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愛のモノリス 作者:稲葉孝太郎

第1章

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月から来た少女

 月の赤い夜だった。
 うっすらと夕暮れを残す西の空に背を向けて、一人の若い女が坂道を見上げていた。カランコロンと、下駄の音が聞こえて来る。女は身じろぎもせず、その懐かしい音に耳を澄ませていた。
 その音に合わせて、坂道の向こうから、コートを羽織った中年の男が一人、山高帽子をかぶって下りて来た。男は坂道を下り切ると、電柱のそばに佇むポストへと歩み寄った。
 男がコートのポケットに手をやる。しばらくポケットの中を弄った後、男は急に動きを止め、ぼんやりとそこに立ち尽くしていた。
「こんばんは」
 声を掛けたのは、女の方だった。
 男はハッと振り返り、帽子を外して挨拶を返す。
「こんばんは……」
「何かお探し?」
 女の見透かしたような問いに、男は息を呑んだ。
「ええ……封書を落としてしまったようで……」
 男は、口ごもりながら、そう答えた。
「それはお困りね」
 敬語を使わぬ女の無愛想な口調に、男は苦笑いを浮かべる。
「いえ……ここで無くしたのも、何かの縁でしょう……それでは……」
 男はそう言って、女に背を向けた。
「あなたが無くしたのは、この封筒?」
 女の問い掛けに、男が踵を返す。
 彼女の手には、確かに封筒が一通、柔らかく握られていた。
 男は封筒の表に自分の書体を認めると、気まずそうに頭を下げ、それを受け取る。
「ありがとうございます……しかし、どこで落としたのやら……」
 男はしばらくの間、封筒の宛名をぼんやりと眺めていた。
 納得がいかぬような顔をしている。
 そこへ、女が静かに話し掛ける。
「落としたんじゃないわ……私が盗んだのよ……十五年前に……」
 そう答えた女の顔を、男は怪訝そうに見つめ返す。
 女はその視線を受け止めながら、意を決したように唇を開いた。
「私、父さんに何もかも白状するわ……十五年前、私は父さんの部屋から、その手紙を盗んだの……それが愛人に宛てたものだって分かってたから……だから、幼かった私は、母さんのためと思って、その手紙を服のポケットから抜き取った……でも、何の解決にもならなかったわね……だって……」
 震え声になった女の前で、男の姿が陽炎のようにゆらめく。
「だって、父さんはそれからすぐに、家を出て行ってしまったんだもの……」
 女がそう漏らした瞬間、男は影と化し、最後の西日に消えた。
 そして、それと入れ替わるかのように、ひとりの少女が、電柱の影から姿を現した。自我の強そうな、それでいて優しそうな目を持つ、眼鏡をかけた少女だった。
 少女は、涙ぐむ女に、そっと手を差し伸ばす。
「忘れ物ですよ」
 少女の手には、先ほどの便箋が握られていた。
 女は鍵を受け取ると、少女に付き添われ、ポストのそばに打ち捨てられた黒い箱の前に歩を進める。
「全てを思い出しましたか?」
 少女の問いに、女はもの静かに頷き返す。
「では、元の世界に戻りましょう」
 少女の声を、女は背中越しに聞いていた。彼女の視線は、坂道を登る男の影を、いつまでも追い続けている。
 その影が坂道の向こう側に消えた途端、世界は涙に滲んで消えた。

