68-中年勇者
遅れました<(_ _)>
人畜無害そうな、冴えない中年男性。
だが彼は、勇者だった。
フードをしっかりと深く被っていたが、バレたのはなぜだろうかと警戒しながら蔵人は、先に乗り合わせていたであろうを中年の勇者をフードの隙間からチラリとのぞき見る。
やはり、間違いない。
勇者、それも三人の教師の内の一人である国語教師の秋川忠夫、こちらでいうタダオ・アキカワだった。
召喚される前の蔵人との関係は、すれ違えば挨拶する程度の、つまりはただの教師と用務員の間柄でしかない。
くたびれたスーツに紺色の袖カバーをつけている姿しか思い出せないが、今のアキカワは蔵人と同じように、しかし蔵人とは違って高そうでシックな紺色のローブを着ていた。
水路に浮かぶ船の上では逃げ場などなく危機感が、こみ上げてくる。
しかし同時に、それとは別の意味で、気恥ずかしかった。
この小舟に乗ったということは、彼もまた娼婦街帰りである。
現地人相手なら開き直れもするが、日本人同士というのはそうもいかない。
相手もそれに気づいたのか、自分から声をかけておきながらどこか挙動不審になっていた。
小舟は蔵人とアキカワの戸惑いなど関係なく、行きと同じであっという間に対岸に到着してしまう。
このまま人違いです、はいさよなら、という訳にもいかない。
加護のない勇者である蔵人という存在をアキカワがどのように考え、どうするつもりなのか。それを知らなくてはならない。
勇者にエンカウントするたびにこんなことをしなくてはならないかと思うとうんざりするが、放置することもできなかった。
蔵人は無言で先に小舟を降り、中年勇者を待った。
よっこいせと小舟を降りたアキカワに対して、蔵人は敬語で話しそうになるのを堪えて、声をかける。
「ここじゃああれだ、あそこで」
蔵人が早朝にも関わらず人の出入りの激しい軽食屋に歩き出した。
有無を言わせない蔵人の行動だったが、アキカワも気にした様子を見せず、蔵人についてきた。
軽食屋の一番奥に蔵人とアキカワはいた。
アキカワは船から降りてすぐに、フードを被っていた。
軽食屋の客層は早朝から仕事をする者たちが多いようで、慌ただしく朝食をかき込んでは去っていく。メニューの品も非常に安価だった。おそらくは地元民の朝食屋なのだろう。
そんな喧騒の中で蔵人とアキカワは、注文した安いホットワインを挟んで向かい合っていた。
机と額がつくほど頭を下げるアキカワ。
「こちらの世界で君は存在しないことになっている。私たちがいながら、本当に申し訳ない」
薄くなりつつあるアキカワの頭頂部を見ながら、蔵人はため息をついた。
「そう思っているなら、それでいい。こっちも今更、勇者だなんだと言われるのは御免だ。頭を上げてくれ、目立つのは困る」
蔵人がそう言うと慌てて頭を上げるアキカワ。
「まず、俺の存在を誰にも話さないで欲しい、それを約束してくれ」
アキカワの顔が真剣味を帯びたものにかわる。
「……わかりました。約束しましょう」
「召喚者としての俺を知っている者は少ない。漏れれば、必然的にあんただということになる。その時は……」
蔵人がすっと目を細めた。
アキカワは苦笑する。それは幾分、自嘲的なものを含んでいた。
「決して誰にも言いません。それに今の私は報告義務のあるような立場ではありませんから」
立場?という蔵人の問いにアキカワが答える。
「恥ずかしながら、こちらに召喚されてから生徒に愛想を尽かされてしまいました。二年半だけは教師の責任として全員を及ばずながら見守らせてもらいましたが、もう必要ないでしょう。卒業です。
私が担当していた二年生も早々に他の先生やイチハラ君を頼りましたので、心配はありません。
今はアルバウムからも愛想を尽かされて、ちょっとした魔獣調査にかこつけてこんな風にぶらぶらと旅をしています。ですから、報告する義務もありません。支部さんのことを報告しても、誰も幸せにはなりませんしね」
腕っ節がからっきしでしてと苦笑するアキカワ。
「加護があるだろ」
「いやあ、私の加護は役に立ちませんから。
