84-討伐作戦前夜
以下、あらすじ。
港湾都市マルノヴァでリュージという勇者に見つかり、脅迫されてしまった蔵人は、一度断った怪盗スケルトン討伐作戦に参加することに。
監視役としてアキカワがついたが……。
蔵人がいない間、討伐作戦までアキカワがリュージを誤魔化し、情報がどこかに流されないように見張ってくれるという。
アキカワの言葉の裏にそのまま逃げてくれても構わない、というニュアンスが含まれているのはさすがに蔵人も分かった。
情報が流れたらと考えると、暗澹たる気持ちになる。
だが、一生を怯えて逃げ続けるのも気に入らない。
蔵人が思いつく限りで、膝を屈することなく、今までのように生きるための選択肢はそう多くなかった。
魔獣厩舎で雪白とアズロナを引き取り、マルノヴァを出る蔵人。
くいくい
門から離れると蔵人の目の前で雪白の尻尾が器用に動き、自らの背に乗れと促した。
非常に、珍しいことである。
蔵人は驚き、くいくいと小気味よく動く雪白の尻尾を手に取ると、掻き撫でた。
なぜに撫でるっ、と雪白が驚きと気持ちよさと不可解さをないまぜにした顔で振り向く。
尻尾の先にいたアズロナも撫でてーとばかりにぎうぎうと鳴き、蔵人は尻尾と一緒にアズロナの鬣を撫でる。
「いや、珍しいこともあるなと」
絹の滑らかさとカシミアの柔らかさを併せ持ったような雪白の尻尾の手触り、蔵人の手は止まらなかった。
だからなぜ撫でるっ、と葛藤を見せながらも少しイラついた様子の雪白。幾分、躊躇いがちに蔵人の手を強引に振り払うと、尻尾で背後を指し示した。
なんだ、と何気なく振り向こうとした蔵人の首に、見るな馬鹿っと雪白は尻尾を巻きつける。
――ゴキャッ
「ごっ」
右から振り返ろうとしていた蔵人の首が、尻尾に強制されてぐるりと左側に捻じ曲がった。
首を抑えて蹲る蔵人。
あっ、と洗い物中に皿を割ってしまった古女房のような顔をする雪白だったがすぐに、まあいいかと切り替えて蔵人の胴に尻尾を回すと背に乗せた。
背後にある、かすかな匂いとかすかな気配。
雪白はそれを見過ごして屈辱を味わったのを忘れていなかった。
人と戦う微妙な距離感。
敵か、味方か、無関係か。戦力の多寡は。戦うべきか否か。殺していい状況か、悪い状況か。目撃者の有無。相手の社会的背景は。
獣とは違って複雑な背景を持つ人種の不可解な行動を判断しようとして迷い、蔵人の判断を待って、あの時は遅れを取った。
もう、迷わない。
巧妙に隠された匂いと気配を感じて力んでしまい、つい蔵人の首を曲げてしまったが。そう、奴等のせいで蔵人の首は曲がったのだ。雪白はそう思うことにした。
実際のところ、連中をここで始末することはできなかった。
蔵人も今は我慢だと言っていた。
ならば、逃げるのみである。逃亡について、蔵人の判断を待つ必要もない。
雪白は首を抑えて呻く蔵人を背中に固定すると、脚に力を込める。
後脚の筋肉が隆起し、大地を蹴った。
土埃が舞い上がった時、そこに雪白はいなかった。
唖然としたような監視者の気配に少しだけ鬱憤を晴らした雪白はさらに加速する。
本気で駆けた。
行き先を絞られないようにバルティス方面に疾駆した。
アキカワの追跡系加護『指線』のことを考え、出来るだけ遠くに、そしてより速く。
アレルドゥリア山脈で白幻と謳われたイルニークが本気で逃走に入ったら、おおかたの人種など姿を捕えることすら不可能である。
白い影の噂なんてものが立つことすらなく、雪白は距離を十分に稼いでから、悠々と竜山に帰還した。
蔵人は雪白の背にいながら首の痛みこそすぐに治したが、高速移動する雪白の上では身動きも取れず、瞬きしている間に変わる景色にごくりと唾を呑んだ。
さながら新幹線に跨っているようなものである。
だが獰猛な笑みを浮かべて上機嫌な雪白に止まってくれとも言えない。
尻尾に掴まれたアズロナも何故かぎーぎーと喜んでいる。
蔵人は諦めて、雪白の背をしっかりと掴み直した。