 ☽

 女が目を開けると、そこは小さな事務所だった。
 全ては夢だったのだ。背中に伝わるソファーの感触が、女にそう教えてくれる。
 ……いや、全てではない。女の目の前で、先ほどの少女が微笑んでいる。彼女は、夢の住人ではない。
 女の膝元にあるテーブルには、飲み残しのティーカップが一組置かれている。
「神楽かぐらさん……私、全てを思い出しました……」
 女が、独り言のようにそう呟いた。
 神楽と呼ばれた少女は満足げに頷き返した後、静かに断りを入れる。
「その先は、あなたのプライバシーです。お話にならなくても結構ですよ」
 少女のアドバイスに、女は首を振った。
「いえ、話させてください……」
 女は頬を伝う涙の跡を指先で拭い、ゆっくりと話し始める。
「十五年前……私がまだ十歳だった頃……父は愛人を作っていました……その愛人と手紙のやり取りをしているのを、私は子供ながらに勘付いていたんです……だからあの日、私は父の洋服から封筒を抜き取り、自分の部屋に隠してしまいました……なぜ捨ててしまわなかったんでしょうね……?」
 自分に謎を掛けながら、女は先を続ける。
「その数日後、父は失踪してしまいました……母は悲しむでもなく、何だか諦めがついたような顔をしていたのを、今でも覚えています……ひとりきりのとき母がどんな顔をしていたのか、そこまでは分かりません……その後、あの手紙をどこへやったのかも、私の記憶から奇麗に消えていたんです……」
 神楽は、黙って女の話に耳を傾けている。
「その手紙の行方を、さっきのピースで思い出しました……私は愚かにも、あの手紙を読んだんです……そして、知ったんです……あの手紙は、父が愛人に別れ話を持ち出すために書いたものだったと……私は、父と愛人が別れるきっかけを奪ってしまった……父は、それを何か運命じみたものと感じて、家を出てしまったんだと思います……」
 女は、そこで話を終えた。
 オフィスの中に、透き通った沈黙が流れる。
 少女は何も言わず、女が思い出の海から上がって来るのを待った。
「神楽さん……あなたは、私があのとき間違ったことをしたと思いますか?」
 神楽は、少し距離を置いた表情で、女の目を見つめ返す。
「あなたの人生を評価するのは、あなた自身です」
 女は神楽の回答に満足したのか、軽く目を閉じて微笑む。
「そうですね……私が決めなければならないことですね……」
 その返事を合図に、神楽はこの場をお開きにする。
「では、治療はこれで終わりです。お疲れさまでした」
「ありがとうございました……」
 女は深々と頭を下げ、席を立った。
 神楽もソファーから腰を上げ、出口まで付き添う。
 ドアを開け、薄暗い廊下に立った女は、もう一度深く頭を下げた。
 神楽も、丁寧な会釈を返す。
「ご来店、ありがとうございました」
 神楽が扉を閉めようとしたとき、女がふいに顔を上げた。
「私、父の葬儀に出ます……父を許したわけではありませんが……ただ、最期にお別れをしたいと思います……」
「そうですか……では、夜も遅いですし、お気をつけて……」
 扉が閉まった。
 神楽は、壁の時計に目をやる。時計の針は、既に十時を回っていた。
「ふぅ……もうこんな時間ね……」
 神楽は、肩の荷が降りたように、大きく溜め息を吐いた。そしてテーブルの上に置かれたティーカップを片付け始める。クライアントをリラックスさせるために出したハーブティーの残り香が、彼女の鼻孔に漂う。
 今日はもう仕舞いだ。そう思った矢先、廊下から誰かの足音が聞こえてきた。
 ……忘れ物だろうか。神楽は、ソファーの周りを確認する。女の物と思わしき品は、どこにも見当たらない。
 ビルの管理人か、いつもより早い見回りだな。そんなことを頭の片隅において、神楽は足音が通り過ぎるのを待った。
 ところがその足音は、ちょうど彼女の事務所の前で止まった。
「……?」
 不審に思った神楽は、カップを流しに置き、入口のドアを振り返る。

