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蜉蝣の家 作者:識島果
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7/15

彼は僕を傷つける

 電車に乗ってから、スマートフォンの電源を切っていたことを思い出した。また大量の不在通知が入っていた。メールは初めの三件だけ目を通し、あとは読まずに削除した。

 あの出来事のあとから、母親は病的に心配性になった。
 あの出来事——父の自殺。

 僕が医学部に入学し、一人暮らしを始めてから半年も経たないうちに、父はこの世にあっさり別れを告げた。何の前触れもなく。母が書斎の梁からぶら下がる父の縊死体を見つけたとき、僕はサークルの先輩の家で安い焼酎を飲んでいた。
 下りの新幹線に飛び乗り、実家に辿りついたときにはもう父の身体は降ろされ、横たえられていた。母は僕に縋り付いたが、僕は母を抱き締めかえさなかった。
 僕は今でもときどき、目蓋の裏に父の宙吊りになった死体を想像する。
 ぶらりと浮き上がった二本の足。
 静止した書斎。
 カーテンは開け放たれ、父の背中に光が射す。
 フローリングに影が落ちる。
 父は書斎にある家具の一つみたいに、しんとしていたはずだ。
 真っ直ぐ下りた縄はギシリとも言わず、ただの錘となった父の身体を繋いでいただろう。
 思い描くたびにそのイメージは細部まで彫り込まれ、実際には目にしていない父の縊死体はますます現実感を伴い、本物の記憶のように僕の眼裏まなうらへと刻まれていった。
 父はどうして首吊りを選んだのだろう。僕はそんなことを考える。紫色に膨れ上がった顔。点状に出血した結膜。あんなにも醜い死体となることを、どうして選んだのだろう。その理由どころか、どうして死を選んだのかでさえ、父は妻にも息子にも語ることはなかった。片付いた部屋のどこを探しても、遺書さえなかった。父という人間は、まったく突然に死んだ。簡単に。畳の縁をひょいと跨ぎこすみたいに。
 そういうわけで、父が僕と母に教えた唯一のことは、人は唐突に消えてしまうものなのだということだった。僕たちの足元には底が見えない深く真っ暗な穴が無数に開いていて、今すぐにも、誰も彼もそこに落ちてしまうかもしれないのだ。僕もいずれそうやって目の前からいなくなってしまうのではないかと、母はあれからずっと恐れ続けている。

