86-美しき雪
『聖檻』。
十人以上による儀式、長い詠唱、専用の魔法発動体と魔法媒介、発動陣形、魔力供給者、そして高い習熟度が必要となる封印系の自律魔法である。
設計上の効果は、いかなる物理・魔法攻撃にも耐える不可視の檻に対象を閉じ込めるというものである。
参加人数に比例して閉じ込めることのできる規模と時間が増すが、最低数の十人では中型魔獣を捕える程度の規模であり、持続時間も短い。かわりに条件も緩く、対象を囲み、詠唱するだけで発動することが可能で、雪白を封じたのはこちらのほうであった。
「クックックッ、いいザマだな」
リュージは長箱に手を置きながら、封じられたジーバを嘲笑う。
蔵人を討伐作戦に強制参加させてまでジーバを足止めさせたのは、特隊をいつものように前衛として使えなかったためでもある。
国営商会は立体の凸型、上空から見ると回型をしている。
発動の中核となる魔法発動者である特隊は凸型の突起部分である三階大広間、その一つ下の二階、ジーバの真下で陣を組んで、待ち構えていた。魔法発動者は『聖檻』の発動に習熟している特隊でなければならず、そのために足止めとなる者が必要だった。
さらに大広間の半分を覆うほどの大規模展開に必要である百名以上の魔力供給者は回型の外郭部に陣を描いて配置されており、『聖檻』の効果範囲と持続時間を半日以上にまで伸ばした。
外郭部への扉は厳重に封鎖されていたが、一階入口から三階大広間までの間に防衛隊が配置されていなかったのも、それぞれの扉が強力に封鎖されていないのもジーバの侵入経路を限定させ、それ以外の部屋を突破させないためであった。
ジーバが『幻』の自律魔法もしくは魔法具を使うことは過去の事案から予想されていたことだ。目の前にいるとは限らないジーバを捕まえるために、リュージは自らの加護でジーバの実体を確認し、念には念を入れて『秘宝』のある部屋の半分に自律魔法を仕掛けた。
『聖檻』に囚われたジーバは試すようにイルルを振るが、雷撃を纏ったドリルウイップは音も無く、リュージの鼻先で弾かれる。
「無駄だ。さて、飲まず食わずでどれだけ耐えられるか。見ものだな」
『聖檻』は魔力供給者を交代させれば対象を一カ月以上も封じることが可能であった。魔法発動者は交代出来ないが、特隊ならば水と保存食だけであっても耐えることができる。
その間にマルノヴァの上で飛びまわっているガジアジを撃破し、街の骨を砕き、ジーバが絶食で弱ったところを捕まえるか殺してやればいい。それがリュージの作戦だった。
「――フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ」
突然、ジーバは哄笑を上げた。
「ついに狂ったか。存外あっけ――」
「予想はしていたが、こんなものか」
つまらなそうに一つ呟いた後、ジーバは詠唱を始めた。
≪摂理に奪われし、幾つもの星。嘆くことなく、瞬き続ける。残された脆き土塊は、赤き玉座の前に跪く。青き道も、白き輝きも見えず、紅く、朱く、赤く染まった導きの手を握る。悲しみと憎しみ、喪失と虚ろは固く、冷たい決意を産み落とす≫
さらに胸の前で指を合わせ、印を作る。詠唱に合わせ、印は次々と形を変えていった。
それらは、およそ正常な人種ならば組むことのできない指の形。中指を手の甲に反り返し、手首と親指の第一関節がぐるりと逆を向く。
「消し飛ばす気か?無駄だ」
『聖檻』は最上級魔法ですら耐え、国営商会の外壁にしても土地柄から飛竜の体当たりや海蛇の水砲ならば耐えられるように作られている。ミド大陸が魔獣に怯えていた頃から建つ国営商会である。物理的な耐久力も魔法的な耐久力も飛び抜けていた。
≪盲者に成り果て、耳朶の穴を無用だと抉り、自らの口唇を針で縫う。赤き手も拭わず、浅ましき心のみを抱き、滅びと束縛こそを願い、祈り、誓い、決する。
矮小なる我が身を餌とし、勇壮なる体躯を黒き鉄縄で捕え、摂理に逆らい、覇者の白き魂を屠る。囚われの暴君≫
ジーバの骨指は人の肉指では考えられないまでに変形し、印を結んでいた。小指と人差し指が絡んで反り返り、残った両指は横に折れ、捩じれ、絡み合う。