出来ることといえば、雪白の邪魔にならないような騎乗を試行錯誤することだけであった。
乗り物酔いにはならなかったが、どこかげっそりした顔で蔵人はぽてぽてと隠れ巣の洞窟を進む。雪白とアズロナは満足げな顔で蔵人の後ろをついてきていた。
蔵人はある目的があって竜山に帰ってきた。
討伐作戦への強制参加。
アキカワの殺害命令。
おそらく命令を聞こうが聞くまいが、討伐作戦が終われば情報は流出する。
それについて蔵人はリュージの脅迫の経緯に不可解さを感じているが、ハヤトを追い落とすためであろうが、アキカワを殺すためであろうが、リュージにとって自分が道具であることに変わりはない。
いや、道具であるためにどう転んでも、逃げ場がなかった。
蔵人は無意識の内に眉間に皺を寄せていた。
情報を秘匿するために自分を殺そうとしたエリカとクー、そしてそれを庇ったハヤトを思い出したのだ。
状況は違えど、あの時と同じように『詰んで』いることには違いはなかった。
あの時は神官勇者のアオイがオーフィアやマクシーム、アカリと共にハヤトたちに対する抑止力となったことで一応の解決はした。
だが今回、彼らはいないし、いたところで前回とは事情が違う。
一人ではどうにもならないことは分かっているが、蔵人には利害の一致を含めても頼れる人間は少ない。勇者相手となれば、なおのこと少なくなる。
まず浮かんだのはアキカワだったが、すぐにその考えは捨てた。
現状維持を保ったまま、情報流出を完全に阻止する。
蔵人の勝利条件はそれだけだ。
アキカワには蔵人の行動の自由、現状維持を担保することが出来ない。
それは半分程度、蔵人自身にも責任はあるが、それが蔵人にとっての譲れない条件だった。
アキカワがダメとなると後は一人しかいないが、今の関係を変えてしまうのは気が進まなかった。
それでも……。
蔵人は洞窟に響く、かすかな水の音に足を止めた。
そしてげっそりしていた顔を引き締め、露天風呂につながる風呂の入口を土精魔法で開き、さらに奥にある露天風呂への入口を開いた。
骸骨が、気持ちよさげに露天風呂につかっていた。
横ではガジアジが大きな顎骨をガコンと開き、欠伸をしている。
予告の日はもうすぐだというのに余裕綽々であった。
「湯を借りているよ」
骸骨姿のジーバは露天風呂に浮かべた灰皿に煙木の灰を落としながら、気安い様子でそう言った。
「ああ。……少し話があるが、聞いてくれるか?」
いつもとは違う張り詰めた表情の蔵人を見て、ジーバは頷いた。
蔵人が洞窟の居間で待っているとジーバが女の姿で、いつものように黒い薄衣を纏って蔵人の正面に座った。
胡坐をかいてはいるが、上も下も見苦しい部分はかろうじて見せない、そんな所作であった。
ジーバは金髪の入り混じったダークブラウンの髪を掻き上げ、蔵人と向き合う。
「で、話とはなんだ?」
蔵人はジーバの真っ直ぐな視線を正面から受け止める。
「勇者を、どう思う?」
「唐突だな。……だが、まあ一言で言うなら、邪魔だな。奴等のせいで手間が一つも二つも増えた」
「……そうか。なら、討伐作戦中に勇者を殺してくれないか?」
脅迫状を受けたときから考えていたことを蔵人は言って、深く頭を下げた。
奪いに来た、奪おうとしたのだから、どんな手段を用いてでも抗うだけであった。
でなければ、自身の人生が終わる。
ゆえに蔵人はリュージを殺すことになんら痛痒は感じなかったし、感じる必要があるとも思わなかった。どちらかといえばジーバにこんなことを頼む方が心苦しかった。
ここは日本ではない。非難する者がいたとしても蔵人の心には届かない。両親、友達、親戚、知人、世間、社会、未来。この世界には蔵人が引け目や負い目を感じるものなど何一つなかった。
女連れで道を歩いていたら、チンピラに囲まれた。助けはなく、逃げることもできない。自分が逃げるか倒されれば女は犯され、チンピラたちを殺せば殺人罪に問われる。
