115-赤き獅子の舌
前話、蔵人の略奪介入部分と、ラロの部分を少し改変しています。
大筋には影響はありません<(_ _)>
エグバタの街を出発した舟団は、砂漠と砂流の境界を沿うように移動していた。ここを抜ければ、しばらくはアルワラ族の勢力圏から離れることになる。
だが、それからも蔵人は何かとニルーファルと衝突していた。
その日もニルーファルがやれ乳飲み子を褒めるとは何事か、と蔵人に怒鳴り込んできた。
これは別に濡れ衣というわけではない。
あの喧嘩をした翌朝、蔵人は先日の罰として砂舟から出ることをしばらく禁止されてしまったため、この舟団を見て回ることにした。
小舟と中舟、大舟が連結して構成されている舟団の中で、その中心にあるアナヒタの住む大舟こそ入ることはできないが、それ以外は自由に歩き回ることを許可されている。
ニルーファルとの手合わせを済ませた雪白とアズロナを伴って、早朝の舟団を散歩していると、日も明け切らぬ頃から家事をする女衆たちやその周りで遊ぶ子供たちが、隔意なく挨拶をしてくれる。先日の事を知っているはずだが、まるで敵意のようなものはなかった。
早朝の透きとおった砂漠の空気に漂う水、洗濯の匂い。朝から楽しげに遊ぶ子供たちの声と女たちの姦しい話し声。ときおり強く吹く風は砂っぽいが、昨夜の名残の冷気が吹き抜けていくのが心地よい。
しかし、遊ぶとはいっても子供たちの身体能力は高く、赤子を背負ったままの子供でさえ、舟と舟の連結部を危なげなく跳ね回り、その間に引かれた洗濯物を干してある頭上のロープを軽々と飛び越えながら、追いかけっこをしている。
ダークエルフは『精霊魔法を使えないエルフ』である。つまり、精霊魔法こそ使えないが、生来の豊富な魔力は存在しているということでもある。その豊富な魔力が厳しい砂漠の生活によって自然に身体能力に回され、子供の頃から高い身体能力を得て、さらなる修練と戦闘の果てに生まれついての戦士となっていた。
無論、そんなことは知らない蔵人は、のほほんと女子供の平穏な日常を眺めながらぷらりぷらりと歩き、いつのまにか舟団の先端にたどり着く。
そこで腰を下ろし、雑記帳を広げると、雪白とアズロナも甲板でのんびりと身体を横たえる。まともな日光浴ができるのは気温が上がりきっていない今しかなかった。
さらさらと撫でるような蔵人の筆の音に雪白は機嫌よさげに尻尾の先端をぴくぴくと動かし、アズロナもそれを真似してぴたぴたと尻尾を動かす。
するとそこに子供たちが集まってくる。
あの歓迎の宴以降、雪白とアズロナに危険がないと知られ、こうして外にでるとどこからともなく子供たちが寄ってくる。この舟団には三百名弱のバーイェグ族がいるらしいが、蔵人が見た限りでは子供は十人もいない。ミド大陸にいた頃にエルフは子供ができにくいと聞いていたが、それはダークエルフにも当てはまることらしい。
蔵人は子供の扱いが下手であるが、雪白は面倒見も良く、アズロナは子供と同じようなもので、蔵人が黙っていてもどうにかなる。
というよりも雪白が気を利かせて、蔵人が絵を描いている間はうるさくしないようにしつけたらしく、子供たちは大人しく遊んでいる。
蔵人は絵を描き、雪白が尻尾を揺らめかせながら子供たちの相手をし、アズロナが一緒になって遊んでいる。それだけならば、なんの問題もなかったのだが――。
――あむっ
不意に、子供に背負われていた赤子が雪白の尻尾を口に含んだ。
よくアズロナに噛まれているため不快ではなかったが、子供たちの手の届かない安全地帯にあったはずの尻尾を噛まれ、雪白は驚いて赤子を凝視する。
巨大な雪豹が鼻に皺を寄せ、牙を剥いて睨んだ、ように見えたならば大の大人とて怯えてもおかしくはなく、それが子供ならば当然泣く。
火のついたように泣きわめく赤子。
そんなことはいつものことなのか、まったく気にした様子もなくマイペースで遊び続ける子供たち。
だが普段身近に子供などいない蔵人と雪白は泣き続けるのは色々とまずいのではないかと、あたふたし、雪白がどうにかあやそうとするも逆効果。面倒見の良い雪白もいったん乳飲み子が泣いてしまってはお手上げらしい。
どうにかしてっ、と雪白が尻尾でぺしぺしと蔵人を叩くが、蔵人もほとんど思考停止状態。
「あ。大丈夫大丈夫、すぐに泣き止むから」
背負っている子供のほうがよっぽど慣れているが、あまりにけたたましく泣く赤子がさすがに気になったのか、母親らしき女が顔を見せた。
すると、ピタリと鳴くのを止め、母親を見て笑う赤子。
「すまない」
蔵人がそう言うと、母親はからからと笑う。
「赤ん坊は泣くのが仕事だよ」
「そう言ってくれると助かる。可愛らしい子だな、男の子か? 女の子か?」
世間話程度のつもりだったのだが、それが間違いであった。
母親の目つきがキツくなり、蔵人を睨みつける。
蔵人はわけもわからないまま、空気を読んで謝った。
その様子を見て、母親は何かに気づいて目元を緩める。一瞬で修羅から慈母へと姿を変えた。
