73-剣の重み
月の女神の付き人の各隊の女官長には大きな自由裁量権がある。
広大なエリプスに全十二隊が散らばっているが一々連絡を取り合って相談することなどできないため、多くの事柄は一定の規律の元にそれぞれの女官長の判断に任せられていた。
といってもその権限はハンター協会やハンターを個々の隊の独断で好き勝手に出来るという類のものではなく、多くは女性を救うというその一点に集約されていた。
しかしその大きな自由裁量権により、各隊はそれぞれに独自色を持ち、隊の構造も違った。少数精鋭の隊もあれば、多くの付き人や女、下部組織すら抱える隊もあり。行動方針も狩猟に特化しているような珍しい隊もあれば、アガサの二番隊のように女性救済に重きを置いている隊もある。
だがどれだけ形や方針が違おうとも全隊に共通してあるのは、貧しい地域への狩猟奉仕と女性の救済という強い信念であった。
月の女神の付き人は決してその信念を曲げないことから、ハンターの少ない辺境ではまさしく『女神』扱いされるも、妻や娘を奪われた者たちからは『誘拐魔』とすら呼ばれる二面性を持っていた。
アガサ次席女官長がアンクワール諸島を後にする際、ダウィに世話をするようにと連れて来たのはどこか思い詰めた表情をした孔雀系鳥人種の少女だった。
アンクワール全土で『キング』が出現し、さらに魔獣の暴走の予兆がある中でこの地を去るのはダウィにとって不本意であったが、女官長が決めたことである。
次の予定は、筆頭女官長の隊を含めた数隊が入れ替わりにアンクワール諸島に入るため、その内の一隊が担当していたユーリフランツの北バルーク地方に向かうことになっていた。
二番隊はアガサ女官長がユーリフランツ出身の白系人種であるため出自、言語、影響力を加味されてミド大陸の人種勢力圏を担当することが多く、これから向かう北バルーク地方も複雑な状況下にあった。
人種勢力圏は違法奴隷や旧貴族の横暴の被害に会う女が多く、二番隊は嫌というほど人種の醜さに直面していた。
思い詰めたその表情にはかすかに幼さが残っていた。
ポニーテールも、革鎧も、腕の孔雀の翼も赤で統一され、名のある名家の娘だろうことは一目でわかった。
「女官長補佐のノクル・ダウィだ」
「……クンドラップ・ノクル・ルワン・ファンフ、です」
ノクルという共通のグシュティに二人は親近感を抱いた。
敬う父祖神霊、先祖を同じくするということは獣人種や鳥人種にとって初対面の警戒感を容易に取り払う。
ダウィが事情を聞くとファンフは俯いて一点を見つめがら、その小さな唇からこぼれ落とすようにぽつぽつと身の上を話し出した。
ファンフが留学していた先から一時帰省すると、両親や一族はみな粛清され、ルワン家という存在がなくなっており、周囲の人々はファンフを不憫そうに遠巻きに見るだけで、近づこうとはしなかった。
街をさまよい歩く中で聞いた話は、三本の片手剣と万色岩蟹の大爪を背負ったクランドというハンターを憎悪するに十分な内容だった。
当主であるイグシデハーンは疎遠だった長男、ナバーの子の殺人を指示したことが原因で、ナバーの嫁である蝙蝠系獣人種の直訴によって仇討ちがガルーダ王に認められ、そこに助太刀として乱入してきたクランドというハンターに毒を用いた卑劣な手段で殺された。
そしてさらに、一門の名誉と妻を賭けて決闘を申し込んだ当主の息子をもクランドは返り討ちにした。
跡継ぎのナバーは酒に溺れてしまったことにつけ込まれてクランドに妻を奴隷として売ることを了承し、妻であるスックは夫を殺すと脅迫されながらも、子供の仇討ちをしたいがために助太刀を条件に協力させられていた。
クランドは名目上は善意を装って妻を奴隷からは解放したが、それは奴隷になることによって夫とは離縁になるという制度を悪用するためで、実際は法外な借金で縛っており、結果としてクランドはまんまと他人の妻を手に入れた。
人の妻が欲しいという淫らな欲のために何の関わりもないルワン家を引っかき回したのがクランドというハンターだとファンフは悔しげに言った。
ダウィは一瞬、その話を鵜呑みにしかける。
だがミド大陸で女を拾い上げてきた経験がそれを思いとどまらせ、客観的事実を調査させた。
協会に問い合わせて見ると、やはり事実は違った。