なんの罪も無い秘密の暴露を理由に脅迫された。秘密を暴露されれば世間から嘲笑されて差別され、脅迫相手を殺せば殺人罪に問われる。
日本にいた頃の蔵人ならば、どちらも『詰んで』いたことである。
尊厳を殺されるか、世間的に死ぬか、社会的に死ぬか、そのどれかである。
どんな理由があっても人を殺してはいけない。
尊いが、理不尽であった。
日本では自力救済が法的にも世間的にも忌避されていた。少なくとも蔵人はそう感じていた。
まるでチンピラを峰打ちで倒せないことが罪であるかのように、脅迫を跳ね返す知恵やコネがないことが罪であるかのように。
だがこの世界は違う。
いや、正確には違わないのかもしれないが、この世界との繋がりの薄い蔵人には同じことであった。
自分を救うために、危害を与えた相手を殺す。それだけである。
蔵人の言葉を聞いた途端、良き隣人であったジーバの目が、すぅと細められた。
業火の中を歩いてきた揺るがぬ意志が圧迫感となって蔵人に圧し掛かる。
ジーバと比べればぬるま湯を生きてきたのではないかと、蔵人は目を逸らしたくなった。
今、蔵人の前にいるのは良き隣人であるジーバではなく、北部の国やレシハームを相手に一人で戦う怪盗スケルトン、その人であった。
白月の八十八日。
蔵人はいまだ復調しない身体を引きずって竜山を降り、バルティスでエカイツから飛竜の素材を使った脚まわりの装備を受け取った。
膝から下を覆う濃緑色の脚装備は軽く、堅い。討伐作戦を控えて、心強かったことは言うまでも無いことであった。
「――じゃあ、頼む」
蔵人は様子を見に来たレイレにちょうど良かったと言って、アズロナを預けた。
「……いいのかい?」
レイレの腕の中で切なげにギュゥギュゥと鳴くアズロナを見て、レイレは躊躇う。
「さすがにな」
今回ばかりはアズロナを守りながら戦う余裕はなかった。
「討伐作戦ったってあんたのランクなら大したところには回されないと思うよ」
「まあ、万が一だ」
一つ目をじんわりとさせて今にも泣きそうなアズロナ。
だが自分が無力だと分かっているのか、無理についてこようとはしなかった。
それでも鳴いてしまうのは、気持ちが理性についてこないためである。
蔵人はアズロナの鬣をかりかりと撫で、雪白の尻尾がアズロナの頭部を一つ撫でる。
そして蔵人たちはエカイツの工房を後にした。
アズロナはその背を見つめた。
そして蔵人が出て行った後もずっと見つめていた。
その日の夕方頃、アキカワのいる宿に帰ってきた蔵人を出迎えたのは、なんとも言えない顔をしたアキカワ、そして苛立った様子のリュージだった。
身体についた雪を払う蔵人につっかかる。
「自分の立場が分かってるのか?あん?」
アキカワを殺すことなく監視を撒き、どこかに消えた蔵人に対し、リュージは脅迫状を匂わせて恫喝した。
蔵人はつらっとした顔でのたまう。
「だから戻ってきただろ。怪盗スケルトンを相手にするのになんの準備もなし、というわけにはいかないからな」
「てめぇ」
「大丈夫だ。約束は守る。討伐すればいいんだろ?」
蔵人は暗に討伐作戦中にアキカワを殺すと仄めかした。勿論、そんな気は微塵も無い。
リュージはそれを聞いてすっと表情を消し、蔵人の脇を通り過ぎる。
「てめえもこっちの世界に来て勘違いした口か?調子にのんなよ。てめえの人生はオレ次第なんだからな」
耳元で低く囁いた。
「討伐作戦のことはアキカワから聞け」
それだけ言い捨ててリュージは宿から出て行った。
「尾行を撒かれた我々が言えたことではありませんが、いいのですか?」
リュージが宿から出るとするりとその背を守るように立った特隊の隊長が小さく言った。
「まあ、放っておけ」
特別捜査隊。
通称『猟犬』。
勇者に否定的な者たちがリュージに従う特別捜査隊の隊員たちを揶揄した言葉で、リュージが拾ってきた最底辺の狂信者たちである。
アルバウムのスラムや裏社会といった最底辺にいながら、狂信的な勇者信奉者である彼らは力を示したリュージに絶対の忠誠を誓っている。
