17-アカリ⑤
真っ暗な部屋の隅に男が浮かび上がった。
窓際に一歩だけ進み出た男はわずかばかり、青月に照らされた。
乱雑に切られた黒っぽい髪、警戒色の強い焦げ茶色の瞳、原型のわからない擦り切れた服、修繕の重ねられた靴。
中肉中背というには少し小柄かもしれないが、頑健そうな身体がそれを補っていた。特に左右の前腕部がシャツらしきものの上からでもわかるほど発達していた。
姿だけなら浮浪者といえなくもないが、ひどい匂いもなく意外と小奇麗である。
どこの色も感じられない。
少なくともマクシームの知るどの種族、どの人種、どの民族、どの国家の匂いもなかった。
おそらく『人種』には違いないが、大陸東南の人種、さらにいえばその中でも山人に近いが、そんな奴がここにいるわけがない。
かといって市民や浮浪者、流民というには持っている空気が違った。
裏の人間と言ってはみたが、そういう人間特有の陰もなかった。
マクシームは睨むように蔵人を見た。
蔵人は肩を竦めながら、
「これでいいでしょう?あまり時間もないですしね」
「アカリは無事なんだな?」
「無事です。一度、山を降りたんですよ?」
「っく、そうか……」
マクシームはアカリの能力がこの村を敵だと判断し、戻ってこられなかったことを悟った。同時に能力のことをこの男に話しているということも理解した。
「で、なんでこんなありさまなんですか」
「……チッ、信用するしかねえか。名前は?」
「ジョン」
「隠す気のねえ偽名つかいやがって。まあいい、オレはマクシーム、見ての通りの巨人種だ。万が一にも裏切ったら、――殺す」
巨人種の圧倒的な暴力が形のない殺気となって蔵人に向けられた。
マクシームはベッドに腰掛けたままではあったが、本来蔵人を縦に二つ重ねたほどもある体躯は、はち切れそうなほど膨れ上がってくすんだ色のシャツと皮のズボンを盛り上げていた。適当になでつけられた赤毛と口髭の間からは、ぎょろりとした青い目が蔵人を見据えていた。
歳は判然としないが、神話のヘラクレスが歳をとったらこうなるというイメージが最も近い。
蔵人は初めて、純然たる人の殺意を身に受け、冷や汗が止まらなかった。
それでも表情だけは崩すわけにはいかない。表情が崩れると心も挫けてしまう。少なくとも自身が崩してもいいと思うことだけはいけない。
「……ああ、コワイコワイ」
だから言葉に出すことで、ストレスを少しでも緩和する。そんな程度のことでも蔵人は随分と楽になった。
チッとマクシームが苛立たしげに舌打ちをした。
「手応えのねぇ奴だ、わけがわからねぇ」
そう呟いた後に、苦虫をつぶしたような顔で事情を話し始めた。ひどく気に入らない話のようである。
どうにもうまい具合に勘違いしてくれたらしいと、蔵人は内心でほっとしながらマクシームの話をきいた。
怒りを交えてマクシームが語ったのはこういうことだ。
白幻討伐に行ったハンターが帰ってきたが、旧貴族のハンターであるザウルを含めて四人のみの帰還であった。
ザウルはアカリが故意に大棘地蜘蛛の巣へハンターを誘導し、自分たちを壊滅に追い込んだとハンター協会に報告した。
協会と議会はろくに調査もせず、即座にアカリを生死不明のまま指名手配。
ドルガンでは辺境ゆえ古来よりハンターが尊重されてきたが、それゆえにハンターの裏切りというものは決して許されず、厳罰が処された。
マクシームも当然抗議したが受け入れられなかった。
連絡を受けたローラナ議会は厳重な抗議と捜査をするかと思いきや、文章による抗議と公正な審議を求めることにとどまり、人員を送り込むなどの処置をとることはしなかった。
ローラナの議会は能力の安定しないハズレ勇者であるアカリをきる方向に舵を切ったといえた。アカリを取った代わりに優秀な勇者を得られたことだし、あえてアカリを助けてドルガンのメンツをつぶし、これ以上ドルガンとの関係をこじらせることを避けたのだ。
「ザウルの野郎の嘘だってことはわかりきってるが、証拠がねえ」
「他のハンターは?」
「生きて帰ってきたハンターは全部、奴の子飼いのハンターだ。口裏を合わせてやがる」
「あなた自身は探しにいかなかった……いけなかった?」
「その寒気のでそうな喋り方をやめろ。ああ、いけるならもんなら行ってる」
「癖なもんで。慣れたら辞めますよ」
「チッ。……オレがアカリを見つけたとしても、オレを監視してる奴がそのままアカリを連れてっちまう。さすがに国単位で追っかけられたらオレも逃げ切れねえ」
