75-収穫祭②
ファンフは気づいていたが、気づかないフリをしていた。
当主が蝙蝠系獣人種の子を殺し、ある人種の男の助太刀を得た母親に仇として討たれた。
次期当主もごり押しに近い形で助太刀の人種に対して決闘を行い、殺された。
そして父はガルーダ王の命令を無視して助太刀の人種を闇討ちしようとして、粛清された。
それが事実なのは、何度も聞いたので分かっていた。
だが自分はもう一人ぼっちだ。
例え逆恨みだとしても、全ての元凶であるあの人種の男さえ殺せればいいと思った。
あの人種さえいなければ、家族を失うこともなかった。
だから、挑んだ。
だが決闘で敗れ、命を拾われ、そこでようやく気づいた。
一人ではなかった。
ジョゼフさんが、アガサさんが、ダウィさんが、月の女神の付き人さんたちが、分神殿の周りの人たちが温かく支えてくれた。
ジョゼフさんは決闘を汚したことを陰で悪く言われても、お前が生きていてくれるだけでいい。名声などどうでもよいのだ、と言った。
アガサさんはとても厳しく、自分に対して正邪をきちんと分けて事実を何度も説明してくれ、この街を離れないのも生きていくためだ。恨みの影を乗り越えなければ先には進めない、と言った。
ダウィさんは優しく、頼もしく、自分に姉がいればこんな人かなと思えるような人だった。
温かかった。
しばらくしてジョゼフさんとハンターのいない村で魔獣を狩った。
病の母親のためになけなしのお金を払う子の依頼で、薬草を取りにも行った。
ジョゼフさんは身体を悪くしているようだったが、短い時間ならなんでもないと笑っていた。
そんな日々が続いた、ある日のことだった。
ちょうど三日前の昼下がり、あのクランドというハンターが見知らぬ女と並んで買い物をしていた。
楽しそうで、幸せそうだった。
不意に、息苦しいほどの激情がこみ上げてきた。
なぜ両親は死んでいるのに、お前が楽しげに生きているのだ、と。
そして。
なぜ両親が死んでいるのに、自分は幸福を感じて生きているのだ、と。
そんなこと、許せるわけがない。
あの人種は、まるで見せつけるように収穫祭にも同じ女と一緒にいた。
視線が、合った。
まだだ、とファンフは目を伏せて怒りを押し殺した。
今襲いかかっても、勝てない。
ファンフは勘違いをしていた。
自身が一撃で敗れたことが、卑怯な手段とはいえ当主を倒し、さらにその息子を倒したという事実が、蔵人が自分より高みにいると錯覚させ、ファンフに手段を選んでいられないと思わせていた。
マルノヴァではジョゼフさんたちの目があり、動けなかった。そもそもあの男はマルノヴァに長居をしないのだから手が出せなかった。
街の外ではあの凄まじい力を感じさせる白い魔獣がいつもあの男を守っているようだった。
隙がなかった。
焦りばかりが募っていく。
あの男がいつどこかに行ってしまうかと考えると、気が気ではなかった。
賊によって収穫祭が中断された。
大した賊ではないが、数が多い。
全ての人が確執を一旦置いて、協力し合っていた。
アガサさんに曲刀を取りあげられているとはいえ、精霊魔法と賊が持っている粗末な武器で十分に対応できた。
賊がおおかた鎮圧されると一時的な協力関係の意識を保ったまま、僅かに緊張が緩んだ。
賊の襲撃、その直後の僅かな間隙。
あの白い魔獣もいない。
もうここしかなかった。
ファンフは既に社会というくびきに制限されておらず、躊躇いもなければ、自らの命を省みてもいない。そこにあるのは過程のない、父母への盲目的な愛情であった。
今のファンフの立ち位置はある意味で蔵人と似ている。
ファンフはガルーダ王に、ラッタナ王国に一族を殺され、帰る場所を失った。
蔵人はハヤトに加護を奪われ、同じ召喚者からは存在をないものとされ、この世界では人間扱いされないこともある、流民出身扱いだった。
過程の善悪こそ違うが、所属していた守られるはずの社会から放逐されているため、自身が守る社会(規則)というものがない。
つまりは、自分の敵を害することに躊躇はなかった。
今まで支えてくれたみんなへの裏切りである。
やり方も、非道で卑劣だ。
だけどファンフは父を、母を、一族を滅ぼした元凶であるあの男を、どうしても許せなかった。
ジョゼフさん、ダウィさん、アガサさん、付き人のみなさん、ごめんなさい。
ファンフは近づいてくるあの男を、待った。
あと少し。
もう、少し。
転がる賊を氷で拘束しながら近づいてくるあの男。
ジョゼフの背中をさすりながらファンフは耳だけで、一足で詰められるその距離を計っていた。
腕の長さ、剣の長さ、一足の間合い。
そのギリギリの距離にあの男が、入った。
女が邪魔だが、仕方ない。