彼らの信仰は最底辺の生活の中で歪んでいた。
魔王を倒したとされる勇者は強さの象徴である。
そして社会の最底辺や裏側に生きていた彼らにとっての強さとは何をしても、何を奪っても生きる強さであった。
一万年後に現れる予言の勇者の話も相まって、強く、そして手段を選ばないリュージはまさしく彼らにとって理想の、信仰を捧げるほどの勇者であった。
リュージによるブートキャンプにも耐えて残った彼らは、それまでの生活も相まって優秀なリュージの手足に成長していた。
能力、そして何より忠誠も飛び抜けた猟犬すらリュージは信用せず、蔵人の詳細を教えていなかった。
だがそのことについて猟犬がリュージに対して不信感を抱くことはない。
彼らにとってリュージは神にも等しいのだから。
リュージは蔵人を恫喝こそしたが、露にした感情ほどに苛立ってはいなかった。しょせんはうだつの上がらない用務員である、期待などしていない。
利用するだけ利用し、絞りつくす。そして一番良いタイミングで反ハヤト派に高く情報を売りつけ、目障りなハヤトを追い落とす。
蔵人を偶然、マルノヴァの門で見つけたときは、そのつもりだった。
逃げられては厄介だと、脅迫したのだ。
身柄を押さえていたほうが利用価値が高く、絞り取ることも出来る。
だからまず、殴っておいた。
大抵の人間は暴力に委縮する。リュージは日本にいた頃からそれを身を持って知り、用いていた。
暴力に慣れていない一般人が二年や三年安穏な場所で努力したところで克服できるようなものではないことも。それこそ戦場にでも放り込まれない限りは。
アルバウムに篭っている召喚者たちがそうである。平和な日本にいた頃のまま変わろうとしない。
リュージには蔵人も同じように見えた。
召喚者たちの中で禁句になっているような立場であるにも関わらず、無警戒にも人の多い街に出てきているのがその証拠だった。おおかた善良な村人にでも拾われて、傍にいる魔獣を運よく拾い、ぬくぬくと生きてきたのだ。
日本でもこちらでも大して役に立ちもしないのだから、せいぜい使い潰して、ハヤトを追い落とすために利用してやればいい。リュージはそう考えていた。
リュージは日本にいた頃からハヤトが気に入らなかった。
まるで世界で一番自分が不幸だという顔をして、我が物顔で好き放題にしている姿を見ると吐き気がした。
この世界に来てからもそれは変わらなかった。加護を盗んで成り上がり、興味のなさそうな顔をして女を侍らしている。後悔してますって面をしながら、やることはやっている。
そのくせ、リュージが好きにやろうとすれば邪魔をした。
リュージにとってハヤトは目障り極まりない存在だった。
だが、それを追い落とすことができる。
おまけに蔵人という絞り取れそうなオマケまでついているとあって、リュージは上機嫌であった。
しかしそれも、マルノヴァにアキカワがいると知るまでのことだった。
アキカワもリュージがいることに驚いていたようだが、リュージのほうも予想外だった。
アキカワがいる。
それだけで、蔵人の使い方を変えなくてはならなかった。
リュージとて他の召喚者と比べれば勇者という称号に頼らないで生きているが、アルバウムでハヤトとアキカワを無視して無理を通せるほどの力はない。今はまだ二人の目を掻い潜っているに過ぎなかった。
忌々しくはあるが、リュージはそれを自覚していた。
もはや蔵人のことなど二の次である。
ハヤトを追い落とすという最大の目的が揺らがないようにしなければならなかった。
討伐作戦が終わるまではアキカワの同じ召喚者に対する甘さを利用して協力体制を取り、討伐作戦が終わり次第アキカワから離れ、タイミングを見計らって蔵人の情報を反ハヤト派に流す。
討伐作戦では怪盗スケルトンの足止めを蔵人とあの猟獣にさせる。
そしてあわよくば、用務員にアキカワを殺させる。
蔵人がアキカワを殺した場合、真実が漏れないように蔵人は死体で反ハヤト派に渡すことになるが、これから先アキカワがいないと考えれば十分にお釣りがくる。
