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月から来た少女

20XX年、夢をつうじて他人の記憶に干渉する能力が発見されてから、数年後。法令の整備と対抗技術の開発が進み、深刻な社会問題は、いったん収まりをみせた。日本政府は、能力者の一元的な管理を進め、彼らに国家資格を付与するとともに、能力のプライベートな使用を禁じた。これは、そんな国家資格を持つ女子大学生、一色神楽が遭遇した、不思議な物語である。

 月の赤い夜だった。

 うっすらと夕暮れを残す西の空に背を向けて、一人の若い女が坂道を見上げていた。カランコロンと、下駄の音が聞こえて来る。女は身じろぎもせず、その懐かしい音に耳を澄ませていた。

 その音に合わせて、坂道の向こうから、コートを羽織った中年の男が一人、山高帽子をかぶって下りて来た。男は坂道を下り切ると、電柱のそばにたたずむポストへ歩み寄った。

 男はコートのポケットに手をやった。しばらくポケットの中をまさぐったあと、急に動きを止め、ぼんやりとそこに立ち尽くしていた。

「こんばんは」

 声をかけたのは、女のほうだった。

 男はハッとふりかえり、帽子をはずしてあいさつを返した。

「こんばんは……」

「なにかお探し?」

 女の見透かしたような問いに、男は息をのんだ。

「ええ……封書を落としてしまったようで……」

 男は口ごもりながら、そう答えた。

「それはお困りね」

 敬語を使わぬ女の無愛想な口調に、男は苦笑いを浮かべた。

「いえ……ここで無くしたのも、なにかの縁でしょう……それでは……」

 男はそう言って、女に背を向けた。

「あなたが無くしたのは、この封筒?」

 女の問い掛けに、男はきびすを返した。

 彼女の手には、確かに封筒が一通、柔らかくにぎられていた。

 男は封筒の表に自分の書体を認めると、気まずそうに頭を下げ、それを受け取った。

「ありがとうございます。しかし、どこで落としたのやら……」

 男はしばらくのあいだ、封筒の宛名をぼんやりとながめていた。

 納得がいかぬような顔をしていた。

 女が静かに話し始めた。

「落としたんじゃないわ……私が盗んだのよ……一五年前に……」

 そう答えた女の顔を、男は怪訝そうに見つめ返した。

 女は、意を決したようにくちびるをひらいた。

「私、父さんになにもかも白状する……一五年前、私は父さんの部屋から、その手紙を盗んだの……それが愛人に宛てたものだって分かってたから……だから、幼かった私は、母さんのためと思って、その手紙を服のポケットから抜き取った……でも、なんの解決にもならなかった……だって……」

 震え声になった女のまえで、男の姿が陽炎のようにゆらめいた。

「だって、父さんはそれからすぐに、家を出て行ってしまったんだもの……」

 女がそう漏らした瞬間、男は影と化し、最後の西日に消えた。

 そしてそれと入れ替わるかのように、ひとりの少女が、電柱の影から姿を現した。自我の強そうな、それでいて優しそうな目を持つ、眼鏡をかけた少女だった。

 少女は涙ぐむ女に、そっと手をさしのばした。

「忘れ物ですよ」

 少女の手には、先ほどの封筒が握られていた。女はそれを受け取ると、少女に付き添われ、ポストのそばに打ち捨てられた黒い箱の前に歩を進めた。

「すべてを思い出しましたか?」

 少女の問いに、女はうなずき返した。

「では、もとの世界にもどりましょう」

 少女の声を、女は背中越しに聞いていた。彼女の視線は、坂道を登る男の影を、いつまでも追い続けていた。

 その影が坂道の向こうがわに消えたとたん、世界は涙ににじんで消えた。

 

 ☽

 

 女が目を開けると、そこは小さな事務所だった。整理整頓された書棚、簡素な事務机、部屋の中央には、黒革のソファーがふたつ、対話するように向かいあっていた。天井にはシーリングが静かにまわり、女に風を送っていた。LED電灯は、おだやかな白色で、おろされた窓のブラインドの向こうには、夜の闇がひろがっていた。月はみえない。出ているのかどうかも、おぼつかなかった。