そして、魔力が蠢いた。
屋上にいたアキカワとバニスは三階大広間に戻ることが出来ないでいた。
リュージの嫌がらせかどうかは定かではないが、アキカワたちのいる屋上にまで『聖檻』が発動しており、完全に巻き込まれてしまっていた。
二人とて『聖檻』の使用は知っていたが、ここまで大規模に発動されるとは聞かされていない。リュージはマルノヴァ上層部にすら作戦の全容を知らせていなかった。
「怪盗スケルトンを飢えで追い込むつもりなら、解除されることはないでしょうね」
「信用ならない男だとは思っていたが、ここまでするとはな」
ジーバには骨の魔物以外に仲間と言えるような者は確認されておらず、精霊魔法も使えない。強固な檻で封じてしまうのは悪い手ではなかった。
だが、とアキカワは考える。
無数の骨と幻が街中に現れた。どんな自律魔法を使ったのかは判然としないが、事前に下準備していたと考えられる。それも一カ月やそこらの話ではない。他にも何か準備がしてあるかもしれない。
だが、その何かが分からない。
街中にある何の変哲もない骨を見過ごしてしまったのはともかくとして、国営商会の周囲には自律魔法の発動媒介となりそうな不審物はない。国営商会の周囲は重点的に何度も検査されていた。
「しかし、このままでは――」
その時、何の脈絡も無く、唐突に、屋上の四隅から『鎖』が伸びていた。
アキカワたちが屋上で鎖を見る少し前のこと。
国営商会の地下深くから四本の『不可視の鎖』が飛びだした。
大小の立方体を重ねた凸型の国営商会、その小さな立方体部分を地中から一階、二階、そして三階大広間へと螺旋を描いて巻きついた。鎖はまるで幻であるかのように実体がなかった。
国営商会の中心部をくり抜くように巻きついた鎖は、屋上の四方から上へ、勢いよく打ち上げられる。
鎖の向かう先にはガジアジが飛んでいた。
ガジアジは今まで以上の大火を吐きだして飛竜騎兵を追い払うと、炎で自らを覆い隠す。
街を覆う『エーベの祈り』は外側の攻撃を弾き、内側からの攻撃を通す。そのせいで鎖は障壁をなんなく通過し、ガジアジの全身に絡みつくと、実体化した。
ガジアジは一気に急上昇を始めた。
ズズッという音を立て、国営商会の中心部が動く。
鎖が実体化したことにより、頑強であったはずの壁は呆気なく破壊され、国営商会は土地ごとガジアジに引き上げられる。
国営商会がぐらりと浮き上がる。
一瞬たりとも落下は許されない。
僅かにでも降下したならば、外部からの攻撃と判断した『エーベの祈り』が魔法鎖を弾いてしまう。
ガジアジは渾身の力で骨翼を振るい、全力で空を目指した。
バラバラと瓦礫を落としながら、商会は上昇していく。
屋上で『聖檻』に封じられたアキカワとバニスは見ていた景色が下になっていくことで、商会が浮いているのだと気づく。
「……鎖、研究所から盗まれた『囚われの暴君』でしょうか?しかし、あれは……」
豪快という一言で片づけるにはあまりにも規格外な光景であったが、そんな中にあってもアキカワは分析を続けていた。
だがバニスは違った。
ジーバの思惑はここまでくればバニスとて分かっている。このまま建物ごと『秘宝』を盗んでしまうつもりなのだと。
だがそれよりも、『聖檻』が解除されないことが問題であった。
アキカワを守ること。
それがバニスの役目であり、アキカワの妻に頼まれたことである。
このままでは戦闘を苦手とするアキカワを抱えたまま、怪盗スケルトンと対峙することになりかねない。
バニスは『聖檻』に手を置き、待った。
ぐんぐんと上昇を続ける国営商会。バニスは焦れる心を押さえつける。
そして、障壁直前で、ようやく『聖檻』が解除される。
バニスはアキカワを横抱きにして、鎖の隙間から飛び降りた。
驚くアキカワに説明している暇などない。
落下による内臓が偏る不快感と肌を切るような寒さ。
迫る地面。
バニスは脚の強化を最大にし、精霊魔法で軟着陸を試みた。
四角いドーナツ型の建物だけが残った国営商会の真上、街を覆う『エーベの祈り』を越えたところに、残りの細長い建物が飛んでいた。