可能性として一番高いのは蔵人が逃げる、もしくはアキカワに保護されることだが、それでもリュージに損はない。
リュージが蔵人の情報を握った時点で、リュージが損をすることはないのだから。
それにしても、リュージには蔵人の行動が分からなかった。
逃げなかった。
アキカワを殺しもしなかった。
かといってアキカワに保護された様子もない。保護されるならば討伐作戦に参加する必要などないのだ。
残るは、反逆か、それとも思考停止してしまったか。
リュージはクックッと嗤う。
特隊に呆気なく倒されるような奴に脅威など感じなかった。
連れている猟獣とて【聖檻】に封じられる魔獣ならば、『見えざる手』を破ることなど出来はしない。
リュージとて伊達にここまで生き延びてきたわけではなかった。
白月の八十九日。
昨夕から続いた雪がやむこともなくちらちらと降り続けており、『氷精の嘆き』を予感させるような空模様であった。
街は忙しい朝ということとは関係なく、どこかざわついているようであった。
「おはよう」
体調もようやく落ち着いた蔵人がアキカワと宿の一階で朝食を食べていると、ローブのところどころに細かな雪を付着させたバニスが冷たい外気を纏って現れ、蔵人の対面に座った。
「おはようございます」
「……おはよう」
「色々あったが、今日、明日とよろしく頼む」
「ああ」
蔵人とバニスが顔を合わせたのは討伐作戦の参加を強制されて初めてのことであった。
蔵人が一度強制依頼を断り、勇者の権限によって討伐作戦に参加せざるを得なくなったことをバニスも当然知っている。
褒められることではないが規則通りに強制依頼を断った蔵人に対し、勇者の権力を濫用するリュージへの怒り、それを見ながら動かないアキカワへのもどかしさ、そしていつか勇者と同じようなことをした自分に対して色々と思うところはあった。
自分の知らないところで何かが蠢いている感覚もあった。
だが、アキカワに手を出さないでくれと頼まれ、蔵人とも過去の一切を問うような真似をしないと約束してあった。
バニスは成り行きを見守るしかないことが悔しくもあったが、今はアキカワに任せることしか出来なかった。
朝食を食べ終わった蔵人たちは雪白を迎えに魔獣厩舎に向かった。
肌寒い朝であったが、門に向かう者たちは多い。
彼らは怪盗スケルトンの襲来に備えて近くの街や村に避難する者たちであった。
生活に余裕のある者たちはすでに避難していたが、彼らは生きるためにぎりぎりまで仕事をしていた者たちだ。避難したくてもそう簡単には出来なかった者たちである。
蔵人たちはそんな不安と緊張の入り混じった喧騒の中を無言で進んだ。
不安げな様子で門に押しかけた住民を手際よく捌くのは門番と見覚えのあるハンター協会職員だった。
蔵人は雪白を引き取りながら、つい凝視してしまう。
営業用であるのだろうが微笑みを浮かべ、丁寧に仕事をするエルフの女が、朝方の冷たく透き通った空気も相まって美しかった。
その視線をいつぞやのように察知し、煩わしげにこちらを睨むエルフの女。
すると、ああと得心したような顔をして、近づいてきた。
「感じたことのある不快な視線だと思えば、貴方でしたか」
蔵人の背後に寄り添う雪白を恐れることなくレティーシャは蔵人に声を掛けた。
「ああ、すまん」
「いえ、もう慣れましたので」
だらしない、とでも言いたげな雪白が尻尾で蔵人の背中をバシバシと叩いた。
「……聞いてはいましたが、ずいぶん大きな魔獣ですね」
「猟獣登録もしてあるし、頭も良い。住民に危害を加えるようなことはない」
「ええ、貴方より賢そうです」
口を開けば言葉のナイフで蔵人をざくざくと突き刺すレティーシャ。
蔵人がちらと後ろに目をやれば、雪白も同意するように頷いていた。
「……討伐作戦には参加しないのか?」
事実なのだから仕方ないとでも諦めているのか、蔵人は言い返すことなく別の話題を振った。
「しませんよ」
