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蜉蝣の家 作者:識島果
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僕は気分が優れない

「蒲焼きのタレだ」
 隣でモニタを見つめていた青山啓太が、マスク越しのくぐもった声で突然そう言った。僕はあまりに脈絡のない発言に意表を突かれ、彼を見遣った。
「蒲焼きのタレみたいだよな。イソジン」
「俺もずっとそう思ってた。塗り方とかもさ、本当それ」
 進藤良樹が同意した。かぶり方が下手なのか、少し長い彼の前髪はサージカル・キャップから大分に飛び出している。彼らの視線の先には、患者が横たわっている。患者はちょうど、胸腹部から大腿にかけて消毒用のポピドンヨードを念入りに塗りたくられているところだった。ポピドンヨードはちょうどそれらしい濃い茶色の液体だから、それを刷毛で塗り広げるさまが鰻の蒲焼きを作るようすに似ていると言いたいらしい。僕は眉を潜め、刷毛を握る佐藤先生の手元を睨みつけた。
「おいおい、別に不謹慎でもなんでもないだろ。冗談通じないよなあ、ね、間宮さんもそう思わない?」
 突然話を振られた間宮晶子が、困ったような笑みを目元に浮かべた。青山に進藤、間宮、それに僕を含めたこの四人が、この一年ポリクリを一緒に回ることになっているチームである。ポリクリというのは五年次で行われる病院臨床実習のことで、ドイツ語で「総合病院」を意味する「ポリクリニック」に由来する。そういうわけで、僕らは今T大附属病院の心臓血管外科を回っているところなのだった。
「食べ物に例えるのなんて、医学用語の名付けでは寧ろスタンダードじゃないか。いちご状血管腫、チョコレート嚢胞、ポートワイン母斑……」
「学生」
 患者の消毒を終えた佐藤先生が此方に呼び掛け、僕らは振り向き、青山は口を閉じた。
「誰でもいいから、一人手洗いしてこい。術野に入れ」
「はい」
 僕は真っ先に返事をすると、他の三人の方を見もせずに手術室を出て、手洗い場に向かった。進藤が何か言いかけた気配があった。気にする必要はない。そもそも、必ずしも好き好んで入りたがるというものでもないのだ。僕のチームに外科志望の学生はいないし、今日はとりわけ時間の掛かる三枝バイパス術なのだから、寧ろ感謝されるはずだ。僕はブラシを二個取り出して、入念に肘まで洗った。鏡の中の僕は、軽蔑したようにただ此方を見つめ返していた。