自分の曲刀は、街に入るときにアガサに取り上げられていた。
ゆえにファンフはすぐそこに置いてある魔曲刀を、極力ジョゼフに悟られないように、振るった。
門前の物乞いは習わぬ祈りを唱える。
ファンフの剣技は、ジョゼフにそっくりであった。
ジョゼフは足の疲労、握力の衰えを感じ、その場に腰を落としてしまった。
一般人に毛の生えた程度の賊とはいえ、長時間の戦闘はやはり堪えた。
以前ならば考えられないことに、腰を落とすと同時に魔曲刀すら重く感じて柄から手を放してしまうありさまであった。
「……もう歳だのぉ」
力の入り辛い手を見つめながら、そんな言葉をこぼしてしまう。
ファンフが心配そうな顔で駆け寄って来た。
この子の顔も随分と険がとれ、目が澄んできた。
収穫祭の最中に仇のハンターを見ても、僅かな動揺だけで落ちついていた。
手ほどきをしてもいい頃合いだろう。
もう、それほど時間もない。
ジョゼフが肩を揉みほぐすファンフの気配を背中に感じながら、そんなことを思っていた時のことだった。
信じたくない。
そんな心と老い、疲労、襲撃直後の髪の毛ほどの気の緩みがジョゼフの反応を遅らせた。
エスティアの戸惑った顔。
エスティアを貫通し、革鎧を突き抜けて腹部に到達した魔曲刀。
視界を覆い尽くした、火波。
蔵人は何が起こったのか、一瞬わからなかった。
月の女神の付き人たちとは反目し合ってはいたが、暗黙の了解で協力し合っていた。
そんな気持ちのまま、賊を拘束するためとはいえ気づかぬうちにジョゼフ、ファンフに近づいてしまっていた。
エスティアの身体が死角になっていた。
暫定的とはいえ協力関係者から傷つけられるわけがないと、無意識に、未だ日本にいたころの感覚を残していた。
油断と言ってしまうことには抵抗があった。
だが、油断というしかない。
反射的に命精の魔法障壁だけは展開できたが、それでも鎧で守られていない部分は火傷を負った。
腹部の刺し傷からは血も流れ始めていた。
だが、それよりも。
目の前のエスティアは表情も読めないほどに黒く焼け爛れていた。
火傷は冷やせばいい。
蔵人は咄嗟にそれを思い出し、エスティアを氷で覆った。
その間にも、ファンフが二の太刀を振るおうとしていたが、阻まれる。
異常を察知して一足飛びに飛びかかった女騎士に、ファンフは地面に抑え込まれた。
地面に押し付けられたファンフの表情が悔しげに歪む。
中級精霊魔法の気配を察知してこちらに気づいたアガサも事態を見て、まずエスティアに駆け寄った。
蔵人の氷を一部溶かし、呼吸を目視し、脈を見る。
だが、小さく首を横に振った。
即死、だったのだろう。
現実を信じられず、遠巻きに見ているしかできなかったレイレがエスティアの元に駆け寄り、氷に包まれたエスティアに抱きついて、泣いた。
すぐにエカイツ、ソリオンとエスティアの知り合いたちが駆け寄った。
アガサは蔵人を見上げる。
火傷は自力で治しているようだが、腹部の傷は革鎧の下から血が染み落ちてきていた。
ジョゼフの魔曲刀に与えられた傷なのだから当然なのだが、そうするとあの魔曲刀がファンフを認めたことになる。
「貴方の傷は――」
だが蔵人はアガサを遮るように革兜を被り直して、バニスに押さえつけられるファンフにククリ刀を突きつけた。
街中で自衛以外に許される唯一の抜剣。
「――決闘だ」
蔵人の言葉に、誰もが息を呑んだ。
レイレ、エカイツ、ソリオン、そして街の人間の視線が燃え上がる木組みの炎にゆらゆらと照らされる蔵人の顔に集まっていた。
ファンフが地面に押さえつけられたまま蔵人に答えようとするが、それをアガサが遮った。
「――私たちの責任は認めます。しかし、ここは街の中です。法があるのです。法の裁きにゆだねるべきです」
そもそも乗り気じゃなかったアガサは誓約書を守る気などないのだろう。
蔵人もアガサを信用していないからこそ決闘を仕掛けた。
そもそも法と誓約はどちらが優先されるかなど知らなかった。おそらく誓約は非合法の密約のようなもので、実際に蔵人が誓約書通りファンフを殺し、それを誰かが不服に思って訴えれば蔵人もなんらかの罰を受けるのかもしれなかった。
ゆえに蔵人は邪魔が入らないように決闘を選んだ。
「――更生など望まない。終身刑など冗談ではない。
あの時、決闘の全てを全うしていればエスティアは死ぬこともなかった。そういう意味では俺の責任でもあるのかもしれないが、これ以上のお前らの邪魔は許せそうにない。誓約書を守る気もないくせに、いちいち口を出すな」
「貴方は……」
「――ふざけるなっ!」
ダウィが蔵人を責めるように声を上げるが。
「――その決闘、受ける」
だがファンフが了承したことで、決闘は成立した。