私は単に『指線』とよんでますが、一定距離内の相手をマーキングすることで、不可視のラインをつけることができ、私から一定範囲内にいる間はそのラインを辿って相手の居場所がわかる、というだけのものですよ。それも同時に五本までです。一定範囲を超えてしまえば、指線は破棄されてしまいますし。
支部さんのことがはっきりわかったのも、なんとなく見覚えがあるなと思って、失礼だと思いながらも指線を飛ばさせてもらいましたが、弾かれまして、それで確信しました。召喚者以外に弾かれたことはありませんから」
蔵人は加護が効かないことで身元がばれるということまでは想定していなかったが、どちらにしろどうにもならないことであった。
「クランドと呼んでくれ。今はその名前でハンターをやってる。出身は流民だ」
蔵人がそう言うとアキカワは申し訳なさそうな顔をした。
「わかりました。クランドさんですね。それにしても流民ですか、大変だったでしょうに」
帰属する国がないため市民権すらなく、教育されているわけでもないため旧冒険者三種になることもできず、街壁の外で暮らすしかない流民の悲惨さを日本時代の知識とこの世界で実際に旅をしてきたことで、アキカワは知っていた。
「まあ、それはお互いさまだ」
「私たちも大変でしたが、衣食住は保障されてましたし、すぐに殺されるようなこともありませんでしたから」
「俺もなんだかんだで生きてる。それでいい」
二人の会話は早朝の喧騒の中で途絶える。
元々、それほど親しい関係でもない。
アキカワがホットワインを僅かに口に含んで、のみ込んだ。
「――クランドさんは、私たちを恨んでいないのですか?」
沈黙を破ったのはアキカワの、躊躇いがちな質問だった。
「恨んでいない、といえば嘘になるが、こちらから積極的に召喚者をどうこうする気はない。ハヤトのことも許す気はないが、だからといって何かしようとも思わない」
「アルバウムに保護される気はないのですか?」
「勝手に誘拐じみた召喚をした奴らの世話にはなりたくない。それにアルバウムに保護されたところでまともな生活が送れるとも思わない」
「……そうですね、勇者を肯定し、尊重するのがアルバウムの基本的なスタンスですが、それに反発する議員もいないわけではありません。召喚者とて一枚岩ではありませんし、どちらについてもクランドさんにとって良いことはないですね」
「あんたはアルバウムに不満はないのか?」
アキカワはなんともいえない表情をした。
「最初は腹も立ちましたが、生徒たちのこともありましたし、何も知らない世界で無暗に敵をつくるわけにもいきませんでしたから、アルバウムにすり寄るような形になりました。それがまあ、生徒たちは気に入らなかったのかもしれません。
その上、魔鳥相手に何も出来ず、生徒が騙されたことに気づくこともできませんでした。愛想を尽かされるのも当然です。
ですがそこでふと考えると、この世界で教師にこだわる必要がないことに気づきました。そうしたら不思議なものですね、元の世界への未練もなくなりました。両親も既に他界しており、結婚もしてません。なんの心残りもないんです。
ある程度はアルバウムが面倒を見てくれますから、生きるのに不安もありません。だから、アルバウムにも不満はありません。感謝しているかとまで言われると複雑なところですがね」
「そっちはそっちで難しいな。まあ、俺に関わらないでくれたらそれでいいんだ。お互いに不可侵、それでいいだろ」
アキカワは少し視線を落とした。
「そう、ですね。でも、何かあれば言ってください。大したことも出来ませんが、協力は惜しみません」
蔵人は返事をしなかった。
再び、周囲の喧騒が二人の間に入り込もうとした時のことだ。
「――あっ」
アキカワが小さく声を上げ、そして蔵人に早口でまくし立てた。
「わ、私のお目付け役のような人が来ます。出来れば話を合わせて下さると助かります」
アキカワは酷く狼狽していた。
見えもしない内から他者の来訪が分かるということは、アキカワが言った『指線』がその相手につけられているのだろう。
「お願――」