「……旅人さんは知らないか。いいかい? 子供を、特に乳飲み子を褒めちゃだめよ。悪神が攫ってしまうからね。まったくこの子が男の子だからまだ良かったけど、女の子だったらうちの人が飛んでくるところよ。気をつけてね」
そんなものは迷信だ、なとはさすがに蔵人も言わず、平身低頭に謝った。
「もういいさ。旅人は幸運を呼ぶとも言うしね。それに男がそんな簡単に頭を下げるのもダメよ。軽く見られちゃうから」
そのことはレシハームでも、そしてファルードからも聞いていたが、やはり謝罪と頭を下げることが連動している蔵人としてはなかなかすぐにはやめられなかった。
そんなわけでその場はどうにか母親に許してもらったわけだが、先日の一件から妙に神経質になっているニルーファルが、それを聞きつけて蔵人の小舟に怒鳴り込んできた、というわけであった。
「――兄者から聞いてないとは言わせんぞっ」
「ファルードから聞き出すのがどれだけ大変かわかっていってんだろうな。そんな細かいところまで聞いてるわけないだろ」
蔵人も終わったはずの問題を掘り返されて機嫌が悪い。
「ちゃんと学べっ」
「母親が許してくれたんだっ、あんたには関係ないだろっ」
「定時会合で乳飲み子の父親からその話を聞かされた我の気持ちがわかるかっ? 」
「知るかっ」
開き直るのかっ、約束はどうしたっ、などと蔵人とニルーファルの喧嘩は再びマルヤムに仲裁されるまで続いた。
このときにはもはや、どちらが悪くてどちらが正しいのか、わけのわからぬ事になっていた。
それから何度も小姑のように神経質になったニルーファルと言い合いをしていた蔵人は、ニルーファルの顔を見るだけで苛立つようになっていた。
「――しまいには飯を食う順番にまで文句をつけにきそうだ」
ファルードとマルヤムが運んできてくれた食事を食べながら蔵人はそう愚痴る。
致命的なまでの敵対というわけではないため、決別するほどではない。だが、それほどではないだけに、ストレスを発散することもできない。自分が悪いところがあるのは理解しているが、あまりにも度が過ぎていて息苦しかった。
その様子をいつものようにアズロナと戯れていたマルヤムが苦笑し、ファルードが困ったように頭を掻く。
「……陰口は良くない」
あまりにも口下手で正直過ぎるファルードはそんなことを言って蔵人を窘める。
「あいつの正面に立って言ってやってもかまわない。ていうかそれと同じようなことはもう言ってる」
それなら陰口じゃないだろ、と言う蔵人にファルードは困ってしまった。
「……ふふっ」
マルヤムが楽しげに笑った。それは雪白にもたれかかり、アズロナを抱き抱えながらそのお腹をぷにぷにしている事が楽しい、というだけではない。
「わたしは久しぶりにあんなニルが見れて嬉しいけどね。怒ってる顔だけど」
そう言ってマルヤムはニルーファルのことを話し始めた。
「ニルはね、本当は優しい女の子なんだよ? 男衆に混じって船頭をやるような娘じゃなかった」
蔵人も見たように子供でさえ普通の人種、それも大人を凌駕する力を持つ。それは女とて例外ではなかった。
全員が身体能力に優れたダークエルフであるということや、アナヒタを守るという使命を全員が共有し、最低限自衛できるだけの力は保持していることもあって、バーイェグ族は他の部族よりも男女間で役割の差が少ない。
それでも、一番舟から四番舟の船頭で女性はニルーファル一人、その部下たちの中にも女はいなかった。女は子供を産むという役割があるため、実際に矢面に立って戦うのはほとんどが男衆である。
「――でもね、許嫁や両親が部族間の小競り合いで死んで、ニルは女衆としての自分を捨てた」
突然、ニルーファルの背景が明かされ、蔵人は怪訝な顔をする。
「まあ聞いて」
生まれたときから決まっていた許嫁が死んで、許嫁と良好な関係を築いていたニルーファルはふさぎ込むようになった。両親はそれを痛ましく思い、しばらくは許嫁を選ばなかったが、その内に今度は両親が死んでしまった。
この数百年、大きな争いこそなかったが、小競り合いや有力部族の台頭などまったくの平穏であったというわけではない。ニルーファルの許嫁や両親もその中で死んだ。
両親という後ろ盾を失ったニルーファルとファルードであったが、ファルードが類い希な武力と努力でもって四番舟の船頭にまでなり、ニルーファルの保護者として立ち回った。
許嫁と両親を亡くしたことも気の毒に思われ、しばらくは新たな許嫁、つまり結婚の話などは持ち上がらなかったのだが、ニルーファルはその間に鍛錬を始め、めきめきと実力をつけてついには兄であるファルードを越え、四番舟の船頭となった。
当時、戦闘ではファルードもひけを取らなかったのだが、それ以外の指揮能力や交渉能力でニルーファルのほうが上であったため、ファルードは自ら副船頭になることを決めた。アナヒタが女であるため、一人くらい女船頭がいたほうがいいという風にも考えた。
女が船頭になるなどバーイェグ族でもほとんどなかった事態で、ニルーファルの船頭就任については相当物議を醸したのだが、ファルードが懸念したようにバーイェグ族のトップであるアナヒタが女性であること、そしてアナヒタ自身の口添えもあり、ニルーファルは船頭に就任することとなった。
