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涙をこえて。(前編)  作者: 石井寿(いしい・ひさし)
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-「涙をこえて。」前編-

まったくさえない僕が、

名曲「涙をこえて」に乗せられて、

高校時代のあこがれの女性とまさかの再会。

この再会が、僕の運命を大きく開いた!


気象予報士の書いた、初めての小説。

時をこえた縁が、いま輝く。

感情の運動会。

 平成二十八年八月二十七日、土曜日。


 今日も白くまぶしいスタジオで、僕は天気予報を読み上げていた。CMに入る一秒前で、僕のコメントは終わった。一秒後、まったく予定通りにCMが始まり、僕の出番は終わった。

 「おつかれさまでしたー」

 間延びしたAD君の挨拶を背中で聞きながら、僕はスタジオを出た。すると、いつもの暗闇が広がった。僕はこの瞬間が嫌だ。テレビというのは、明るいところは不必要なくらい明るいのに、そこを一歩出ると容赦なく暗い世界が広がっている。まるで、崖から突き落とされるように。毎日崖から突き落とされる人生は、いったいいつまで続くのだろう。

 僕は、石井という。職業、気象予報士。

 狭い控室に戻り、僕は明日使う天気のコメントを鉛筆で書き終えた。鉛筆を転がすと、僕はすぐに勤め先の「坂の上テレビ」を出た。帰りのバスでスマホを見る。だけど、もう飽きた。世の中は世の中を知りすぎている。つながりすぎている。やりすぎている。こんな世界と付き合うのに、もう疲れた。

「あーあ。毎日、つまんねえな。」

 僕は昔から、酒と時間と女が存在すれば、それでいいと思っていた。いま、全部ある。ぴっちりある。でも、つまんねえ。というか、悲しい。なんでか?もう、僕の先はあってないようなものだからだ。このあと定年まで淡々と仕事をするのだろう。女とも淡々とやるんだろう。それで僕は死ぬんだよ。というか、もう死んでるよな。

 もう、どうでもいいや。これ以上いいことなんてないし、女とこのあと結婚したら面倒くさいだけだし、社会保障はどんどん厳しくなっていくし、どんどん金を吸い取られておしまいさ。

 それに、世の中と共存するのに、もう疲れた。だって、何でもありすぎる。それだけじゃなく、知りすぎている。もののありすぎはまだ耐えられるけど、知りすぎた世の中には、耐えられない。

 僕はまた、いつもの嘆きをはじめた。嘆いたり悩んだりするのは五分まで、と決めているけど、たまに十分以上かかることがある。

 僕って最悪だ。

そんなことを思っていると、バスが最寄りの停留所に着いた。僕の大事なホームグラウンド、新宿の片隅。僕はバスを降りてずんずん歩いた。

 白壁が一見美しい、でも、のっぺらぼうな、マンションに着く。ここの住人は、誰もあいさつなんてしない。すれ違ってもみんなスマホを覗き込んだままで、逃げるようにして去っていく。なんだ、これは。人間としての温かさがない家なんて、石器時代以下だろう。僕は石器時代より前の人間なのか!今日もまた、そんなことを思っている。

 しかし、ここからが、僕の本領発揮だ。切り換えをすばやくして、相手に対応できる仕様に入ろう。

 ―よし。心の切り換えは三秒で済んだ。ドアの前に着く。鍵を開ける。

 部屋の奥から、するりと僕のべっぴんさんが現れる。身長百四十九センチ。肩より長く伸ばしたまっすぐな黒髪を、さらりとなびかせながら、色白の、まだメイクしたままのつややかな表情での登場だった。

「おかえりなさあい」

 僕の、いわゆる彼女であり、結婚するかもしれない同棲相手、みわちゃん。みわちゃんは、僕より八つ年下だ。僕が今勤めている会社で、受付をしている。受付から偉いお客さんを現場に案内してきたみわちゃんが、いっぱい僕に視線をくれたのが僕たちの出発点だった。会社の人の話によると、みわちゃんはモテモテでいろんな男に言い寄られているらしいけど、僕はそんなことは知らない。そんな情報を知っても仕方がない。情報にあふれてまどわされても仕方がない。情報を聞いたところで正確かどうかもわからないし、仮に正確であっても、僕が正確に受け止められるかどうかもわからない。もう情報が入ってくるのは、飽き飽きだ。

 だから、みわちゃんがなんで僕に近づいてきたのかも、聞いていない。それに、つきあっているのは会社では言っていない。だって、めんどくさいから。というか、最近つきあっているのもめんどくさいぞ。こんなんで結婚したら、やだなあ。でも別れると、もっとめんどくさいだろうから、やだなあ。もう。

 僕はそんなことをおくびにも出さず「みわちゃん、ただいま」と一応やさしく言っておく。

「お風呂、沸いてるよ」

 みわちゃんは、やさしい。みわちゃんは、かわいい。歌手としてテレビに出ても、おかしくない。でも、僕はなんだか満足できていない。いや、最近何が満足なのか、それすらよくわからなくなっている。そんなことを思いながら、みわちゃんの沸かしてくれた風呂に入る。

 いい具合に温まったので、そろそろ出ようと思っていたら、みわちゃんが、脱衣場にある洗面所に入ってきた。みわちゃんはそこで、延々と歯磨きを始めた。さらに、ご丁寧に糸ようじで歯間を磨き始めたようだ。長いよ。僕、上がれないじゃん。僕は風呂についている湯沸かし器のリモコンの淡く白いデジタル時計をじっと見る。

 五分たった。今度は髪をいじり始めたようだ。これが長い。長い黒髪をいじるのには長い時間がかかるが、それにしても長い。

 十分たった。もう九時四十分過ぎたよ。いい加減にしろ!と、浴槽のお湯をザバッと外にかき出す。

 なんでこんなにいらついているのか、自分でもわからないけど、とにかくいらっとして、いらっとした分だけの水を僕は思いっきりかき出した。

 無反応。もう、いい加減にしろ!脱衣場にいてもいいから僕は出るぞ!と思い切って風呂から出ると、脱衣場はもぬけの殻だった。どうやら、僕がザバっとやったときに、彼女は脱衣場から出たようだ。僕には聞こえなかっただけか。

 いったい、なんなんだよ!僕の怒りはさらに僕の中では増幅したが、僕の外には見えない状態が続いている。いや、続かせている。

 だって、めんどくさいじゃん。最近、なんでもこれだ。また、そんなしょうもないことを考えたが、体を拭いてみわちゃんのところに戻るときにはそんな感情はやはりおくびにも出さないよう、また本能でクールな表情をしてみた。みわちゃんはきっと、僕をおとなしい人間だと思っているのだろう。「彼、怒らないところが便利」って友達にLINEしているところを見てしまったからな。

 部屋に戻ると、みわちゃんがテレビをつけていた。NHKがついている。にぎやかな番組だ。画面に「第四十八回 思い出のメロディー」と書いてあった。ああ、昭和の名曲を聞かせる番組だ。ちょうど、北島三郎さんが「風雪ながれ旅」を歌っていた。昭和五十六年の紅白歌合戦で、大トリをとった北島さんが、紙吹雪だらけになって歌った歌だ。僕は瞬時にそのときの情景が目に浮かんだ。いかにも昭和な歌だった。

「みわちゃん、ずいぶん渋い番組見ているんだね」

「今、たまたまつけていただけだよ」

「じゃ、チャンネル変えるね」

「うん」

 そう言った瞬間だった。

「風雪ながれ旅」が終わって、萩本欽一さんが出てきた。ザ・昭和のタレントだ。司会の女優さんにうながされて、萩本さんが「それでは、ドーンといって、みよう!」と言ったのだ。

「ドーンといって、みよう!」

 なんなんだ、これは。あまりにもまっすぐだな。スッキリするようなこと、言ってくれるな。昭和ってまっすぐだな。

 僕はちょっと面白かったので、リモコンに手を伸ばしたみわちゃんに「ちょっと待って」と言った。

「どうせもう終わるんだから、もうちょっと見る」

「変なの」

 みわちゃんに「変なの」と言われて、僕はちょっとだけ気持ちにさざ波が立ったが、次の瞬間、もっと大きな波に襲われた。

 あの歌が、始まったからだ。往年の売れっ子歌手が舞台に勢ぞろいして、あの歌を、最後の全員合唱として歌い始めた。


「涙をこえて」。


 僕が大好きな、歌だった。最近、そういえばずっと聞いていなかったけど、この歌、あったなあ。

 この歌は、昭和四十四年に作られた歌だ。バリバリの昭和元禄時代の歌だ。それなのに、平成生まれのJ・POPのように、AメロからBメロへの転換が明確だ。昭和最後の年にこの歌に出会った僕は、まだJ・POPなんて聞いたことがない世界の、中学生だった。

 そのときに聞いた、このAメロBメロを駆使した歌の鮮烈さ。生まれて初めて、音楽を聴いてゾクゾクした。出だしの溌溂としたAメロ。それを短く受けたBメロがぐっと雰囲気を盛り上げ、サビにつながる。そして、平成のJ・POPみたいなのに、昭和四十年代の希望あふれるルンルン社会が、これでもかというくらい、明るく歌われている。

 なんなんだ、この歌は。昭和と平成をつなげているカスガイなんじゃないか。

 そんなことを思っていると、サビの後に、メロディーのキーが一段上がった。僕はさらに、ゾクゾクした。

 なんだろう、この感覚。僕は、どうしていいかわからなかった。

「ほら、チャンネル変えるよ」

「あ、ごめん」

 ちょっと放心状態だった僕に、わけのわからないみわちゃんが冷や水を浴びせ、僕はほんのひとときの昭和から、正気を取り戻した。

 これが、始まりだった。この日の「涙をこえて」から、ゆっくりと近づく美しい彗星に、ひそやかに飲み込まれるように、僕の運命は、動き出していった。










 平成二十九年一月。


 新年早々、手帳を落としてしまった。幸い、年が始まったばかりで中身は何も書いていない。書いてあったのは僕の名前と携帯の番号だけだった。僕は、あまり気にすることもなく、また気象庁の本屋に行って買えばいいか、と思っていた。

 ところが、数日後の夜のことだった。家にいたところ、スマホが鳴った。みわちゃんは、ヨガの教室の新年会だそうで、いない。携帯を見ると、番号非通知だ。坂の上テレビは電話交換機が古いらしく、いつも非通知で電話がかかってくる。

「なんか、しくじったかな。呼び出しかも。」

そんなヒヤリとした思いを抱えながら、電話に出た。

 すると、女の人の声がした。

「あのう、石井さんの携帯ですか」

これが、記念すべき第一声だった。

「はい」

「あのう、手帳をバスで拾ったんですけど。」

「あ、そうなんですか。ありがとうございます。」

 ずいぶん親切な、でも、変わった人だと思った。僕だったら、仮に手帳を拾っても、バスの運転手か交番に届けるくらいしか、しないだろう。なんでこの人、わざわざ電話かけてきたんだ?