「――貴方はこんなところで何をしているっ!」
忙しない軽食屋の喧騒に凛々しい大声が響く。
声の主はカッカッと固い靴底を鳴らしながら軽食屋の中を進み、蔵人とアキカワのテーブルの前で止まった。
軽鎧と青い騎士服を着込んだ金髪の女騎士が厳しい顔でアキカワを見下ろした。
「奥方には貴方の監視をしっかりと頼まれている。何も言わずに宿からいなくなられては困るのだっ」
暗に娼婦街など行っていないだろうな、とでも言いたげであるが、蔵人としては奥方という言葉のほうが気になった。
蔵人がそっとアキカワを見ると額からダラダラと流れる汗を拭くこともできず、目が泳いでいる。結婚していたのかなどと聞いても答えられそうにない。
責任や義務から解放されて、はっちゃけてしまったのだろうと蔵人はアキカワに少し同情した。
どことなく雪白に説教される自分を見るような気持であったのかもしれない。
「すまない、俺のせいだ」
女騎士が蔵人に顔を向ける。
「昨日、協会の昇格試験に落ちてむしゃくしゃしてのみ過ぎちまったんだ。酔いつぶれて路上で寝てたところをこのおっさんに拾われて面倒を見てもらった。そのままだったら、追い剥ぎにでもあってただろう、本当に助かった」
「むぅ、そうか。わたしの勘違いだったようだ。アキカワ殿、すまない」
あっさりと蔵人の言葉を信じた女騎士はアキカワに頭を下げる。
まるで救世主を見るような目で蔵人を見つめるアキカワ。
蔵人はとっとと行けと小さく手を振る。
アキカワは何度も小さく頭を下げながら立ち上がり、頭を下げていた女騎士を急きたてるように店を出ようとする。
「ささ、それじゃ行きましょう。まずは教会でお祈りしなければ」
「そうか。やっとアキカワも……」
そんな風にして女騎士を店から追い出しながら、アキカワは背中越しに蔵人にペコリと頭を下げて去っていった。
アキカワが去った後も蔵人は軽食屋にいた。
ホットドッグのようなものを二つほど頼み、店員の荒々しい手つきで差し出されたそれを代金と引き換えに受け取ると、席に戻ってかぶりついた。
濃厚なトマトソースにタマネギとレタス、大きなウインナーを挟んだだけのものだが、単純なだけにハズレということもなかった。
ホットドッグモドキを食べながら蔵人は考える。
教師を辞め、結婚し、今は魔獣調査をしながら旅をしているというアキカワ。
監視役らしい実直な女騎士を連れていた。
蔵人は心の中だけでアキカワを拒絶する。
正確に言うなら、アキカワの加護への拒絶をはっきりと意識した。
念のためである。
召喚者が受け入れなければ加護は作用しないが、それについて明確な承認や拒絶が必要なのかどうかもはっきりしないのだから、万が一を考えれば拒絶しておく必要があった。
アキカワを信用していないわけではない。
だが、信用する理由もない。
アルバウムの支援を受けて旅をし、アルバウムで結婚し、アルバウムの騎士が監視についているとなればアルバウムから愛想を尽かされたというアキカワの言葉を丸々信じるわけにもいかず、しかし本当に飼い殺しにされているという可能性もある。
情報が足りないが、それを得る手段もない。藪をつついて蛇を出しては馬鹿らしい。
アキカワのことは保留にするしかなかった。
遭遇した召喚者の全てを殺していくわけにもいかないのだから、後手に回るのは致し方なかった。
蔵人の中に早くこの大陸を出て、サウランに、砂漠に行きたいという想いが募る。
果てまで続く砂漠。照りつける太陽。蒼い夜のオアシス。そこでひっそりと生まれ、営み、砂へ帰っていく人々。
見てみたかった。
何より、描きたかった。
過酷さの想像が出来ない訳ではないが、憧れのほうが強かった。
現実逃避なのかもしれないが、それが偽らざる気持ちである。
蔵人はホットドッグモドキを食べ終えると立ち上がる。
アキカワのこともあり、しばらくはマルノヴァに近づきたくなかった。
次の試験日程とサウランに行くための中継地点である龍華国行きの船の正確な日時を調べるつもりで、そのまま協会に向かった。
協会の前で、ぶつかった。