日常的に夫に暴力を受けていた妻のスックは、死んだ我が子の真相を突き止めるために奴隷として我が身を売り、その間に義父であるイグシデハーンが奴隷を用いて子殺しを教唆したと知るに至り、仇を討つために即位パレードに乱入してイグシデハーンを糾弾した。
息子であるナバーの証言により、仇討ちは成立し、クランドがスックを助太刀してイグシデハーンを討った。
そこで事情はどうであれ自業自得のナバーが半ば強引に一門の名誉と妻を取り返すためと称してクランドに決闘を仕掛けたのだが、返り討ちにあい、それに納得のいかなかったクンドラップ・ノクル・ルワン・シンチャイを筆頭とするルワン家の残党が後日クランドかスックを襲う寸前で、ガルーダ王がクランドとの決闘の約定によって監視していたルワン家を粛清した。
それが、事実らしい。
ダウィはファンフが恨みから解放されるように、事実を説明した。
何度も否定するファンフに根気よく、説得を続けた。
ファンフの持つ父母への深い愛情が事実の理解を拒んでいるようで、血族を失ったダウィにはその盲目的とも言える愛が愚かしくも、いじらしかった。
それでもマルノヴァに到着する頃には、ファンフも納得したように見えた。
マルノヴァでは、ファンフがアガサ女官長の旧知の間柄である『曲刀の剣聖』のジョゼフに見出されるという喜ばしい事件があったりと平穏な日々が続いたが、ある日突然、街中でファンフが消えた。
女官長とジョゼフが駆け付けた時には協会でクランドという深緑の環を持つハンターに決闘を挑み、返り討ちにされる一歩手前だったという。
父母への愛情を今も持ち続けているために、その元凶といえなくもないクランドへの怒りや恨みを捨てられなかったファンフ。
ルワン家とは縁も所縁もなかったクランドが首を突っ込まなければ、ルワン家が絶えることもなかったと思ってしまうのをやめられないのだろう。
ダウィにはそんなものはなかった。
ファンフより少し小さな頃に人種の旧貴族の手から月の女神の付き人に助けられた。両親はダウィを人質に取られ、奴隷としていいように従わされている内に死んでいたらしい。両親が死んだことすら助け出されるまで知らなかったのだ。
ノクルというグシュティの名は両親との唯一のつながりであった。
ダウィには同じ名を持つファンフが他人とは思えず、父母への愛を抱え続けるその姿が愛おしかった。
クランドというハンターが誓約書を押しつけてきた。
そもそもいくら決闘とはいえ真実と父母の愛の狭間で揺れる少女を殺そうとするなど、あまりにも無慈悲な所業だ。ジョゼフ殿とアガサ女官長の仲裁も受け入れずに、殺そうとしたというのだからなおのこと非道である。
この誓約書の内容にしてもクランドというハンターがファンフ又はその関係者に危害を加えられたと言うだけで、ファンフをいつでも殺せることになる。
深緑の環の持ち主とは思えない狡猾さと下劣さである。
深緑の環はアガサ女官長が取りあげたが、授けたのは筆頭女官長だというのだから、正直長く生き過ぎておかしくなったのではないかと疑いたくなった。
何を考えてあのような、それも男に、月の女神の付き人が身分を証明することを意味する深緑の環を与えたのか。
ファンフは今回の件で女官長からキツく叱られ、ジョゼフにも気持ちの整理がつくまでは手ほどきをしないと言われると、ついには涙をこぼし、心情を爆発させた。
だが月の女神の付き人たちやジョゼフはそれを受け止めた。
泣き喚き、罵り、暴れるファンフを見捨てることはなかった。
しばらくして落ちついた、いやむしろ落ち込んだファンフはマルノヴァの片隅にある分神殿に連れられ、そこで規則正しい生活を送ることになる。
アガサやダウィによる説得、そして厳しくも温かい周囲の環境に思い詰めた表情をしていたファンフもその表情を緩ませることが増えていった。
ファンフは立ち直り、やり直せる。
アガサ率いる二番隊はみなそう思っていた。
それゆえに不寛容にもファンフを殺そうとし、理不尽な誓約を突きつける蔵人が許せなかった。
特にダウィはグシュティを同じにするという強烈な同族意識があり、それに加えて無意識の内にファンフの境遇を自分に重ねていたため、蔵人を敵視するようになっていた。
それは偶然にもドノルボで鉢合わせし、クランドというハンターの臆病さ、傲慢さ、協調性のなさを知るごとに増大していった。
元は深緑の環を渡された存在だという事実も大きく影響していた。
「これは……」