「そしたら、お手数なんですが、最寄りの交番にでも届けていただけると助かります。どちらの交番が近いですか」

「えっと、中野坂上ですね」

「ありがとうございます。お時間あるときで結構ですので」

 中野坂上だったら、新宿の僕の家から、わりと近い。歩いても行ける。僕は珍しいことに、ありがたいな、と思って話を聞いていた。

 女性に名前を聞くと、田中さん。ありふれた名字だねえ。めんどくさくなくていいや。ここまでの僕は、わりと淡々と考えていた。

 しかし、次の瞬間、僕は急に、悪寒がするような感じがした。突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。そして、こんこんと身に迫る妙な感覚を覚えた。何だろう。僕は他愛のない話をつなぐことで、必死に妙な感覚にたどりつこうとした。すると、わりとするりと結論が出た。

「この人の声、聞いたこと、ある」

 少し甘く、かすかにかすれた声。ひょっとして、もしかして、あの人じゃないか。いやいや、まさかそんな。そんなことあり得ない。映画じゃないんだから。それに、名前違うし。

「では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。失礼しました…」

 電話が切られようとした。まずい!ここで言わないと、僕、また後悔する。僕は、意を決した。珍しく、めんどくさい方に。

「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください」

「…何ですか?」

 女性は、不信感をたっぷりとたたえた声で応えた。

「あのう、大変失礼ですが、間違っていたら申し訳ないんですが、ひょっとして、もしかして、田中さんって、池田さんじゃないですか?」

 僕は、祈るような気持ちで、話を持ち出した。女性は五秒以上黙った。僕には放送事故か?と思えるくらい、長い間だった。

 しかし、間があけた後は、事故ではなかった。

「…そうですけど。」

 僕は声を大にして言った。

「あの、私、予備校でお世話になった、石井です!」

 ここで、少し、僕の過去の説明をする。

 僕は、高校受験で早稲田大学の付属校に二つとも落ちて、東京六大学の別の大学の付属校に通っていた。でも、早稲田大学にどうしても行きたくて、親に頼み込んで、高校三年のとき、代々木にある予備校に通った。平成五年のことだった。そこには、早稲田大学に合格した一年先輩で、後輩の高校生の面倒を見るチューターというアルバイトがいた。そのチューターの一人が、池田佳子さんだった。

 佳子さんは、僕に早稲田大学に入るための勉強法をいろいろ教えてくれた。そして、できの悪かった僕を何とかしようとしてくれた。ものすごく色白で、肩から少しはみ出るくらいの黒髪。きりりとしたまなざし。凛とした表情。気品のあるたたずまい。女子御三家といわれる名門の中高一貫校の出だけど、それをあまり感じさせない快活さと、同居するつつましさ。そして、屈託のない笑顔と、細やかな気遣い、そして面倒見のよさ。どれをとっても、落ちこぼれの男子高の生徒だった僕が見たことのない世界の人だった。僕の中で、最高のプリンセスだった。

 「私がなんとかしてあげるから。」

 佳子さんのやさしさは、十五歳で突然母親を亡くした僕の心に、深く、深く、染み入った。そして、佳子さんのことを、すごく好きになった。僕は、佳子さんと同じ大学に入るためにがんばろう、と思うようになった。予備校に行くのも、やがて佳子さんに会いに行くが目的になり、一日中佳子さんのことを考えて、「僕、毒されている」と思うほどだった。でも、それがものすごく心地よかった。

 僕は、成績が悪いのを棚に上げて、高校の途中から学校にろくに行かずにグレていた、どうしようもない高校生だったけど、佳子さんがいてくれたおかげで、偏差値五十以下だった僕が、最後には一日十八時間勉強した。あれだけ「勉強しろ、勉強しろ」と口うるさく言っていた父親が「お前は勉強のしすぎだ。おかしいぞ」と青くなって声をかけてきたのを見て、僕の方が驚いた。

 そして、佳子さんに抱きしめてもらった湯島天神の深く青いお守りを持って入試に臨み、ついに、佳子さんと同じ早稲田大学に合格した。平成六年の春だった。

 合格したら告白しようと思っていたので、佳子さんについに「好きです」と言おうと思った。しかし、当時は携帯などない時代で連絡もうまくとれず、僕もぐすぐすしていたので、せっかく同じ大学に入ったのに、その後会えたのは、大学一年の五月にすれ違った一回だけで、ほとんど何も話せなかった。

 初夏の強い日差しのもと、白っぽいワンピースがかわいかった、佳子さん。その姿を見て以来、関係はぷっつりと途切れたままだ。

 それが、今、二十三年のときを越えて、電話口の向こうに、佳子さんがいる。僕は、必死に、笑ってしまうくらい必死に、熱っぽく話しかけた。

「あのう、覚えていますか」

 しかし、佳子さんの返事は、とても残酷なものだった。

「申し訳ないんですけど、覚えていません…」

 がーん。悲しくて、胸が落ちる。うーん、でも、そりゃ、そうだよな。僕が一方的に好きだっただけなんだから。しかし、僕はあきらめない。あきらめて、なるものか。僕は覚えているエピソードを次々と細かく話し始めた。粘ること、五分あまり。

「あの、私、一番前の席にいつも座っていて…」

 そのとき、息をわずかに飲むような音が聞こえた後、佳子さんが黙った。今だ、ここは覚えているんじゃないか。僕は、たたみかけるように話した。

「授業前にいつも、僕の隣に座ってくれて、ノート見てくれましたよね!」

 僕はいつも、チューターの佳子さんが勉強を見に、隣の席に座ってくれる瞬間が、ものすごく楽しみだった。かすかに香る、ものすごくいい匂い。その一瞬のために、僕は隣の席に絶対に誰も座らないよう荷物を置いたりしていた。ほんとに、しょうもない高校生だった。

「ああー…少し思い出した」

 僕は、ほっとした。よかった、佳子さんが思い出してくれた。僕はその一言が聞けただけでうれしかった。

 それから、ぽつりぽつりと、いろいろな話が出てきた。まだ、川水からわずかな砂金をすくい出すような感じだった。しかし、どんな川も、ぽつりぽつりとした雨や見えないくらいの細かい雪からすべて始まる。やがてこれが、大きなうねりをもたらす大河の一滴になるかもしれない。僕はその一滴であることを信じて、珍しく、面倒くさいにもかかわらず、丁寧に、熱っぽく話を進めた。


 そしてしばらく話すと、佳子さんが少し打ち解けた。僕は、すっかりうれしくなっていた。女の子に話をするなんて、聞くなんて、めんどくさいだけだったのに。なんでこんなに心地いいのだろう。僕はよくわからなかった。そんなわからなくなっている僕の、不意を突くように、佳子さんは、さらにうれしいことを言ってくれた。

「じゃあ、せっかくだから、手帳返すついでに、お茶でもしようか。」

「ええ!いいんですか! えっと、そしたら、あの、代々木のバーガーで、お願いします!」

「ええ!?」

 代々木のバーガーというのは、予備校のそばにある、とても古いハンバーガー専門店のことだ。僕はそこで、佳子さんとデートをするのを、いつも妄想していた。その夢をかなえるチャンスが、二十三年も経ってから、やってきたのだ。もちろん、最初に彼女が名乗ったとおり、名字が変わっているということはきっと結婚しているということだから、デートではないけれど、まあ、それはともかくとして、昔ずっと夢だったことが、どんな形であれ、かなうのはとてもうれしいことだった。

「僕、佳子さんと、代々木のバーガーで会うのが夢だったんです!」

「そうなんだ。子供だねえ」

 笑われたが、僕はまったくかまわなかった。そして日時を約束して、電話は切れそうになった。

「あ、そうだ。私ブログやってるの。『佳子 クールジャパン』で検索してみて。」

「そうなんですか!見てみます!ありがとうございました!」

 これで電話は終わった。でも、何かすごいことの始まりのような気がした。うれしくて、胸が鳴る。こんなことがあるんだなあ。僕はこの幸運に有頂天だった。

 すると、玄関でガチャリと鍵の音がした。みわちゃんだ。僕は、いつもの心の切り換えをせずに玄関に向かった。だって、気持ちがプラスなんだから。熱いんだから。いつ以来だろう、この感覚。

「おかえりっ」

「ただいまー もう新年会なのにタラタラタラタラ愚痴る奴がいてさー。うるさいんだよねー。あたし関係ないのにー」

 みわちゃんは僕の気持ちがプラスになっているなんて、まったく気づいていないようだ。当たり前か。そして、みわちゃん得意の、どうでもいいループのトークが始まった。これ、始まると長いんだよな。でも、今の僕は、そのトークがまるで昔の歌謡曲を聴くようにするすると耳に入ってきた。

「大変だったね」

「そーなのよ だって新年会なのに」

 また同じ話が始まった。みわちゃん、変な操作をしたICレコーダーのように、同じことを繰り返し繰り返し、よくしゃべるねえ。でも、それでもいいや。この夜の僕は、かつてないほど寛容だった。しばらくして、ひとしきり話が終わった。

「あ、じゃあ、お風呂行ってくれば」

「ありがと」

 僕は、みわちゃんを早く風呂に送り出して一人になりたかった。

 しかし、ふいに、みわちゃんが止まって、振り返った。

「なんか、いいことあった?」

「別に」

「ふうん」

「なんで」

「流れが違っていたから」

「流れ?」

「あー、めんどくさいね。なんでもない」

 よく分からないことを言いながら、みわちゃんが、風呂に消えた。よかった。さあ、見るぞ。僕は一目散にパソコンに向かい、佳子さんが教えてくれたブログを早速見ようと、ネット検索をかけた。

 ブログはすぐに、見つかった。さあ、一ページ目からしっかり読むぞ!