 すべては夢だったのだ。背中に伝わるソファーの感触が、女にそう教えてくれた──いや、すべてではなかった。先ほどの少女が、女のまえで微笑んでいた。彼女は夢の住人ではない。

 女のひざもとにあるテーブルには、飲み残しのティーカップが置かれていた。

神楽かぐらさん……私、思い出しました……」

 女は独り言のように、そうつぶやいた。

 神楽と呼ばれた少女は、満足げにうなずき、それから静かに断りを入れた。

「その先は、あなたのプライバシーです。お話にならなくても、けっこうです」

 少女のアドバイスに、女は首をふった。

「いえ、話させてください……」

 女は頬を伝う涙の跡を指先でぬぐい、ゆっくりと話し始めた。

「一五年前……私がまだ一〇歳だったころ……父は愛人を作っていました……その愛人と手紙のやり取りをしているのを、私は子供ながらにカンづいていたんです……だからあの日、私は父の洋服から封筒を抜き取り、じぶんの部屋に隠してしまいました……なぜ捨ててしまわなかったんでしょうね……?」

 じに謎をかけながら、女は先を続けた。

「その数日後、父は失踪してしまいました……母は悲しむでもなく、なんだかあきらめがついたような顔をしていたのを、今でも覚えています……ひとりきりのとき母がどんな顔をしていたのか、そこまではわかりません……そのあと、あの手紙をどこへやったのかも、私の記憶から奇麗に消えていたんです……」

 神楽は黙って、女の話に耳を傾けていた。

「その手紙のゆくえを、さっきのピースで思い出しました……私はおろかにも、あの手紙を読んだんです……そして、知ったんです……あの手紙は、父が愛人に、別れ話を持ち出すために書いたものだったと……私は、父と愛人が別れるきっかけをうばってしまった……父は、手紙の紛失を運命じみたものと感じて、家を出てしまったんだと思います……」