地面ごと鎖でミイラのようにされた姿で。
マルノヴァの防衛隊は国営商会を撃つわけにもいかず、対空砲火を緩めるほかない。三階大広間の展示物はジーバに備えて多くが複製品にすり替えられていたが、『秘宝』といくつかの大きな貴重品は囮として残されていた。それを知っているがゆえに防衛隊の指揮官は攻撃を躊躇う。マルノヴァ男はケチである。賠償の二文字が脳裏をよぎった。
飛竜騎兵も速度の鈍ったガジアジをここぞとばかりに追うが、首だけを向けて放ったガジアジの炎に呑み込まれる。
本気を出したガジアジの渦巻く火炎津波に飛竜騎兵は魔法障壁ごと炙られ続け、一騎、ニ騎と墜ちていく。
目の前に迫る火炎に飛竜騎兵の追撃は緩んでしまった。
飛竜騎兵が火炎を消している間に、巨大なボーンワイバーンは雪と雲の間に消えていった。
そもそもジーバが来ると分かっていてなぜ『秘宝』を移動しなかったのか。
予告状が届いた後に標的を動かすと、後日、必ず盗まれた。それも予告状もなしに、唐突に。その際の犠牲は計り知れなかった。
過去に数度、怪盗スケルトンが盗みを失敗したことがあったが、以後二度目の予告状で盗まれることはあっても、予告状もなしにその物品が盗まれることはほとんどなかった。
予告状に正面から対処したほうが効率的である。襲撃に怯え、警戒し続けるなど経費の無駄だというマルノヴァ上層部の意向であった。『聖檻』で絶対に侵入できないほどに国営商会を固めなかったのもそのためである。
『聖檻』はかつてハヤトが討伐し、一部をアルバウムに有償で譲ったドラゴン型の怪物の骨を加工して発動媒体と発動媒介にしており、今後手に入る可能性は極めて低い。アルバウムの秘匿技術を使って、ジーバが秘宝を諦めるまで『聖檻』を発動し続けることも出来なかった。
リュージは揺れる国営商会の中で状況を掴めないでいた。窓は鎖のようなもので覆い隠されて確認もできない。
そんな隙をついて、イルルがリュージの顔面に突き刺さる。
否、それはリュージの鼻先の十センチほどのところで止まっていた。
雷撃も、岩をも抉る螺旋も届いていなかったが、リュージは舌打ちをして飛び退る。
「相変わらず逃げ脚だけは早いな」
「……てめぇ、なにしやがった」
いつのまにか『聖檻』が解除されていた。
ジーバは先程のリュージと同じように長箱に悠々と近づき、手を置いた。
「この建物ごと盗んだまでのこと。外は、ああ、見えないのか。その過程で貴様の切札らしき自律魔法の条件が崩れたのだろう」
発動してしまった自律魔法を解く方法は三つあった。
対象の自律魔法を打ち消す、専用の自律魔法を用いる。
対象の自律魔法の耐久力以上の攻撃をぶつける。
そして、『自律魔法の成立条件を崩すこと』。ジーバが行ったのはこの三つ目の方法であった。
ジーバは『囚われの暴君』で土地ごと国営商会を強奪し、同時にリュージの自律魔法を崩していた。
ジーバは予告状を出す半年以上前から、国営商会直下の地中に魔法媒介を仕掛けておいた。精霊魔法は使えず、自律魔法とはいえ使えば気づかれて警戒されてしまうが、イルルならばドリルのように地中を掘り進むことで、誰にも察知されずに魔法媒介を設置することが可能であった。
『囚われの暴君』
接近発動、詠唱、魔法陣、魔法媒介の設置、指印、そして術者の血肉を必要とする禁忌ともされた自律魔法である。
遥か昔、ミド大陸を跋扈していたドラゴンを拘束するために開発された自律魔法であったが、発動の前準備の煩雑さゆえにドラゴンの中でも最も動きの遅い岩竜を拘束することしか出来なかった。
この自律魔法を開発した者はドラゴンに家族を奪われ、復讐を誓い、一心不乱に研究したと伝わる。
そして開発した自律魔法を作動させるためならば、目の前に岩竜がいようとも、指が捩じ切れようとも、そして血肉を捧げようとも憎しみに染まった顔で印を刻み、見事に岩竜を拘束したと伝わる。
だがミド大陸人種勢力圏に棲む岩竜が絶滅してからは、ドラゴン以上の大きさにしか発動しないという条件から他の魔獣に使うこともできず、特殊な指印や血肉を捧げるという非人道性もあって、アルバウムの研究所に封印されていた。
