第六回
サワネの向かったアカノミネは、年中霧に覆われ、強い風の吹きあれる不毛の山だった。山頂付近は砂ばかり。夏になるとわずかな低木や草の茂みがいじけたように地面を這っている。赤茶けた砂や岩がむき出しになった山肌は滑りやすかった。サワネはしばしばこの付近にしか生えない薬草を探しに訪れたが、よほどのことがなければ村人はこないし、人の通る峠道もないので旅人も訪れない。修験や山人でさえも滅多に足を踏み入れない場所だった。
――どうしてあの人、こんなところを通ったんだろ? 他の道の方がずっと楽なのに……。
サワネは背負子と山刀を隠した岩棚を目指した。尾根は下から強い風と共に霧が吹き付けてくる。麻衣の上着も、頭帯も、そこからこぼれたサワネの黒髪も、霧の粒で白くなっていく。
わずかな幅で右も左も断崖絶壁になったナナサワクズレの尾根道は、あたりがとっぷり霧に包まれると、まるで白い世界にたった一人で浮いているような気分になってくる。
サワネは足を止めた。そのまま横を向いて尾根から一歩足を踏み出すと、サワネの姿は霧に消えた。
転がるように滑ってから、くずれやすい砂の斜面に踏ん張りをきかせる。サワネが止まったのはちょうど目指す岩棚の横だった。そこから慎重に足を運び近づいて行く。やがて、あたり雰囲気がこの前とは微妙に変わっていることに気づいた。
岩の陰にまわる。
何もない。
サワネが大切にしてきた山刀、そして男の剣に鎧はもちろん、背負子さえ見当たらなかった。注意深くあたりを探っても、サワネの足跡のほかは何も見当たらない。何者かが突然この岩棚に現れて、そのまますべて持ち去ってしまったようだ。
白一色の薄暗い空を見上げる。異界より訪れる麒麟、竜神、鳳凰など、空飛ぶものの存在はおばばから聞いてはいたが、サワネには彼らがあの荷物に興味を持つとは思えなかった。第一、空からは見つからない岩陰に隠したのだから。
神仏妖鬼の法力を操る法術師には、空を翔び、一瞬にして離れた場所に現れる者もあると聞いたことがあった。でも、こんなところにわざわざ術を使って、薬草取りの小娘が使っていた山刀や背負子を盗みにくるとは思えない。あの男の剣や鎧にしても、手にした時にかなり質の良いものだとは感じたが、どこにでもある変哲のないものだった。
サワネはしばらく腕組をして考えた。
ふいに霧がさぁっと流れて、青空が頭上に広がった。あかね色に染まった沸き立つ雲の間から、陽の光がいくつもの筋となって降り注ぎ、あたりをまぶしく照らす。霧は一気に晴れた。
山の天気は変わりやすいが、ここまで不意に晴れることはめったになかった。橙をした波雲の後ろには夕陽の光を浴びたアカノミネの頂が、赤く燃え上がる炎のように輝いている。
――山の神様が供え物として受け取ってくれたんだな、きっと。
そう思ったらサワネはとたんに納得してしまった。山の神様にはいつも世話になっている。薬草をとらせてくれるのも、無事に山ノ上の小屋へ戻れるのも、あの怪我した男を見つけさせてくれたのも、みんな山の神様のおかげだ。山刀や背負子を失ったところで、それ以上のものを頂いている。あの男にしても、まだどうなるか分からないが、とりあえずの命は繋いでいるはずだった。
サワネは頂へと頭を下げた。パンパンと手を合わせ、目をつむる。
――山の神様、捧げ物を受け取ってくださって、ありがとうございます。むにゃむにゃ。
そう唱えて頭を上げると、心の中まですっきり晴れたような気持になってくる。サワネの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
晴れた時と同じくらい唐突に、山頂が雲に覆われていく。谷から濃い霧が押し寄せてきて、あたりは再び乳白色に包みこまれていった。
「よしっ」
為すことは為された。そう思ったサワネは再び斜面を一気に下り始める。
「……そういや、新しい山刀を作ってもらえるほどの銭、おらんところにあったっけ?」
そんなことをつぶやきながら。