「だから、今のニルの立ち位置は曖昧なのよ」
船頭というのは基本的に男衆の仕事であり、周囲に男の多いニルーファルには女衆は近づきがたく、しかしニルーファルは女であるため男衆も同じ男として扱うわけにもいかずどこか遠慮している。戦闘能力もこの舟団で五指に入り、指揮能力や交渉能力にも優れ、尚のこと男としては気後れしてしまう。
同時に、必要以上に船頭として振る舞ってしまうことで可愛げもないため、年長者に格別に可愛がられることもなかった。せいぜい兄のファルードや古くから友人であるマルヤムと親しく話すくらいで、今はそれですら『立場』というものがどこか壁を作ってしまっていた。
結果、ニルーファルは孤立こそしていないが、孤高とでも呼べるような存在になってしまった。なまじ許嫁と両親を亡くして、固い決意で船頭になったため、そんな立ち位置を気にも留めないだけの精神力があった。
今のニルーファルにはアナヒタを守り、部族を守ることしか頭にない。アナヒタのため、部族のためならばどんなことも耐えるし、我慢する。現に許嫁や両親の仇への復讐も心の奥底に封じていた。
砂漠の民の掟、そしてアナヒタが情け深いために、掟と御心を尊重して、今なお蔵人たちを保護していた。そうでなければ、追い出していたかもしれない。
「あんな風にわたしの父ですら普段は使わないような古い男言葉を使ってるけど、本当に優しいのよ? あの目尻の刺青だって、死んだ許嫁や両親に『もう泣いてやれないから、そのかわりだ』っていう決意と優しさの表れだしね」
マルヤムが昔を思い出すように微笑み、ファルードは遠くを見つめるような目をしていた。
「でも、そこに『自由』なんてことを言ってしまうあなたが来てしまった。耐え続けて、それが正しいと思ってきたニルとしては神経質にならざるを得なかった。あなたが部族に危機を招くかもしれない、それも掟や誇りとはいえ自分が招き入れた存在が。言っていることも、掟からは外れているけど、まったく無視できるような言葉でもない」
「……」
「でも、そんなあなただからこそ、うちになんのしがらみもないあなただからこそ、ニルと対等だった。たとえそれが喧嘩であったとしても。わたしは前のニルももちろん好きだけど、今のニルが好きよ」
同じ掟の中にいるマルヤムやファルードではお互いに事情を知りすぎていて、横に並ぶことはできても、正面に立つことはできなかった。正面に立ちはするが、敵ではない者。そういう者も人には必要であった。
肩を並べながらも正面から善悪や生き方を戦わせることで、相手を疑い、自分を疑い、自分を見定めていく。孤高が孤独に変わらないように。
「……何が言いたいんだ」
「わたしたちの事を、ニルの事をよく知ってほしい。出て行くにしてもなんにしても、それからでも遅くないでしょ? あなたも強いし、ユキはもっと強い。逃げたくなったらいつでも逃げたっていい」
「……あんたは俺がいたら、ここが危なくなるとは思わないのか? 」
「そりゃあ、わたしも危ないなぁとは思うけど、あなたは話してわからない相手ではないでしょ? なんだかんだ言って同じ失敗はしないし。だからニルも追い出さない。それが約束だから。それに、どうしても受け入れられないなら、いまだにこんなところにはいないと思うけど」
マルヤムの言葉は図星だった。
正確に言えば、わからない。あの略奪にしろ、この砂漠にしろ。何が正しくて、何が悪いのか。それが定まらなくては、この砂漠でどう生きていけばいいのかもわからない。
この砂漠から脱出する方法もわからなければ、これまでどおりの自分で水を得る方法もわからないのだから、どうすればいいか迷っていた。
マルヤムはダークエルフ特有の黒紫色の強い眼差しで、ほんの僅かに迷いをにじませる蔵人をじっと見つめ、そして頬を緩めた。
「わたしもユキやアズとずっと一緒にいたいからね。だから、ゆっくり考えて」
そう言って、雪白の尻尾とアズロナをまとめてぎゅっと抱きしめた。
雪白はもう好きにして、とばかりに諦めたような目し、アズロナはいつものように無邪気に喜んでいた。
その翌日、いつもの日常は早くもその夜更けに破られた。
「狩りをするなら言えっ――」
ニルーファルの怒声が轟く。
今日の蔵人が何をしたかといえば、『釣り』であった。
その夜、蔵人は砂舟が進む砂流を見て川を連想し、それなら何か釣れるかなと透明な大棘地蜘蛛の糸とドワーフ謹製の釣り針に、食料リュックに残っていた適当な肉をつけて船尾から投げ込んだ。
そうして蔵人は糸を垂らしたまま絵を描き始めた。
この砂漠の夜は寒い。今はまだ宵の口で氷点下十度くらいだが、深夜になると氷点下五十度を超える。
当然そんな寒さでは墨を水に溶かすことなどできず、蔵人は夜に絵を描く場合は昼間に作っておいた『煤』をそのままを用いて、その濃淡だけで絵を描いていた。
砂流を進む砂舟の船尾から釣り糸を垂らし、白い息を吐きながら絵を描いていた蔵人だったが、あまりの寒さに凍えたアズロナが蔵人の羽織っている毛皮に潜り込んだとき、ふと釣り糸の先に目をこらすと、釣り餌が砂流に深く潜り込んでいた。