もしこの場に憲兵でもいたのなら蔵人の決闘がこの場で許されることはなかったのかもしれないが、この期に及んで憲兵は一人も来ていなかった。
バニスにしろここは他国であり、両者が合意している以上はそれを妨げる権限などない。
また武に生きる者としても、瑕疵のない決闘を辞めさせることなどできなかった。
バニスはなんともいえない歯痒さに顔を顰めながらも、ファンフを解放して宣言する。
「――ならば私が立会人になろう。どちらとも利害関係はない」
蔵人はどうでもいいという風に頷き、ファンフにも異存はないようだった。
「ルールは、どちらかが死ぬまで」
「――それでいい。それ以外にはない」
蔵人の言葉にファンフがそっけなく答えた。
ファンフにとっておそらくこれが仇を取る最後の機会である。これを逃せばおそらくは憲兵に突き出され、よくて終身刑、最悪の場合は死刑である。
実際は月の女神の付き人の嘆願やエスティアが娼婦であるということも関係してファンフの考えている通りの結果になるとは限らないのだが、ファンフはそんなことを考えもしなかった。
「乱入は禁止。細かいルールはなし、手段は問わず。勝者は最後に生きていたほうだ」
蔵人を殺せるならルールなどどうでもよかったファンフが鬱陶しそうに頷く。
蔵人がバニスを見る。
「……いつの時代の決闘をやる気だ。だが、仕方あるまい」
ダウィが声を上げようとするが、バニスが睨みつける。
「いささか時代錯誤ではあるが、両者の合意はある」
「だがっ――」
「――それ以上何かあるなら私が相手になろう。武に生きる者として妨害は許さん」
バニスの態度に、ダウィはギリッと奥歯を噛締めた。
他の月の女神の付き人も成り行きを見守っていたが、さすがにファンフを庇うことはもう出来なかった。
見ず知らずの女を巻き込んでの復讐など、その気持ちは分かっても、許容できるものではなかった。
蔵人が口笛を吹く。
襲撃にまぎれて街で略奪しようとしていた賊をストレス発散とばかりに狩っていた雪白は、蔵人の濃い血の匂いを感じてこちらに向かっていた。
それがちょうど蔵人の口笛と重なり、この場に瞬時に到着するような形になった。
――グオォォォンッ!
蔵人の治療中の火傷と腹部の傷、蔵人の匂いが僅かについた蔵人の女らしき存在の死体、蔵人と黒焦げの女の血のついた剣。
雪白は状況を一瞬にして理解すると蔵人に敵対する全てに対して、怒りの咆哮を上げる。
一般人は当然としてバニスやダウィまでもが顔を歪め、僅かに身体を硬直させた。
いつでも殺れる。
雪白の灰金色の双眸はそう言っていた。
そんな状態でも瞬時に心を立て直したバニスが咎めるように言う。
「その魔獣にやらせる気じゃないだろうな」
「猟獣もハンターの力の一部だろ?」
「それについて否定はしないが、禍根を残すことになるぞ」
「そうか。まあ、もともと頼る気もない」
蔵人の言葉にファンフがかすかにほっとしたようにも見えた。
蔵人はぴったりと横についた雪白の顎を撫で、雪白の尻尾に確保されたまま蔵人を心配そうに見てくるアズロナの喉をくすぐってやる。
そして周囲にも聞こえるように、雪白に告げた。
「――邪魔する奴は制圧してくれ。五体満足で治療できるなら多少やり過ぎても構わない。どうしても手に余るようなら好きにしていい。お前が傷ついたら本末転倒だからな」
あの赤い鳥を処分しなくていいのかと剣呑な目で訴えてくる雪白に、
「――あれは俺がやる」
蔵人はそう言い切り、レイレたちによって運ばれようとしている氷の中の焼け爛れたエスティアを見た。
最後の言葉を残す暇などなく、エスティアは死んだ。
しかし蔵人には、我を忘れるような怒りはなかった。
しょせんは、娼婦と客だ。
だが、胸の内にはぽっかりとした虚しさがあった。
そしてそれが底冷えするような静かな怒りを、憎しみを生んでいた。
それが、蔵人に決闘を挑ませた。
蔵人は怒りを、憎しみを全て否定はしない。
何かを失った時に生まれる感情が無意味だと思わなかった。
ならば決闘はエスティアのためか。
それだけではない。
エスティアはもう喋れない。誰も勝手に代弁などできない。
誰よりも蔵人自身が納得いかないのだ。
ほんのわずかだが蔵人の心から失われた物。
それは心という一枚のパズルの中の、ほんの一ピースだけ欠いた部分。
そのぽっかりと空いた、永遠に埋まることのなくなったその欠けた部分が、やるせなかった。
毎日挨拶するだけでしかない生徒が翌日に自殺してしまったような、やり場のない憤りと悲しみがあった。
蔵人は自身の身体の状態を探る。
火傷はほとんど治っていたが、腹部の傷がどうにも治癒が遅い。
ジョゼフの魔曲刀は障壁減衰、負傷回復阻害の効果があるが、蔵人は知らなかった。