 コンコン

 弱々しいノックの音。控えめな訪問の合図に、少女は黙って洗い場を離れ、一直線に部屋を横切ると、ドアノブに手を掛けた。
 そして、慎重にノブを回し、隙間から廊下を覗き込んだ。
 ……部屋から漏れ出た光が、暗闇の中に色白い少女の顔を照らし出す。腰まで届く黒髪の美しい、年頃の男性なら思わず見蕩れてしまいそうな女性が、そこにいた。 
 神楽の登場を期待していなかったのか、少女は、訪問客にあらざる驚きを見せた。
「す、すみません……こんな夜中に……」
「どちら様ですか?」
 少女の取り乱した声に対し、神楽は事務的な態度を崩さない。この部屋を訪れる客は、皆一様に少女と同じような不安定さを見せる。それに一々構っていては、神楽の神経がもたないのだ。
 しかし、神楽の記憶では、今夜の客はあの女で最後のはずだった。脳内でスケジュール表を確認する神楽。顧客のリストは、やはりあの女の名前で途切れていた。
「どちら様ですか?」
 神楽はもう一度、同じ質問を繰り返す。
「あ、あの、こちらが憧夢さんですか?」
 少女は、神楽の質問を質問で返した。
 これも、パニックになった人間にはよくあることだ。
 神楽は、あくまでも冷静な対応に努める。
「はい。こちらは思い出コンサルタント憧夢ですが」
「妙なことを伺いますが……ここは、記憶の治療をしてくれるお医者さんですか?」
 少女の簡潔な表現に、神楽は少しばかり訂正を加える。
「ここは病院ではありません。記憶障害やトラウマ解消のご相談には乗りますが、医学的な治療をお求めの場合は、精神科医か脳外科へどうぞ。それと、もうひとつ……」
 神楽は、そこでひと呼吸おく。
「憧夢は完全予約制となっております。お名前と連絡先を教えていただければ、後日……」
 その瞬間、少女は頭に手をやると、苦痛に顔を歪めた。この反応には、さすがの神楽も冷静さを失ってしまう。
 ドアを開放し、少女を部屋の中へ導き入れた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……急に頭痛がして……」
 少女は、依然として辛そうな顔をしている。
 神楽は少女をソファーに座らせ、流しに向かうと、棚からグラスを取り出し、水を注ぎ入れた。頭痛薬のおまけは要らないだろうと値踏みして、神楽はそのままグラスを少女に手渡す。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
 少女がグラスに唇をつけるのを横目で追いながら、神楽も向かい側に腰を下ろす。
「あの……私……」
「お話は、気分が良くなってからで結構です」
 少女の顔に血色が戻るまで、ざっと五分。その間、神楽は背筋を伸ばしたまま、じっと少女の様子を観察していた。
 一見して高校生くらいの年頃と分かる容姿。衣服は純白のワンピースで、ところどころに土の染みがこびりついている。ワンポイントのブランドマークすら入っていない、質素な代物だった。
 家出少女だろうか。神楽は、その面倒な可能性に顔を曇らせる。
 そんな神楽の様子には目もくれず、少女は最後の一口を飲み干すと、コップをテーブルの上に置いた。
 そして一息吐いた後、おもむろに唇を開く。
「すみません……いきなりご迷惑をおかけして……」
「いえ、それは構いません。ただ、先ほども申しました通り、憧夢は完全予約制です。連絡先を教えていただければ、後日こちらから日程を……」
 平謝りしていた少女の顔が、サッと青ざめた。
 すがるような目付きで、神楽の瞳孔を捉え返してくる。
「そ、それは困ります……今でないと……」
「こちらにいらっしゃる方は、みな悩み事を抱えています。それは私も承知の上です。とはいえ、私にもプライベートがあるわけですし、この憧夢も、私の本業ではありません」
 本業が高校生であることを、神楽は敢えて伏せておいた。これを言うと、クライアントに軽く見られがちだからだ。
「というわけで、今は私のプライベートな時間ということになります。申し訳ございませんが、また後日いらしてください」
 うまく説得できたと考えていた神楽の予想とは裏腹に、少女は語気を荒げる。
「い、今じゃないとダメなんです! だって私……私が誰なのか分からないんですもの!」
 少女の気迫に、神楽は目を細めた。
 恐怖は感じない。むしろ彼女の中で、好奇心が頭をもたげ始めていた。
「……記憶喪失ということですか?」
「……はい」
 少女は、自分にもそう言い聞かせるように、強く頷き返した。
「……どうやってこの店をお知りになられたのです? この店は、特別な紹介がなければ、まず辿り着けないはずなのですが……。お連れの方がいらっしゃるとか?」
 神楽の質問攻めに、少女は恐る恐る唇を動かす。
「きょ、今日の夕方、気付いたら見知らぬ公園にいたんです……それで、最初は警察に行こうと思ったんですが……手にこんなことが書かれてて……」
 少女はそう言うと、ほっそりとした左手を差し出し、五本の指を開いた。
 神楽は、露になった手のひらに視線を落とす。

