第十四話
雨があまりに酷い日は、俺も少し気が滅入る。小鳥も空を飛ぼうとしない。
「おはよ。今日も雨だよ。おれ、そろそろどこか腐っちゃうんじゃないかと思うんだけど」
俺は仲良くなった小鳥が、雨宿りをしている高い木の中ほどにある穴を覗き込んだ。
自分で食べるために取ってきた木の実を少し分けてやると喜んで突っつく。食べ終えると小鳥は穴から出てきて俺の肩に乗り、首元に柔らかな頭をすり寄せた。
うへへへ。くすぐったい。
居待に刻まれた首の傷は、最初に付けられたものならもう、かさぶたも剥がれて治っている。しかしその後も、何度となくあの爪は俺の首を引っ掻いた。
昨日つけられたばかりの傷はまだ、少し腫れててジクジク痛む。
「稽古だからといって、命を取らないと思ったら大間違いでしてよ」
そういって俺の首を抉った爪はいつもより深かった。
分かっている。分かってはいるつもりなんだけどさ。首についた傷の数だけ、俺はホントは死んでるってこと。
俺、もう何回死んだかな……。
それでも捨て身で飛び込まないと、居待を捉えるなんてできそうにないから。それに相手を追いかけている時に、自分の心配とかまで気が回らない。
俺が死ぬ心配なら青ちゃんがしてくれてたから、俺は俺の心配なんかしなくて良かった。俺の背中は青ちゃんに預け、青ちゃんの背中は俺が預かる。
俺は青ちゃんがいなくても大丈夫なくらいに強くなりたい。
なりたい……けど、俺、やっぱり青ちゃんがいた方がいいなぁ。
小鳥がピィと高い声を上げハッとする。
振り向いた俺に向かって飛んできたのは居待の簪――ではなく槍だった。
ただし緋狐と狸休を率いていた、あの緑の髪をした女のものではない。別の盗賊狩りだ。
本当に次から次によく来る。青ちゃんじゃないけど、こうも続くとさすがに面倒っちい。
俺は小鳥とさよならすると、木に刺さった槍を足場に別の木へと飛び移った。
「どちらへ行かれるのです? 剣の稽古にはちょうどいいでしょうに」
盗賊狩りから逃げようとした俺を咎めるように、居待が目の前に現れる。相変わらず気配をまったく感じなかった。
だけど俺は突然現れたその姿に、足を止めることなくむしろ速めた。
飛び込むように居待に向かって枝を蹴り、空中で背中の刀を抜いた勢いそのままに切りつけた。
ひらりと舞うつつじの花色。俺の刀は居待を捉えられず空を切る。だけど俺は勢い良く振り下ろした刀の動きをその場で殺し、俺の右側に移った居待を追って刀の向きを直角に変えた。
目一杯に伸ばした右腕だけで横に振り切る刀に、ほんの少し何かが触れた感覚がある。
「まあ酷い。この着物は私のお気に入りですのに」
身を翻して居待に向き直ると、居待が着物の裾を指先で摘んでそう言った。そこには俺の刀が触れたらしい切れ目。
やった!
これはきっと、立待に言われてやっていた稽古の成果。
しかし喜ぶ間もなく、居待からの反撃が始まる。首を狙う、あの爪をのけぞるように何とか避けたが、そのせいで足元の枝を踏み外す。
このまま、ただで落ちてやるもんか。
崩れた体制から、がむしゃらに手を伸ばし居待の袖を掴みにかかる。爪の先が袖に掛かったと思ったとき、残念ながら俺の手は居待に弾かれ、俺はやっぱり一人で地面に落ちることになった。
「……やはりあなた方の身体能力は、文字通り“人並み外れた”というところでしょうか」
またも背中を打った痛さで、濡れた地面をゴロゴロしている俺を見ながら、居待はそんなことを言う。
あなた方……というのは、俺と誰の事を言っているのか。普通なら青ちゃんのことだと思うけど、居待の口調は何かもっと別の意味もあるように聞こえる。
「いずれ、分かるときがきますわ」
俺が考えてることなんてお見通しというように言うと、居待は姿を消した。
◆◆◆◆◆
その日、木の洞から顔を出すと雨が降っていなかった。
青ちゃんと別々になってから、もう両手両足の指の数ほど、朝と夜が過ぎた頃だった。