エカイツが蔵人に見せたのは、蔵人が依頼した通りの朧黒馬の革で作ったフェイスガード付きの革兜であった。色は黒ではなくディープダークグレーといえ、蔵人が現在装備している革鎧とも調和していた。
蔵人は視界が悪くなる、蒸れる、鬱陶しいという理由で兜をつけてこなかったが初めて人を、それも十人の首を落とした時、自分もいつかこうなるという幻視をしてしまった。
蔵人の戦闘スタイルは初見殺しの奇襲か、相手の攻撃に耐えてからの反撃である。
ある程度の傷を無視しても奇襲を成功させるためにも、耐えてから反撃するためにも、首から上を攻撃されて致命傷を負わないように頭部装備は充実させるべきだと考えるに至った。
着脱式のフェイスガードはアキカワにあっさりと正体を見破られてしまったことから、加護の効果はどうにもならないとはいえ、やはり顔も隠すべきだという思いからであった。
『幻影』の自律魔法では動きを再現できない。
それなりに似た静止画をその場や人、物に付与して作りだすことはできても、その幻が動くということがなく、まったく変化しない。色などを付与するくらいならば人の目を欺けるが、変化のない表情というのは不自然で逆に人目を引いてしまう。
それならばいっそフェイスガード付きの兜にしたほうがハンターとしても違和感がないだろうと蔵人は考えた。
「細かい調整もある、着けてみてくれ」
エカイツに言われるままに蔵人は革兜を被る。
違和感は、ない。
多少固いが使っている内に小慣れてくるだろうと思いながら蔵人はフェイスガードもつける。
「……問題ない」
くぐもった声で蔵人はそう言うが、エカイツは兜をあれこれといじりながらぶつぶつと言い始めた。
「いや、これでいい……」
だがエカイツは蔵人の言葉など聞こえていないようで、調整がひと段落つくまでは解放してくれそうな気配はない。
長居をしたくなかった蔵人だがそれは諦めるしかなさそうだった。
ちょうど蔵人が動くに動けないその時、入口のドアが開き、そこに見覚えのある女騎士と元教師が顔をのぞかせた。
災難を避けるために身を隠すことも、逃げることもままならない蔵人。
バニスとアキカワは僅かな違和感から革兜を被った目の前の人物が最近出会った蔵人だと気づいたようであった。
そのまま店の中に入ると、作業に没頭しているエカイツの邪魔をしないように蔵人に話しかける。
「これは奇遇、というべきではないか」
おかしな物言いをするバニスを警戒する蔵人。
「なに、ここで会ったのは本当に偶然だが、北バルークでハンターとして活動しようとすればレイレ殿の情報や紹介があったほうが動きやすく、さらにここにバルークで指折りの革防具職人であるエカイツ殿もいるとなれば、こうして出会う可能性も高くなるというわけだ」
あんたは立派な金属鎧を着ているんだから用はないだろうというような目をする蔵人。
「……情けないことにアキカワが支給された軽鎧では重くて動けないと泣き言を言ってな。まあ、アキカワは魔法士だからローブでもいいのだが、なんせ動きが悪い。だからこうして軽くて丈夫な革鎧を注文しに来たというわけだ」
ジロリと後ろのアキカワを見るバニス。
アキカワはあははと申し訳なさそうに愛想笑いした。
千客万来とは蔵人の望むと望まざるに関わらず降りかかる災難らしい。
――バンッ
乱暴に入口のドアが開かれ数人の男たちがエカイツの工房に足を踏み入れた。
「――少しは考えてくれたか?」
作業しているエカイツに中心人物らしき青年が声をかけるが、エカイツは反応しない。
反応しないエカイツに苛立ちを見せるも、エカイツが朧黒馬の革兜の調整をしているのを見て、怒りの声を上げた。
「なぜ、その革兜を着けている者がいるんだっ!」
エカイツはようやく鬱陶しげに青年に顔を向けた。
「――うるせえっ、こっちゃ今仕事中なんだっ。それに見てわからねえのか、この革はこの人が持ち込んだもんだっ、この人に合わせるのが当たり前だろうがっ!」
エカイツの銅鑼声に僅かに怯んだ様子を見せた青年だったが、視線を蔵人に切り替えて食ってかかる。
「南バルークやマルノヴァに嫌がらせを受けているこの状況下、そう、言うなれば非常時だっ。貴族の義務として、私は民のために率先して魔獣や憎き飛竜、盗賊どもを討伐せねばならない。その私に朧黒馬の革兜や革鎧があれば、より一層民のために力を振るう事ができるというものだっ!