 しかし、そのブログを見て、僕は愕然とした。

「え?」

 その内容は、あまりにもひどく、想像を絶する世界が広がっていた。

 すると、今度は背後から、想像を絶する声がした。

「ちょっとぉ!」

「な、なに?」

「お風呂入れてないでしょ!浴槽が空よ!どうなってるの!」

「ああー、ごめんごめん」

 僕は一気に、現実に引き戻された。みわちゃん怒ってる。そりゃそうだよな、裸になって風呂に入ったら浴槽、空だもんな。

 佳子さんから電話がかかってきて、すっかり舞い上がっていた僕は、風呂を入れるのさえ、忘れていた。みわちゃんに丁寧に謝った。

 そして、数時間後。風呂を済ませ、機嫌が悪かったみわちゃんが寝静まり、ようやく、僕はブログと真剣に向き合えた。

 佳子さんのブログの内容は、およそ以下のとおりだった。

▼就職活動に失敗。大学卒業後、教材関連の会社に就職したものの、水が合わずに一年足らずで退職。

▼以降、転職を繰り返す状態が続く。

▼四社目が超ブラック企業のマスコミ。一週間家に帰れない状況が頻繁に続く。風呂と寝床はいつも健康ランド。

▼上司のパワハラを受ける。ストレスがたまり、酒が手放せなくなる。

▼やがて酒量が増える。ビールを毎日三リットル飲むようになる。

▼ついに倒れる。以降、医者から働くなと言われる。社会に復帰するのが困難に。

 なんだ、これは。

 僕は、この二十三年間、ずっと勝手な妄想をしていて、「お嬢様の佳子さんは、きっとノホホンと仕事をして誰かと結婚して、のんびりと幸せに暮らしているに違いない」と思い込んでいた。「誰かと結婚して」の部分だけは合っていたけれど、それ以外はひどい話ばかりだ。

「こんなにひどい状況で、佳子さんに会っていいんだろうか」

「ひょっとして、今は会わないでほしいと思って、あえてブログを教えたんじゃないか」

 僕はそう思い、ためらった。

 しかし、こんな偶然で、せっかく会ってくれるというのに、会わないのはあまりにもったいないし、会って励ましてあげることもできるのではないか、と思い、やはり会いに行こうと思った。

 どれだけ苦労を重ねたんだろう。僕は、長年そこに思いを致せなかったことを、悔やんだ。白髪だらけなのかもしれない。風貌がまるで変わっているかもしれない。

 でも、それでもいい。あの一言が、言いたい。僕、もう、後悔したくない。やっぱり、会ってみたいと思った。

 でも、ずいぶん面倒なことになるかもしれないな。行くのだって面倒のような気がするし。

 ん?でも、よく考えたら、あまり面倒って感じがしないな。変だなあ。僕が、僕じゃないみたいだ。あんなに面倒が嫌いだったのに。僕は自問した。まあいいや。とにかく行ってみよう。そう思って、日々が過ぎるのをなるべく淡々として、待った。

 

 そして、佳子さんに会う日をいよいよ迎えた。僕は定刻の三十分以上前に、代々木のバーガーの前に着き、佳子さんを待った。普段なら、五分ももったいないのにな。なんでこんなに早く足が向いたのだろう。僕にはよくわからない。

 ものすごく長い時間が経ち、ようやく定刻になった。定刻になった瞬間、まるでフロアディレクターからキュー出しがあったかのように、僕の後ろから、あの、少し甘く、ややかすれた声が、はっきりと届いた。

「石井くん。」

 僕は、満を持して振り返った。

 すると、そこには、まったく信じられない光景が広がっていた。

 あの、あの、佳子さんだ。

 そこにいたのは、昔とほとんど変わらない佳子さんだった。身長百五十五センチ。髪も当時とまったく同じで、やや細く編んだ三つ編みの黒髪を、後頭部にアップにしてラインを作っていた。

 か、かわいい。ほんとに、変わってない!

 佳子さんは、四十二歳のはずだ。しかし、どう見ても、どう厳しく見ても、四十代、三十代には見えず、十代に見えた。「三十代に見える四十代」はいるけれど、「十代に見える四十代」なんて、おかしい。まるで、沖縄で雪が降るようなものだ。沖縄での雪の観測は、明治以来の長い歴史の中でも、二度しかない。しかも、ブログと違って、ものすごく元気そうだった。そして、僕が振り返った瞬間に見せてくれた、これでもかというくらい気品のある、突き抜けるような笑顔。僕の心の中に、雲ひとつない青空が広がった。

 と同時に、僕はすっかり混乱し、動揺していた。

「あ、あのう、そのう、お久しぶりです」

「うん。お久しぶり」

「ずいぶん元気そうで、びっくりしました」

「びっくり?」

「はい。ブログにずいぶんつらい話が書いてあったんで」

「ああ、石井くん、あのブログ、最後まで読まなかったの?」

「え、続きがあるんですか」

「そう。そこには書いてあるんだけど、私、働けなくなってしばらくしてから、ダンスを始めて、それですっかり元気になって、今、坂の上テレビのそばでダンスを教えているの」

「ええ!坂の上テレビ!?」

「予備校でも言ったでしょ。問題文は最後まで読まないと、ねっ」

 佳子さんは視線を斜めに上げて、まるで高校生を諭すような顔をしたあと、得意気に笑った。そうか、ダンスを始めて元気になって、仕事で毎日ダンスにいそしんでいるから昔と同じような風貌なのか。一本とられた。

 それに、僕が今いる坂の上テレビのそばで働いているなんて、なんて灯台もと暗しなんだ、と思った。あと、最初の電話で言っていたとおり、家が中野坂上に近いってことは、たぶん僕が通勤に使っているバスと同じバスに乗って出勤しているんだな。道理でバスで手帳を拾うはずだ。世間は狭いなあ、と思った。

 そして、店に入った。やや奥の、二人がけの、斜めになっている、目立たない席に着いた。すると、佳子さんは、するりとコートを脱ぎ始めた。イギリスの有名なブランドのコートだった。身長百五十五センチの佳子さんは、体にまとわりつくようなコートのベルトを緩め、腰を軽く回した。

「えっ」

 僕は、コートから身を放たれた佳子さんを見て、唖然とした。コートを脱いだ佳子さんが着ていたのは、季節外れにもほどがある、白っぽいワンピースだった。僕が大学に入って、最後に佳子さんと会ったときと、きっと同じ服だ。スタイルもまったく変わってない。

 なんで、この真冬に、こんな白いワンピースを着ているのか、僕にはわからなかったし、ファッションセンスにうるさいみわちゃんが見ていたら、間違いなく軽蔑しただろう。それでも今の僕には、そんなことは関係ない。昔と同じ服ということで、ますますテンションが上がった。とても口には出せなかったけど。それに、せっかくの機会だったので、僕は、佳子さんといろいろ話をした。仕事のこと、世の中のこと、ダンスのこと。そして、気になったことも聞いた。

「どうして、手帳拾ったとき、電話くれたんですか?」

「ああ、手帳に気象予報士って書いてあったでしょ。私、気象予報士さん大好きなの。あと、坂の上テレビのしおりが挟んであったでしょ。私、坂の上テレビよく見てるのよ。昔から、テレビ局大好きで。要はミーハーなの。ミーハーだったから、予報士とテレビの二つにひっかかって、電話してみたのね」

「へー、じゃあそうじゃなかったら、電話しなかったってことですか」

「たぶんね」

 ひどいなあ、と言いながら、僕も、笑った。

 そして、佳子さんの顔を見た。本当に、二十三年前とほとんど変わらない。強いて言えば、目元のシワが一本増えたかどうか。しかも、あまりメイクしてないんだけど。この人、ベースの色白で、どこまで行くつもりなんだ?それに、もしかして、佳子さんのこの顔は、ファンデーションなしで、コンシーラーだけなのか?美魔女っているけど、佳子さんは、違う。美少女だ。本当に佳子さん、四十二歳か?ちょっと、ちょっと、おかしくないか?ひょっとしたら、化け物か?あるいは…偽物か?そんな余計なこと、失礼なことを考えながら、あまりにもジロジロ佳子さんを見たので、佳子さんは急に怒りだした。

「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」

「あっ、失礼しましたっ」

 そしてまた、佳子さんは笑ってくれた。この空気、二十三年前と、まったく同じだった。他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。僕はなんて幸運なんだろう。二十三年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。いや、神様が、二十三年前に戻してくれたんだ。タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。タイムマシンって、あるんだな。ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。僕は珍しく、ほのぼのとした気持ちになっていた。

 そして、さらにうれしかったのは、好きなものが異常なくらい、一致することだった。佳子さんと一緒に、「好きなもの大全」を並べた結果、◎ビール◎米◎肉◎スパイス◎にんにく◎ピザ◎オロナミンC◎昭和歌謡◎大みそか◎紅白歌合戦◎箱根の温泉◎大相撲◎鉄道(首都圏限定)と、ここに書けるものだけでも、これだけ一致した。

 さらに、こんなマニアックなことを知っているのは、僕だけだ!と長年思っていたことも、佳子さんはことごとく知っていた。

「最近の紅白歌合戦って、若者向けみたいに言われてますけど、それって今に始まったことじゃないんですよね」

「そうそう。昔はもっと若い人ばかりのことがあったよね」

「え、昔の紅白がもっと若かったって話、知ってるんですか」

「うん。ひばりさんが司会のときがそうでしょ。ひばりさんがそのときの、紅組最年長だったのよね」

「それって、昭和・・・」

「四十五年だよね」

「ええ、どうして知っているんですか」

「それくらい、知っているわよ」

「じゃあ、そのときのひばりさんがいくつだったか、知っていますか」

「三十三歳よ」

「あ、あってます…」

 最近の紅白は若者向けだ、というのはよく聞く話だが、実は昔はもっと若者の出演者が多くて若者向けだった、というのは昭和歌謡フリークの僕しか知らない、秘密事項だったはずだ。しかも、紅組最年長が美空ひばりさんの三十三歳というのは、誰に聞いても出てこない、僕の得意の数字だった。ひどい相手になると「ひばりさんって誰ですか」なんて言ってくる世の中なのに、よくこんなことまで知っているな。僕は、自分の秘密の世界が侵されたような気がした。