蔵人は上手くいかない治癒に舌打ちする。
ファンフの剣に何か毒でもあったのかもしれないと、
「――おい、この傷はどうしたら治せる」
視線の先のジョゼフは答えなかった
だが、蔵人に敵対する様子もない。
立ち上がりもせず、呆然としているようだった。
蔵人は周囲を見渡す。
アガサもダウィも答えない。
バニスやアキカワ、他の者たちは知らないのだろう。
蔵人は考える。
まずは魔法毒を解毒するように鍵穴とも呼べる解毒ポイントを探りながら、同時に解毒するために魔力で鍵を作ろうとするが、どうにも感じられない。
ならばと魔法毒が解毒できない場合に行う毒の効力を魔力で抑制する方法を試してみる。
傷口の回復を阻害する効果を魔力で強引に抑え込むイメージで命精魔法を使い、そしてさらにイラルギ直伝の血止めの薬を傷口にふりかけ、飲み込み、その上で治癒の命精魔法を使った。
今度は劇的に、というわけでもないがとりあえず血は止まる。
やはり完治とはいかない。激しく動けばまた血が流れだすだろうが、これ以上はどうにもならなかった。
だが、舞台は整った。
バニスがとりあえず中立を貫いたのは幸運であった。
バニス、雪白を突破して妨害するのはアガサ、ダウィ、ジョゼフでも難しいはずだ。ファンフですら手に余しそうなのに、外野の相手などしていられない。
広場に転がる賊はバルティスの者たちがよけてくれていた。
蔵人はフェイスガードを装着し、ククリ刀を構える。
ファンフが両手でジョゼフの魔曲刀を構えた。
赤く燃え上がる木組みを前に、二人が対峙する。
二人の上には、ちらりちらりと羽毛のような雪が降っていた。
「――始めっ!」
バニスの声に、蔵人が即座に仕掛ける。
木組みの炎を水精で消火し、同時に中級闇精魔法の『目隠し部屋』で自身とファンフを包み込んだ。
街は夜と闇に覆われる。
蔵人はこの場にいる全ての人間に対し、もう油断する気はなかった。
外からの物理的な妨害は雪白に任せ、さらに決着をうやむやにさせないため中級闇精魔法で戦闘を覆い隠した。
立会人がどうでもよかったのはこのためだ。
外でダウィが何か喚いているようだが、蔵人にとっては雑音でしかない。
蔵人は闇の中で氷土の球壁を形成し、魔導書を懐から取り出して、闇精から伝わるファンフの様子を注意深く探る。
ファンフのあの剣を受けてはいけない。軽傷ですら受ければ厄介なことになる。
そこに、火波が迸った。
赤い炎に闇が一瞬だけ払われるが、蔵人から魔力供給を受けている闇精がすぐにその空白を黒く塗りつぶした。
ファンフは嗅覚や聴覚を頼りに蔵人の位置を特定していた。
だが臆病ともいえるほどの異常な防御によって、火波は蔵人に届かなかった。
魔力の多い鳥人種といえど、そう何度も中級魔法を放てるわけではない。魔力を使い過ぎれば飛べなくなる。
火波が無駄だと気づいたファンフは思考を切り替え、飛び上がって闇を突き抜けた。
魔法がダメなら、物理的に突破するまでである。
相手は何を考えているのか亀のようにこもっている。
ちょうどいい、とファンフはバルティス上空から一気に急降下する。
さながらダウィのように強化を存分に込めて、蔵人の球壁を魔曲刀で斬りつけた。
球壁は綺麗に切り裂かれる。
球壁内部に展開した自律物理障壁の第一障壁も普段よりあっさりと突破され、あわや最後の第二障壁に到達しようというところで、蔵人が掲げたククリ刀が魔曲刀を阻んだ。
ククリ刀はその衝撃で折れてしまうが、魔曲刀は蔵人の皮膚に展開されていた第二障壁でなんとか止まった。
蔵人は障壁にとりついたファンフを突き放すように、地面から土壁を連続して八つ、逆ギロチンのように放つ。
ファンフはそれを球壁の残骸を蹴って、上空に逃れた。
ファンフが火波を放ち、急降下するまでの間、蔵人とて何もしていなかったわけではない。
球壁内で詠唱し、条件を整え、自律魔法を発動寸前の待機状態にまで立ち上げていた。
蔵人は雪白のスパルタと普段のソロ活動により前衛でも斥候でも下手なりになんでもこなすが、本来一番力を発揮できるのは細かい技術のいらない、魔力任せの後衛である。
今回は敵を近づけられないため、奇しくも蔵人が最も力を発揮できる体勢となっていた
二人を覆った闇から、ファンフが上空に飛び上がっているのを確認したダウィはほっとした。
内部で一度だけ炎が闇を払ったが、それ以外何も見えないのだからダウィとしては気が気ではない。
ダウィにはこんな決闘、認められなかった。
死んだ女には気の毒だが、ファンフは生きている。自分が守らねばならないのだ。
そう誓った。
ダウィは闇を払おうと、一つ二つしか感じられない光精に魔力を渡そうとした。
――ガァウッ!