 女は話を終えた。

 オフィスのなかに、透き通った沈黙が流れた。

 神楽はなにも言わず、女が思い出の海からあがって来るのを待った。

「神楽さん……あなたは、私があのとき、まちがったことをしたと思いますか?」

 神楽は、やや距離をおいた表情で、女を見つめ返した。

「あなたの人生を評価するのは、あなた自身です」

 女は神楽の回答に満足したのか、かるく目を閉じてほほえんだ。

「そうですね……私が決めなければならないことです」

 その返事を合図に、神楽はこの場をおひらきにした。

「カウンセリングはこれで終わりです。おつかれさまでした」

「ありがとうございました」

 女は深々と頭を下げ、席を立った。

 神楽もソファーから腰をあげて、出口までつきそった。

 ドアをあけ、うす暗いろうかに立った女は、もういちど深く頭をさげた。

 神楽も、ていねいに会釈をかえした。

「ご来店、ありがとうございました」

 神楽がとびらを閉めかけたとき、女はふいに言葉を発した。

「私、父の葬儀には出なかったんです……そのことについて、後悔はしていません。身勝手だった父を赦すのではなく、まだ生きている母と、むきあいたいと思います」

「そうですか……夜も遅いですし、お気をつけて」

 とびらが閉まった。

 神楽は壁の時計に目をやった。時計の針は、夜の一〇時を回っていた。

「ふぅ……もうこんな時間」

 神楽は大きくタメ息をついた。一日の肩の荷がおりた。

 ここは夢カウンセリング、憧夢どうむ。数年前、他人の記憶に干渉する能力者たちが、世界中で同時に発見された。前世紀からひそかに存在していたのか、それとも二一世紀に突如として生まれた変異種なのか、それは今でもわかっていない。いずれにせよ、能力者たちは、各国で異なるあつかいをうけた。ある地域では、土着信仰とむすびつき、シャーマンとしてあがめられた。また別の地域では、悪魔の使いとして、宗教的な迫害をうけた。とはいえ、先進諸国での対応は、ほぼ一律だった。能力を法によって規制し、能力者には登録を義務づけた。また、能力を使って報酬をうけとる仕事は、すべて免許制になった。日本でも同様の政策がとられ、能力者の登録は厚生労働省がこれを担当し、能力者の免許取得には、国家試験と一定期間の研修が課された。憧夢の主人、一色いっしき神楽かぐらは、高校一年生で試験にパスし、三年間の実務研修を終えたあと、ここにじぶんの事務所をかまえた。彼女は今、東京の大学にかよいながら、二足のわらじを満喫していた。

 神楽はかるくストレッチをしたあと、テーブルのティーカップをかたづけた。

 ハーブティーの残り香が、まだあたりにただよっていた。

 今日はもう仕舞いだ。そう思った矢先、ろうかから足音が聞こえてきた。

 忘れ物だろうか。神楽はソファーの周りを確認した。

 依頼人の私物と思わしき品は、見当たらなかった。

 ビルの管理人か、いつもより早い見回りだな。

 そんなことを頭のかたすみにおいて、神楽は足音が通り過ぎるのを待った。

 ところがその足音は、ちょうど彼女の事務所のまえで止まった。

「……?」

 不審に思った神楽は、カップを流しに置いて、入口のドアをふりかえった。

 

 コンコン

 

 弱々しいノックの音。控えめな訪問の合図に、神楽は黙って洗い場をはなれた。一直線に部屋を横切ると、のぞき穴からろうかを確認した。暗闇のなかに、色白い少女が立っていた。腰まで届く黒髪の美しい少女だった。

 神楽はしばらく思案した。そして、とうとうドアノブを回した。

 ドアから漏れた光が、少女の肌を照らした。それは澄んだ月のように白かった。

 神楽の登場を期待していなかったのか、少女は、訪問客にあらざるおどろきを見せた。

「す、すみません……こんな夜中に……」

「どちらさまですか?」

 少女の取り乱した声に対して、神楽は事務的な態度を崩さなかった。この部屋を訪れる客は、皆一様に不安を見せる。それにいちいちかまっていては、神経がもたないのだった。

 しかし、今夜の客は、あの女で最後のはずだった。神楽は脳内で、スケジュール表を再確認した。顧客のリストは、やはりあの女の顧客番号で途切れていた。この店のクライアントは、氏名ではなく番号で管理されている。プライバシーへの配慮だった。

「どちらさまですか?」

 神楽はもういちど、おなじ質問をくりかえした。

「あ、あの、こちらが憧夢どうむさんですか?」

 少女は、神楽の質問に、質問でかえした。

 パニックになった人間には、よくあることだ。

 神楽は、あくまでも冷静な対応につとめた。

「はい。こちらは思い出コンサルタント、憧夢です」

「妙なことをうかがいますが……ここは、記憶の治療をしてくれるお医者さんですか?」

 少女の簡潔な表現に、神楽は訂正をくわえた。

「ここは病院ではありません。記憶障害やトラウマ解消のご相談には乗りますが、医学的な治療をお求めの場合は、精神科医か脳外科へ、どうぞ。それと、もうひとつ……」

 神楽は、そこでひと呼吸おいた。

「憧夢は完全予約制となっております。ご連絡先を教えていただければ、後日……」

 その瞬間、少女は頭に手をやると、苦痛に顔をゆがめた。

 この反応には、さすがの神楽も冷静さを失ってしまった。

 ドアを開放し、少女をなかへ導き入れた。

「だいじょうぶですか?」

「は、はい……急に頭痛がして……」

 少女は、つらそうな顔をしていた。

 神楽は少女をソファーに座らせ、流しにむかった。棚からグラスをとりだし、水をそそぎいれた。頭痛薬のおまけをつけて、神楽はグラスを少女に手渡した。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます……」