 でも、その侵され方が、あまりにもきれいですばらしかったため、まったく不快に思わず、むしろ相手を褒め称えないといけないとさえ思った。ただ、あまりに正面から褒め称えるのは、僕にはまだ耐えられなかったので、少し混ぜ返して言った。

「いやー、ここまで知ってるって、はっきり言って変態ですよ」

「いいじゃない、変態で」

「変態がいいんですか」

「変態は変態でも、正しい変態ならいいのよ」

「正しい変態、ですか」

「そう。人に迷惑をかける変態は絶対ダメだけど、迷惑をかけずに楽しんでいるのが、正しい変態だと思うのよね。正しい変態同士で親しくなるのが、一番、当事者にとって幸せなことなんじゃない? だって、いいカップルは、みんなどこか、正しい変態同士だもの。私は、正しい変態、大好きなの。」

 正しい変態、いいな、と思った。

 また、お互い髪の毛で隠しているけど、実は超絶絶壁頭だったり(佳子さんの後頭部が三つ編みなのは絶壁を隠すため…初めて知ったよ!)、長距離走るのが苦手だったり、昭和の上司のように、壊れたテープレコーダーのように、繰り返し同じことを説教臭く言ったりするのも一緒だった。そして、何より、言葉をうまく並べて、誰かに伝わったときが最高、というところも一緒だった。僕は、放送局に勤める気象予報士として、佳子さんは、元・雑誌の編集者として。ここまで僕と合う人は、人生で初めてじゃないか。僕は、感動し始めていた。それに、僕の知っていた佳子さんに加えて、知らなかった佳子さん、でも、ものすごく僕に近い佳子さんが、僕の近くにいる。僕はますます感動していた。そして僕は、この信じられないような幸運が終わらないでほしい、とこいねがっていた。

 しかし、あっという間に時間は過ぎ、佳子さんの次の予定が迫ってきた。時計を見た佳子さんは、あっさりと「じゃ、これで」と言って、席を立とうとした。 

 そこで僕は、用意していた武器を繰り出した。

「あのっ!」

 小さく、鋭く、相手を確実に鷲づかみにする声を出した。周りの人には、わからないように。

 佳子さんは、驚いた様子だった。でも、かまわず、僕は続けた。さあ、言うぞ。二十三年前に言えなかった、あの一言を。


「僕、佳子さんのこと、大好きでした!」


 僕は予定通り、勇気をもって、口火を切った。まったく予定通りだった。そして、佳子さんの反応を気にする間もなく、話を続けた。僕が伝えたかった、二十三年間伝えられなかった、ずっとずっと言いたかった、この言葉を。

「早稲田に合格できたのも、母親が亡くなったのを乗り越えられたのも、全部、全部、佳子さんのおかげです。」

「でも、あのとき、僕が子供で、佳子さんにお礼がちゃんと言えなくて、好きであることも、きちんと言えなくて、僕は本当に後悔していました。」

「でも、きょう、代々木に戻ってきて、ここで会えて、昔と同じように話せて、同じように笑えて、同じ時間が過ごせて、本当にうれしかったです。」

「僕、二十三年前の忘れ物を、取り戻すことができたみたいで、僕は、本当に、うれしかったし、楽しかったです。」

「きょうは、本当に、ありがとうございました!」  

 頭を下げて、ゆっくり、上げて。

 そこで初めて、僕は、佳子さんの顔を、まともに見た。

 佳子さんは、目を見開いたままだった。そして、心なしか、いや、確実に、青ざめていた。

 まずい。僕、なんて一方的なことを言ってしまったんだ。僕の悪い癖だ。何かに有頂天になってしまったとき、一方的になる。

 僕は、ものすごく悔やんだ。何かフォローしなきゃ、と思って、口を開こうとした。すると、佳子さんが、先に口を開いた。


「あのね、」

「あのね。」

「わたしも、石井くんのこと、好きだったんだよ」

 …いま、何て言った?

 僕は、目の前が真っ白になった。比喩ではなく、本当に真っ白になった。そして、頭の中には、NHKがめったに放送しない「臨時ニュース」の開始を告げる、鉄琴のチャイムが繰り返し鳴り響いた。


「わたし、この人のために何かをやってあげたいって思ったのは、石井くんが初めてだった」

「それって、好きってことなんだって、あとでわかったんだけど」

「それに、私は女子中、女子高だったから、男の子とどうしたらいいか、あのとき、まだ、わからなかった」

「わかっていたら、もうちょっと違っていたかもね」

「私もきょう、二十三年前が戻ってきて、うれしかったよ」

「わたし、この人のことを好きだった」

「ありがとう、うれしかった」

 佳子さんの立て続けの言葉に、僕はひるまず、何かを答えようとした。僕は、昔から、誰かから何か言われて、言い返せないということはなかった。以前、坂の上テレビに総理大臣が来て冗談で毒づかれたときも、言い返した。しかしこのとき、佳子さんが、あの佳子さんが、あまりにも大きなことを言ってくれたので、僕は、言うべき言葉が見つからなかった。どうしよう。どうしよう。

 情けないことに、言葉の代わりに出てきたのは、涙だった。僕は両目から、大粒の涙をボロボロこぼしてしまった。

「あ、あの…」

 それを見た佳子さんは、気を取り直したように、少しお姉さんらしい笑みを浮かべた。

「ほら、女の子の前で、泣いちゃダメだよ」

 そう言って、そっとハンカチを差し出してくれた。

 そのハンカチが、強烈だった。ハンカチからは、予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれたときに香った、佳子さんのあの匂いが、これでもか、これでもか、というほど、迫ってきた。全く同じ匂いだった。なつかしく、やさしい匂いだった。

「絶対にこのハンカチを汚してはいけない」

 僕はそう固く心に誓い、涙を拭くふりをして、ハンカチは使わず、下をしばらく向いて涙が止まるのを待った。

 少し経って、ようやく顔を上げた。すると、驚きの光景が広がっていた。

 佳子さんも、滝のように、泣いていた。僕は、ハンカチをとっさに返した。

「すみません、泣かせてしまって」

「ううん」

「すみません」

「・・・」

「あの」

「あたし、前ね、倒れて、苦しくて、記憶が薄れてしまったの」

「というか、正確に言うと、記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、思い出せる思い出が少なくなっていたの」

「それが苦しいの、悲しいの」

「でも、この前から、石井くん一生懸命話してくれて、私も、少しずつ思い出すきっかけをもらって、思い出して、さっきの一言で急にパーンって、予備校での思い出がぐるぐるって巻き戻されてきたの」

「思い出が少なくなっていく自分が、なんだか、死んでいくみたい

で、悲しかった」

「でも、いま、大事なことを思い出せた」

「私にも、こんな大事な時代が、あったんだなって」

「人にやさしくしたり、好きだったりしたころがあったんだって」

「私も、昔生きていたんだなって」

「ありがとう、石井くん」

 僕は、息を飲むばかりだった。佳子さん、やっぱり、めちゃくちゃ苦しかったんだ。つらい経験をして、若いころの思い出が思い出せず、苦しんでいたんだ。この、若く、つややかな風貌からは全く想像できない、想像を絶する苦しさがあったんだ。僕はうなだれるばかりだった。

「そんなにつらい思いをしていたって知らずに、申し訳ありませんでした」

「ううん。いいの。大事なこと、思い出せたから。ありがとう」

「あたし、若い頃が、帰ってきたような気がして、うれしい」

 ようやく、佳子さんに少し笑顔が戻った。涙ではらした赤い目と、突き抜けるような色白の微笑みと。よかった。佳子さんが笑ってくれて、うれしかった。僕はとても、ほっとした。


 その後、僕は佳子さんと、代々木駅に向かった。僕はなるべく、ゆっくり歩いた。すると、佳子さんはふと、鋭い質問をしてきた。

「ねえ、もし、私たち、つきあっていたら、どうなってたと思う?」

「うーん…申し訳ないんですけど、うまくいってなかったと思います。僕は子供だったから、どう進めていいかわからなかったと思うし」

「うん。そうだよね。私も子供だったから、きっとうまくいかないよね」

「でも、恋ってうまくいかないことがあってもいいって、きょう、思うことができました。あと、何年も経って、ようやく日の目を見る恋もあるって、知りました」

「そうそう。恋は愛と、違うからね。愛にならない恋って、たーくさんあるけど、それがきっとどこかで役に立ってるから、人生っていいんじゃないかなあって、思う」

「そうなんですか」

「うん、恋にはだいぶ鍛えられたからね」

 僕は、少し考えた上で、少しおどけて言った。

「え、すると佳子さん、そんなにたくさん恋をされたんですか!?」

「さあーね。広報を通して、聞いてくださーい」

 また、笑った。しかも、僕をありったけの上目遣いで見ながら。僕の身長は百七十八センチなので、佳子さんとの背の差は二十三センチ。近くもない、遠くもないこの間。ここに、すばらしい時間が流れていた。くしくも、再会するまでにかかった年の数と同じ、二十三。いいなあ、この距離、この間合い。すると、佳子さんはちょっと真面目な顔になって、言った。

「実は私、就職のときに、坂の上テレビが第一志望だったんだよ」

「え、そうだったんですか」

「でも、一次であっさり落ちて。ミーハーだっただけだからね。それで志望してない会社に行って転職の繰り返しになったんだけど、石井くんが坂の上にいるってわかって、よかった」

「そんな、僕の場合は、たまたま入れただけです」

「人生って、その、たまたまが、大事なんじゃない?だから、石井くんは、私みたいに、入りたくて入れなかった人の代わり、なんだよね。石井くんは、代表なんだって思って、がんばってね」

「…はいっ」

こんな話をしていると、すぐ代々木駅のホームに着いてしまった。

 僕はここで、佳子さんに連絡先を聞こうかと思った。最初の電話も、非通知だったし。でもすぐに、聞いてはいけないと思った。これ以上、親しくなってはいけない、と思ったからだ。僕には、みわちゃんがいるし。佳子さんには、旦那さんがいるし。