しかし、身動きもしない建物ならば拘束は容易である。
さらに骨人種であるジーバが発動した場合、指の印は容易に組むことが可能で、そもそも血肉が存在しないため、代償を払う必要もなかった。
このように人種が発動する場合と他人種が発動する場合では術の難易度が違うものがそれなりにあった。
ジーバがマルノヴァに骨を溢れさせた『葬列に並ぶ死者』もまた人種の間で禁忌とされている古い自律魔法である。
その効果は死体に一つ命令を与えて、動かすというもの。
だが、複雑な命令は出来ず、死体に生前の力もない。ただの死体が最低限動いているだけであった。
しかも命令をこなした後はただの死体に戻ってしまい、ただでさえ発動には新鮮な死体が必要であるために放置すればアンデッド化した。
死体を弄ぶことへの忌避感、アンデッド化の危険、剣も持てないような死体の脆弱性等と問題点が多いために封印されていた。
しかし、開発した人種や保持していたアルバウムの研究者は勘違いをしていた。
『葬列に並ぶ死者』の条件は魔法陣を刻んだ『新鮮な死体を操ること』ではなく、魔法陣を刻んだ『術者に近い同質の物体を操ること』であった。
人種が命じることが出来るのは同系人種の死体のみ。獣人種が命じることが出来るのは同系獣人種の死体のみである。
ではジーバ、骨人種が扱うとどうなるか。
骨が動き出した。
骨人種と同質であろう、骨が。しかも人に限らず、獣骨も。もちろん全ての骨ではなかったが、ジーバも首を傾げたくなったほど、様々な骨に命令を一つ与えることが出来た。
『囚われの暴君』しかり、『葬列に並ぶ死者』しかり、なぜ条件の誤認が起こったのか。
一つに自律魔法の研究者はほぼ人種であったため、死体を操るものだと勘違いしてしまったこと。その秘匿性ゆえに論文のように多角的な検証を行えなかったということ。そして、自律魔法の開発方法にも原因があった。
自律魔法の開発は魔法の形を想定し、それに近い効果を持つ既存の魔法式から要素を抽出し、言語、単語、言葉を細かく吟味しながら、気の遠くなるような無数の組み合わせを試す。
さらに幾何学模様と文字や記号を組み合わせた魔法陣、様々な材質の魔法発動体や魔法媒介、特殊条件なども組み合わせていくことになり、成功は偶然に大きく左右された。一人の研究者が一生の内に開発できる自律魔法は一つ開発できれば上出来、二つできれば神の思し召しとすら言われている。
そしてそうやって出来た自律魔法は開発者が知る限りの条件と魔法効果を有しているが、それ以外の目立たない条件や効果は開発者とて分からなかった。
ジーバがこれまでに用いた『昼月の新月』、『忌み子の亡骸』、『二対の碧眼』もそんな自律魔法で、自律魔法の中でも消費魔力は少なめだが、特殊な条件のせいで禁忌とされていた。
「随分と耐久力に自信があったようだが、笑わせてくれる。建材の劣化、加工の手抜き、修復の未熟。それでもその辺りの飛竜程度なら凌げるだろうが――」
ジーバは言いながら、イルルを振るった。
雷撃を纏ったドリルウイップはリュージには向かわず、商会の天井を穿つ。
それが二度、三度と振るわれると、四方の隅を破壊された天井がバラバラと崩れ落ちてきた。
いかに堅牢に作られた建物とはいえ引っこ抜かれた際に建物は脆くなっており、さらに内側も構造上脆い部分を穿たれては耐えることなど出来ず、呆気なく崩壊した。
「あまりにも、お粗末だ。増長するにもほどがある」
先刻まで天井であった瓦礫が頭上から降り注ぎ、粉塵が舞う。
リュージは見えざる手で瓦礫を払い、蔵人は分厚い氷のかまくらで耐えた。
雪が天井のなくなった三階大広間に舞い降り、激しく降り積もる。
頭上には暗灰色の雲があり、鎖を掴んでホバリングするガジアジもいる。
ジーバの言う通り、国営商会は空を飛んでいた。
「くっ」
リュージは知らぬ内に後退りしていた。
天井を壊したついでとばかりにジーバはイルルを振るい、長箱の底から伸びる鎖の根元、赤い絨毯の敷かれた床を砕く。
それを見ながら、リュージは悔しげに奥歯を噛み締める。