ゆえに、その革兜と残りの革は私に譲るべきであろうっ!」
青年の取り巻きも口々にそうだそうだと声を上げた。
青年はバルークの旧貴族の息子ではあるが、今も昔も田舎貴族だった。他の旧貴族のように議員や軍人になれるわけでも、自律魔法や商売で成り上がるわけでもない。地元で独立派として声だけは大きいが実際はへっぴり腰、そんな存在だった。
青年はエカイツの工房に朧黒馬の皮が持ち込まれたとどこからともなく聞きつけ、この五日間ずっとこうして押しかけては、気炎を吐いていくのだからエカイツとしては鬱陶しくてたまらなかった。
蔵人はフェイスガードを外しながら一言だけ言った。
「――断る」
そしてまた、フェイスガードをしてエカイツにされるがままになった。
エカイツはそんな蔵人の動きすら鬱陶しそうな顔をするが、これで青年がいなくなってくれればと思いながらまた調整に没頭し始めた。
「貴様っ――」
「――それ以上は横暴だ。私も見過ごすことはできん」
青年が顔を真っ赤にして唾を飛ばしながら口を開いたその瞬間、バニスが青年の言葉を遮った。
青年は怒りのままにバニスを睨みつける。
バニスは毅然とした態度で青年と向きあう。
「名乗りもしないで失礼した。アルバウム王国のバニス・ガーランドだ。私も旧貴族であり、身分を失くした今も民のためを思う貴殿の心意気には敬服する。だが、それ以上は誤解を与えてしまうだろう」
一部の隙もないバニスの挨拶に、青年は気圧される。
そして冷静になってあらためてバニスの所作や身につけている装備を見て、アルバウムの名を勘案してみると、女性とはいえ自分のような田舎貴族とは次元の違う存在だと遅ればせながらに気づかされる。
青年は慌てて、バニスに向き直った。
「こ、こちらこそ名乗りもしませんで。シラール・ウリアルテと申します。無様なところをお見せしました。――それでは私は急用を思い出しましたので、これで失礼いたします」
青年はきびきびした動作で工房を出て行き、その背を取り巻きたちが慌てて追っていった。
途中邪魔が入ったが、エカイツは満足げにいった。
「おう、いいぞ。鎧のほうも脱いでくれや、二日もあれば補修してやる」
蔵人は損傷の目立つ巻角大蜥蜴の革鎧の補修も頼んでいた。それなりに手入れはしているが刺されたり、燃やされたりするので素人ではどうにもならない部分があった。
「まあ、その間はこっちを着てくれや」
兜と鎧を脱ぐ蔵人の横に、エカイツはかわりの革鎧を置いた。
蔵人は用意された革鎧に着替えると、バニスに向かっていった。
「面倒をかけた。助かった」
「いや、礼を言われるようなことではない、気にしないでくれ」
蔵人はそうかとだけ言って、エカイツに向き直った。
「じゃあ、よろしく頼みます。二日後にまた」
「おうっ」
蔵人がドアに向かうその背で、バニスとアキカワがエカイツに交渉を始めていた。
外は冷たい雨がシトシトと降り、まだ日は暮れていないというのに日が落ちた後のように薄暗かった。
蔵人は鎧を待つ二日間は久しぶりに宿でも取ろうかと考えて、雪白に相談しにいくため門に向かっていた。
だが道の先に、男たちが待ち構えていた。
蔵人が足を緩めて背後を見ると、背後にも二人いた。
蔵人の前に男たちの内の一人、先程エカイツの工房で革を譲れと言ってきた青年が立ち塞がる。
「――ここなら邪魔も入るまい。
どうだ朧黒馬の革を私に譲らないか?」
脳裏に日本にいた頃の不良やチンピラモドキに絡まれて逃げた記憶がかすめるが蔵人は落ちついて思考を戦闘、つまりは殺し合いに切り替える。
逃げると殺し合いの間に、殺さずにぶちのめす、という選択肢がないのは雪白もそばにおらず、たった一人の蔵人では手加減の余裕がないからであった。
この世界には精霊魔法がある。油断して首と胴体が泣き別れになるということも否定できず、相手の意識がある内は蔵人の恐怖、警戒の対象であった。