 【警察はダメ。憧夢で記憶を。住所:××××××。月の石】

「……これは、あなたの字ですか?」
「わ、分かりません……」
 神楽は腰を上げ、窓際の事務机からメモ用紙とボールペンを拾い上げると、黙ってそれを少女に手渡した。
「これと同じ文章を書いてみてください」
 少女は、言われた通りメモ用紙に文字を書き綴っていく。
「……そっくりですね」
 神楽は、メモと手のひらを見比べながら、そう呟いた。
「ひとつよろしいですか。この最後にある『月の石』というのは?」
「さ、さあ……」
 少女は、困惑したようにわざとらしく首を傾げた。
 だが、視線を合わせようとはしない。
 これは何かあると思いつつ、神楽は敢えて追及を控えた。時期尚早だと判断したのだ。
「そうですか……何かの手掛かりかと思ったんですが……」
 神楽は背筋を伸ばし、軽く溜め息を吐く。厄介なクライアントだ。それが、彼女の第一印象だった。
 とはいえ、少女の悩みが彼女の仕事と関わっている以上、もはや断る術を持たないのも事実である。しかも、用件は急を要している。
 明日は土曜日だし、スケジュールに例外を設けてもいいかと、神楽は決心をつけた。
「分かりました。どうやら、思い出屋の出番のようですね」
 そう言って、神楽はソファーから腰を上げ、三度流しに向かう。
「コーヒーがいいですか? それとも紅茶?」
 ポットのそばに放り出されていたインスタントコーヒーの蓋を開けながら、神楽は背中越しに尋ねた。
「こ、紅茶で……」
 少し多めに入れたコーヒーの粉末にお湯を注ぎ、棚から新しいティーカップと紅茶のバッグを取り出す。
 その間も神楽は、少女の挙動を巡って思考を働かせていた。記憶喪失……。一度や二度のコンタクトでは済まないかもしれない。
 そんなことを考えながら、神楽は左手にコーヒー、右手にティーカップを持ち、席へと戻る。
「どうぞ。あいにくミルクと砂糖は切らしておりまして」
「ありがとうございます……」
 神楽は、少女が紅茶に口をつけたところを見計らい、スッと居住まいを正す。この仕事は出だしが肝心だ。初手で誤ったピースを嵌めると、何もかもがおかしくなってしまう。
「では、カウンセリングを始めましょうか」
 神楽の宣言に、少女がカップをテーブルの上に置く。
「あなたは現在、記憶を無くしていらっしゃる。そういう理解でよろしいですね?」
「はい……一応……」
 少女は、曖昧な答えを返す。
 これは不味いと、神楽の勘が警告を発した。
「一応、とはどういう意味ですか?」
「……」
 少女は答えない。
 神楽は、さらに質問を続ける。
「何か覚えてらっしゃることがあるとか?」
 再び沈黙する少女。
 だが、神楽の質問は的を射ていたようだ。少女は、答えるかどうかを迷っているように見えた。迷っているということは、何か身に覚えがあるということだ。
 神楽は、辛抱強く待つことに決めた。ここで急かしてみても、意味はない。
 一分ほど経ったところで、ようやく少女の唇が動き始めた。
「あの……信じてもらえないかもしれませんが……」
「信じるかどうかは、話を伺ってから決めます。遠慮なさらずに、どうぞ」
 どうぞの部分を、神楽はできるだけ優しく添えた。
「私……ひとつだけ覚えてることがあるんです……」
 神楽は、黙って先を促す。
「……月から来た記憶が」
「……」
 重苦しい沈黙。少女は、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
 神楽は軽く肩を落とし、気付かれない程度の溜め息を吐く。
「うちは、そういう前世持ちの方がいらっしゃる店では……」
「待ってください!」
 少女の大声に、神楽は再び顔を上げる。
「もちろん私も、月に人間が住んでるなんて信じていません。自分が宇宙人だと思っているわけでもありません。ただ……本当にそういう記憶があるんです。自分が宇宙から地球を見下ろす、そんな生活の記憶が……」
 少女の声は震えていた。自分の異常な記憶に、恐怖を抱いているのだろう。月の石という言葉に見せた彼女の曖昧な態度も、それでだいたいの察しがつく。少女は、自分がおかしな人間だと思われたくなかったのだ。警察に行かなかった理由も、手にそう書かれていたからという単純なものではあるまい。
 逆を言えば、少女が神楽にこのことを告げたのは、彼女を信頼している証でもある。
 そう考えた神楽は、慎重に話を進めていく。
「そんなに怖がらないでください。記憶の書き換えというのは、別に精神の異常を示すようなものではありません。記憶の混同とか、都合のいい上書き、忘却などは、毎日のように人間の脳内で行われているのですよ。前世だとか、デジャヴだとか、そういうものも、人間の正常な生理作用の一種だと考えていいのです」
 誇張も歪曲もせず、ただひたすらに事実を説明する神楽。思い出屋としての経験が長い神楽にとって、もはや機械的とすら言える作業であった。
 だが、少女の不安は拭えなかったらしい。少女は人差し指を噛みながら、微かに体を震わせている。そんな彼女の態度に、神楽は少しばかり困惑した。
 これほどまでに少女を脅かしているものは、一体何だろうか。
 神楽は、少女がまだ何か隠しているのではないかと疑うことにした。
「あなた、他にまだ何か……」
 そのとき、ふいにドアをノックする音が聞こえた。
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