レティーシャは躊躇いなく言い切った。
「怪盗スケルトン、我々エルフは骨人種と呼びますが、エルフは彼らと敵対してはいませんから、参加する必要性を感じません。これはエルフの総意です。とはいえ、出向している先の協会に協力しないのもあれなのでこうして市民誘導と避難中の護衛をしているというわけです」
サウラン大陸でミド大陸北部の国とレシハームのやったことをエルフは把握していた。同じエルフである『月の女神の付き人』のオーフィアがサウラン先住民の自治区設置に動いたということもあり、そこから大陸でのことを知ることができた。
しかしエルフは他種族にあまり興味がない。そのため救済にも敵対にも動いていなかった。
「罰則とかないのか?」
「あればそれを口実に森に帰れたのですが、あいにくとないようですね」
エルフの里や森、ドワーフや巨人種の国、小人種の集落は特殊な立ち位置となっている。
各種族共、個人として他の国家に関与することは認められているが、国としてはどこの国とも偏ることなく交流する。どこか一国に国交を偏重させるようなことはなく、永世中立国のような立場を貫いていた。
多くの国が民主制に移行したミド大陸で、人種とは違うメンタリティゆえに民主制に移行することもなく、まるで人種とは違う時間の流れを生きているかのように、独自の生活を守っていた。無論、対外的なこともあってまったく変わっていないということもないが、人種と比べればそれは遥かに緩やかなものであった。
ミド大陸各地の森林帯に引きこもるエルフ。北部の寒い地域に多い巨人種。ミド大陸中央部の山岳地域に国を置いて鍛冶師を派遣しているドワーフ。特に住む場所の定まっていない小人種たち。
それぞれ魔法や狩猟、鍛冶や行商といった分野で関わっているものの、限定された範囲のことであった。
「……貴方も色々大変なようですね。それでは」
門の前で待つアキカワとバニスにちらりと視線をやってから、レティーシャは仕事に戻っていった。
雪白を連れた蔵人たちは視線を集めながら、街の東、港の近くにある国営商会に向かう。
大型の虎にも等しい雪白が街を悠然と歩いているのだから住民が恐怖を感じてもおかしくはない。
現に道の端を歩いている蔵人たちの前をふさぐ者は一切なく、ある者は目も合わせることなく早足に遠回りにすれ違い、ある者は怖いもの見たさでしかしやはり遠巻きにこちらを窺っていた。
そんな視線など意に介した様子も無く、雪白は尻尾をピンと立てて、興味深げな顔で街を見渡していた。
途中、街の中心部の広場ではいくつかの集団が集会のようなものを開いていた。
蔵人たち、いや雪白が広場の端に姿を見せるといくつもの視線が向けられる。
驚きと警戒。
そんな視線に晒されながらも、雪白はいつものように尻尾をゆらゆらと立て、まるで眼中にないという態度である。
挑発しているようにも見えなくもない。
鬱憤がたまっているのは分かるが、こんなところで発散されてはたまらない。蔵人は集団が絡んでこないように願っていた。
「……あいつらは」
「強制依頼で集められたハンターですね」
蔵人の問いにアキカワが答える。
「この街の大手クランである『翡翠の砦』、『蒼き船』、『光焔の導き』ですね。ここにいませんがいくつか、傭兵団も来ているはずです。国営商会以外は全てマルノヴァの管轄ですから、人海戦術で警戒に当たるのでしょうね」
国営商会に侵入を許すまではマルノヴァ、国営商会内がリュージの管轄であった。
マルノヴァなりのぎりぎりの譲歩でそういう形になったのだとか。
蔵人たちは何事もなく広場を通過する。
蔵人はどこかほっとし、雪白はつまらないなという顔をする。
雪白を連れた蔵人が絡まれなかったのはバニスのお陰であった。
無論、雪白の腕に嵌った深紅の環の効力でもあったのだが、紋章付きの盾と剣を持ち、軽鎧を着込んだバニスはあきらかに騎士に準ずる者である。
そんなバニスの連れである蔵人たちに絡む者などさすがにいなかった。