「曲がり」
 はい、と言って隣の看護師が鉗子を差し出し、僕は邪魔にならないように仰け反った。助手の先生が僕を一瞥し、咎めるように言った。
「学生、患者さんの上に手置いとけ。術野で腕組みはないだろ」
「はい」
 汚染しないよう組んでいた腕を解き、ドレープの上に添える。血の滲んだドレープと薄い手袋越しに、患者の柔らかな腹の感触と体温が伝わり、僕は僅かに怯んだ。
 患者は六十九歳の女性だった。彼女には娘がいて、孫がいる。気持ちも身体もまだまだ若く、趣味はテニスで、ほんの三ヶ月前まではラケットを握りしめてコートを駆け回っていた。元気だったのだ。今は、彼女はただ生きるためにこうして捌かれる前の鮪のようにその身を横たえ、開胸器をかけられている。
「電メス」
 看護師が電気メスの先端に付いた炭をこそげ落とし、佐藤先生に渡した。じゅうっと音がして脂が弾け、軟部組織の焼ける臭いがする。電気メスによって人体が焼ける臭気は独特だ。単なる焦げ臭さの中に、なんとも形容しがたい有機的な生臭さがあるのだ。術野からどんなに離れていても手術室にいる限り、その臭いはいつも容易くマスクを貫いて鼻先に纏わりつき、僕を息苦しくさせる。
 僕は無意識的に顔を背け、モニタを見た。血圧が上昇しつつあった。麻酔科医がのんびりと椅子から立ち上がり、新しいアンプルの中身をシリンジに移した。
 ピッ、ピッ、と規則正しい機械音が高くなったり低くなったりしながら僕の鼓膜を震わせ、こめかみへと放散する。そのうちに、心臓は人工心肺に接続され、自ら動くことをやめた。心臓は動かない。けれども、患者は生きている。生きるために、心臓を止めている。
 青山と進藤と間宮は僕に背を向け、寄り添うようにしてモニタの中を見つめていた。モニタの中の、今は動かない患者の心臓を。
 僕は浅い呼吸をした。血液の赤がぎらぎらと網膜を焼き、その残像をドレープの緑が掻き消した。
剪刀メッツェン
 僕は自分のすぐ手元にメッツェンが転がっているのに気付き、持ち上げた。僕の左手が患者の上でそのあたたかさを味わう一方で、僕の右手はつめたい金属のメッツェンを握りしめた。
 そのとき唐突に、「今、このメッツェンを思い切り突き立てたら、簡単に彼女は死ぬのだ」という思いが湧き上がった。その悪魔的な考えは、おそろしく残酷でありながら、同時に甘美な薫りを纏っていた。僕は硬直した。僕はこのとき、正に他人の生と死の狭間にひとり立ち竦み、彼女の静止した心臓を見ていた。
 拡大鏡の下から、佐藤先生が訝しげに僕を見た。
「早く」
 その声で僕は我に返った。僕は強張った指をぎこちなく緩め、メッツェンを先生に渡した。
「気分が悪いなら言えよ」
「大丈夫です」
 間宮が此方を振り向くのが、視界の隅に見えた。メッツェンを使い終えた佐藤先生がまた電気メスに持ち替え、組織を焼き始めた。再び特有の臭いが広がる。
「本当にすぐ言えよ。こんな術野で倒れたりしたら最悪だからな」
「はい」
 焼かれた組織が煙を上げて縮こまる。僕はまだメッツェンを見つめている。佐藤先生が電気メスの先端を拭い、冗談とも本気ともつかない口調で呟いた。
「しかしこの匂い、焼肉食いたくなってくるよなあ」
 助手の先生が愛想程度に笑う。はは、そうですかね。その笑い声を聞いて、僕は突如猛烈な吐き気に襲われた。
「済みません」
「なに」
 二人の医師が同時に僕を見た。
「やっぱり、具合悪いです。手、下ろしていいですか」






「今日ってどこでやるの」
 脱いだ術衣を籠に放り込みながら、進藤が青山に尋ねた。
「うん?」
「飲み。店だよ」
「ああ、まだ決めてなかったっけ」
 丸めて仕舞っていたせいで、青山の白衣は皺が寄っている。僕はこんな風に白衣が皺だらけになるのが嫌なので、いつも畳んで仕舞う。
「三人だし、予約なくても大丈夫だろ」と言って、青山は黙々と着替える僕の方を見た。
「佐々山は、やっぱり来ないんだよな」
「ああ」
「さっき具合悪いって言ってたしな」
 靴を履き替えながら、進藤がフォローするように口を挟んだ。
「次は行こうぜ」
 僕は頷いた。次も、その次も、何回次が来たって参加する気は起きないだろう。
 更衣室を出ると、間宮は既に着替えを終えて廊下に立っていた。間宮は女子にしては着替えるのが早い。まあ、病院内では男も女も皆同じ格好なのだから、そういう意味では特に男にアドバンテージがあるわけでもないのかもしれない。
「ごめん、待たせた?」
「私も今出てきたところ」
 間宮が首を振った。僕たちは「関係者以外立ち入り禁止」の扉を出て、階段を降り始めた。少し遅れて歩く僕にふと間宮がスピードを合わせ、声を掛けた。
「大丈夫?」
 首を傾げると、「さっき、手術中に抜けたでしょ」と間宮。
「ちょっと気分が悪くなっただけだから。気にしなくていいよ」
「ねえ」
「なに」
 少し躊躇ったような間があった。
「飲み会さ、この次こそは参加してよ。班全員で揃った写真とか、撮りたいし」
「うん」
 間宮は少しの間黙った。
「佐々山くんってさ、一人の方が好きみたい」
 そう言うと、間宮はつと前を向いて歩調を早め、前を行く二人の会話に加わった。彼女はもう振り向かなかった。そして、学生用のロッカールームに辿り着くまで、僕は三人の後ろをゆっくりと歩いていた。
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