心臓を鷲掴みにするようなあの男の猟獣が発した短い咆哮に、光精すら怯えて逃げてしまった。
違う。
ダウィ自身が怯んで、魔力を渡し損ねたのだ。
ダウィは一瞬とはいえ怯えてしまった自分を振り払うように猟獣を睨みつける。
そして目を離さずに、ゆっくりと背の大曲刀に手をやった。
蔵人はファンフを二度と近づけたくなかった。
あの曲刀に障壁を破壊する効果でもあるのか、障壁が妙に脆い。近づけてしまえば治らない傷を受けて、死ぬだろう。
見たところ近接格闘はファンフのほうが上である。負傷覚悟の相討ちすらあの妙な曲刀相手では分が悪い。
近接に持ち込まれてしまえば、敗北する。
逆をいえば、近づけなければ勝つ可能性は跳ねあがる。
決して、近づけてはならなかった。
ファンフが再び急降下した。ファンフとしてもあの球壁と障壁を突破するには重い攻撃が必要だった。
だが蔵人は待ち構えていたようにファンフをギリギリまで引きつけてから、待機させていた『網』の自律魔法を放った。
『網』は魔法発動体、魔法陣を記した物を身につけていること、起動詠唱、解放詠唱によって発動できる比較的使いやすい自律魔法である。
≪射出≫
解放詠唱によって解き放たれた不可視の網が急降下するファンフを捉える。
突然動きが阻害されて、墜落するファンフ。
しかし墜落する前に抗うように炎を振りまいて偶然にも網を燃やすと、どうにか着陸して瞬時に蔵人へ向けて反転し、突撃の体勢を取った。
≪射出≫
そこに不可視の網がファンフを捕え、さらにその頭上から氷槍、地面から土杭が殺到する。
ゴウッと音を立てて、ファンフの周囲に炎が噴き出した。
不可視の網が炎に焼き尽くされ、土杭と氷槍はファンフがその場から飛び退くことで回避された。
ファンフの目が、ギラギラと蔵人を捉えていた。
獣めいた雰囲気すら漂っている。
ファンフは身体の周囲に、まるでくすぶる火山のように不規則に炎を噴出させ始めた。
それは風をも併用して魔力消費を抑えた炎だった。
その炎の光によって蔵人の闇の魔法陣は消し去られてしまい、使う隙がない。
ファンフが駆け出す。
今度は蔵人の四方を短く飛び跳ね、的を絞らせない。
蔵人は網、土杭、氷槍を繰り出しながらさらに三連式魔銃を抜いて、球壁に作った小さな銃眼から、発砲した。
『金属の散弾』が横手から蔵人へ迫ろうとしていたファンフを蜂の巣にせんと迫る。
ドワーフのゴルバルドに頼んだ四つの小袋の内の『貫通弾』、『釣り針』に次ぐ、三つめの『散弾』。
ファンフは理解を超えた速度で放たれた小さな礫に驚いて飛び退くも、散弾自体は身に着けていた物理障壁の魔法具によってしっかりと弾いていた。
しかし、諦めない。
ファンフがまるでそれしか知らぬ獣のように、再び蔵人に突撃する。
その鋭い目は、蔵人だけを射抜いていた。
四方を駆け抜け、蔵人に的を絞らせず、僅かな隙をついて間を詰めんとする。
そこに蔵人の弾幕が放たれるが、ファンフは飛び退くことなく、直進した。
地面から突き出る土杭を、頭上の四方から殺到する氷槍を、ひらりひらりと避けていく。
避けきれないものは魔曲刀で切り払い、網や氷槍は炎で焼き尽くす。
魔曲刀を振るった反動のままに身体を回転させつつもファンフは直進を続ける。
そこに三連式魔銃に込められた最後の散弾がファンフを襲うが、魔曲刀と物理障壁がそれを阻んだ。
だが執拗な蔵人の攻撃に魔法具の魔法障壁と物理障壁は既に破壊されていた。
ファンフを守るものはもう何もない。
しかしファンフは、精霊魔法と網の弾幕を掻い潜って迫ろうとしていた。
その姿は、イグシデハーンによく似ていた。
超低空を飛びながら回転して剣を振るう、さながら刃を持った竜巻のそれはルワン家に伝わる極意の一つであった。
さらにファンフはそこへ炎をおりこみ、イグシデハーンよりも柔らかな、ジョゼフのような剣捌きをしていた。
ファンフは今この時、蔵人への執念と集中力により、覚醒していた。
蔵人は魔法で弾幕を張りつづける以外に、できることはなかった。
ついにファンフが球壁に肉迫し、蔵人自身が銃撃のために開けていた僅かな隙間に、魔曲刀を突き刺した。