「――断る」
だがここでは過剰防衛だとかそんな心配はない。
唯一恐れるとすれば、相手の嘘によって陥れられることだ。
ゆえに今この時、相手が武器を抜いたとしても、蔵人は街の中で武器も精霊魔法も使えない。
素手で、制圧するしかないのだ。
それだけに余計に手加減が出来そうになかった。
青年は蔵人のそっけない返答に苛立ちを見せた。
「そうか、少し痛い目をみれば分かるだろう。やれ」
青年の声に取り巻きの男たちが愉悦を浮かべ、蔵人に近寄ってきた。
だが蔵人は闇精に魔力を渡し、唯一使えるようになった中級闇精魔法である『目隠し部屋』を発動した。
見通せない闇が蔵人の前後、青年も取り巻きの男もまとめて覆い尽くす。
「くそっ、なんだこれはっ」
青年と取り巻きたちが戸惑いの声を上げる。
闇精魔法などという使い道のない魔法を咄嗟に思いつかなかったらしく、青年たちは対処が遅れた。
外は曇り空で薄暗いとはいえ僅かな光はあり、男たちを覆った闇はその縁からジリジリと払われている。
だがしばらくしてようやく闇精魔法の存在を思い出した青年が光精で目の前の闇を払った時、蔵人の姿はどこにもなかった。
いつも殺すような戦いをするわけにもいかない。
蔵人は面倒になって、逃げ出していた。
二日後。
蔵人はエカイツの工房にいた。
鎧を待つ間、こっそりとレイレから適当な討伐依頼をもらって雪白のストレスを発散させたり、額に汗してブラッシングしたり、アズロナの飛行訓練をしたりと旧貴族の青年に再び絡まれないようにしながら、蔵人は平穏な日々を過ごした。
当然宿に泊まれるはずもなかったが、そんなことはいつものことである。
「――どうだ」
「……問題ない、ありがとう」
蔵人は素直に礼を言いながら、ディープダークグレーとも言うべき色になった革鎧を見つめた。
革兜は首の後ろでフード付きのローブのように革鎧に取りつけることも、外すことも可能になっており、蔵人の注文通り移動中のアズロナの居場所がなくなるということもなかった。
蔵人は物は試しと魔力を流してみる。
すると、鎧を着た部分が靄がかかったようになる。
だが、それだけだ。朧黒馬のように姿が消えることはなく、他に何か効果があるということもなかった。
「……ハズレではないが、使い道のある組み合わせでもなさそうだな」
「ハズレ?」
「ん?ああ、魔獣の素材は組み合わせ次第で稀に驚くような効果を発揮することがある。まったく効果がないのはハズレと呼ぶんだ。ほとんどがハズレだな。まあ本当に有効な組み合わせは、加工の仕方も含めてほとんど職人や国が抱え込んでるんだが、まだまだ発見されてない組み合わせもあるだろうよ」
大棘地蜘蛛の糸と万色岩蟹の組み合わせもハズレとはいえないが、爪の開閉という微妙な効果であった。
蔵人が魔力の供給をやめたちょうどその時、バニスとアキカワが工房を訪れた。
「ほう、それが悪魔の馬とも呼ばれる魔獣の革か。アキカワの力なら姿を消されても狩れそうだが……」
アキカワが焦ったような顔をして首を横に振る。
「無理です。勘弁して下さい。死んでしまいます」
土下座ならいくらでもしますから、とでもいいそうな勢いである。
「……情けない」
「――アキカワさんといったか、調整するぞ」
ほっとしたアキカワをエカイツが工房の奥に連れて行った。
蔵人がさっさと工房を出ようとしたが、バニスはその背に声をかけようとした。
――バンッ
乱暴に開かれたドアの音に二人の行動は遮られた。
開かれたドアの前には先日の旧田舎貴族の青年、血走った顔をしたシラールが立っており、蔵人は嫌そうな顔をした。
だがシラールは先日のように絡むことなく、一直線にバニスの元に向かった。
「――恥を忍んで、お願いしたいことがございますっ」
シラールの跪かんばかりの勢いに、バニスは慌てることなく問い返す。
「まずは話を聞こう」
「ありがとうございますっ」