蔵人は咄嗟にすまないと謝る。キツイ香水の香りがした。
ぶつかった拍子に軽く後ろによろめいた女は、体勢を立て直すとキッと蔵人を睨みつける。
そして、女は蔵人を知っているような目をした。
女は蔵人がマルノヴァ支部に到着したその日に依頼の消化と素材の買い取りを頼んだ協会職員であり、朧黒馬の皮を色仕掛けで安く買い取ろうと蔵人に迫ったことがあった。
「レディファーストも知らないのっ?これだから下位のハンターは嫌なのよっ!」
女性職員は侮蔑しきった目で蔵人を睨んだまま、ことさらに下位という部分を強調して言い放った。
クランドという流民出身のハンターが協会で騒動を起こしながらも、支部長に目をかけられ、それでいて昨日の昇格試験に落ちたことを女性職員は知っていた。
そしてその男がランクに分不相応な朧黒馬の皮を持ち込み、それを自分が買い取ってやると優しく言っているのに断った男であることにも気づいていた。
女性職員にとって、蔵人を見下す理由には事欠かなかった。
「どいてっ!」
蔵人を押しのけ、女性職員は協会に入っていった。
勇者と遭遇するという天災が一件、情緒不安定な女性職員と衝突するという前方不注意による人災が一件。せっかく気分の良い朝を迎えたというのに、蔵人の心は早くもささくれ立ってきた。
気の毒そうな目で蔵人を見る受付の男性職員。
出入口の騒動を見ていたのだろう、協会のロビーにいた何人かのハンターもご愁傷様でという目で蔵人を見ていた。
蔵人は用件を済ませようと受付の男性職員に尋ねた。
次の昇格試験は白月の三十日。
龍華国行きの船は予定より少し遅れ、白月の末日か蒼月の頭に入航する予定だという。協会も出資する大きな船であり、ここで乗船予約が出来るということだった。
一人五千ルッツ、蔵人と雪白の二人分を支払った。手荷物サイズならば別途料金はかからないということでアズロナのことは言わなかった。
どれだけ早く成長しても手荷物サイズを超えることはない、はずだ。
いくらか金を下ろし、蔵人は早々に協会を後にした。
依頼を見る必要はなかった。
山のようにお土産や生活物資を買い込み、竜山に向かう。
急ぐ必要はないためランニング程度の速度で走り、通常の乗り合い魔獣車よりも僅かに早い程度に竜山に辿り着く。
周囲はすでに暗闇であり、朱い月明かりだけが目の前の森を照らしていた。
ここから先は昼間の街道と違い、大荷物を担いだ蔵人では少々危険だった。
蔵人は躊躇なく、口笛を吹く。
夜の森に穏やかな曲が響き渡る。
ここで魔獣に襲われたとしても撃退は十分に可能で、撃退できなくともしのいでさえいれば、到着した雪白が美味しく頂いてくれる。
残念なことに雪白のお腹に収まるような魔獣が蔵人を襲うことはなく、蔵人が口笛を吹いてから驚異的な早さで朱暗い森から白い獣が姿を現した。
雪白の鼻がぴくっと動く。
次の瞬間、雪白はその長い尻尾を振るった。
――べちっ
雪白の突然の凶行に、蔵人は咄嗟に避けることも出来ず、顔面に何かが直撃する。
だが、重みはそれほど感じられない。
ひんやりぷにっとした感触に蒼い体色、顔を掴んでいる突起物。
アズロナだった。
蔵人はアズロナを顔面から引きはがそうとするが、アズロナは雪白に投げ付けられたというのに楽しげに、嬉しげによじよじと蔵人の顔面を登り始める。翼腕に小さな爪が三本ずつ生えたようで、それを使ってへばりつき、まだ上手く扱えないのかたどたどしい爪捌きで懸命に顔面を登っているようだった。
蔵人もそれを阻止するのはなんとなく忍びなく、放っておくことにした。
そこに、雪白が近づいてくる。
蔵人がアズロナの隙間から見ると、雪白はどこか不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、蔵人の背負っていた大荷物を全て尻尾で巻き取った。
一方顔面登攀中のアズロナはようやく額の上辺りまで到達すると、蔵人の被っていたフードがもの珍しいのか、首を傾げながらもフードをいじり始め、ついにはフードを剥がして、自分ごと蔵人の背中におっこちる。
――ぎぅいーっ!?