蔵人は慌てて絵をしまい、釣り糸を引くと重い感触が返ってくる。
肉に食いついたあとも砂舟を追うように砂流の中を泳いでいたらしい何かは、それでようやく異常に気づいたらしく、砂流の中で身をくねらせて大きく跳ねた。
大きなムカデ、いや『千年万足』が虚空にS字を描いて、浮かび上がった。
いつか蔵人が食べだったものよりも桁違いに大きく、蔵人の乗っている小舟に匹敵するほど大きい。
千年万足の鋭い牙が蔵人の顔を掠め、蔵人はぎょっとして尻餅をついた。潰されそうになったアズロナは抗議する間もなく、目を丸くする。
これは手におえないと蔵人は躊躇なく指笛を吹き、即座に石精魔法で近くの砂流に干渉しようとするが、やはり重い。
だが砂流から身をくねらせて暴れる千年万足をどうにか砂で押さえ込まなければ、乗っている舟が転覆し、ほかの舟にも迷惑をかけてしまう。それだけは避けなければならない。
氷精魔法を使おうにも、ここでは『冷気』しか操れず、氷が発生しないのだから使い物にならない。おそらくは水精が存在しないことが影響しているのだろうが、水精と氷精の特殊な関係など、それこそミド大陸でもわかっていないのだから、蔵人にはお手上げである。
蔵人は身体強化を最大にして糸を引きながら、過剰に魔力を渡すことで強引に石精魔法を用いて砂流に干渉し、千年万足を押さえ込む。
砂流を跳んだり跳ねたりする千年万足をどうにかこうにか押さえ込んでいると、ようやく指笛で呼んだ雪白が現れ、小さな舟であまりにも大きな獲物を釣っている蔵人にため息をつきながらも、千年万足が砂流から小さく跳ねた瞬間を狙って、その頭部に爪を突き刺した。
「――何をしてるっ」
そこへ妙に緊張感を漂わせたニルーファルが駆けつけ、蔵人に雷を落とした、というわけであった。
でろんと中舟の甲板に横たわる大きな千年万足を、バーイェグ族の男衆と女衆が協力して解体する。
昼夜を問わず砂流を進むこの舟は男女ともに、昼間と夜間に分けた交代制で生活しており、今ここにいるのは今日の夜番であった三番舟と四番舟の男衆と女衆であった。
「狩りをするなら言えっ。何か起こってからでは遅いんだっ」
ただ釣りをしただけだ、と言いそうになるも、ニルーファルの言うことに間違いはない。このムカデを相手にするなら釣りというよりも狩りというのは正しく、この砂流を普通の海に近いもの、などと考えたことが浅はかだったのである。
「す――っ」
蔵人の謝罪は大きな揺れに遮られ、舟団が大きく波打った。
突然のことに膝をつく蔵人。
「――ジャムシドめっ」
だがニルーファルと男衆、そして雪白は鋭い目つきで船首のほうを見ながら駆けだした。女衆たちも解体しかけの千年万足を放置し、それぞれの持ち場へ散っていく。
この不安定な足場を何事もなく駆けるバーイェグ族に唖然としながら、蔵人もそれを追うが、足元が定まらない。
「――落ちたやつがいないか注意してくれ」
舟の揺れに腰の定まらない蔵人はよたよたと走りながら、同じように横でふらふらと空を飛んでいるアズロナに声をかける。身体強化をいかに施そうか、不規則な揺れには意味をなさなかった。
遠くを見ると敵らしき赤い獅子と雪白が、空中で何度も衝突している。
見えるのは交錯した瞬間に闇に輝く、火花のような赤と白の衝撃のみ。
あれは手が出せないと即座に悟った蔵人は立ち止まると、誰か砂流に落ちた者はいないか、傷ついたものはいないかと、揺れる舟に酔うことも忘れて、周囲を索敵し始めた。
舟団を急襲した赤い雄獅子、ジャムシドを一目見て、雪白は心底から嫌悪し、苛立った。
その下品な視線だけならば女を見るときの蔵人と大差ないが、目の前の雄獅子は下半身の欲望を剥きだしにし、雪白を舐めるように見つめている。浮かべている下品な笑みも、下劣な下半身も、何もかもが雪白の癇に障った。
そんな雪白の凍てつくような視線と殺気に、ジャムシドが咆哮する。
――グラァアアアアアアッ
いいね、いい。そんなお前を屈服させてやる、とジャムシドは嗤った。想像どおり、いや想像以上の『雌』だった。
砂流を一歩、二歩と駆け、空中で爪を、尻尾を叩きつける雪白とジャムシド。
いかに雪白やジャムシドとて、砂流を駆けることはできない。だが、数歩ならば持ち前の速度任せに駆けることが可能で、しかも今舟団は、砂漠地帯に沿って移動している。足場は十分にあった。
一合ごとに白い冷気と赤みを帯びた雷撃がぶつかり合う。
雪白が周囲で揺らめかせている凍りついた砂が雷撃を逸らし、ジャムシドを覆う紅蓮の水晶が冷気を防ぐ。
一撃の強さはジャムシド、速度と手数は雪白が勝っているが、実力は伯仲していた。
その事実にジャムシドはさらに笑みを深めていった。
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バスイットが連れてきた暇つぶしの奴隷は、ジャムシドでさえ越えられぬ西の果ての砂漠から流されてきたといい、その地に伝わる話や自分の生い立ち、経験談、そしてジャムシドに匹敵するであろう高位魔獣の話をした。