「落ちついて話せ」
「も、申し訳ありません。じ、実は、妹が誘拐されてしまいました」
バニスの顔が険しくなる。
続けろというバニスの返答にシラールは事態の詳細を話し出した。
昨日の夜、手紙が届けられた。
そこにはウリアルテ家の娘を誘拐したことが書かれており、そこには恭順派として動くか、それとも身代金百万ルッツを三日以内に用意しろと書かれていた。
三日後、恭順するならば当主自身が、恭順を拒むなら荷車に金を乗せて、竜山の麓の森の入口に置けとの命令だという。用意できなかった場合や憲兵に知らせた場合、娘には無残な死が待つとのことだ。
差し出し人は『飛竜の槍』という恭順派の過激派集団らしい。
ユーリフランツの紋章は飛竜騎士であり、彼らはその騎士の槍を自称している。
当然独立派である北バルークを敵視しているが、バルークの自治政府が恭順の姿勢をとっており、北バルークもそれほど急進的な独立の動きがあるわけではない。
ほんの一部の急進的な独立派に対抗して組織された小さな集団で、独立派とはいえ大して力もない旧田舎貴族の娘を誘拐するような動きをしたことは今までなかったという。
「金は用意したのか?」
「……難しいですが、なんとかかき集めます」
「憲兵には知らせたのか?」
「奴らは北バルークのために動いてくれません。それに、どこに耳目があるやもしれず、憲兵に告げるわけにも参りません」
「で、私に何を頼みたいのだ?あいにくだが、そんな大金はないぞ?」
「いえ。秘密裏に妹の救出をお願いしたいのです。仮に金を払ったところで、奴らが妹を返すとも思えません。それに妹は年頃で奴らの汚らわしい手にかかると思うと……」
憔悴した様子のシラールを見ながら、バニスはふむと一呼吸置いた。
「――よかろう」
シラールはバニスの返事に救われたような顔をする。
物音に何事かと工房の奥から戻ってきたアキカワが訳の分らぬ顔をした。
蔵人はご愁傷様と内心でアキカワを拝みながら、こっそり工房を出ようとした。
「――待て」
蔵人はそれを無視してドアを抜けようとするが、
――ドンッ
目の前で長剣がドアに突き刺さった。蔵人は睨みつけるようにバニスを見る。
バニスは何も間違ったことはしていないと胸を張っているように見えた。
「貴殿も協力してくれ」
「――断る。俺の手には余る」
蔵人はバニスの要請に即答で、拒絶した。
そしてバニスの要請を聞いたシラールもなんでこんな奴をという目をする。
「人の命がかかっている。私怨は忘れてくれ」
「あんたは知らないだろうがこいつはこの間、俺が工房を出た後に襲ってきたんだ。そんな義理はない」
バニスが驚いたような顔をしてシラールを見ると、シラールはバツの悪そうな顔をして目をそらした。
「……頭を下げさせよう」
「いらん。俺はそいつを信用できない」
「いい加減にしろっ。この男の罪と娘御の命は別問題だろうが」
「二日前に俺がそいつに殺されていたら、そんなことはいえないだろ」
蔵人はドアに刺さった長剣を避けながら、ドアノブに手をかけた。
が、それ以上は身体が動かない。
それもそのはず。一足飛びに間を詰めたバニスが蔵人を掴んでいた。
蔵人はバニスが掴んだその手から恐ろしいまでの膂力を感じた。片手で長剣を自由に扱っているのは伊達ではないようだ。
密着したままバニスが囁く。
「……貴殿の猟獣の力を借りて賊の居場所を調べ、私が賊を引きつけている内に娘御を救出して欲しいだけだ」
「随分と他力本願なことで。協力して当たり前だとでもいいたげだな」
まるで協力する気のない蔵人に、バニスは仕方あるまいと呟きながら声を低くする。
「……貴殿は何かを隠しているようだな。アキカワは何も言わないが貴殿と会ってから僅かに、ほんの僅かに雰囲気がかわった」
「知らんよ。娼街帰りの舟で会ったことを誤魔化してやったおかげだろ」
蔵人はあっさりとアキカワを売った。別に約束していたわけでもない。