 すぐに電車は来てしまった。

「きょうはほんとに、ありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。ありがとうございました」

「代々木で出会って、代々木でお別れですね」

 僕は、格好をつけようとして、そんなことを言ってしまった。すると、佳子さんは目を伏せた。僕は、その場を取り繕うようにして言った。

「あ、代々木駅で場面作るなんて、いま流行の映画の、あの『君の名は。』っていう映画みたいですね」

「あは、うん、かっこいいね、あの、」

 佳子さんは、何か言いたそうな感じだったけど、僕は先に次の言葉を言ってしまった。

「これからも、がんばってください」

「…石井くんも。石井くんは私のいきたかった道を生きてるから、がんばってね」

「はいっ」

 僕が高校生のように返事をすると、佳子さんを乗せた電車は、ドアが閉まった。ゆっくりと滑り出す、ステンレスの車体。僕は代々木駅の長いホームの端まで、佳子さんの電車を追いかけた。そして、赤いテールランプが見えなくなるまで、ずっとホームから、電車を見つめていた。

 僕、また、泣いてしまう。いや、泣いちゃいけない。さっき、好きなもの大全を並べたとき、こんな会話があったからだ。

「一番好きな歌って、何ですか」

「昭和歌謡だから、石井くん知らないよ」

「そんなことないですよ。僕も、昭和歌謡フリークです」

「へえ、じゃあ、知ってる?『涙をこえて』。」

「え!ほんとですか!僕、死ぬほど好きです!」

「ほんとに?すごーい」

 涙をこえて、行こう。なくした過去に、泣くよりは。あの歌のとおりじゃないか。この歌、なんだか最近縁があるなあ。僕はまた目を閉じて、夜空を見上げた。佳子さんの言ってくれた言葉をかみしめて、涙をこえて行こう。僕は、歩き始めた。


 その後、僕はどうやって帰ったのかよく覚えていない。やや放心状態のまま、家に帰った。それが、まずかった。みわちゃんが、気づいた。

「ただいま」

「…お帰りなさい」

 みわちゃんは、ずいぶんいつもより低い声だった。

「誰と、会ってた?」

「ああ、あの、高校時代の先輩にね」

「女性、でしょ」

「…そうだけど」

 そこで変な沈黙が流れた。

「最近、なんか流れが違うのよね」

「流れ?」

「そう。絶対違う」

「何の流れ?」

「その女性に、影響されている流れなんじゃない?」

 みわちゃんが、真を突いた。

「たしかに、その女性に影響されてるかもね」

「どんな人なの?」

「…話すと長くなる」

「やましくないの」

「やましくない」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「…お風呂行ってくるね」

 そこで話は終わった。

 まあ、いいじゃないか。僕はやましくないんだから。でも、ちゃんと説明しとくべきかだったかな。いやいや、でもそれってめんどくさいし。ここで僕は気づいた。佳子さんには、面倒くさいことをやるのに、みわちゃんには、めんどくさいことをしない。これ、なんでだろう。僕には、まだわからなかった。

 やがて、みわちゃんが風呂から上がった。みわちゃんは珍しく、冷蔵庫を開けて、缶ビールを持ってきた。引きちぎるようにプルタブを開けて、ビールを飲んだ。缶を持ったみわちゃんは、僕におもむろに近づいてきて、言った。

「石井さんに、話してないことがあるんだけど」

「何?」

 石井さんと呼ばれたのも、久しぶりだった。そして、話してないことがあるという言葉が刺さってきた。僕の心は急にざわついた。

「あたし、結婚していたことがあるんだよね」

 は?今、なんて言った?みわちゃん、そんな話聞いていないよ。つきあって一年三か月も経つのに、聞いていないよ。なんでそんな大事な話、黙っていたんだよ。僕はよほどその言葉を口にしようとしたが、めんどくさいので、飲み込んだ。代わりに、最初に頭に浮かんだ言葉を、口に出した。

「今、なんて言った?」

「だから、結婚していたことがあるんだよねって、言ったの」

「…そうなんだ」

「そう」

 僕は次の質問をどうしようか、迷った。だから、定番の質問をした。

「どんな人と、結婚していたの?」

「高校時代の後輩」

「え、年下?」

「そう。一学年下。」

「みわちゃんって、年上好きだとばかり思ってたよ」

「その一学年下の人と別れたから、年下NGになったの」

「そうなんだ」

「いつごろ結婚していたの?」

「三年前まで」

「え、じゃあ結婚したのは?」

「七年前」

「じゃあ、二十代で結婚して、二十代で離婚したってこと?」

「そう」

「…なんで別れたの」

「向こうが浮気したの。十歳も年上の女と、ね」

 僕には、みわちゃんにそんな波乱万丈の過去があったなんて、まったく想像していなかった。

「でも、なんで急に話そうと思ったの?」

「石井さんが、高校時代の先輩と会っていたって聞いて、言わざるを得なくなったなって、思ったの」

 そうか。みわちゃんは、自分の過去と僕の今とを重ね合わせたのか。そして、僕が秘密を明かすトリガーを引いてしまったのか。秘密のままにしておいてくれればよかったのに。僕は勝手なことを思っていた。

「ごめんね」

 みわちゃんは謝った。

「いや、そんな。」

 それから、しばらく沈黙が流れた。

「じゃ、もうきょうは寝るね。おやすみ」

 そう言って、みわちゃんは立ち上がり、寝室に消えた。

 それからというものの、僕とみわちゃんの間には微妙な空気が流れ続けた。みわちゃんは、佳子さんのことをそれ以上聞いてこなかった。でも、それがかえって恐かった。ああ、もう佳子さんのことは忘れよう。そう思っていた。よかった。佳子さんに連絡先聞かないで。そのときは、そう思っていた。

 しかし、僕の思いとは別のところで、話は進行していた。

 僕の運命は、ゆっくりと近づいた彗星に、もう、飲み込まれるところだった。





 平成二十九年二月。


 みわちゃんとの微妙な日々は、まだ続いている。別れを切り出されるわけではないけれど、かと言って、居心地のよいことは全くなく、僕の世界は、かなり狭くなってしまったような気がした。みわちゃんは淡々と、そして僕も淡々と生活していた。お互い、めんどくさくならないように。

 さて、きょうは泊まり勤務だ。天気予報は、こんなにワークライフバランス、働き方改革を重視する世の中にあってもやっぱり二十四時間営業なので、僕は月に二回くらい坂の上テレビに泊まる。

 でも、泊まりの後は、気分を切り換えたくなるので、小さな旅行に出かける。僕のお気に入りは、だんぜん箱根。新宿がホームグラウンドで、箱根はサブグラウンド。それくらい、箱根にはよく行っている。子供のころ、父親のやっていた薬屋の組合の保養所に行くことで通い始めた箱根。それから、大学のときからは、正月に駅伝を見に行くようになった。天下の嶮と呼ぶのにふさわしい急峻な地形と、四季折々の美しい風景の数々。社会人になってからも、箱根好きは変わらない。特に、硫黄泉が出るところは最高だ。硫黄の匂いがすると、なぜだか不思議にテンションが上がる。匂いに引き寄せられるように、僕は箱根によく行っている。

 ちなみに、きょうのみわちゃんは、仕事が終わったら実家に帰ってお泊りだという。今、みわちゃんにはちょっと会いたくないが、いないとちょっとさみしい。泊まり明けで眠い目をこじあけて一人で家にいても仕方がない。そこで僕は、箱根の峠のてっぺんにある硫黄泉のある宿に出かけることにした。僕は最近たまにここに行っている。去年、会社でばらまかれていた優待券をもらってから、すっかり気に入った宿だ。翌日は休みだから、一泊してのんびり帰ってくることにしよう。僕はみわちゃんの通告のあとすぐに、この宿に予約を入れた。


 平日の午前。坂の上テレビを出て、新宿駅に向かう。仕事に向かう人とは逆流して観光地に向かうのはなんだか得した気分だ。 

 新宿駅で、箱根湯本行きの切符を買い、僕はロマンスカーに乗り込んだ。昔、小学二年生のときに、母親と一緒に初めて乗ったロマンスカー。ロマンスカーには、客席まで飲み物を持ってきてくれるサービスがあり、母親が、グラスに入ったオレンジジュースを買ってくれた。僕はロマンスカーに乗ると、いつもそのことを思い出す。

 僕の家は、父親がたいてい留守だった。母親は、いつも同居していた祖母、つまり姑の目を気にして、僕と二人で一緒に出かけることなんて、なかった。出かけるときにはいつも姑がついてくるので、母親はそのご機嫌伺いに精一杯だった。時にはうまくいかず、悔し涙を流していた。

 ところがある日、姑が別の旅行に出かけたため、母親が、急きょ僕を箱根に日帰り旅行に連れ出した。そのときに買ってくれたオレンジジュース。華やかな服のお姉さんが、うやうやしく持ってきてくれた。母親も、すごくおいしそうに飲んでいた。

「あー、おいしいね」

「おばあちゃんには、内緒だからね」

 そう言っていたのが、今も記憶に残っている。それが、最初で最後の、母親と僕の旅行だった。十五歳のときに、母親は突然亡くなった。心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまった。四十八歳だった。普通に生きていてくれたら、今、旅行くらい連れて行ったのにな。普通に生きるって、難しいんだな。母親の年齢に少しずつ近づいてきた僕は、そんなことを思い、ロマンスカーに乗った。

 海外からの観光客が多いためか、平日の午前にしては珍しく満席だった。中国語や韓国語が入り混じる車内。日本にいるはずなのに、なぜかアウェー感満載だ。僕は、切符で指定された窓側の席に座った。するとほどなくして、白く輝くロマンスカーは軽快なミュージックホーンを鳴らして、新宿駅を出発した。

 新宿を出てすぐ、僕の思い出の代々木の予備校のそばを、ロマンスカーは縫うように一瞬で通り過ぎた。そして、代々木八幡のお宮を回りこむ急カーブを通過するころ、僕の隣の通路側の席の若い女性がひとつ前の通路側の席の若い男性とお弁当を分け合いながら食べ始めた。男性が、首をこちらに向けて、後ろにいる女性に鶏肉を食べさせていた。そうか、満席で切符が横並びでとれなかったから、前後にこの二人は座っているんだな。前後でも一生懸命コミュニケーションしようとしているんだな。いいなあ、心通わせて。昔の新婚旅行みたいだ。少し感激した僕は、