球壁をこじ開け、障壁を容易に突き抜けたそれを、蔵人は咄嗟に盾で受けた。
一日やそこら絞られたところで技術が身につく訳もなく、蔵人はファンフの流れるような突きを受け流すことも出来ずに正面から受けてしまう。
一見すると威力のなさそうに見えるファンフの突きだが、強化と回転力を一点に乗せたそれは、氷戦士の丸盾を貫いた。
しかし氷戦士の丸盾は最後に魔曲刀から蔵人を守り切った。
ファンフの突きは魔導書を握った巨人の手袋を突破できるだけの威力を残していなかった。
蔵人はその瞬間も僅かな恐怖こそ未だ感じていたが、焦ってはいなかった。
ハヤトがいつか暴走して覚醒したように、ファンフの急激な力の上昇も最悪の事態として想定していた。
ククリ刀と盾が破壊されたのは想定外だったが、弱さを自覚するからこそ最悪の事態はいつも想定していた。
ゆえにここで、決めなければならない。
ファンフの動きは早く、不規則な炎に闇は払われ、闇の魔法陣は使えない。
蔵人は魔銃を捨て、こじ開けられた球壁の穴から、魔曲刀を握るファンフの小指を、見た。
≪その形こそが、真≫
一瞬でファンフの魔曲刀を握る小指が、手の甲に向けて捩じられた。
「――ぐうっ」
ファンフが初めて動きを止め、苦痛の声を上げた。
そこを逃さず、蔵人は魔曲刀の刃を巨人の手袋で掴む。
だがその瞬間、蔵人の手に雷撃にも似た衝撃が走った。
『捩じる』の発動条件は魔法発動体、魔法陣を記した物を身につけていること、発動詠唱、解放詠唱、そして片手が空いていること。
ゆえに蔵人は魔銃を手放した。
効果範囲は視認できる範囲で、実際に肉体的に指で捩じることができる部位に限定されている。つまり眼球は指を目に差し込むという前段階を踏まなければ捩じれないため出来ないが、目蓋ならば可能ということ。
効果は強化を施さない握力程度。
そのため相手の強化効率が強い腕や首というのも捩じりにくかった。
だが、指ならば別だ。
強化していないとはいえ蔵人の握力は人種離れしていた。
いかに身体能力に優れた鳥人種とはいえ瞬間的に小指にそんな力を受ければ、耐えられようはずもなかった。
魔曲刀を握ったときの衝撃はまるで蔵人を拒絶するような抵抗だった。
だが蔵人は手を離さず、全力の一撃の如く自らの身体の損傷を厭わない強化で魔曲刀を引き抜く。
その時、魔曲刀によってつけられた腹部の傷が開いてしまうが、蔵人はそれを無視する。
正体不明の小指への攻撃を受け、さらに人種には考えられないような獣人種の、それも腕力に秀でた種のような力で引かれ、ファンフは魔曲刀を手放してしまった。
蔵人は即座に同時行使できる最大数、球壁と障壁、待機自律魔法の維持すら放棄し、さらに備えとして残していた枠すら投入して二十、土杭を十、氷槍を十、ファンフに向けて放った。
三百六十度、全方位から迫る土杭と氷槍に、ファンフはこの場でものにした体捌きと炎で抗おうと考えるがどうしても魔曲刀の分が足りなかった。
それでも炎で頭上の氷槍を溶かし、上空に逃げれば手傷は負うだろうが助かる。
ファンフがそう考えて炎を上へ向け飛び上がろうとした瞬間、その胸を魔曲刀が貫いた。
その一撃に体が硬直してしまうと、逃げる間もなく土杭と氷槍がファンフを全方位から串刺しにした。
蔵人は精霊魔法を放った直後、奪ったときの力のまま、魔曲刀を投げていた。
まるで流星のような全力の投擲ともいえるそれは、土杭や氷槍の影に隠れてファンフに察知されなかった。
何が起こっているのか、決闘を見つめる人々にはわからなかった。
かろうじてアガサやバニス、ダウィだけが精霊魔法の動きを感じて、状況を推測することが出来た程度である。
闇が、薄くなる。
蔵人が維持を放棄したため、闇がうっすらとはれていった。
広場にいる全ての人間が目をこらした。
立っていたのは、蔵人だった。
バニスが蔵人を確認するように見てから、決着はついたものと考え、光精を飛ばす。
光精に照らしだされたのは、仰向けに横たわるファンフの姿だった。
傷と血にまみれた身体の、ちょうど心臓に当たるそこには大地に磔にでもされているかのごとく、魔曲刀が垂直に突き立っている。