蔵人としては気付かれたほうが問題だった。
「ほう、そうだったか。奥方に報告せねばな。しかし、それとは別だ。
それでも私にとってはどうでもいいことだ。調べる気もなかった。危険はなさそうだったしな。
だが、相手が人の情も知らんような人間なら話は別だ。それなりに調べねばなるまい。アキカワに火の粉が降りかからないようにするのも仕事だからな」
蔵人は表情を変えないように努めるが、こう来られてはどっちにしろマズい。
断っても、調査される。
了承しても何か隠していると確信される。
バニスは続ける。
「私もこんなことは言いたくない。
ゆえにだ、今回協力するなら私はお前のことを一切詮索しないし、誰にも言わない。約束しよう。そうだ貸し一つということでもいい。多少なら謝礼も払おう」
「……信用できない」
「私がなぜアキカワなんていう冴えない男に付いていると思っている。左遷されたからだ。上司のいうことを聞かない、頭の堅い女はいらない、とな。
それに今は奥方に拾われ、国の紐がついているわけではない。つまり国に報告する義務もないというわけだ」
見知らぬ田舎貴族のためになぜそこまでするのかと聞こうとして、蔵人は聞くまでもないことかと思い直す。
単純に、正義感、義憤だろう。
だが蔵人は、答えを出せずにいた。
雪白に頼り切りになるだろうことを自分が決めてしまうという申し訳なさ、シラールへのわだかまり、そして何より感情的にバニスのやり方が気に入らなかった。
突然、シラールが蔵人の前で跪いた。
「――先日はすまないことをした。どうか、どうか妹を救ってくれないだろうか」
プライドの高そうな男があっさりと頭を下げた。
蔵人がどういう人物で本当に役に立つかどうかもわからないのに。
よほど妹を大事に思っているのだろう。
蔵人としては襲われそうになったが、逃走した。
そしてその犯人が頭を下げた。
この時点でシラールへのわだかまりは多少解消された。
バニスのやり口は気に入らないが、気持ちは分からないでもない。そして本当に約束を守るなら、後顧の憂いもなくなる。
雪白は頼めばやってくれるだろう。雪白に全てを頼みたくないというのは蔵人の内心の問題でしかないのだから。
蔵人は不服そうに、言った。
「――わかった。協力しよう」
バニスの顔から険しさがとれ、青年がほっとしたような顔をする。
蔵人はバニスの耳元で囁く。
「――但し、約束を守らなければ今日救ったものを殺す。報酬はいらない、貸し一だ」
こんなことはいいたくなかったし、そんなことが出来るかどうかすらわからないが相手が恫喝で交渉した以上、蔵人もバニスに相応のリスクを示してやらなければならなかった。
バニスが約束を守る保障などないのだから。
だが蔵人の言葉を聞いたバニスは自信ありげな顔を向けてくるだけで、蔵人はつい舌打ちをしてしまった。
事情をきちんと把握したアキカワは頭が取れそうなほどペコペコと頭を下げていた。
だがバニスに再考を促さない辺り、アキカワも救いたいのだろう。
しかし説明の後、蔵人が暴露した娼街通いについてバニスに説明を求められ、冷や汗をダラダラとかきながら青い顔をしていた。
そのアキカワの様子に蔵人はようやく少しだけ溜飲を下げたのだった。
やると決まれば、事態はあっという間だった。
その日の夜には投げ入れられた手紙の匂いから雪白が『飛竜の槍』らしき集団のアジトを見つけ、バニスとアキカワ、蔵人たちがその場に急行した。
そこは森の近くにあった小さな廃村だった。
飛竜災害と盗賊被害で生計が成り立たず、散り散りになった村の一つである。
小さな廃村は土壁が張り巡らされ、元は村長宅であっただろう少しだけマシな家を土精魔法で粗雑な要塞としたものがアジトらしく、そこから仄かな光が漏れていた。