「もしよければ、僕、席、替わりますよ。せっかく一緒なんだから、前後じゃなくて、隣同士の方がいいでしょう」

と言った。

「え、いいんですか」

「ありがとうございます」

 男女は、うれしそうだった。僕は喜んで席を変わることにし、荷物を持って、窓側の席から、ひとつ前の通路側の席に移動した。 

 ひとつ前の通路側の席に入ったその瞬間、僕は凍りついた。

 ひとつ前の窓側の席には、寝息を立てて窓に寄り添うように寝ているサングラス姿で淡い瑠璃色のワンピースを着た、色白の女性がいた。サングラスはかけているけれど、明らかに、明らかに、どう見ても。あの、これって冗談ですよねと自分に問いかけなければならないくらい明らかな姿が、そこにあった。

 あの、佳子さんだった。

 あの、なぜ、ここにいらっしゃるのですか。僕にはそれくらいしか頭に言葉が浮かばなかった。楽しかったはずの箱根旅行は、一気に緊張感満載旅行に変わってしまった。アウェー感あふれる車内で、緊張感も満載かよ!僕は珍しく、大好きなロマンスカーをうらんでしまった。普通、好きだった女性がいたり、偶然再会した人がいたりすると、喜びにあふれるものではないかと思う。しかし、このときの僕には緊張感しかなかった。この前、代々木で佳子さんに再会したときは、緊張感はたしかにあったものの、「かわいい」とか「変わらない」とか感激していたのに、なんで今日はこんなに緊張感ばかりなのだろう。僕は、また自分がわからなくなっていた。

 もう、降りた方がいいのかも。ちょっと苦しいよ。ロマンスカーは、次、町田に止まるはずだし。

 だいぶ長い時間が経って、ロマンスカーは町田に到着した。佳子さんは、寝息を立てたままだ。僕は意を決して立ち上がろうとした。すると、ひざ掛け代わりにしていた自分の黒いダウンの袖を思い切り踏んでしまい、その場に転びそうになってしまった。

「あっ」

 思わず、鋭く刺さるような声を出してしまった。その瞬間、佳子さんが、キッと目を覚ました。目を覚ますと、目を丸くした。きっと、お互いに。

「石井くん?」

 まずい、見つかっちゃった。

「どうしてここにいるの?」

 それ、こっちの台詞なんですけど。

「あの、泊まり明けでロマンスカーに乗ったら、佳子さんいて、驚いていました」

「ああ、もう来てくれたのね。よかった」

 佳子さん、何言っているんですか。きっと寝ぼけているのだろう。

「あの、偶然なんです。僕、最初後ろの席にいて、席を代わったら佳子さんいて」

 僕がそこまで言うと、ロマンスカーは、軽やかなミュージックホーンと共に、町田を出発してしまった。うわ、降りられなかった。少しあわてる僕を見て、佳子さんは、目をぱちくりさせた。クリーム色のショールで、少し唇を塞いでから、また、僕を見た。笑った。 「ま、いいじゃない。こんなこともあるのね」

「はい。」

「のど、渇いちゃった。あ、車内販売来た」

 後ろを振り返ると、ちょうど販売員の女性がワゴンを押して訪ねてくるところだった。昔のロマンスカーは、別の場所で淹れたグラス入りのオレンジジュースを、お姉さんがうやうやしく持ってきてくれていたけれど、つい最近、それが廃止されてワゴンサービスに変わった。昭和のころにはできていたことも、今はいろいろな事情の変化でできなくなっているのだろう、と思った。

「すみません、オレンジジュース二つ」

 え、オレンジジュース?しかも二つ?

「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました。」

 おどけるように丁寧に言う、佳子さん。

「私、ロマンスカーのオレンジジュース、昔から好きなのよね。パパがよく買ってくれたの。パパはジュース買わない人だったのに、ここでだけ、買ってくれたの」

「そうなんですか」

 僕はまた、驚いた。母親と一緒に飲んだ、僕にとって思い出のオレンジジュースが、佳子さんにとっても、思い出のオレンジジュースだなんて。僕は思わず、母親と飲んだオレンジジュースの話をした。すると、佳子さんはまた目を丸くした。

「そうなの。似てるね。ふーん」

と言ってくれた。テーブルの上にパックのオレンジジュースが置かれた。僕は佳子さんとほぼ同時に、ストローをするりとさして、きゅっと一口飲んだ。

「あー、おいしいね。」

 佳子さんが、潤った声を出した。

「はい。」

 僕も一口飲んだ。ものすごく、おいしかった。母親と飲んだ昔の日のことが、なぜか急に思い出されてきた。

「お母さん、きっと、すごく苦労したんだと思うよ。生きてたら、よかったのにね。」

 そう言うと、佳子さんは、どうしてなのか、目に少し涙を浮かべていた。

「そうですね。ありがとうございます。」

 僕は、佳子さんの涙に少し動揺して、そう言うのが精一杯だった。

 窓の外を見ると、ロマンスカーは海老名と厚木を結ぶ相模大橋を通過していた。茶色い桜の木が、寒々とした灰色の曇り空の下に立っていた。いきものがかりの「SAKURA」という歌に「小田急線の窓に映る桜」とあったけど、あれかな。あの歌も切ないよな。そして、今ここでまた佳子さんに再会してしまった僕も、切ない。しかも、佳子さんが僕の家族の話をすると、さらに切ない。そんなことを思っていると、僕も泣きそうになってしまった。

 すると、佳子さんは、その雰囲気を察知したようで、

「そういえば、石井くん、どこ行くの?」

と努めて明るく聞いてきた。

「あの、箱根です」

「あらあ。私も箱根よ」

「え、あ、たしかに、箱根好きって、前会ったときに言ってましたよね」

「そうそう。箱根のてっぺんまで行くのよ。硫黄泉好きで」

「え!てっぺん?あの、ひょっとして、峠の上ですか?」

「そうそう、峠の上のホテル。あそこ、私好きなのよー」

 好きなものが一致しているというのは、恐ろしいもので、こんなことがあるのか、と僕は思った。僕は、もう仕方ないと思い、白状した。

「僕も、峠の上のホテルに行くところなんです」

「え、そうなの?」

 佳子さんは一瞬のっぺりとした表情になった。しかし、すぐに笑顔に変わった。

「ふふ、よかった。」

 佳子さんは、ちょっとほっとしたような笑みを浮かべていた。僕にはそれがよくわからなかった。

「え、よかった?」

 僕がそう言うと、佳子さんはわずかに考えるような間を空けた後、仕切り直すようにこう言った。

「だって私、地図が読めない女だから、あそこにバスで行くの苦手でね、いつも別のバスに乗っちゃうのよ。石井くんいれば安心ね」

 確かに、峠の上のホテルに行くには、箱根湯本駅で何本もあるバスの中から選んで、そして時には乗り換えていかないといけないから、人によっては、迷うと思う。僕は、そこにまで行く案内人として喜ばれたことに、少し釈然としない思いがあったものの、まあ、喜ばれないよりかはいいかと思い、

「僕も、うれしいです。」

とひとまず答えた。

 すると佳子さんは

「私も」

と言って、まるで少女のような純情あふれる笑顔を見せた。横顔がきらりと光ったように見えた。僕の胸に、その横顔がキュキュッと刺さった。佳子さんの横顔は、僕が初めて見る横顔で、甘酸っぱい香りがした。僕の心の中にも、オレンジジュースが注がれたようだった。そんなふうに、心に染み入ってくる佳子さんを前に、僕の発する言葉は、限られていた。

「そ、それにしても、偶然ですね」

 平凡な言葉だと自分では思った。すると、佳子さんは少し冷たい返事をした。

「あら、そう?」

 僕はその返事が少し冷たかったため、何かまずかったかと思い、少しあわてて言い返した。

「だって、同じ日に、同じ電車で、同じ箱根の、同じホテルに行くなんて、おかしいじゃないですか。ありえないって、普通思いますよ」

「そうかな」

 佳子さんは、なおも冷たかった。

「よく考えてみたら?だって、石井くん、峠の上に行くのって、珍しいの?」

「いえ、月に一度くらい行ってます」

「土日にも行っているの?」

「いえ、きょうみたいな、平日の、朝だけです。込んでるから」

「私もだいたい同じね。月に一度くらい、平日に行ってるの。土日は教室が休めないから」

「そうなんですか」

「うん。石井くんは、きょうが何回目くらいの、峠の上?」

「そんな、数えたことないです」

「私も。数え切れないくらい同士なんだから、そのうち一致するのもおかしくないんじゃない?」

「うーん、そうなんですか」

「そうそう、ロマンスカーでロマンス!かもね」

 ロマンスカーでロマンス!なんて昭和なことを言ってくれるんだ!ちなみに、ロマンスカーという名前は、昭和二十四年に、映画館に設けられた恋人同士のための二人がけの座席「ロマンスシート」に似た座席を採用した、ということで付けられたものだ。そんな古い話を、鉄道好きな僕は、知っている。いや、ひょっとしたら僕と同じ鉄道好きの佳子さんもこの話を知っているからこんなことを言ったんじゃないか?僕はそう思ったが、ロマンスという言葉を佳子さんの前で口にするのが恥ずかしくて、聞けなかった。そんな、あの佳子さんとロマンスだなんて。僕は少し舞い上がって混乱した。こんなロマンスカー、初めてだ。

 何度も乗ったロマンスカーが、今、まったく知らない世界に連れて行ってくれる乗り物のように、そして、僕と佳子さんを不思議につないでくれる乗り物のように、僕は感じていた。


 気づくと、ロマンスカーは小田原の駅に着いていた。

 小田原は、JR在来線や伊豆箱根鉄道、新幹線も含めて、十四番線までホームがある大きな駅で、ロマンスカーは、単線の箱根登山線に乗り入れる前のわずかな休息に入った。

「石井くんって、どんなときが切り換えになるの?」

 佳子さんは、不意に変な質問をしてきた。

「切り換えって、何ですか」

「ほら、ロマンスカーは、登山線に入ると、一気に周りの雰囲気が変わるでしょ。そんな場面」

 僕はつい、「みわちゃんに会う前に、いつも心の切り換えをしています」とか「切り換えて、心のクサクサがバレないようにするのが大事なので」みたいな話をしてしまいそうだったが、すんでのところで、それをやめた。佳子さんに、みわちゃんの話をしても仕方ない。いや、みわちゃんの話を、したくない。