逃げ場はなかった。
背後の出入口は氷で固められており、それを砕いている暇などない。
抜けた天井から逃げようにもジーバがそれを見逃すとは思えない。蔵人と雪白に協力させてようやく五分を保っていたに過ぎない。逃げられる保障などなかった。
リュージは声を絞り出す。ポケットに潜ませておいて双子石が割れていた。
「……知っていたのか」
自律魔法の発動条件が建物を強引に引っこ抜くという方法で崩された。国営商会の内部構造を知られていた。偶然と考えるほどリュージの頭はお花畑ではなかった。
「いつの世も愚か者は多い」
ジーバが暗に裏切りを仄めかすと、リュージは舌打ちをした。
だが実際のところ、ジーバと、怪盗スケルトンと取引する相手など裏社会くらいにしかいない。今回に限っていえば、マルノヴァに裏切り者はいなかった。
ジーバの耳元にふわりと何かが舞い降りる。
だが一見すると、そこには何もいない。
しかし見えなくても確かに、背に蝶の羽のある小さな人骨が飛んでいた。
イーブルとジーバに名付けられたそれは、生前、掌大の小人に蝶の羽を持った、まさしく物語の妖精のような姿をしている、未発見の魔獣であった。
この世界の妖精は精霊と魔獣の中間とされ、ほとんど人前に姿を現すことはない。せいぜいがエルフとひっそり繋がりを持つ程度であった。
しかし妖精に骨はない。
つまりイーブルは妖精ではなく、妖精に擬態した妖精モドキ、魔獣の一種であった。肉体を持ちながら、完全な透明で、匂いもなく、身動きしても物音一つない。生まれてから死んだ後も、透明であった。
その性質から今まで発見されず、ジーバがイーブルと出会ったのも『死霊交渉』の影響であり、偶然でしかない。
このイーブルの存在が、ジーバの情報源であった。
突然、入口を塞いでいた氷と力を失った骨が吹き飛び、特隊がなだれ込む。
訓練された動きでリュージを中心に守り、ジーバと相対した。
十人の特隊を侍らせ、張り詰めた気が微かに緩んだリュージを見て、ジーバは鼻で笑う。
「臆病者の地が出てるぞ?」
「……黙れよ」
リュージは蔵人と雪白を振りかえる。
「指咥えてボーとしてんじゃねえよっ!……ここを凌げば黙っていてやる。好きにしろ。オレはお前に二度と関わらないと約束してやるっ」
逃げるためには蔵人と雪白の協力が必要だった。
だが、特隊とリュージのほかに誰もいない状態では蔵人が敵に回ることもありえた。
「……」
蔵人は雪白に頷き、そして氷精魔法の氷槍を頭上に構えた。
明らかに嘘と分かるリュージの声に、蔵人が敵とも味方とも言えない構えをとっている間に、ジーバは長箱の底に残った鎖を持ち、イルルを頭上に放つ。
そしてガジアジの掴んだ四本の鎖の一本をイルルに噛ませると、そのまま跳び上がり、破壊された天井の縁に立った。
雷撃が十本、迸る。
『聖檻』を大規模発動していた特隊には集束式を使うまでの余裕はなかった。
だが雷撃はあっさりとジーバの振るったイルルと掲げた長箱に吸いこまれるように消えた。長箱は魔法抵抗力の高い魔法合金で作られている。対魔法の盾としてはこれ以上ないほどに優秀であった。
そこへ幽霊の手がイルルと長箱をすり抜け、ジーバの目の前で巨兵の手となり、殴りつける。
纏っていた障壁が破壊されるが、ジーバは腕を大きく振るい、即座にイルルをリュージに放つと同時に小さく呟いた。
纏った布がはためく。
布の裏には魔法陣が描かれており、それを綺麗に靡かせることでジーバは障壁を展開していた。蔵人の影の魔法陣と似たようなものであるが、戦闘中に纏った布を綺麗になびかせ、なおかつ攻防を同時に行うのは容易なことではなかった。
イルルの攻撃はリュージを握ったもう片方の巨兵の手に阻まれるが、ジーバは障壁の再展開を終えていた。
氷槍が飛ぶ。
次々に撃ち込まれる氷槍はまるで同時行使のようであったが、頭上でホバリングしていたガジアジの炎球によって一瞬で溶かされる。
そこへ、雪白が飛びかかった。
ジーバの頭蓋骨に雪白の爪が炸裂する、誰もがそう見えた瞬間、ジーバはしゃがみながら、よっと頭蓋骨を外して、雪白をやり過ごす。
