えると、ニナは何とも形容し難い表情で呟いた。彼女の言いたいことは何となく察しがついたから、僕は「ああ」とニナを見下ろした。
「君のいた世界では、成人するまで飲んじゃいけないんだっけ?」
「世界というか、私のいた国では、かな。国によっては十八歳とか十六歳とか、十四歳になれば飲んでいいって国も聞いたことあるよ。大体、成人年齢自体違うでしょ?」
「そうだね、二十歳って言えば結婚していない人たちが焦り出す頃かな。ああ、そういえばリオネルとマリルーシャは異様なほど落ち着いていたかな」
当時の記憶を辿り、ついでとばかりにそう呟く。彼らが仲違いしたのは、二人が成人する一年か二年ほど前のこと。二十歳前後と言えば、先生が城で働き出してしばらく経った辺りか。当時の僕はまだ知らなかったけれど、仲の良い幼馴染を演じていた二人は、あのとき既に険悪な仲だったはずだ。その割に、二人とも結婚を急ぐ様子は全く見えなかった。アネモスでは『行き遅れ』を恥とする風潮は他国ほど強くないけれど、それでも公爵家の跡継ぎと侯爵家の令嬢だ、縁談は絶えなかっただろうに。
「シリル、それ多分、二人とも相手しか見えてなかったんだよ」
「僕もそう思う。大喧嘩しても、心の底から嫌いになることは出来なかったんだろうね」
楽しそうなニナの言葉に、僕は苦笑を返す。彼女は満足げに頷くと、「そういえば」と話題を切り替えた。
「リオネルさん、今日は来ないの?」
「王家に次ぐ権力を持つ公爵家の当主が神子を歓迎するための舞踏会を欠席するのは、流石にまずいと思うよ。色々と仕事を頼んでいたからね、それが終わったら来ると思う。本人は来たくなさそうだったんだけど、そんな理由で欠席を許すアドリエンヌとマリルーシャじゃないだろう?」
「ああうん、リオネルさんって親っていうか、家族には弱そうだしね……アドリエンヌさんも来られれば気が楽だったんだけど、流石に旦那さんを亡くした貴族の女の人が一人でうろちょろするのはまずいかぁ」
「いないわけじゃないけどね、そういう人も」
貴族たちの当主や跡継ぎには善良な人間が多いアネモスだが、その令嬢たちには贅沢をするためにより良い家に嫁ごうとするような人間も多い。彼女たちは夫が命を落とすとそれを良いことに舞踏会や貴族たちが自邸で開催する夜会に出かけて行って、新たな金づるとなる愛人を探すのだ。もちろん男の方もそれを知っているけれど、大半の男っていうのは誘惑されれば落ちるもので、『犠牲者』は後を絶たないらしい。……そんなことを教えてくれたのが誘惑されても揺らぎすらしない先生だったから、信憑性に欠けるけれど。
「おや、シリル殿下ではございませんか」
ニナに呟きを返したところで、そんな声が聞こえた。出来れば聴きたくなかったその声に、僕は苦い顔を堪え、いつもの『王子』としての笑顔を携えて振り返る。立っていたのは予想通り、三十代半ばほどの男だった。
「久しぶりだね、ネルヴァル侯」
「新年に挨拶に伺って以来ですから、二か月ぶりでございますなぁ。もっとも、シリル殿下のお呼びとあらば当然いつであろうと駆けつける所存ですが」
そんな言葉に、僕は苦い笑みを返す。その言葉とは裏腹に、彼が浮かべているのはどこか相手を馬鹿にするような、厭な笑顔だった。実際、いくら舞踏会とはいえ僕に出会っても頭すら下げないというのは本来なら無礼極まりない行為なのだが、それを指摘したところで彼は上手く言い逃れようとするのだろう。
ネルヴァル侯爵家当主、セザール=ド=ネルヴァル。アネモスでは数少ない、王家への忠誠心が薄い貴族の筆頭である。彼はそこでようやくニナに気付いたように「おお!」と大袈裟に振り返ると、わざとらしく笑みを強めた。
「これはこれは! 神殿で遠目に見たときにも思いましたが、近くで拝見するとまさに女神のようなお美しさでいらっしゃいますね、神子殿」
「ありがとうございます、侯爵」
彼の値踏みするような視線にも動じず、ニナはふわりと微笑を返してみせる。侯爵はどこか下卑た目で彼女を眺めまわすと、不意に僕を見て声を潜めた。
「いやはや、羨ましいですなぁ、殿下。これほど可憐な神子殿を独り占めとは。変わって頂きたいほどでございますよ」
「っ!」
「……それは」
息を呑むニナを庇うように前に出て、目を細める。どういう意味か、と。あるいは、僕に対する侮辱か、と。続く言葉に迷いながら、僕は侯爵と睨み合った。こちらが黙っているのをどう受け取ったのか、侯爵は厭な笑顔のまま、更に口を開く。
しかしそのとき、ざわついていた広間が急に静まり返った。
「リオネルさん……」
ニナのそんな呟きすらも、やたらと響いて聞こえる。彼女の視線を追うと、確かに広間の入り口に立っているのは、見慣れた灰藍の髪の青年だった。すぐに隅にいた僕とニナを見つけたらしく、彼は表情一つ変えずにこっちへ歩いてくる。徐々に広間は元のざわめきを取り戻して、リオネルが僕の前に辿り着く頃にはすっかり元通りだった。
