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カーテシーと呼称された作法がある。
片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、両手でスカートの端をつまんで軽く持ち上げる。そうしてそのまま腰を曲げ、頭を深々と下げるのだ。
挨拶の形式の一種なのだが、これは女性のみが行う作法だ。それゆえ、なおさら気品や優雅さが重要視される。
今現在、私はそのカーテシーを叩き込まれていた。
「カーテシーとは、公の場において始まりの礼です。礼儀作法はカーテシーに始まりカーテシーに終わると言ってもよいほど重要な作法です」
ただでさえ苛烈気味なマリーワの授業だが、今日の授業は一際熱が強かった。
マリーワがいつも以上にやる気を出している理由は簡単だ。王宮で行われる舞踏会が近いのである。マリーワは私への一連の教育の成果を、王宮で発揮できるように画策しているのだろう。
「お嬢様ぐらいのお歳でしたら、カーテシーを優雅にこなし自己紹介の口上をよどみなく言えれば良くできたご令嬢と認識されるものです」
生徒の品位は家庭教師の格に直結する。王宮の舞踏会で私が素晴らしくできた令嬢だという噂が社交界で響き渡れば、それをしつけたマリーワの評判も上がる。
まあそれは別に良い。マリーワの意図がどうあれ、この私、クリスティーナ・ノワールは天才だ。社交界で私が認められ評価され祭り上げられて崇拝されるのは必然である。その恩恵を受けてマリーワの評判も上がるだろう。その時になって、私という教え子を持てた幸運をしみじみとかみしめればいい。
「それではお嬢様。一礼と同時に、教え込んだ口上を」
マリーワに促された私は、優雅にカーテシーをこなししとやかな口を開く。
「お初にお目にかかります、ミス・トワネット。私はノワール家が一子、クリスティーナ・ノワールですわ。今後ともわたくし、ひいては当家と末永くお付き合いいただければ幸いです」
カーテシーとともに、自己紹介。クリスティーナという七歳児ではなく、ノワール家の末席としての色が濃い口上を述べる。挨拶を終えて顔を上げる際にも、対面のマリーワと目を合わせてにっこりと優雅に微笑むことも忘れない。
「よろしい」
文句のつけようのないカーテシーに、マリーワも満足そうに合格を言い渡す。我ながら完璧だったのだから当然だ。私は天才であるからして、自己評価も完璧なのだ。
「たった一日でここまで仕上がるとは、正直思ってもいませんでした。今日の授業はここまでです。カーテシーに関しては、十分です。後日は確認だけにとどめ、次の段階へ進みましょう」
「はい。ミス・トワネット」
「よろしい。……しかし今日のお嬢様はいつになく素直でしたね。被るようにして身に着けた外面が馴染んで皮膚の一部となってきましたか?」
マリーワはいつになく上機嫌で、珍しく冗談すら混ぜて今日の私を評する。
確かにマリーワの言う通り、今日の私はカーテシーの作法を知ってからずっと物静かだ。お嬢様の外面を被ったままなので、マリーワの指示にも従順でおしとやかな言葉を使い通している。
「いえ、ミス・トワネット。そんなに褒められたことではないのです。実は恥ずかしながらわたくし、カーテシーの形を知ってからずっと考え事をしていたのです」
「考え事、ですか」
私があえてお嬢様言葉を使っているからだろう。マリーワは手に持つムチをしならせることもなく、ごく普通の人間のように話している。
「カーテシーの成り立ちでも考察していたのですか? その程度なら聞いてくれればお教えしますのに」
「そうではありませんの」
カーテシーの成り立ちなんて、見れば大体わかる。おそらくはひざまずく行為の略式に女性らしさの表現を加え昇華させたものだ。
だから私の思考はマリーワの予想とは全く違うところにある。
「わたくし、このカーテシーの足の形にそっくりなものがあることに気が付いたのです」
「そっくりなもの?」
「ええ」
「それは、一体?」
私が珍しくも大人しく従順な様子を見せていたからだろう。無防備に純粋な好奇心を持ってたずねて来たマリーワに、私は教え込まれたお嬢様の外面を脱ぎ捨て、にんまりと口の端を持ち上げた。
「カエルの足」
「は?」
マリーワが絶句した。
予想外の言葉を受けたせいだろう。一度大きく口を開けて、それでも言葉を出せずに閉じて、また開く。
「かえ……え? お、お嬢様……?」
「く、くくっ、ふふふふ、ふふふふ……!」
あまりにも珍しいマリーワの狼狽ぶりに加えて、ずっと笑みをかみ殺していた反動が湧きおこる。笑いの波が堰を切ったかのようにこみあげてきた。