何事もなかったかのように手に持った頭蓋骨を元に戻すジーバ。
雪白は足の膜を広げて滑空し、蔵人の元に戻ってくるとどこか呆れたような顔でジーバを見ていた。
蔵人が裏切ることなくあっさりと協力したことに安堵と疑心を抱きながらもリュージは怒鳴る。
「てめえ、土杭でもなんでも使いやがれっ!」
相手が炎を扱うというのに蔵人は氷槍しか使っていなかった。そのためガジアジに溶かされてしまうのだが、蔵人はそれでも牽制くらいにはなるだろうと氷槍を使っていた。
現にその速射される氷槍はガジアジの手を煩わせていた。
「足元が崩壊するぞ?お前は無事かもしれないが、俺はただじゃすまない。ごめんだな」
存在するものを使うほうがはるかに魔力は少なく済む。だが、足元の石を使ってしまえば、足場は崩壊し、空に投げ出される。それならば膨大に降る雪を利用した方が効率的であった。さらにいえばこの建物の石材は非常に操り辛い。魔力を無駄に浪費するのだから使いたくないのも当然であった。
リュージは舌打ちをして、憎々しげにジーバを睨む
巨兵の手、精霊魔法、雪白。
イルル、ガジアジ、ジーバ。
攻撃をし合ってはいるが、お互いに膠着状態であった。いや、ジーバにじわじわと嬲られているようにも見えた。
それが分かっているからこそ、リュージは苛立っていた。
異変が起きたのは、そんな攻撃を数度繰り返したときのことだ。
特隊の一人が膝をついて、倒れ込んだ。唇を震わせ泡を吹き、痙攣している。
雷撃にでもやられたかとリュージが舌打ちするが一人、また一人と特隊は崩れ落ちていった。
「な、なんだ。何が起こってやがっ――」
戦闘の高揚、焦燥、苛立ち、高空のかじかむような寒さ。
重なり合った要素がリュージの感覚を鈍くさせていたが、異常事態にようやく気がついた。
手先が痺れていた。
「――毒かっ」
なぜと考えそうになるが、リュージは慌てて懐を探り、いくつかの錠剤を口に放り込む。
ジーバが盗みに毒を使ったことはないが、念のためにといくつか用意していた解毒剤であった。だが――。
リュージは膝から崩れ落ちる。
意識が薄れていく。
最後に見た光景は骨と戦う白い魔獣だけだった。
特隊は全て、倒れていた。
後方では蔵人も倒れ、喉を押さえて血を吐いている。
特隊も蔵人も毒の症状が違っていた。
リュージはかすむ意識でなんとかポケットを漁ろうとして、しかしポケットの中に手を入れたところで意識を失った。
雪の降る灰色の闇の中を、装甲魔獣車を曳いた二頭の鱗馬が白い息を荒く吐き出しながら、猛然と駆けていた。
御者台にはバニスが、魔獣車にはアキカワの姿があった。
アキカワたちはどうにか無事に国営商会から飛び降りた後、アキカワが特隊の一人につなげておいた『指線』を追うために、リュージの乗ってきた装甲魔獣車を強引に奪い、マルノヴァを飛びだした。
国営商会は空を飛び続けているらしく、アキカワはバニスに方向を指示して追い続けた。
どれだけ追い続けたか分からなくなった頃、バニスが遠くの空に下降し始めていた国営商会を見つける。
竜山の麓の森の近くに、引っこ抜かれた国営商会の建物があった。マルノヴァから見える竜山のちょうど裏手である。
バニスとアキカワは魔獣車を降りて急いで商会を駆けあがると、瓦礫と引き裂かれた赤い絨毯の上に倒れ伏す男たちを見つけた。
蔵人と特隊であった。
蔵人の傍には雪白が寄り添って雪を払っていたが、特隊の十人の上には雪が降り積もっていた。
だがそこに、リュージの姿はなかった。
翌朝。
マルノヴァは雪と骨に埋もれていた。
昨夜の喧騒が嘘のように静まり返ったマルノヴァの街はどこか茫然としているようでもある。
だが、そんな街にも夜明けの光は差し込む。
夜が明ける前から雪と骨の始末を始めていた街の神官たちは、その光に希望を見出し、空を見た。
「――ひぃっ」
神官の一人が嘆くような悲鳴をあげる。
マルノヴァで最も高い尖塔を持つ、ゴシック建築風の教会。
そこにリュージがいた。
サンドラ教の象徴である聖剣を模した十字剣に貫かれ、尖塔の屋根に縫いつけられた無残な姿で。