首こそ切り落とされていないが、出血量からいっても死んでいるのは明らかだった。
アガサが鎮痛の面持ちで瞑目し、呆然としていたジョゼフはファンフの死体を悲しげな目でじっと見つめた。
「――貴様ァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
ダウィの絶叫ともいえる怒気だけが、響き渡った。
だが、ダウィは動けない。
なぜならダウィもまた地面に縫いつけられていた。
決闘の最中、外部から光を放とうとして雪白に邪魔をされたダウィは雪白に襲いかかるも返り討ちにあい、今は腹部を強く踏みつけられ、その鋭い爪に貫かれていた。
ダウィを救おうとしたアガサだったが、雪白の威圧するような双眸に自らの力では及ばないことを悟り、雪白がダウィを殺す気がないと気づくとそれ以上は諦めた。
「――勝者、クランド」
バニスが蔵人の勝利を告げ、その後ろではアキカワが痛ましい目で蔵人を見ていた。
「――それで満足ですか?」
アガサが責めるような口調で言った。
ダウィも雪白に貫かれたまま蔵人を殺意のこもった目で睨んでいた。
そんな二人の様子に蔵人は以前バニスに言われてから感じていた苛立ちの理由に、ここではっきりと気がついた。
蔵人はアガサに答えることなく、巨人の手袋を嵌めた手でファンフに突き刺さっていた魔曲刀の柄頭を抑える。
すると再び魔曲刀から拒絶するかのような雷撃にも似た抵抗があるが、蔵人はそれを無視して魔曲刀の腹を横から――。
――殴り砕いた。
形容しがたい苛立ちの正体は未だに言葉に出来なかった。
ゆえに、言葉にかわってアガサに答えるように、重いと称されたジョゼフの魔曲刀をへし折った。
力の使い方は必要であると蔵人も思うが、そう思った上でなお、魔曲刀をへし折らなければならないという衝動があった。
蔵人のそんな行動にバニスだけがかすかに表情をかえた。
アガサは蔵人の意図を知りつつも黙殺し、ダウィはファンフを盲目的に愛するがゆえに気づかず、ジョゼフは呆然とする中で、蔵人に諭したバニス、そしてアキカワだけが蔵人の意図に気づいた。
「――誓約書を忘れるなよ」
蔵人はそれだけ言って、雪白に目をやり、散らばった武器を拾い上げる。
雪白はダウィの顎を前脚で一撃して意識を刈り取ってから、武器を拾い終って背を向けようとしていた蔵人を追った。
蔵人に追いついた雪白が尻尾に巻きつけていたアズロナを蔵人の頭にひょいと乗せる。
頭に乗ったままのアズロナが蔵人を逆さまにのぞき込んで器用に首をひねり、だいじょうぶ?と言わんばかりの大きな目を向けてくる。
蔵人の身体から、すっと力が抜けていった。
大丈夫だ、と言いながらアズロナを頭から下ろすが、自らの言葉に腹部の傷の妙な抵抗がなくなっていることに気づいた。
魔曲刀を破壊したため、その効力が切れたのだった。
頭から下ろしたアズロナを片手で抱きながら喉元を指でふにふにし、決闘の見張りをしてくれた雪白には感謝を込めて耳と耳の間を片手で掻いた。
雪白もまた、蔵人のどこかもの哀しい雰囲気に気づいて、蔵人の身体に顔を擦りつけた。
賊に破られた門の前に、レイレやエカイツ、ソリオンがいた。
門の近くにある憲兵の詰め所はもぬけの殻で、倒れている憲兵の姿もなく、賊の襲撃に逃げてしまったようだった。
蔵人は立ち止まり、一言だけいった。
「――すまん、巻き込んだ」
泣き腫らした目をしたレイレが近づき、何も言わずに蔵人を抱き締めた。
レイレにとっても複雑であった。
蔵人がいなければ、エスティアが死ぬことはおそらくなかった。
だが、蔵人がきっかけでエスティアはバルティスに戻ってきた。
蔵人がいなければエスティアが戻ることはなかったかもしれない。
自分が蔵人を呼ばなければ、月の女神の付き人を招待しなければ、考え出したらキリがなかった。
そんな相反する複雑な感情を抱きながら、だがレイレは蔵人を胸に掻き抱いた。
それが精一杯だとも言えた。
しばらくしてレイレが蔵人を放すと、エカイツやソリオンも無言で蔵人の肩や腰を叩いて、蔵人を責めることなく街に戻っていった。