 少女がグラスにくちびるをつけるのを、神楽は横目で追った。

 妙な動作がないことを確認して、少女の向かいがわに腰をおろした。

 少女はひと息つき、グラスを持ったまま、

「あの……私……」

 と口ごもった。

「お話は、気分が良くなってからで、けっこうです」

 少女の顔に血色がもどるまで、ざっと五分ほどかかった。

 そのあいだ、神楽は背筋を伸ばしたまま、少女の様子を観察していた。一見して、高校生くらいの年頃だった。衣服は純白のワンピースで、ところどころに、土の染みがこびりついていた。ワンポイントのブランドマークすら入っていない、質素な代物だった。

 家出少女だろうか。神楽は、めんどうな可能性に、顔をくもらせた。

 そんな神楽には目もくれず、少女は最後の一口を飲み干すと、コップをテーブルのうえに置いた。

 そして、おもむろにくちびるをひらいた。

「すみません……ご迷惑をおかけして……」

「いえ、それはかまいません。ただ、先ほども申しました通り、憧夢は完全予約制です。連絡先を教えていただければ、後日こちらから日程を……」

 平謝りしていた少女の顔が、サッと青ざめた。

 すがるような目つきで、神楽の瞳孔をとらえ返してきた。

「そ、それは困ります……今でないと……」

「こちらにいらっしゃるかたは、みな悩みごとを抱えていらっしゃいます。それは私も承知しています。とはいえ、私にもプライベートがあります」

 じぶんが大学生であることを、神楽は伏せた。

 これを言うと、クライアントに軽く見られがちだからだ。

「というわけで、今は私のプライベートな時間ということになります。申し訳ございませんが、また後日いらしてください」

 うまく説得できたと考えていた神楽の予想とは裏腹に、少女は語気を荒げた。

「い、今じゃないとダメなんです! だって私……私がだれなのか、わからないんです!」

 少女の気迫に、神楽は目を細めた。

 恐怖は感じない。むしろ彼女のなかで、好奇心が頭をもたげ始めていた。

「……記憶喪失ということですか?」

「はい」

 少女は、自分にもそう言い聞かせるように、強くうなずき返した。

「……どうやって憧夢をお知りになられたのですか? 当店は、特別な紹介がなければ、たどり着けないはずなのですが……お連れのかたがいらっしゃるのですか?」

 神楽の質問攻めに、少女は恐る恐る、くちびるを動かした。

「きょ、今日の夕方、気づいたら知らない公園にいたんです……それで、最初は警察に行こうと思ったんですが……手にこんなことが書かれてて……」

 少女はそう言うと、ほっそりとした左手をさしだして、五指をひらいた。

 神楽は、そのあらわになった手のひらに、視線を落とした。

 

 【警察はダメ。憧夢で記憶を。住所:××××××。月の石】

 

「……これは、あなたの字ですか?」

「わ、わかりません……」

 神楽は腰をあげた。窓際の事務机から、メモ用紙とボールペンを拾い上げた。

「これと同じ文章を書いてみてください」

 少女は言われた通り、メモ用紙に文字を書きつづった。

「……そっくりですね」

 神楽は、メモと手のひらを見比べながら、そうつぶやいた。

「ひとつよろしいですか。この最後にある『月の石』というのは?」

「さ、さあ……」

 少女は、困惑したようにわざとらしく首をかしげた。

 だが、視線を合わせようとはしなかった。

 これはなにかあると思いつつ、神楽は追及をひかえた。

 時期尚早だと判断したのだ。

「そうですか……なにかの手掛かりかと思ったんですが……」

 神楽は背筋を伸ばし、かるくタメ息をついた。

 厄介なクライアントだ。

 それが、彼女の第一印象だった。

 とはいえ、少女の悩みが彼女の仕事と関わっている以上、もはやことわる術を持たないのも、事実であった。しかも、用件は急を要していた。

 明日は土曜日だ。スケジュールに例外を設けてもいいかと、神楽は決心をつけた。

「わかりました。どうやら、夢療法士の出番のようですね」

 そう言って、神楽はソファーから腰を上げ、三度みたび流しに向かった。

「コーヒーがいいですか? それとも紅茶?」

 インスタントコーヒーは、ポットのそばに放り出されていた。

 ふたを開けながら、神楽は背中越しにたずねた。

「こ、紅茶で……」

 神楽は、棚から新しいティーカップと紅茶のバッグを取り出した。さらに、自分用のコーヒーを淹れ始めた。少し多めに入れた。そのあいだも神楽は、少女の挙動を巡って思考を働かせていた。記憶喪失……一度や二度のコンタクトでは済まないかもしれない。