自分で落ちておきながら、パニックになってフードの中で暴れるアズロナ。
蔵人はやれやれと後ろ手にフードへ手をつっこむとアズロナの首らしきものを掴み、フードから顔だけだしてやる。
山登りにはちょうどいいのでこのままにしておくことにした。
アズロナも外に顔を出せたことで落ち着いたらしく、居心地がいいのかフードの中で大人しくなった。
雪白は雪白で荷物を尻尾で持ったまま、アズロナの自爆などいつものことだと気にも留めずに蔵人の周囲をくんくんと嗅ぎ、やはりどこか気に入らなそうな顔をする。
巣に戻ったら色々と吐いてもらうからねと蔵人をちらりと睨んで、巣に戻らんと背を見せる雪白。
蔵人は言い知れぬ緊張感にじわりと背に汗をかきながら、朱暗い森を行く雪白の背を追った。
ちなみにそんな養親の緊迫した空気など知らないとばかりに、アズロナは気持ち良さそうに、蔵人のフードの中でぎぷーと奇妙な寝息を立てて眠り始めていた。
朝日が昇り切った頃、ようやく隠れ巣に辿り着く。
雪白は巣に荷物を放り投げると蔵人のニオイをあらためて嗅ぐ。
花よりも甘ったるい、鼻がむず痒くなるような、嗅いだ事のないニオイだった。
なんだかわからないが、気に入らなかった。
だが、怒っては負けなような気もした。
イライダやヨビのように紹介しないということは、取るに足らない相手に違いないのだ。
雪白は喉の奥で唸りを上げただけにとどめ、蔵人に説明を求めず、悠然と巣に戻っていった。
蔵人は背中にじっとりと汗をかいたまま、雪白の背を見送った。
齧られるか、問い詰められるか、戦々恐々としながら山を登ってきたが、肩すかしをくらった気分だった。
だがそれだけに、不気味だった。
朱月の百一日、つまりは朱月の終わり月であり、白月への変わり月でもある。
蔵人は帰ってきてすぐに買ってきた毛皮を引っ張り出してひと眠りすると、買ってきた荷物の整理もそこそこに雪白のブラッシングを開始した。
なぜか女王様のご機嫌を取るかのような心持ちだったのが不可解だが、そうせねばならない気がした。
ざっとブラッシングを終えると、露天風呂に向かい、水精で温泉の温度調整をし、蔵人はゴムブラシで雪白を洗う。
買ってきた石鹸を泡立てて、せっせと洗う。
アズロナはとりあえず温泉に放り込んでおいた。嬉しそうにすいすいと泳いでいるから問題ないだろう。
額の汗を拭って雪白を一通り洗い終えると、温泉で泡を流してやる。
雪白はのそりと身体を起こすと、唸りもしないで温泉に身を沈めていった。
この緊張感はなんだろうか。
蔵人はなんともいえない緊張感の中で温泉からアズロナをつまみ上げて洗い始めた。
ふと天啓のように、この緊張感を打破すべき策を思いつく。
洗い終えたアズロナをポイっと温泉に放り込んで、蔵人は大急ぎで自分の身体を洗い終えるといそいそと居間に戻り、買ってきた荷物を漁り、手頃な木の板を一枚、地下の避難所兼研究室から持ってくる。
そしてその板を湯船に浮かべ、徳利とお猪口、つまみの干し肉を置いた。
雪白はまた阿呆なことをという呆れた目で蔵人を見る。
蔵人は大きめのお猪口に徳利から酒を注いだ。
さすがに日本酒ではないが、そこそこ高い蒸留酒である。
温泉の湯気に漂い出した酒精の香りに雪白は鼻をひくつかせ、しかたないといった風に尻尾でお猪口を持ちあげると、舐めるように酒を口にした。
蔵人もまた酒を注いだ小さめのお猪口を持ち、口に含んだ。
頭上の朱月が、白月に変わろうとしていた。
混じり合った月光が朱色から桃色、白桃色へと変わりつつあった。
この世界の月は色こそ正確に百一日ごと変わるが、月の満ち欠けは女神の性分そのままに気まぐれだ。三日月が続くこともあるし、一日ごとに満ち欠けが変わることもある。
今宵は満月だった。
大きな露天風呂をすいすいと泳ぎながら、蔵人や雪白の飲んでいる酒を羨ましそうに見上げるアズロナ。
まだ早いという優しい目でアズロナを見ながら、酒を舐める雪白。
そんな二匹の姿と変わりゆく月を見ながら、お猪口を傾ける蔵人。
湯気と混じり合うようにかすかに吹き込んだひんやりとした山の風に、なんともいえない緊張感も晴れていくようだった。
――ぽちゃん
軽い酔いに蔵人がつまみの干し肉を温泉に落としてしまう。
だらしのないとでも言いたげに、じろっと蔵人を見る雪白。
蔵人が慌てて拾おうとする前に、すいっとアズロナが動いた。