彼は僕と視線が合うとようやく僅かに笑みを浮かべ、静かに頭を下げる。
「遅れて申し訳ありません、シリル様」
「まったくですな、リオネル殿!」
答えようとした僕を遮るように、侯爵が声を上げた。リオネルは不快そうに眉を顰め、「セザールか」と呟く。
「良い御身分だ、その言葉だけで許して頂けるのだからな! このような大事な場に遅れて来るなど、本来ならば無礼極まりありませんぞ」
「……ほう」
その言葉に、リオネルは面白そうに目を細める。僕とニナは無言で顔を見合わせると、どちらからともなくこっそり後退した。
「それは失礼。貴公には永遠に与えられないような大事な仕事を任せられたのでな、適当に終わらせてくるわけにもいかないだろう。と言っても、その内容すら知りえない貴公には分からないことか」
「……貴様」
ギリ、と歯ぎしりの音。侯爵は物凄い目でリオネルを睨みつけると、吐き捨てるように言葉を続けた。
「シリル様のお気に入りだからと思い上がるなよ、若造! 地位を盾に好き放題していられるのは今のうちだ」
「好き放題しているのはどっちだろうな、侯爵」
対するリオネルは、落ち着いた口調のまま答える。唇は楽しそうに歪んでいるけれど、その目は笑っていないどころか、冷たく嘲るような色を浮かべていた。……正直に言ってしまえば、傍から見ているだけでもかなり怖い。
「思い上がるな、それはこちらの台詞だ。身の程をわきまえろ。俺に対してもそうだが、シリル様やニナ様に対しても、だ」
「この、言わせておけば――」
「何故ネルヴァル侯爵家がかつて俺の手を逃れ存続したのか、忘れたわけではないだろう」
リオネルの言葉に、侯爵は絶句する。そんな彼に、リオネルは不自然なほど穏やかな口調でとどめを刺した。
「調子に乗らない方が互いのためだ、そうは思わないか?」
「……そのようですな」
悔しげに呟き、彼は僕たちに背中を向ける。そのまま無言でつかつかと立ち去る侯爵を見送り、リオネルはぽつりと呟いた。
「十歳しか違わない相手に向かって若造というのもおかしな話だ。……この間のエリックといい、シリル様やニナ様に何の挨拶も無しに逃げ帰るのは問題ですね」
「うん、だから追い払った本人に言われても困るんだけどね……」
呟くと、彼は面白そうに微笑む。侯爵に対して向けていた冷たい目はそこにはなく、リオネルは笑顔のままニナを見た。
「それにしても、厄介なのに絡まれましたね、ニナ様」
「うん、リオネルさんが来てくれて助かりました。……あの、訊いても良いですか? さっきの、リオネルさんの手を逃れて、って」
「俺とマリルーシャが仲違いしていたときのことは、母に聞きませんでしたか?」
リオネルの問いに、ニナはそっと首を横に振る。数年前に父上から全て聞いていた僕は、乾いた笑みを堪えてリオネルを見た。そんな僕の視線にも気付いているのだろう、リオネルは僅かに苦笑する。
「当時は流石に俺も荒れましてね。王族や公爵家に敵意や悪意を抱く貴族を炙り出して、片っ端から潰したんですよ」
「……そ、それって、えっと」
「八つ当たりだね。王家にとってもありがたかったからお咎めは無かったらしいけど、それはもうえげつなかったって聞いたよ」
僕の言葉に、ニナは不思議そうに首を傾げた。
「でも、それならどうしてネルヴァル侯は……」
「奴だけではありませんよ、今アネモスに残っている数少ない腐敗は、殆どが当時俺に見逃された奴らです。この程度なら放っておいても問題ないと判断した奴らが殆どでしたが、ネルヴァルは別でしてね。当時の侯爵であるセザールの父が、行いを改めるから見逃してほしいと縋ってきたのですよ」
彼はそこで一旦言葉を切り、心底呆れたように嘆息する。……そういえばセザールが侯爵位を受け継いだのは五年ほど前のことだったか。思い返してみれば、確かに前侯爵が急に改心したような時期があった。
「実際それからしばらくは大人しかったので見逃したのですが、それは息子には受け継がれなかったようだ。こんなことならあのとき全て潰しておけば良かったですね」
「リオネル、怖いから」
侯爵が去っていった先の集団……恐らく当時リオネルが見逃した貴族ばかりなのだろう、彼らをまるで虫を見るような目で睨む青年を、慌てて宥める。
とはいえ、王子と神子に公爵まで揃ってしまえば、余計なことも出来ないだろう。そんな予想の通り、長い夜は静かに更けていった。
こんばんは、高良です。……ごめんなさいこんなんじゃ第四部がいつ終わるか分かりませんね本気出します(フラグ)
さて、今回は舞踏会。ちらちらと話題に上っていた『腐った林檎』が、遂にシリル君とニナの前に現れます。ついでにリオネルさんは怒ると怖いです。
侯爵はこのまま引き下がってくれるのでしょうか? …………いいえ。
では、また次回!