最初はジャムシドも一笑に付し、目の前の奴隷が生きたいがための作り話だと聞き流していたが、数日も聞いていると異境にて生き生きと勇躍する白い魔獣の姿が目に浮かぶようになっていた。
ラロはラロで、自分の生い立ちから何から、面白おかしくジャムシドに話しながら全身に神経を張り巡らせていた。
蔵人と共にいた雪白はそれこそ人間そのものといってもいいような反応を示していた。それならば、この高位魔獣も話を聞いてなんらか反応を示すのではないか。その反応を拾い上げ、興味深い話を選べば、生き残ることができるのではないか。
ラロはそう考えて、片っ端から話した。
言葉の問題がなかったのも不幸中の幸いだった。この地ではバスイットだけしか魔法具で話すことができなかったが、このジャムシドという高位魔獣は言語ではなく、伝えたいという意思を読み取っている。不都合はなかった。
数日も話せば、ジャムシドの癖のようなものは掴めた。
むしろ人よりもわかりやすかった。もちろん、その爪を一振りするだけでラロの頭部と胴体は泣き別れになるのだから、油断はできない。
ジャムシドが最も興味を抱いたのが、同じ高位魔獣である雪白だった。
ジャムシドは人の世を理解し、強い興味を抱いているが、それはひどく冷徹なものであった。だがそこに、自分と同格らしい雪白が混じって生活していることが、不思議でしょうがないようで、話に出てくるたびに無意識の内に耳や尻尾を動かしていた。
だから、この砂漠に雪白が来ているかもしれないと話した。
蔵人たちは遺跡で死んだのだ。どう言おうとかまわない。いや、仮に生きていたとしても、これを話すことに躊躇わなかったはずである。生きるか、死ぬかの瀬戸際で、人の事などかまっていられない。
ラロに躊躇いはなかった。
そんな風に雪白のことを話していると、ジャムシドの耳がぴくりと動き、突然身を起こす。
何かしでかしたか、とラロは腰を浮かすが、ジャムシドはそれを無視して天幕を飛びだしていった。
逆鱗に触れたわけではなかった。
ラロは浮かせた腰をすとんと落とし、大きく安堵の息を吐き出す。
「――ジャムシド様に何を話したのか、聞かせてもらうぞ」
いけ好かない族長の声に、ラロは再び気を引き締めた。
まだ死線の上にいるのだと。
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雪白との殺し合いを楽しんでいたジャムシドは、態勢を整えつつあるバーイェグ族の気配に気づいて、興ざめだとばかりに鼻を鳴らし、殺気をおさめる。
雪白としてもいかにジャムシドが不愉快でもこの状況で戦い続ける気はなかったが――。
すれ違いざまに頬をベロリッ、と舐められた。
まるで、お前はオレ様のものだ、とマーキングするかのような、ねっとりとした舐め方だった。
空気が破裂する。
ジャムシドの頬を、雪白がその長い尻尾で引っぱたいた。それも凍気のおまけつきで。
雪白が舐められたのも、ジャムシドが頬を殴られたのも、両者がすれ違うほんの一瞬の出来事だった。お互いに油断はなく、戦闘を切り上げようと行っていた無数の目に見えない駆け引きの中の、奇手、妙手であった。
尻尾の一撃は蔵人ならば首から上が吹き飛んでいてもおかしくはない威力で、女の平手打ちなどという生やさしい一撃ではなかったが、ジャムシドにとってはその程度のことであったらしく、ぶたれて凍りついた頬を長い舌で一つ舐め、真っ赤な舌で氷を溶かしてニタリと嗤う。
隙ともいえないような隙をつかれて引っぱたかれた。それがことのほか愉快であったらしく、ますます気に入ったとでも言うように、真紅の水晶にも似た尻尾をゆらゆらと揺らしながら、背を向けた。
――グルゥフッ
必ず、オレ様の子を孕ませてやる。
捨て台詞というには不穏な唸り声に、雪白は底冷えするような怒りを覚えた。伝わってくる下劣な意思も、不快な舌の感触も、その下品な笑みも、その存在そのものが、全身の毛が逆立つほどに不快で不愉快で、生理的に受けつけなかった。
舟団を応急的につなぎ合わせ、砂流に落ちかけた者も拾い上げた。
バーイェグ族の男衆、そして蔵人は雪白の援護に向かおうとしたが、バーイェグ族たちが櫂剣を抜き、蔵人が精霊魔法を放とうとするなり、ジャムシドは身を翻して、悠々と去っていった。
いかにジャムシドといえど、雪白に加え、一騎当千のバーイェグ族と呪術師まで加わっては分が悪いのだろう、誰もがそう思った。
だが雪白だけは、また来そうだ、とうんざりしながら、音も振動もなく舟団に降り立つと蔵人に頬を擦りつけた。
「……どっかの砂にこすりつけてくれよ」
蔵人がそう言うも、ヤダ、と行動をやめない。ジャムシドの唾液とその匂いが心底嫌らしい。
「――負傷者を治療してくれたことには感謝する。だが、今回の件はお前の軽率な行動が大きく影響する」
破壊された砂舟の応急処置や再連結、負傷者の治療を終えると、ニルーファルはそう指摘した。普段ならば公然とこんなことを言わないが、蔵人がまだこの砂漠を甘く見ていると感じていた。