その建物の周囲には揃いの軽鎧を着込んだ巡視隊が警戒に当たっていた。そのせいか堅牢な砦のようにも見える。
蔵人が見上げている凸型の角ばった建物が蔵人たちが怪盗スケルトンを待ちうける国営商会であった。国営商会の両脇には同じ石造り倉庫が並び、目と鼻の先に大型帆船が舫われた船着き場もあった。
国営商会に入っていくアキカワとバニスの後ろを蔵人と雪白は追う。
入口に立っていた門番がぎょっとした顔で雪白を見るが、話が通っているのか止められることはなかった。
国営商会は正面から見れば凸型の三階建てであるが、実際の構造は大きな立方体の上にひと回り小さな立方体が重ねられている、立体的な凸型とでもいえるような建物であった。
一階の正面玄関に大きな階段があり、蔵人たちはそこを一つ、二つと昇っていき、内部を案内されることなく凸型の突起部分に当たる、三階に到着する。
アキカワが大仰に飾られた観音開きの扉を開くと、そこは大きな広間であった。
壁沿いに精緻な細工が施された鎧や剣、絵画や彫刻が立ち並ぶ。
中央には豪勢なシャンデリアが垂れ下がり、その真下に一抱えほどの白銀と青銀に輝く長方形の箱が一つ置かれ、その隣にリュージがどこからか持ってきた粗末な椅子に足を組んで座っていた。
リュージはアキカワとバニス、そして蔵人と雪白の姿を見ても鼻を鳴らすだけで何も言わず、顎をしゃくるだけである。
そもそもアキカワから伝えられた蔵人の役目は、この大広間で怪盗スケルトンを足止めしろ、というものである。それ以外は一切、教えられていない。
それはアキカワも同じであった。
そもそもアキカワはアドバイザーであり、アキカワの助言を聞くか聞かないかはリュージの自由であった。それに。
「邪魔だ。上にいろ」
というリュージの言葉通り、アキカワは年齢的なこともあって戦闘には向かない為、屋上にいることになっていた。
そのため、リュージの細かな作戦を知らなかった。
実際、アキカワが現場にいる必要はなかったが、今は事情が事情である。いつものように奥に引っ込んでいるというわけにはいかなかった。
リュージにしてもアキカワは足手まといであるが、蔵人に殺させる最後の機会を見逃すのもつまらないとアキカワの参加を許可した。
合理的とは程遠い、微妙な思惑が絡み合っていた。
後は待つしかない。
蔵人は部屋に飾られた貴重品を見て回る。
雪白もついてきてはいるが、意識は常にリュージに向けられていた。もしなんの事情も斟酌しなくていいのなら、即座に噛み殺していたかもしれない。
そんな敵意を押し殺す雪白を見て、リュージが鼻で笑うものだから余計に雪白の不機嫌が増し、結果として蔵人がご機嫌取りをすることになる。
こんな状況になったのも自分のせいであるのは間違いないため、蔵人とて雪白のご機嫌取りをすることに否やはない。
この場でブラッシングをするわけにもいかない。
蔵人は雪白の耳元でやれあの宝石は雪白に似合いそうだとか、あの衣なんてどうだろうか、等と褒めた。
だが蔵人は女性を口説くのが上手いわけではない。むしろ下手である。雪白に対する褒め言も若干、というかかなり的を外していた。
それでも雪白とて蔵人の心配りを察することはできる。雪白は仕方ない、とでも言うように敵意を引っ込め、リュージを無視することにした。
それを見て、リュージが再び鼻で笑う。雪白を所詮は魔獣としか思っていなかった。
しかし今度は、雪白が鼻で笑い返した。
チンピラ風情が吠えておるわ、と女王様は言いたげであった。
獣如きに笑われ、リュージが若干、イラッとした様子を見せる。
雪白はそれで溜飲を下げたのか、以後リュージに反応することはなくなった。
まるで、小物に用はないというような表情で、それが一層リュージの勘に障るのだった。
そして、――零時。
大広間に置いてあった煌びやかな大時計の鐘が、ポロンと軽やかな音を立てた。
雪降るマルノヴァの夜空に、ドラゴンとも見紛うばかりの巨大なボーンワイバーンが姿を見せた。