頭を温泉につっこむと、一瞬で逆立ちになって潜行する。
すいすいと潜り、干し肉を咥え、潜ったときと同じように浮上したアズロナは口に咥えた干し肉を蔵人にくいっと差し出す。
ポカンとした顔でアズロナを見つめる蔵人に、どうしたの?とでも言いたげに干し肉を咥えたまま小さく首を傾げるアズロナ。
蔵人は若干の眩暈を覚える。それは決して酒のせいだけではなかった。
陸上を飛んで生活する飛竜の群れでは決して開花することなく、死んでいく運命でしかなかった水に適応した飛竜の変異種。
飛竜としての変異の一つの結果が水中への適応というのは、生まれつきなのか、それともアズロナを引き取った自分の影響なのか。どちらにしても、そして両方だとしても、一般的な地球の進化論的なものに慣れた蔵人にとって、こちらの世界の変異、つまりは種としての適応変化はでたらめに思えた。
それが決して不快ではなかったが、安々と慣れることもなかった。
アズロナから干し肉を受け取り、違う干し肉を小さく細かく裂いてアズロナの口に放り込む蔵人。ついでとばかりに鬣も撫でる。
小さな口でモグモグと干し肉を噛むアズロナ。
細く小さく裂いたとはいえ、つい干し肉をやってしまったが意外に上手く食べている。
雪白に目を向けるが、特に止めないところを見ると、蔵人のいない間に通常食になったらしい。
「よく噛んで食えよ」
飛竜にそれが当てはまるかどうかは知らないが、噛んで損はあるまいと蔵人は一応アズロナにそう言っておいた。
突然、頭上に影が差す。
見上げると、そこには骨がいた。
大きな飛竜の骨が器用に山肌に着陸する。
雪白はボーンワイバーンにこそ鋭い双眸を向けているが、温泉につかったままであった。
「随分と風流なことをしているな。混ぜてもらってもいいか?」
あの骨格のいったいどこから声がでているのか、蔵人にはやはりわからなかった。
「……身体を洗ってから入るなら、好きにしろ」
なんせ雪白と飛竜クラスが同時に入れるように露天風呂は作ってある。骨人種とボーンワイバーンならばギリギリ入れそうである。
「ありがとう。あらためて、ワタシの名はジーバ=ロシャナフ。これで一つの名で、姓はない。ジーバとで呼んでくれればいい。
ガジアジは後で洗わせてもらおう。今はワタシも月送りをしたい」
「……俺はクランド、このイルニークは雪白、そしてその小さい飛竜はアズロナだ」
蔵人の名乗りを聞いたジーバは幾重にも纏った布を脱いで骨格を露わにし、自らの骨を洗い始めた。
その背後で、ガジアジと呼ばれたボーンワイバーンは山肌に静かに横たわる。
「ところで、フェズマーハとはなんだ?」
蔵人の問いにジーバは骨格を布で洗いながら答える。
「彷徨っていた赤い魂が、新しい白い身体へ還ってくる。ワタシたちにとって願いであり、逝った者への弔いでもある」
よく見るとジーバの胸骨の隙間から胸の中心にある、拳大の赤い半透明の光が見えていた。
ジーバが骨格を洗い終えて立ち上がり、露天風呂に入ってきた。
「飲むか?」
「この身体じゃあ、飲めないんだ。かわりに、煙木を吸ってもいいか?」
「灰を落とさなければな」
蔵人は土精魔法で灰皿を作って、温泉に浮かべた木の板に置いた。
「すまない」
ジーバは露天風呂から上がり、脱いだ布から煙木を取り出した。
ガジアジが何を言われずともジーバに顔を向け、その大きな飛竜の顎骨を僅かに開き、煙木に向かって小さく火を吹いた。
再び温泉につかったジーバは煙木から紫煙をくゆらせる。
煙木の煙と香りは弔いの供物なんだ、とジーバは言った。
月見酒と月送り。
月見酒にも月送りのような意味合いがあるのかもしれない。過去の人々は月を見て、酒を飲みながら、故人を偲んだこともあるだろうと蔵人は勝手な想像をしていた。
白桃色の月を眺めながら、蔵人と雪白は酒をちびりちびりとやり、アズロナは雪白の頭にのっかり、ジーバはゆったりと月に向けて煙を吐き出した。
エキゾチックな香りが湯気に混じって、蔵人の鼻孔をくすぐった。
月を見るジーバは、蔵人から見ればただの骨のはずであったが、確かに悲しみのようなものが漂っているように見えた。
しばらくして朱月が完全に白月に変わった頃のことだ。
ジーバがすっかり短くなった煙木の火を灰皿で消し、蔵人のほうに向き直って言った。
「ワタシにも家を作ってくれないか?」
ラスト四行だけちょっぴり改稿<(_ _)>