 そこでつい

「あ、局に入って、天気図を前にすると切り換わります」

などという、適当な答えをした。すると佳子さんは

「さすがプロねー」

とほめてくれた。うそなのに。佳子さんに、申し訳ない気持ちがわいてきた。すると佳子さんは

「あたしは、ダンスの衣装を着るときかな。気持ちを切り換えるのって、大事よね」

「ここから登山線に入るときに、私、いつも箱根モードに切り換わるの。だから、小田原に着くと、ダンスのこと、あと、ついでに教えているヨガのこともちょっと思い出すんだけど、そこで終わりなのよね。ここからは、あたし、本当にプライベートな気持ちになれるの」

と言った。

 プライベート、という言葉に、僕はキュンとしてしまった。プライベートな佳子さんと、一緒にいられる。僕はまた、勝手にドキドキしてきた。佳子さんは、そんな僕にお構いなく、

「あ、動き出すよ。いよいよ箱根でーす」

と楽しそうに、話を続けた。

 ロマンスカーは、動き出した。小田原を出てすぐ、トンネルに入り、単線をずんずんと進んだ。箱根板橋を通り過ぎると、窓の外には枯れた木の葉が手に取るようなところまで迫った。小田原を出て、まだ三分くらいしか経っていないのに、明らかに周りの様子は切り換わっていた。

 すると、何か軽やかなメロディーが聞こえてきた。本当にわずかなメロディーだった。よく耳をすませた。それは、佳子さんの鼻歌だとわかった。何の歌かはわからなかったけど、軽やかで、明るそうな歌だった。楽しそうだなあ。僕はずっと緊張しているんですけど。緊張を打破するために、僕はあえて佳子さんに聞いた。

「何の歌ですか?」

「え、聞いてたの?やだあ、恥ずかしい」

 そう言うと、佳子さんは、少しはにかんで、言った。

「今度、教えてあげる」

 そう言って、ごまかされた。女の子の気になるところって、なかなか聞き出せないなあ。僕は、高校生のような小さな悩みを抱えた。

 大きな悩みはいっぱいあるけど、こんな小さな悩み、久しぶりだな。それこそ、佳子さんが予備校で隣の席に座って勉強を教えてくれるかどうか、悩んでいたとき以来かもな。つくづく、佳子さんは、昔を思い出させてくれる、不思議な女性だと思った。

 

 そして、まもなく、ロマンスカーは箱根湯本に着いた。

 佳子さんは「キターっ」と言って、ややひんやりとした、湿り気のあるホームにぴょんと降り立った。何がそんなにうれしいのか、僕にはよくわからなかったが、うれしそうにしている佳子さんを見て、僕もうれしくなっていた。

 駅前にあるバス停に向かうときだった。僕は佳子さんの荷物がやけに少ないことに気づいた。女性って、もっと荷物が多いものじゃないか。みわちゃんだったら、一泊旅行のときでもスーツケースを持ってくる。でも、女性に「荷物が少ないですね」なんて聞くなんて、失礼だと思い、聞くのをやめた。そして僕は、行き先を確かめて、バスに間違いなく乗った。

「ガイドさんがいると、助かりますう」

「いえいえ」

 ちょっとバカにされたようなほめ方だったけど、佳子さんはなんだか喜んでいるので、僕もうれしくなっている。

 バスはほどなくして出発した。出発してすぐ、函嶺洞門という古いトンネルが近づいてきた。かつては、箱根駅伝のランナーがみんな通った、昭和初期にできた鉄筋コンクリートのトンネルだ。老朽化のため、何年か前に閉鎖され、バスはトンネルの前にできたバイパスを通るようになった。

「函嶺洞門も、終わっちゃったよねえ」

「はい」

「昭和がまた、終わってるよね」

 そんな佳子さんの問いかけに僕はあっさりと

「ま、九十年も経ちますからね」

などと気障に答えてしまった。さっき、ガイドとして、ちょっと馬鹿にされたことに対する意趣返しだった。

 それに対し、佳子さんはわずかに頬を膨らませて

「経ったって、たったの九十年よ」

と反論してきた。それに対して僕は

「たった九十年って言いますけど、佳子さんだって、その半分も生きてないですよね。九十年って、長いんですよ、たぶん。僕にもよくわからないですから」

とまた反論した。すると佳子さんは

「そうかなあ。昔の九十年は、今の三十年より短いと思うんだよね」

と言った。

「前、私が雑誌を作っているときに、年表を作っている人を取材したことがあったんだけど、みんな、昔より、今の方が、書くことがうんざりするくらいいっぱいあるって言ってたんだよね。昔の方が、すっきりしていて、わかりやすかったんだって。今に近くなればなるほど、情報がたくさん集まってきて、複雑になって、わかりにくくなって、今はもう、情報と複雑さ、わかりにくさにあふれてるんだって」

今の方が、複雑で、わかりにくい。僕の心に、少しひっかかった。佳子さんは話を続けた。

「あと、昔の方が人の気持ちがもっと有機的につながっていたから、時間が短く感じられたんでしょ。今は、無機質で、無常の時間が通り過ぎるのを、みんなくたびれながらひたすら待っているみたいな感じなんだよね。情報に埋もれながら、ひたすらね。だから、昔の九十年は今の三十年より短いって思うんだよね。だから、平成より昭和の方が、短かったような気が、私はするんだよね」

とすらすらと言った。ふーん、そんな見方があるんだな、と思った。と同時に、確かにそんなこともあるかもな、と思った。今は情報があふれていて、複雑で、わかりにくい。そのくせ、みんな自分のことばかりに関心がいっていて、他人にあまり興味がない。それは、自分のことを守るのに、精一杯の世の中になってしまったからだ。だから、他人をなかなか見ない。道行く人も、他人ではなく、自分のスマホばかりを懸命に見ている。他人にぶつかっても、謝りもせずにスマホを見続ける人もいるくらいだ。情報は他人が生み出した他人関連のものがほとんどなのに、人はみな、情報に右往左往して、結局は自分のことばかり見て、生きている。他人と自分の間に、大きな間が空いている。そこに、言い知れぬギャップ、そして無常を感じる。そういうことなのかな、佳子さんが言いたいことは。僕は

勝手に、佳子さんの言葉から予想して考えていた。まるで、天気予報をするときのように。でも、せっかく箱根に来たのだから、こんな難しいことを考えるのはやめた方がいい。僕は佳子さんに向き直った。

「そうですね。今の方が、なんでも多すぎて、重いですね」

 すると佳子さんは

「そうね。昔の方が、意味がちゃんとあるのよね。なんでかな」

と嘆いた。

 僕はそれに対して、うまい答えを言うことはできなかった。

 しかし、都合のよいことに、ちょうど、車窓から僕たちが求めていた香りが漂ってきたので、助かった。

「あ、硫黄の香り!」

「そうですね。箱根来たって感じですね!」

 僕たちは少し、テンションが上がった。そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの香りも、感じることができた。予備校で隣に座ってもらうのが夢だった佳子さんと、今一緒に箱根のバスに乗っていて、箱根の硫黄の香りと一緒に、佳子さんの香りも感じられる。僕は少し、大人の階段を上ったような、幸せを感じていた。大人の階段なんて、もうとっくに上ったつもりだったのに。四十にもなって、上る段があったんだな。

 あ、ということは、僕はやっぱり子供だったのか。僕はみわちゃんや後輩にえらそうにフンフン言っているけど、実はまだ、子供なのかもしれないな。僕は、そんなことを感じさせてくれた佳子さんに、まぶしさを感じていた。

 それにしても、この人、本当に、何なんだろう。どうしてこんなにいろんなことを考えさせたり、感じさせたりしてくれるのだろう。僕はますます、不思議な気持ちだった。


 その後、バスは三十分ほどかけて、狭い国道をぐいぐいと登った。よくこんな急な坂を登れるな、と何度来ても思う。そして、急カーブを曲がるたびに、バスは大きく揺れる。寝不足で気持ち悪いときにバスに乗ったときは、その揺れがもう来ないでほしいと願ってばかりだった。しかし、きょうは佳子さんが隣にいて、バスが揺れるたびに素敵な香りにほんのりと包まれるので、どんどん揺れてくれ、と思った。

 そして、いよいよ、峠のてっぺんに着いた。近くにある温度計は、よく晴れた昼下がりにもかかわらず「-2℃」という厳しい数字を示していた。

「予報士さん、寒いねー!」

「はい」

「なんでこんな寒いの?」

「きょうは放射冷却が朝強まった上に、昼になっても北から冷たい空気が流れ込んできているからです!」

「よくできましたー!キャー!」

 峠の上を吹き抜ける突風に、佳子さんは髪を振り乱して黄色い声を上げていた。

 そこから歩いて、二十分ほどさらにうねうねとした山道を登り、佳子さんと僕は、峠の上のホテルに着いた。もう、鼻水も凍る寒さだ。佳子さん、よくこんなところに来るな。よほど硫黄泉が好きなのか。

 やがて、ホテルのガラス張りの玄関が見えた。そろいの半纏を着た、ホテルの従業員がずらりと十人、玄関の前に並んでいる。近づいてみると、男性五人、女性五人だった。これから団体客でも来るのかな。そう思って近づくと、バッと同時に、みんな頭を下げた。

「おつかれさまでー、ございますーっ」

 へ?何か変なものを見てしまったような気がした。

 その列の前に、佳子さんが進み出た。

「こんにちは」

 佳子さんがそう言うと、一番年がいっていると思われる、やや頭が禿げた番頭と思われる男性が、さらに深々と頭を下げた。

「お嬢様、ようこそおいでくださいました」

 お嬢様?僕は事情がよくわからなかった。

「もう、やめてよ。きょうは彼が来ているんだから。大事なの、彼。」

 彼って、誰?大事なの、彼?僕はますます事情がわからなかった。

「これは、失礼をいたしました。寒いので、どうぞ中へお入りくださいませ」

 番頭さんに促されるように、僕は佳子さんと一緒に玄関に入った。 すると、玄関の中には、さらに頭の禿げ上がった男性がいた。

「佳っちゃん、よく来たの」

「おじさま。ありがとうございます」

 おじさまと呼ばれた男性は、すぐに僕を一瞥した。

「むむ。この御仁は」

「あ、彼です。連れてきちゃった」

「おお、これが。いい人そうじゃのお」

「まあね」

「まあまあ、入んなさい」

 何を話しているのか、僕にはますますわからなかった。ただ、佳子さんは、僕に悪びれずもせずに、どんどん話を進めているように見えた。なんだか流れに取り残されているような気がして、僕はあわてて会話に割って入った。