「なんのことだ?」
「あれは血晶獅子。名をジャムシド。北部砂漠を支配するアルワラ族の守護魔獣だ」
ファルードから守護魔獣の話を聞いていた蔵人は、そこで息を呑む。
「どこで嗅ぎつけたのかも、理由もわからん。が、少なくとも奴らに今回の件を問いただすことはできん」
先日、蔵人が引き起こした略奪妨害の報復、と言われてしまえば、大義名分はアルワラ族にある。
ニルーファルは垂れ目がちな目をつり上げて蔵人を睨むが、次の蔵人の反応に虚を突かれた。
「……すまない」
蔵人は改めて先日の略奪妨害、そして無断で行った釣りについて、謝罪した。
いつもはなんだかんだと理屈をつけて言い返す蔵人が素直に謝ったことで、ニルーファルは毒気を抜かれてしまった。
その蔵人の態度に、他のバーイェグ族も蔵人への反感を表に出すことはなかった。そもそもアルワラ族との関係は良くない。今回の襲撃のすべてが蔵人のせいかと言えば、そうとも言い切れない部分があった。蔵人の行動は決して褒められるものではなかったが、だからといってすべてを何も知らない旅人に押しつける気もなかった。
「――しばらくは砂漠沿いを行く。警戒を怠るなっ」
ニルーファルの号令に男衆が応え、砂舟は再び静けさを取り戻した。
その翌朝のことであった。
女衆が家事を始める少し前、蔵人は与えられた小舟の船尾にいた。完全装備に身を包み、傍には雪白とアズロナもいる。
「――行くか」
蔵人がそう言うと、雪白とアズロナも頷いた。
昨夜はジャムシドの襲撃を許すことになった砂漠沿いの航行だが、こうなってしまえば蔵人たちにも都合がよかった。
蔵人は雪白を一つ撫でてから、その背に乗ろうとする。
「――どこへ行くつもりだ」
そこにニルーファルが声をかけた。傍にはファルードもいる。
「……どこへ行くもなにも、去るのは自由だろ?」
「我は、どこへ、行くつもりだと聞いたのだ」
ニルーファルは真意を問いただすように、じっと蔵人を見つめる。隣にいるファルードも同じ目をしていた。
こうして並べば似ているな、などやくたいもないことを考えながら、蔵人は答えた。
「どこか適当なオアシスを探すさ」
「そんなものはない。ここからならばどこへ行こうかが、アルワラ族と関わることになる。どこへ行っても同じだ」
「適当に逃げ――」
「――奴らと戦うつもりなのだろう?」
蔵人の言葉を遮って、ニルーファルが言い放った。
正面切って出ていくといえば、バーイェグ族は止めるかもしれない。だからこうして、こっそり出ていこうとした。
だが、それも無駄に終わった今、蔵人は隠す必要もないかと、理由を語った。
「どうも俺はこの砂漠に馴染めそうもない。郷に入れば郷に従えと安易に考えて約束したが、間違っていた。すまない。ここにいれば迷惑になる。奴隷を物だとは思えないし、目の前で誰かが殴られていたり、泥棒がいれば止めたくなる。なにも当てつけで言ってるんじゃない、倫理観が違い過ぎる」
それを捨て去ることなど蔵人にはできなかった。力があるから、ではない。力があろうがなかろうが、蔵人には略奪や奴隷の物扱いを認められなかった。それを見て見ぬふりすることも。
あるいはその行為にのっぴきならない生死がかかっているなら、正当防衛の殺人のように黙認できたかもしれないが、明らかにそうではないものも混じっているのだから、我慢できるはずもない。
「だから、アルワラ族と戦う、と?」
「やりたくはないが、事を起こした今、それが筋だろう。あんたらは関係ない。これは俺の問題だ、という風にしておけば迷惑はもうかからない」
勝算などありはしないが、そうするしか方法がなさそうであった。
「――ダメだ。争いを生み出すとわかっている手伝いはできぬ。それにあの件は旅人である汝が引き起こしたことで、我らはそれを仲裁をしただけということになっている。そのあとで汝を砂舟で保護したという体をとっている以上は、むしろ今アルワラ族と事を起こされるほうが問題だ」
この砂漠の現実に則った平和主義、とでもいうべきバーイェグ族が蔵人の暴挙を許すはずもない。
まだ考えが足りなかったか、と蔵人はしばらく沈思する。
「――わかった。なら、迷惑のかからないところで降ろしてくれ」
「……水はどうするつもりだ。ほとんどのオアシスは他部族が支配している。そこを利用するとなれば、その部族の掟に従わねばならん。それならば結局、同じことだ」
オアシスの定住民になれば、自由に反撃できるというわけでもない。アルワラ族に略奪されれば、力関係上、それを甘んじて受けなくてはならない場合もある。
「……面倒事が嫌で言わなかったが、俺たち三人の三ヶ月分の水と食料は保存できる魔法具を持っている。だから、砂舟が巡る順路にある、アルワラ族が到達できない場所で降ろしてくれ。オアシスはなくてもいいが、生活できる場所を頼む。可能なら海沿いがいいかもしれん」
そうすれば、そこに貯水池を作り、巡ってきた砂舟に補給してもらう。万が一があっても、食料リュックの水で耐えるか、海水からどうにかして水を抽出する。食料は狩りや釣りで補う。