エスティアの弔いはレイレたちがするだろう。
蔵人はそんな確かな想いを抱きながら、バルティスを後にした。
エスティアが死んで十日あまり経った頃の白月の六十三日、蔵人はマルノヴァにいた。
バルティスを去った後、蔵人は竜山に戻り、絵を描いた。
そして絵が描き上がった頃、寝物語に言ったエスティアの言葉をなんとなく思い出して、マルノヴァに来たのだった。
蔵人はなんとなしに娼婦街のエスティアのいた部屋に行ってみた。
だがそこにはすでに他の娼婦が住んでいた。
案内をしてくれた喋れない少年もいなくなっていた。
だが、そんなことを気にする街ではない。
いやここだけでなく、マルノヴァ全体で胡散臭い噂ですら聞かなかった。
バルティスを賊が襲い、娼婦が一人死んだ。
それだけである。
蔵人は協会に戻り、振り込みを確認する。
そこには百万ルッツがアガサとジョゼフの連名で支払われており、蔵人はそれを全額引き下ろした。
協会では一つだけ噂を聞いた。
ジョゼフが傭兵・探索者の身分を証明するタグを返却して引退し、武の道から完全に退いたという話だった。
だがジョゼフが剣を置いても、百万ルッツが支払われても、そしてファンフを殺しても、何の解決にもならない。
蔵人はその足でバルティスに向かい、百万ルッツをレイレに押しつけ、すぐにマルノヴァに戻ってきた。
今のところ金が必要なわけでもない。
惜しいといえば惜しいが、せめてエスティアが大切にしていたバルティスに何かしたかった。
南バルークとマルノヴァに挟まれて苦しむ北バルーク、バルティスならば無駄にはならないだろう。
エスティアの描かれた絵は、ついにエスティアの目に触れることはなかった。
その絵は竜山の隠れ巣に、蔵人が新しく作った小さな一室に、二枚、立て掛けてあり、それをジーバが見つめていた。
蔵人は当初、
灯にぼんやりと照らされた娼街の人混みの中で、娼婦が一人振り返ってどこかを見つめている。
墨の濃淡と白色だけで、そういう構図の絵を描いた。
しかし帰ってきた蔵人はもう一枚、ジーバからもらった橙色の宝石を砕いて絵の具に用いた、違う絵を描いた。
その絵は橙色の濃淡と白だけで描かれた、油絵のようにも見える日本画であった。
真夜中のうらぶれた酒場から光が漏れていた。
その酒場のテーブルの中心には、猫のような目をした女が笑っていた。
周りには恰幅のいい中年女性や矍鑠とした老父、いかにもハンターといった中年男性がおり、彼らも笑っていた。
周囲の客も楽しげに笑っていた。
あの夜、酒場の人混みの中でレイレたちと陽気に笑うエスティア。
蔵人は、それを絵にした。
そんな二枚の絵を、蔵人が山を降りる準備をしている中、隠れ巣に来ていたジーバが見つめていた。
二枚の絵を見比べたジーバはかつて感じた蔵人の絵の評価を、かえた。
蔵人の絵は決して普遍的に、万人に受け入れられるようなものではない。
どこに出しても二束三文で買い叩かれるかもしれない。
だが蔵人の絵はそういう類のものではない。
対象とそれに対する思い入れを得て、初めて光を放つ。
そんな絵なのだ。
描き手とその対象、一対一の絵とでも言うのかもしれない。
ジーバは蔵人と絵の女の事情は知らない。
二枚目の絵に何かを感じたジーバは、少し調べたが蔵人の通っていたエスティアという娼婦がバルティスを襲った賊に殺された。
そこに何かがある、ということしか分からなかった。
だがその僅かな事情で、おそらく描かれた本人たちにしか感じられないものが、ジーバにも感じられた。
怪盗として様々な絵を盗んだジーバは、この世界で特権階級以外では珍しく絵画への理解があった。
世界に対して鈍感になりがちな骨人種ということを自覚しているジーバは、特に芸術や料理など感覚や感情を刺激するものを好んだ。
そんなジーバだからこそ、感じ取れたのだろう。
ジーバの胸には、淡い寂寥感があった。
この絵はなぜ、こんなにも陽気なのに、もの哀しくさせるのだろうか。
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