バニスが入口で声を上げ、簡素な門を盾の体当たりの一撃で破壊して賊を引きつけている内に、闇精魔法で廃村に侵入していた蔵人たちが村長宅を急襲した。
自律魔法を使ってもよかったがバニスに手の内を晒すわけにもいかず、雪白が訓練だとでも言わんばかりに娘の確保以外を蔵人に任せたのだった。
村長宅に飛び込んだバニスが見たのは血まみれでククリ刀を操る蔵人とリーダーらしき人物の戦いの最後のほうだった。
リーダーは小奇麗な盗賊といった感じで、むしろフェイスガードをして顔を隠して全体的に黒っぽい蔵人のほうが暗殺者にも似て悪党らしい。
蔵人はリーダーの剣を身体に受けながら、力任せにククリ刀をリーダーに叩きつけ、同時にその背を土精魔法で串刺しにした。
「――無事か?」
まあ一応なという蔵人は無傷とはいかなかったらしい。
村長宅に残っていたのはリーダーらしき人物が一名と手下が三名。先程のリーダーの腕を見る限り、それほど手傷を負うような相手ではない。
闇精魔法を使った見事な侵入や剣を振るうと同時の精霊魔法の行使など感心するような技術がある一方、剣はそれぞれの方向にまっすぐ力任せに振るうだけで体捌きも剣の技術も粗雑のひと言で表現できるほどで、バニスはなんともちぐはぐな男だという感想をもった。
――キンッ
廃村の夜に、剣のぶつかりあう音が響く。
賊はかろうじて生きていたリーダーと外に出た二名が生き残っただけで、他は全て殺された。
死体は蔵人によって凍結され、リーダーと他二名は縛られ、さらに蔵人の持っていた昏倒毒で気絶中である。
誘拐されたシラールの妹は幸運にも殴られただけで、今は雪白の白毛に包まれて眠っていた。妹は蔵人に助けられたと分かると、気が抜けたように意識を失ったのだ。
アキカワが気の毒そうな顔をしてククリ刀を構える蔵人を見ていた。
そう蔵人は、バニスにしごかれていた。
あの後、あまりに雑な蔵人の戦い方を見たバニスがさも名案だという口調で言った。
「あの戦い方ではな……よし、私が教えてやろう」
蔵人は死んだ盗賊をちょうど凍結し終わったところだった。
バニスに腕を取られ、引きずられる蔵人。
「――おい、ばか、待て」
恐ろしいまでの力は蔵人が多少力を込めたところでビクともしなかった。
どれだけ剣を合わせ、盾を合わせただろうか。
バニスは盾の使い方や体捌きを蔵人の身体に叩きこみながら、諭すように話す。
「……貴殿の剣は、軽い」
そう言ってバニスの話は私怨でシラールの妹を助けようとしなかったことから始まり、力のあるものの心構え、背負う意味などを諭すように話していった。
蔵人とアガサたちの確執も知っているらしく、
「ジョゼフ殿やアガサ殿、マルノヴァの支部長は確かに横暴だったが、立場をかえて見れば信念や背負っているものがあるのは分かるだろう。ゆえにその力は強く、重い」
という話もまじえてきた。
おそらく、間違ってはいない。
だが、蔵人は苛立った。
「何がわかる」
「――剣を合わせればわかる」
蔵人はそれだけで、さらに苛立ち、そして諦めた。
蔵人は拳を突き合わせて分かり合えることなどほとんどないと思っている。
ある程度共通意識を持った同じような立場の人間同士ならあり得るかもしれないとは思うが、それ以外はないだろうと。
蔵人はバニスとの問答をやめ、せめて技術くらいは盗んでやるというただそれだけをモチベーションにバニスの訓練をこなしていった。
バルティスに戻ってきた蔵人は何故かレイレの酒場にいた。
あの後蔵人たちは早朝に廃村を出立して賊とシラールの妹をバルティスに送り届け、シラールとシラールの妹、その家族から再び深々と頭を下げられた。
そこからようやくのことで解放されると今度はニヤニヤした顔のレイレに何も聞かされず、酒場へと連行された。
「俺からも礼を言う。本当に、ありがとう」
カウンターで不機嫌そうにしている蔵人に頭を下げたのは、以前レイレの酒場でエスティアを貶しながら絡んできた中年のハンターだった。