送ってもらわねばそこに到達することすらできないが、こればかりはバーイェグ族に甘えるしかない。
「……いくつか心当たりがあるが、本気か? 海の魔獣は我らですら手を出せぬし、我らとて順風満帆に砂漠を巡れるわけではない」
「西へは行けないし、アルワラ族のところに行くのも問題がある。なら、これしかない」
西の果てには砂流がなく、竜種や巨兵が跋扈しているため、バーイェグ族も先には行けない。かといって東はアルワラ族の支配地を通らねばならず、そこを越えたとしても悪魔竜の領域であった。そして北はアルワラ族の支配地、ならば南しかない。
この砂漠の現実はジャムシドの襲来でもって痛感した。
だが、だからといって因習とも呼ぶべき慣習を許容もできない。ニルーファルの言葉を守れなかったことについては忸怩たる思いはあるが、だからといって目の前で殴られ、奪われそうになっている者を見過ごすこともできない。明日は我が身である。そんなところで安心して生活などできるわけがない。
しかし我を通せば、バーイェグ族に迷惑がかかる。いや、現にかかった。
それなら、バーイェグ族から離れ、生きるも死ぬも己次第の立場に身を置くしかない。
まったく見知らぬ土地と環境の過酷さに二の足を踏んでいた己が悪いのである。いつものように、こうするのがもっとも正しかったというのに。
「……わかった。だが、この時期の砂流では南には行けない。海の方面にいる他の舟団と合流するのもしばらくは先だ。その間は、客人といえど堪えてくれ」
「――それは、状況による。だが、二度同じ失敗はしない」
どんな因習が待ち構えているかわからないために蔵人はそう言ったが、ニルーファルはなんとも言えない顔をする。
「……わかった。もうお前を客人扱いはしない。明日からは我の管理下で、一緒に働いてもらう。そこで一からこの舟の掟をたたき込んでやる」
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「――どこへ行っておられたのですか? 」
族長のバスイットはそう言いながらも、いつものように返答はないと諦めていた。
だが、野暮用だ、という端的な返事が脳裏に響いたことに、驚く。
それきりジャムシドはいつもの天幕に潜り込んで寝息を立て始めたが、妙に機嫌が良いことにバスイットに呼び出されていた二人の男が怪訝な顔をしていた。
「お気に入りの玩具を見つけたようだ」
ラロから話の詳細を聞いて、何が起こったかをおおよそ予想したバスイットがそう言って、詳しく説明した。すべてを話してくれれば最善の行動をとれるのだが、ジャムシドがご丁寧にそんなことを言ってくれるわけもない。
「お前たちならどうする? 」
バスイットはこの二人の男のどちらかを後継者にと考えていた。普段ならば息子とはいえ族長が下の者に意見を聞くなどありえないことだが、試すならば別である。
長男だからといって族長の座は約束などされていない。せいぜい有利な点は先に生まれていち早く動き出すことができたということだけ。
「その守護魔獣をジャムシド様に抑えていただければ、あとは我らでバーイェグ族を倒せばいいのです。もし守護魔獣が絡んでいないのなら、なおのこと容易でしょう」
長男のマフムードが彼らしい強硬な意見を言うが、次男のハイサムは違った。
「特に急ぐ必要もないのですから、しばらく様子見をするのがいいと思います。まだ旅人とバーイェグ族がどんな関係かもわかりませんし、力押しするにしても何が起こっているのかもわかりません。帰ってきたジャムシド様の様子から察するに、その守護魔獣は相当の力を持っていると考えたほうがいいと思います。もし不用意に突いて、バーイェグ族と手を組まれれば面倒な事になります」
バスイットは二人を見つめた。
略奪妨害と奴隷の話、そしてジャムシドの様子から推測するなら、ハイサムの言うとおりである。
もし仮に、ジャムシドと白い守護魔獣が同程度の力を持つとするならば、アルワラ族はジャムシドという優位をなくす。それでは以前の力関係と同じになってしまう。迂闊には手を出せない。
それを考えれば、ジャムシドの襲撃は悪手だったかもしれないが、ジャムシドを止められようはずもない。
だが、マフムードの意見を否定することもできなかった。アルワラ族の男の多くがマフムードと同じように血気盛んな者たちばかりで、腰の引けた判断は容易に下せない。
「――わかった。バーイェグ族に関してはこれまでどおりだ。ハイサムは例の婚姻の儀を予定どおり進めろ。それとマフムードは男衆に略奪でもさせて……」
次男であるハイサムが重用されつつある。
その事実にマフムードは焦っていた。
マフムードは武力で負ける気はさらさらなく、ハイサムのほうが若干小賢しいくらいで、自分のほうが優れていると思っていた。
だが実際に父親はハイサムを重用している。バーイェグ族への判断に関しても今までどおり、つまりはハイサムの意見を取った。
「――くそっ、何故だっ」