 そんなことを考えながら、神楽は左手にコーヒー、右手にティーカップを持ち、席へと戻った。

「どうぞ。あいにくミルクと砂糖は切らしておりまして」

「ありがとうございます……」

 神楽は、少女が紅茶に口をつけたところをみはからい、スッと居住まいをただした。この仕事は出だしが肝心だ。初手で誤ったピースを嵌めると、なにもかもがおかしくなってしまう。

「では、カウンセリングを始めましょう」

 神楽の宣言に、少女はカップを置いた。

「あなたは現在、記憶を無くしていらっしゃる。そういう理解でよろしいですね?」

「はい……一応……」

 少女は、曖昧な答えを返した。

 これは不味いと、神楽の勘が警告を発した。

「一応、とはどういう意味ですか?」

「……」

 少女は答えなかった。

「なにか覚えてらっしゃることがありますか?」

 再び沈黙する少女。

 だが、神楽の質問は的を射ていたようだ。少女は、答えるかどうかを迷っているように見えた。迷っているということは、身に覚えがあるということだ。

 神楽は辛抱強く待つことに決めた。ここで急かしてみても、意味はない。

 一分ほど経ったところで、ようやく少女のくちびるが動き始めた。

「あの……信じてもらえないかもしれませんが……」

「信じるかどうかは、話を伺ってから決めます。遠慮なさらずに、どうぞ」

 どうぞの部分を、神楽はできるだけ優しく添えた。

「私……ひとつだけ覚えてることがあるんです……」

 神楽は、黙って先をうながした。

「……月から来た記憶が」

「……」

 重苦しい沈黙。少女は、気恥ずかしそうに視線を逸らした。

 神楽は軽く肩を落とし、気付かれない程度に嘆息した。

「憧夢は、前世持ちのかたがいらっしゃる店では……」

「待ってください!」

 少女の大声に、神楽は再び顔をあげた。

「もちろん私も、月に人間が住んでるなんて信じていません。自分が宇宙人だと思っているわけでもありません。ただ……本当にそういう記憶があるんです。自分が宇宙から地球を見下ろす、そんな生活の記憶が……」

 少女の声は震えていた。自分の異常な記憶に、恐怖を抱いているのだろう。月の石という言葉に見せた彼女の曖昧な態度も、それでおおよその説明がつく。少女は、自分がおかしな人間だと思われたくなかったのだ。警察に行かなかった理由も、手にそう書かれていたからという単純なものではあるまい。

 逆を言えば、少女が神楽にこのことを告げたのは、彼女を信頼している証でもあった。

 そう考えた神楽は、慎重に話を進めていく。

「そんなに怖がらないでください。記憶の書き換えというのは、別に精神の異常を示すようなものではありません。記憶の混同とか、都合のいい上書き、忘却などは、毎日のように人間の脳内で行われているのです。前世だとか、デジャヴだとか、そういうものも、人間の正常な生理作用の一種だと考えていいのです」

 誇張も歪曲もせず、ただひたすらに事実を説明する神楽。夢療法士としての経験が長い神楽にとって、もはや機械的とすら言える作業であった。

 だが、少女の不安はぬぐえなかったらしい。少女はひとさしゆびを噛みながら、かすかに体を震わせていた。そんな彼女の態度に、神楽は少しばかり困惑した。

 これほどまでに少女をおびやかしているものは、一体なんだろうか。

 神楽は、少女がまだなにか隠しているのではないかと疑うことにした。

「他にまだなにか……」

 そのとき、ふいにドアをノックする音が聞こえた。

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