 短い連休が終わりを告げてからというもの当然僕の生活は忙しさを増したが、不思議と忙しくなればなるほどリカードの方へと足が向いてしまうようだった。この頃には、僕は実習を終えたその足で直接彼が宿泊しているホテルに向かうようになっていた。
 彼は大抵の場合ロビーの隅や、夜でも営業しているカフェの一席に座り、本を読んでいるのが常だった。彼がそれ以外の時間どうしているのか、そもそも何のためにここに滞在しているのか、僕は知らない。尋ねてみたこともない。リカードはそういった細々とした詮索をよしとしないところがある。聞かないでくれと面と向かって言われたことはないが、そうなのだろうと思った。
 僕は、今夜もロビーの隅に座っていたリカードを見つけた。彼はウェルカムドリンクの薄いコーヒーを飲んでいるところだった。「こんばんは」と言って彼は僕に微笑んだ。
 リカードはよく微笑む男だったが、その微笑には常に深い翳が感ぜられた。彼は何をしていても、いつもどこか喪に服しているようなところがあり、僕は彼のそういう一面を寧ろ好意的に受け止めていた。彼の周りには、離れていても分かる不可視の靄のようなものが取り巻いていた。その靄は彼の本質を覗き込もうとするものを阻み、無遠慮な手が彼に直接触れることを拒んでいるようだった。しずかな言葉と沈黙だけが、彼に触れることのできる唯一の手段だった。
 その夜いつもと少し違ったのは、リカードが僕を部屋に招いたということだ。そのことに何か理由があったのかどうかはわからない。ただ僕は彼との距離がぐんと縮まったような気がして、嬉しかった。
「ルーム・サービスでも取りますか」
 年代物の懐中時計を取り出して時間を確認し、リカードはふと気がついたように言った。僕は断った。空腹ではなかったし、この空間を誰かに邪魔されたくないという気持ちもあった。すると、リカードは立ち上がり、ミニバーからジョニー・ウォーカーのミニボトルを取り出した。
「いいですよ」と僕は慌てて言った。「どうやって代金を払ったらいいのか……」
「君は学生でしょう」
 彼はこともなげに言った。
「流石にミニバーにあるもの全部を飲み干されては参るけれど」
 僕は微かに困惑した。学生だから奢ってやる、などいう社会において一般常識的な振る舞いは、なんだか妙にリカードにそぐわない気がした。
 僕はぎこちない手つきで二人分のグラスを用意した。そこにリカードが酒を注いだ。彼の瞳のような琥珀色をしたそれは、とろりとその液面に部屋の照明を反射した。普段飲みつけないウイスキーは焦げついたような慣れない味がしたが、あの僕のきらいな電気メスの臭いを上書きするように、精神を落ち着かせた。
 僕はグラスを置いて、通学に使っている肩掛けの革鞄から「こころ」を取り出し、テーブルの上に乗せた。リカードが目を細めた。
「考えてきましたよ。少し遅れましたけど」
「教えてください」
「昔これを初めて読んだとき……僕は、Kが死んだのは裏切りによるものだと思ったんです。先生、つまり先生がKの想い人を略奪したために、その裏切りと失恋の苦しみに絶望して死んだと」
「裏切りがKを殺したと」
「そうです」と僕は一旦認めた。
「でもそうじゃない。読み直してみて、そう思った」
「それでは……」
「断罪ではないかと思いました」
 リカードが形のよい眉を上げ、続きを促した。
「Kは求道者でした。道のためには全てを犠牲にすべきものだと断じた男でした。それにもかかわらず、彼は恋をしてしまった。自身の中にある慾望を制御することができなかった。『覚悟ならないこともない』というKの台詞がありましたね。Kが先生にお嬢さんへの恋心を打ち明け、問い詰められたときの台詞です」
「『一体君は君の平生の主張を如何する積りなのか』」
 リカードがしずかに言った。
「先生がそう言ったときのことですね」
「そうです。あれこそが、死への覚悟でした。あのとき、Kは既に自分を殺すことを決めていた。自分が道を外れた『馬鹿』であり、人生唯一の目的を見失ったからです。考えてみれば、彼の死の理由ははっきりと遺書に書いてありました。『薄志弱行で到底行先の望みがないから』死んだんです。彼はその厳格さ故に、道を外れた自分をついぞ許すことができなかったのでしょう」
 そこまで喋って、僕はこう結んだ。
「だから、彼の自殺は先生の裏切りによるものなんかじゃない。ましてや、失恋の痛みなんてものでもない。自身の断罪だったのだと思うんです」
 そうして、リカードの返答を待った。
「君のそれは、『人を殺すのは何か』という普遍的な答えにはならない。しかし、『こころ』の正しい一つの解釈ですね」
 彼は暫く黙って瞑目したあと、此方を見て言った。その瞳の中に、私は微かな色を読み取った。その色は失望に似ていた。或いはそれは単なる私の読み違いかもしれなかったが、このことは私をひどく動揺させた。それから彼は少し笑って、こう呟いた。
「実を言えば、私の考えは少し違うのです」
 リカードはそれきり何も続けなかった。僕にだけ言わせておいて、ルール違反ではないか、と内心僕は憤慨した。彼なりの答えが貰えるつもりでいたのに。僕は彼を批判しようと口を開いたが、リカードがぽつりと言った言葉のせいで、黙らざるをえなかった。
「君は、どうしていつも私のところに来るのですか」
 僕は一瞬口籠った。リカードの表情からは、真意を汲み取ることができなかった。僕は狼狽しながら、なんとか「迷惑なんですか」と絞り出した。
「そういう風に聞こえましたか」
「そういう風に聞こえました」
 リカードが破顔し、謝罪の言葉を口にした。
「ただ、不思議なんです。どうして私なんかに、君のような若い男がこだわるのかと」
 僕はなんとも説明しようのない引っかかりを覚えた。彼の口振りには、ときどき同年代とは思えないようなどこか奇妙なところがあった。人生を十分に生ききり、あとは緩やかに衰えていこうとしていくいきもののそれがあった。その一方で彼の若い肌はしろく瑞々しく、まろやかに室内灯を弾いては僕を混乱させた。
「君のような年頃ならば、夜通し飲み明かすような気の合う友人がいるでしょう。恋人だっているのでは?」
「そんなもの」
 僕は首を振った。二度振った。僕はウイスキーに酔いはじめていた。
「僕は、学科の仲間とは違う世界に住んでいるような気がする。誰もが一つの見えない輪の中にいて、自分だけがその外側にいるような」
 言葉を選ぶようにして、リカードが言った。
「君は内側に入りたがっている?」
「いいえ」
 僕はやさしく笑いかけた。
「はじめから、僕は輪の中には馴染まない存在なんだろうと思うんです。そのことに気付くまでに、随分時間がかかった。僕は、油が水を弾くように、混じり合わない存在なんでしょう。そういう意味で、本質的に、僕はひとりです。ひとりでありたい。誰も僕を輪の中に取り込むことなんてできない」
 力強く言い、リカードを見つめる。
 正直に言えば、僕はこのとき、リカードが強く同意してくれることを期待していた。彼もまた、僕と同種の人間だと信じていたからだ。
 リカード。誰とも馴染まない。僕と同じ、輪の外側の人間。
 リカードはただ黙ってウイスキーに口を付けた。彼は否定しなかったが、同意もしなかった。つまり、何も答えなかった。それは、僕に対する手酷い裏切りのように思えた。
 僕が同じように黙りこくってしまったのを見て、リカードは別の話をしようと言った。僕はそれに応じ、今お互いが読んでいる本について語らった。そうして彼につけられた僕の心の切り傷が乾き、頼りない薄皮がいちまい張った頃になって、彼はまた懐中時計を確認した。彼のそれは、見れば見るほど年季が入った品であった。骨董屋に持っていったならば一体幾らほどするものなのだろう、と僕は思った。リカードは僕を一瞥した。
「ジョー。そろそろ帰った方がいい」
 僕は一度傷つけられたことも忘れたように、帰るのが惜しくなっていた。リカードの前では、僕は呆れるほどに単純な子どものようだった。
「また来ても?」
「ええ。でも、君は勉強があるでしょうから」
 学生なのだから、とリカードはまた言った。それで、僕は彼に挨拶をして、ホテルを後にした。表はつめたい風が吹いていた。風は針のように、僕のジャケットを突き抜け、肌を突き刺した。
 リカードは時折こういった突き放したような物言いをすることがあった。僕は彼と仲良くなったつもりでいたので、このような彼の言葉はやはり僕をちくちくと傷つけた。
 しかし、あとから分かったことだけれど、リカードは僕を傷つけようとしていたつもりではなく、寧ろまったくその逆だったのだ。
 彼は僕を傷つけまいと、必死に心を砕いていたのだ。
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