カーテシーの授業が始まってからずっと押さえつけていたが、もうこらえる必要はない。私は堂々と胸を張って腰に手をやり、仁王立ちになってのどをのけぞらした。
「ふふ、ふはははは、ふわぁーっはっはっはっは! なあ、マリーワ。カーテシーの足の形ってな、カエルが二本足で立ったらそうなるだろうって形にそっくりなんだ! つまり世の淑女はみんな、スカートのふくらみの中でカエルの足を作っているわけだよ! それに思い至ってからずっと笑いをこらえるのがそりゃもう大変で、おかげさまで今日の授業中はずっと笑いをかみ殺すのに必死で――ぴぎゃん!」
前振りが過去最大だったせいか、振り下ろされたムチは過去最悪だった。
まあでも存分にふざけた報いがこの一発で清算されるなら、トントンだ。痛打された箇所をさすりながら己にそう言い聞かせていたら、信じられない一言がかけられた。
「お嬢様。まさか一発で終わるとは思っていませんね」
「……え?」
痛みすら忘れてぽかんと呆ける私を見下ろすのは、悪鬼羅刹のオールドミス、マリーワ・トワネット。彼女の表情は、静かな怒りで満ちていた。
「クリスティーナ・ノワール」
形ばかりの敬称すら省き、ぞっと背筋を凍らせる声が響く。
いつも厳しい表情のマリーワが、何かをこらえるように一文字に唇をかみしめて体を震わせている。彼女の持つムチが、ひゅんっと風切り音を鳴らすに至って、私は遅まきながらもちょっとやりすぎたと悟る。
しかし、もう遅い。
「ま、マリーワ……?」
「ミス・トワネットです」
おそるおそる呼びかけた言葉は、いつも以上の冷酷さでもって切り捨てられた。
「くだらぬ思い付きを語り、大笑し、作法を踏みにじった行いの報いがどれだけ高くつくのか、思い知りなさい」
「え、ちょ……うぎゃぁああああああああああ!」
作法の授業が終わり、マリーワが帰ってから夕食までの空いた時間。その時間を使って、私は愛しのミシュリーを抱きかかえていた。
二歳年下のミシュリーは私よりもさらに一回り小柄なので、膝の上にのせるとちょうどいい具合にすっぽり収まる。それを利用して、私はミシュリーをぎゅうっと抱きしめていた。
「おねえさま……?」
私の腕の中でミシュリーがこてんと首をかしげる。
マリーワが帰ってすぐさまミシュリーの部屋に飛び込んでから、ずーっとこの体勢なのだから不思議に思われても仕方ない。私はミシュリーを溺愛しているが、ここまで引っ付いているだけということは今までにそうそうなかった。
でも仕方がないのだ。
今日の礼儀作法で負った心の傷を癒すためにはこうやってミシュリーに引っ付いて、妹から流れ出る癒し成分を一身に浴びないといけないのだ。
ミシュリーもこの体勢が嫌だというわけではないのだろう。不思議そうな顔をしつつも、まあいっかと思ったのかおしゃべりを始める。
「おねーさま、おねーさま」
「なんだ、ミシュリー」
「今日のおさほーのじゅぎょーはなにをしたの?」
我が妹ながら、話題のチョイスが的確すぎるほど的確だった。
今日の最後に行われた児童虐待を思い出して、思わずびきりと笑みがこわばった。
「……おねーさま?」
「ふ、ふふ、いやな、ミシュリー。なんでもないんだ。そうだな。今日の授業は……馬の気持ちを理解するのにとても役立つ授業だったよ」
「おうまさんのきもち? どんなきもちだったの?」
作法が何たるかをまだ知らないミシュリーが、無邪気に疑問の声を上げる。
どんな気持ちかと問われた私は、ちょっと前の過去を幻視するため遠い目になった。
「……私は馬の痛みを知ったんだ。私はこれから乗馬を習うに当たって、決してむやみやたらとムチは入れないと決意したよ」
「むち?」
「そう。あのしなる物体を振るって打ち付けるなんて、私はそんなひどいことはできない。……だって痛いもん、あれ」
「ふーん?」
生まれてこの方、ムチ打たれたことなどない妹はよくわかんないと首をかしげている。
それでいいのだ。願わくば、ミシュリーがムチ打たれる調教馬の気持ちを理解することない人生を歩んでいけることを切に祈る。ムチでお尻の百叩きとか羞恥と痛みにまみれた現象とは無縁であるべきなのだ。
「よくわかないけど……だいどーげいとかおうまさんのきもちとか、おさほーってふしぎだね」
「ほんとにな」
まさしくミシュリーの言葉通り、作法の授業は謎に満ちている。私の言いたいことを言ってくれるとは、さすがは私の妹だ。
「さすがだぞ、ミシュリー。そのまま賢くあれ」
「えへへ」
ミシュリーの頭をいい子いい子して撫でると、最愛の妹は少しだけくすぐったそうに笑った。