綺麗な青空とはいかないまでも、やっぱり歩き回るときにおでこを叩く雨の雫がないのは気分がいい。
せっかく雨が止んだのに、この日は小鳥の姿が見えない。白くて重たそうな霧が木々の間をゆっくりと流れている。
……静かだ。
少し静かすぎるんじゃないかってくらい。
でもそう思ったのも一瞬だった。後ろから飛んでくる鋭い気配に、俺はまだぬかるんだ地面を蹴った。俺がいたところに突き刺さる見覚えのある小さな刀。
「この前はよくも川に落としてくれたやんか! かくごしい!」
狸休だ。
「お前もおれを川に落としたんだから、おあいこだ! それに団子に釣られたお前が悪いんじゃないか」
「せやかて団子が食いたかったんやあ!」
それを聞いて俺は、次に背中から振り下ろされてきた大槌を避けながら言った。
「緋狐ー。緋狐は狸休を頭いいって言ったけど、こいつもあんまリ頭よくないよ」
俺の後ろに現れた緋狐は、眉間に皺を寄せながら大槌を肩に背負い直し首を傾げる。
「……そんなことねぇだろ。こいつは生まれたときから人間のとこにいたんだ。こいつ字も書けるんだぜ。しかも漢字」
「おれだって、自分の名前くらい漢字で書けるもんね」
「へえ、お前の名前どう書くん?」
狸休の言葉に俺は辺りを見回すと、落ちていた小枝を手にしてしゃがみ込んだ。降り続いた雨のせいで柔らかくなっている地面に、枝を突きたて文字を書く。
「えっとね、ハチは数字の八でしょ、ヤはね、左側に耳を書いてー、こっちはにょろにょろーって。はい、これで『耶八』って読むんだ」
「ふうん。……ん、耶八? お前そう呼ばれてなかったやん」
「うん。青ちゃんはでこぱちって呼ぶし、きさらや玖音はハチって呼ぶんだ」
「へえー」
しゃがみ込んだ俺の上から俺の名前を覗き込む二匹。俺はしゃがみ込んだまま、後ろにいる二匹を見上げた。
「『ひこ』はどう書くの」
「俺のは、元々は“狐に非ず”って意味だったんだけどな」
何それ、なんかちょっとカッコいい。
すると狸休が俺の横に同じようにしゃがみ込んで、俺の手から小枝を奪った。
「今はちゃうねん。赤って意味の緋色の緋やねん。こう書くんや」
「へえー。じゃあ“りきゅう”はこう?」
「それどんな字やねん。俺のは――こうや」
「青ちゃんの青はこう書くんだよ」
「それくらい知ってるわ」
小枝を取られては取り返して、地面に文字を書き合う。
「じゃあ、狸休も字が書けて、おれも書けるから、一番馬鹿なのは緋狐だね」
「なんだと、このチビ」
ふいに緋狐が泥の塊を投げつけてきて、俺のほっぺたに当たる。
「なにすんだよ!」
もちろん俺はやり返す。けど、投げた泥は上手く飛ばずに、緋狐の手前にいた狸休に当たった。
「あ」
「うわっ、何してんや。へたくそ!」
「狸休には泥団子で十分だ」
「なんやと!」
狸休が泥をかき集めて投げ返してきた。
「おい狸休、なんで俺に当てんだよ!」
「あかん、失敗した。緋狐、堪忍!」
「堪忍じゃねぇよ!」
いつの間にか始まった泥団子合戦。もはや相手が誰か関係ない。なんだかちょっと楽しい。
「やーい。当たらなかった」
「阿呆ぅ。今からこの特大泥団子をお見舞いしたるわ!!」
そのときだ、泥団子を抱えていた緋狐と狸休の頭にゴスと槍の柄が続けざまに振り降ろされた。
「阿呆はお前らだ。何を呑気に遊んでいる!」
「あ、青ちゃんにやられた奴だ」
あの女盗賊が眉間にものすごい皺を寄せながら俺たちを睨んでいた。いつも通り、分かりやすい殺気をこれでもかと垂れ流している。
「黙れ! お前もあいつも、すぐにこの手で地獄へ送ってやる」
わあ、しつこい。だからあの時、殺っちゃっておけば良かったのに。
「俺と青ちゃんが何したって言うんだよ! お前らだって本当は羅刹狩りだったくせに! 羅刹が狩れなくなったからって、政府のえらい奴から命令されたからって、なんでそんなにおれたちばっか狙うんだよ!!」
「ば、馬鹿者っ、あまり大きな声を出すな。今日は羅刹検分の日なのだぞっ」
あれ、それ何だっけ? どっかで聞いたことがあった気がするけど……。