マクシームが悔しそうにいう。
「なるほど、で、どうします?」
蔵人のまるで人ごとのような口ぶりにマクシームはさぐるような視線をおくる。
「まずはアカリに会わねえことには話にならねえが、その前に、てめえの目的がわからねえ」
蔵人はなぜか困ったような顔をした。
「目的、ですか」
正直、蔵人は困っていた。
特に目的というものもなく、衝動的に里に下りてきたのだ。
召喚されて雪山に到着しておよそ五八〇日。確かにいい機会である、そろそろ『生存』から『生活』にシフトしていくべきか。
シフトするのはいいが、面倒事、煩わしいのはごめんである。
まず、アカリ以外の勇者と関わりたくない。知られたくもない。面倒事しかない。
この世界の人間に召喚者と認識されたくない。これまた面倒事しかない。
つまり山に隠れ潜んでいた現地人として人里に下りてきた、という方向がベストである。
その山人的な現地人が、アカリを助けたとしたらどうするべきか。
いや、現状、自分とアカリの関係がマクシームにバレるのは時間の問題かもしれない。
この男は信用できるだろうか。
とはいっても、人の心理を読むことできるわけでも、腹芸ができるわけでもない。
「まずは自分の情報を誰にも漏らさない、と約束してください」
「あぁん?」
「アカリにもそれは約束してもらってます。俺は静かに暮らしたいんです」
「どこの子どもか戦士か知らないが、そんな約束を信じるってぇのか?」
「約束を守れない奴はクズです。まあ、命を賭けてまでとはいいませんよ」
「……ハンターも似たようなもんだ」
「よかった。とりあえず、自分は山に隠れて生きていた山人とでも思ってください」
「ここまでいって隠すのかよ」
「なんとなく察しはつくと思いますよ。それを漏らさないでいてくれればいいんです」
マクシームは面倒くさそうな顔をする。
そんなマクシームを無視して蔵人は続ける。
「今回の俺の目的はアカリとマクシームさんの間を取り持つことです。報酬とかは決めてませんが、善意の第三者とでも思ってください」
「マクシームでいい。善意、か。うさんくせえがどうにもならねえしな」
「いまアカリはアレルドゥリア山脈?の上のほうにいます」
「白幻の居か?」
「こちらではそういうんですかね。山からでたことないんで名前までは知りませんが、去年、大きな魔獣を狩っていた人がいた近くです」
「ああ、そりゃ、オレらだ。あのへんが人間がマトモに行動できる限界だと思ってたんだが」
「あれ以上は奥も上も行きませんよ。ほぼ年中吹雪いてますからね」
「だろうな。そうか、上にいたか。見つからねえわけだ。そういうことなら、オレが監視をぶちのめす必要もなさそうだな。オレを連れてけるか?」
暗に監視を撒きつつ、マクシームとアカリを対面させろといっているのだろう。
「……監視の生死を問わなくてもいいなら」
「山に入る以上はそれも覚悟の上だ。……殺すのか?」
「いえ、蜘蛛をけしかけます」
マクシームは顔をしかめて嫌そうな顔をした。
「けしかけるって……お前か?ザウルに蜘蛛をけしかけたのは?」
途中で気がついたように今度は殺気を漂わせる。
「すぐにわかることですからいいますが、俺です。なんの偶然かあなたたちの狩った魔獣の子どもと生活してましてね。狩られるわけにはいかなかったので」
「……イルニークと生活?冗談にしちゃ笑えねえが、そうでもなきゃけしかける必要もねえか」
「罪に問うとかカンベンしてくださいよ」
「……まあ、約束したしな。というかチクッたらどうすんだ?」
「逃げますよ。――アカリを盾にして」
「……さらっと情けねぇこというなよ、オンナぁ盾にするとかどうしようもねえな」
「約束を破るような情けない人間ほどじゃないですよ」
威嚇し合うような沈黙が二人の間に漂った。
「では、明日中にでも蜘蛛のナワバリ手前の野営地で。野営地の連絡はこちらから取ります。一応、言っておきますが、一人で来て下さい」
蔵人はマクシームの返答を待たずに闇に消えた。
何の痕跡も残っていない宿屋の部屋にはマクシームだけが残された。
「負けはしねえが、やりたくもねえな」
毒虫、それも普段はなんの害もないが食われる瞬間に毒を撒き散らして自爆するような、そんな奴をマクシームに連想させた。
だがアカリを喰いものにするようなら、とマクシームは壁に立てかけた斧を見つめた。