マフムードは抱いていた奴隷女を蹴飛ばし、卵乳酒の入った酒杯を飲み干した。
男衆は自分の意見に同調している。
自分は間違っていないはずだと、マフムードは酒臭い息を荒く吐いた。
『――貴様こそが、次の族長だ』
突然、心中を覆い尽くさんばかりに強大な声が轟く。
「だ、だれだっ」
寝床から跳ね起きて周囲を見渡すも、いるのはマフムードに怯えた奴隷女だけ。
『花嫁を、奪え。新たな伴侶、さらなる力』
マフムードに言葉の意味はわからなかったが、その声の正体には察しがついた。
「――ジャムシド様、感謝致します」
そう叫ぶと、マフムードは毛皮を羽織り、天幕を飛びだした。
向かった先は、バスイットの末子であるリドワンの元である。ハイサムほどではないが知恵が回るため、あの言葉の意味を解読させるつもりだった。
歳の離れたリドワンはマフムードの腰巾着である。そのため夜分遅くに寝ているところを起こされても、愛想良く兄を迎え入れた。
リドワンはまだ十五歳で、腕っ節も弱く、ハイサムほどの知恵もない。そのため早々に己が後継者になることを諦め、同じ腹の兄弟であるマフムードに肩入れしていた。マフムードが相手ならば、傍でうまいところを掠めとれるという算段もあった。
「……おそらく、と思うことはあります。でも、間違っても怒らないでくださいよ? 」
マフムードがそれでもかまなわないと答えると、リドワンはマフムードにもわかるように、説明を始めた。
『せいぜい楽しく踊れ。お前も、オレ様を楽しませている内は生かしておいてやる』
そこで初めてジャムシドの意思を直接浴びたラロは、まるで命そのものもを手のひらの上で転がされているような気分に陥る。
ラロが聞いたのも、そしてマフムードが聞いたのもジャムシドの意思であった。
そう、契約などジャムシドの戯れに過ぎず、伝えようと思えば誰にでも伝えることができた。だが、それでは面白くないと、選ばれた者ゆえの契約だと言って、その反応を楽しんでいたに過ぎない。
ジャムシドは雪白と同じように、人の社会を学んで、理解した高位魔獣である。
だが、蔵人と共に生きることを選んだ雪白とは違い、ジャムシドはアルワラ族たちのことを複雑な社会をわざわざ築き上げ、そこで一喜一憂する矮小な者たちだと見下していた。
子供がときに戯れに蟻の巣へと水を流し、ときに施しとして砂糖の欠片を置くように、暇つぶしに弄んでやろうかと思うくらいの存在でしかない。
だがそんな蟻の巣にも召使い程度には使える有用な者もいて、存外楽をさせてくれた。縄張りも勝手に広がっていくし、その管理もやってくれる。オアシスに広げた天幕、そしてふかふかの絨毯も気に入っていた。野生にはいない脂ののった肉や瘤蜥蜴の卵で作った乳卵酒もうまい。
ジャムシドが愛したのは人ではなく、人が生み出した物だけであった。
しかし、そんな怠惰な生活を楽しんでいたジャムシドであったが、雪白という存在が気になった。
奴隷の話を聞いて惹かれ、バスイットの話を聞きつけて、まさかと思って行ってみれば、そこにいた。一目見た瞬間に孕ませたくなった。
だが今回の急襲で、ただ戦って勝つだけでは雪白が屈服しないと理解した。奴隷の話、バーイェグ族の舟を攻撃したときの反応から察するに、気に入らないやつには死んでも従わない、そんな気概を持っていた。
そこがいいとも思うが、そうなるとどう屈服させるかが問題である。
アルワラ族を煽って大乱を起こすというのは趣味ではない。だからバスイットに詳しい話もしなかった。
そもそもジャムシドが本気になれば、そんなものは容易に起こせる。だが、大乱では雪白を手に入れることはできない。戦うことにはなるだろうが、それだけである。どこかのイカレた者たちのように、死者を姦する趣味はなかった。
舞台を整え、その上で勝つ必要がある。たとえば決闘のように自縄自縛で、自ら屈服するように仕向けるしかない。
ジャムシドは、ああと気づいた。だから、決闘などいうわけのわからぬ掟があるのだと。戦って、勝者がすべてを得る。それでは屈しない者の膝を折るために、矮小な者どもは決闘というものを作り出したのだと。
そうしてジャムシドは今の生活を維持しつつ、どうすれば雪白を手に入れられるかを考え、とりあえずマフムードを煽ってみた。
どう転ぶかはわからないが、失敗したならそれはそれでアルワラ族の騒動が楽しめる。成功したら儲けもの、というくらいである。
ひどく面倒で煩雑なことであったが、それもまた人の社会の楽しみ方であった。
いざとなれば滅ぼしてしまえばいい、そう思えば多少の失敗も楽しめるというものであった。
ラロはそんなジャムシドに怯えながらも、じっと観察していた。言葉も文化も、耳で学んでいた。
正式にジャムシドの召使いになり、性奴隷としての役割はなくなったが、ジャムシドという暴君の近くに一日中いなくてはならない。
背中がかゆくて苛ついた、などと言って殺しかねない相手と一緒にいるのは性奴隷と大差ない。
ラロの怨嗟は確実に大きくなっていたが、今は動けない。
だが、いつかは。
そう思いながら、ラロはひとときも息を抜けぬ日々を過ごしていた。