「私とて、この賽ノ地に憎き羅刹族がはびこり始めた今日、お前らなんぞの相手など馬鹿馬鹿しくてやっておれん。しかし景元様に御仕えする我ら烏組。これがあの方のお考えならば従うまで」
憎き羅刹族……こいつも羅刹に何かされたのかな……。でも、俺はその景元様なんて奴も、そいつが何考えてるかなんてのも知らないし、従う気にもならない。
「お前なんかに、やられないもんね」
俺は右手に握っていた枝の先を、もう片方の手の指で摘んでしならせて、弾くように女盗賊に向かって投げた。
別に狙っていたわけじゃなかったんだけど、枝は思っていた以上に勢いよく飛んで、女の顔にビタンと当たった。
結構、痛そうかも。
「……こ、の……糞餓鬼がっ!!」
大きな声を出すなと言っておきながら、人一倍大きな声を張り上げる女に、俺はすたこら逃げ出した。
「待て、それ以上奥へ入るな! 緋狐、狸休、奴を止めろ!」
止められるもんなら止めてみろ。
何日も居待や盗賊狩りに追いかけられ走り回った東山は、もう庭みたいなもんだ。もう少し行けばちょっと開けたところへ出るはず。そこなら、この三人をまとめて相手するのにちょうどいい。
俺は一歩大きく地面を蹴ると、藪から外へと飛び出した。
「あ、青ちゃん」
思わずそう声が出た。
藪の外、木々の中から抜け出た俺が真っ先に目にしたのは、山の中では珍しいあの赤と青の色だった。
そこには青ちゃんがいた。
ずっと俺を無視していた青ちゃんだけど、やっぱり俺は久々に会う青ちゃんに、嬉しくてついつい顔がにやける。
ただし、走り続けてきた足はすぐには止まらなくって、俺は青ちゃんを通り過ぎてしまった。するとそこに、何だか見覚えのあるデカい図体が立ち塞がっている。
青ちゃんに大怪我をさせた衝という羅刹だ。きさらを狙った細い目をした剥もいる。それに……『アレ』が斬ったはずの瑠璃色の着物を着た羅刹、弾次もいた。
回れ右。
そのまま、青ちゃんの所まで戻る。うん、やっぱり青ちゃんの隣はいい。
でも、しまった。まさかここに青ちゃんと羅刹が一緒にいるなんて思っていなかった。
「あちゃあ……どうしよ」
「どうしようもこうしようも、見ての通りだ」
「あのさあ、実はさ、おれも」
俺が青ちゃんに説明しようとしたときだ。
「待ちやがれ、このチビ!」
「待っちやがれぇ」
「無暗に追うな! 羅刹どもに見つかったら、今度こそ烏之助さまに殺され……る……」
俺を追いかけて緋狐と狸休、盗賊狩りの女が姿を見せた。まあ、説明するより早いからいいか。
烏組の連中を見た青ちゃんの表情はというと、呆れたような馬鹿にしたような、そんな顔だった。いや、どっちもか。
「羅刹どもっ……!」
女盗賊狩りは羅刹たちを見ると、追っていた俺と青ちゃんではなくそちらを険しい顔で睨んだ。
「緋狐、狸休!」
「がってん」
女の声に緋狐と狸休も俺たちに並ぶ。……なんだ、これ?
すると、青ちゃんが自分の隣に立った女に聞いた。
「俺たちを殺しに来たんじゃないのか?」
「予定は予定だ。盗賊風情がごちゃごちゃ抜かすな。こちらにもいろいろ事情があるんだっ」
「事情?」
「貴様には関係ない!」
女は槍を羅刹に向けた。
あれ? もう羅刹狩りじゃなくて盗賊狩りになったんじゃなかったっけ?
でもどうやら、俺たちは一緒に羅刹たちと戦うことに、今、なったらしい。
しかし、女はそれが気に食わないようだ。
「最悪の気分だ」
「俺もだよ」
久しぶりに俺の背の側にいる青ちゃんがそう言って、ふっと笑う気配があった。女はそれも気に入らないらしい。
「何が可笑しい?」
「いや、何も」
青ちゃんは両手に大鎌を持った衝、細い紐のようなものがついた鎌を振り回す剥に向かい合った。
俺の目の前には瑠璃色の着物。目元を覆った硝子の奥の目が、こちらを憎らしげに睨んでいる。俺とおんなじで背中に括っている刀を抜き、俺に向けたそいつは馬鹿でかい声で宣言した。
「俺の愛刀のサビにしてくれるわ!」
俺の相手は弾次だ。