「あのう、私」

「まあまあ、話はあとでゆっくり聞かせてもらうからね。とりあえ

 ず入んなさい」

「ええ?」

 僕が何の話をゆっくり聞くのか尋ねようとしたところ、佳子さんが素早く口を挟んだ。

「石井くん、遠慮しなくていいから」

「ええ?」

「おお、石井くんというのか。どうかこれからしっかりよろしく」

「あの、しっかりといわれましても」

「い・い・か・ら!とにかく、入りましょう」

 佳子さんは、見たことのない強引さで、僕を自分の世界に引きずり込んだ。僕はちらりと、強引になった佳子さんの顔を、少しの不信感をたたえてから見た。すると、佳子さんは、何か哀願する目をしていた。しかも、何かを頼み込むような目だった。僕はその瞬間、つい

「あ、はい。わかりました」

と答えてしまった。

 すると佳子さんはほっとしたように笑って、

「だよね」

と言って、ホテルの人たちと建物の中へと入っていった。僕もあわててその一行に付いていった。いったいどういうことなのだろう。僕の頭の中は、整理できないままだった。

 ホテルの人たちと佳子さんに導かれたのは、ホテルの一番てっぺん、つまり、箱根の中で一番てっぺんと思われる展望室だった。とにかく広い。そして、ホテルの人たちが丁寧に、お茶や温泉饅頭を出してくれて、ひとしきりの世間話がすむまで三十分くらいかかった。その間、僕はかなり居づらい思いをした。敵方に囲まれた、心細い足軽のように。

 やがて、半纏を来た最も年増な感じの女性が

「それでは、お嬢様、これで。ごゆっくり」

と言って、ようやく敵方の全員が去った。

 僕はため息をついた。そして、足軽はキッと姫様の顔を見た。

「どういうことなんですか!わけわかんないですよ!」

「ごめんね」

「あの、一から説明してください」

「一から説明すると長くなるんだけど」

「じゃあ、十からでもいいです!」

「あは。面白いね。じゃあ、十からいこうか」

「ふざけないでください!だって、どういう状況なのか、僕だけ全然わかってないじゃないですか!」

「ごめんね。」

「どうしてなんですかあ」

「じゃあ、十から話すね」

「やっぱり、一からお願いします」

「えー、それだと長くなる」

「でも、一からがいいです」

「しょうがないな、わかったよ」

 そう言うと、佳子さんは、少し申し訳なさそうに、座り直した。

 僕はその様子を見て、ガンガン責めてしまった自分を、少し恥じた。

「私の父親がね、このホテルやってる会社の、経営者だったの」

「お父さんが」

「そう」

そこで僕は気づいた。

「え、あの、このホテルって、あの、大王子観光のじゃないですか」

「そう」

 僕はそこで、ふいに、さっきのロマンスカーでのオレンジジュースの話を思い出した。オレンジジュースを買ってくれたお父さんって、あの大王子観光の社長だったってことか?大王子観光は、日本を代表するホテルチェーンであり、ディベロッパーでもある。全国にあまたの土地を持っていることで知られる。ということはつまり、佳子さんは大会社の社長の娘ってことか?僕は、佳子さんが御三家とよばれる名門の女子中高一貫校を出ていたことは知っていたけれど、お父さんがどんな仕事をしていたのかは、知らなかった。大王子観光の経営者一家は、皇室ともご縁があると聞いたことがある。佳子さん、ほんとに本物のお嬢様だったのか。ニア・プリンセスだったのか。僕は、とんでもない話を聞いてしまった気がした。

「そんな、知りませんでした」

「ごめんね、言ってなかった」

「いえ、そんな、今まで聞く機会がなかったから、仕方ないです」

「人生いろいろ、あるのよねえ」

「そうですね。あの、いろんな人がいますよね」

 すると、佳子さんは僕に聞き捨てならない話をした。

「あたし、ずっと独り者だけど、それでもいろいろあるからね」

 何を言っているのかと思った。僕はすかさず異論をはさんだ。

「じゃ、旦那さんにはなんて言っているんですか」

「え?旦那さん?」

「はい。」

「旦那さんなんて、いないよ」

 はい?

「あの、佳子さんは、昔池田さんで、今田中さんですよね。結婚して名前が変わったって」

「そんなこと、誰が言った?」

 僕は、絶句してしまった。しかし、絶句したままだと、話は進まない。

「あの、最初に手帳拾ったときに電話かけてきてくれたときに田中ですって言っていたじゃないですか」

「うん」

「それって、結婚して名字が変わったって」

「だから、それって、誰が言った?」

 僕は、また絶句してしまった。そういえば、誰からも「佳子さんは結婚しました」とは聞いていない。よく考えたら、僕が知っているのは、「佳子さんの名字が変わった」ということだけだ。

「あの、誰も、そういえば、言っていません」

「だよね」

「あの、じゃあ、どうして名字が変わってるんですか」

「田中は、お師匠さんの名字なの。踊りは、お師匠の名前でやるものだから、いつもは田中で活動しているの。あとは、池田って言うと、どうしても大王子観光のことをいつも言われるから、なんとなくいやで、ダンスを始めてからは、田中って名乗っているの」

「え、ええ!?」

「華の独身、ですう」

 なんてことだ。ここにも、僕の知らない佳子さんがいた。いや、かなり大事なところで、知らない佳子さんがいた。どうなっているんだ。結婚していたなんて知らなかったみわちゃんが結婚していて、結婚していると思った佳子さんが、結婚していないなんて。

 でも、よく考えたら、僕が悪い。自分の想像や断片的な情報だけをもとに、勝手に判断していたのは、ほかならぬ僕だ。きちんと、いや、さりげなくでもいいから結婚しているかどうか聞けばよかったのに、面倒くさくて聞かなかった僕が、単なるバカだったのだ。

 そんなことをグルグルと考えていると、佳子さんは僕を追い込みにかかった。

「予備校でも言ったでしょ、問題文は最後まで読まないと、ねっ」

 また言われたよ、この台詞!そういえば、最初に佳子さんに会ったときも佳子さんのブログを途中までしか読まずに行って、かなり取り越し苦労をして、会ったときに意外な思いをした。ああ、僕はこんな大事な佳子さんのことを、本当に理解しようとしていたのか?大事な話も聞かない、肝心の情報を知らない、いや、知ろうという努力をしない、こんなことをしている僕はいったい、これまで大事な人にどういう接し方をしてきたのだろう。僕はますます恥ずかしくなった。

 でも、それにしても、この佳子さんという問題文、長すぎるよ!難しすぎるよ!どこまで奥が深いんだよ!僕は一瞬そんな身勝手なことを思ったが、それでも、自分の力が足りていないことに変わりはないと思った。 

 仕方ないと思った僕は

「わかりました。これから精一杯、佳子さんのこと、知りたいと思います。なので、もう少し、詳しく教えてもらえませんか」

と、梅雨時のてるてる坊主のように、しおらしく言った。

 すると佳子さんは少し笑って「ふふ」と言った。

 ああ、僕はこの人に勝てないな。そう思った瞬間だった。


 窓の外は、少しずつ日が傾き始めていた。晩冬のやわらかい日差しの中、外はかすかに湯煙がまっすぐにたなびいていた。それを背景に、僕は佳子さんにこうなった訳を聞いた。

「実は、月に一回くらいここに手伝いに来ているんだけど、最近、結婚しろってうるさいのよ」

「そりゃ、まあ、佳子さんみたいな人が今くらいの歳で一人でいたら、家族は心配するんじゃないですか」

「よけいな心配よ。あたしは面倒なだけ。」

「そうなんですか」

「そう」

「でも肉親だったら、みんな心配するんじゃないですか」

「そうかなあ。だってパパは死ぬまで心配してなかったもん」

 そこで僕は初めて、佳子さんのお父さんが亡くなっていることを知った。

「お父さん、亡くなられたんですか」

「うん、少し前にね」

「それで」

「あたしの弟は、大王子観光なんて継ぐつもりないから、とりあえず、じじ、あの、さっきいたおじさんね。おじさんが継いだんだけど、じじだってもう年だから早く誰かに継ぎたいんだって」

「はあ」

「で、あたしに継げと言ったわけよ」

「継げばいいんじゃないですか」

「そんな、面倒くさいじゃない。あたしは気楽に好きな踊りを踊っている方が好きなの」

「えー、でもここを継げば将来安泰なんじゃないですか」

 僕は気軽に「安泰」と言ってしまった。すると、佳子さんは整った眉毛の角度をわずかに上げた。

「安泰って、何。」

「えっと、だから、お金に不自由なく、暮らせて」

「お金があればいいの?」

「もちろん、お金だけだと足りません」

「お金なんて、生きる分と、多少の蓄えがあればいいんじゃない。多ければ多いほど、絶対にいざこざの元になるわ。みんなお金のことばっかり。みんな自分のことばっかり。一体なんなのよねえ」

 そう言うと、佳子さんは、ため息をついた。

「お金より大事なものが、あるじゃない。たくさん」

「例えば、何ですか」

「そうね。いまのあたしは、踊って誰かを勇気付けること。勇気や元気は、お金じゃ買えないものだから、あたしはとっても大事だと思っているの。あとは」

 なんだか最初に聞きたかった話からどんどんずれ始めて来たので、僕は佳子さんに軌道修正を求めた。

「あの、少し話がずれてきたみたいなんですけど、そもそも、なんで、きょう、僕が佳子さんにここに連れ込まれたのか、教えてくれませんか」

 僕は思わず、連れ込まれたなんて言ってしまった。まずい、佳子さんはそんなつもりじゃないのに失礼かな、と思った。

「え、連れ込み?ここは連れ込み宿ですか」

「あ、すみません」

 僕が謝ると、佳子さんは少し微笑んだ。

「実はね、じじに彼氏を連れてくるって前から言っていたの」

「連れてくればいいじゃないですか」

「いないのよ」

「ええ」

 また、驚いた。こんな色白で若くて美しいお金持ちのプリンセスなのに、彼氏がいない?本当かと疑った。

「本当ですか」

「ほんとよ」

「なんでいないんですか」

「『該当者なし』の状態が続いてたの」

「じゃ、おじさんにいないって言えばいいじゃないですか。正直に」

「いないって言ったら、できるまでここに来るなって言われそうで。ここの硫黄泉に入れないの、やだから。それで急きょ、石井くんに白羽の矢を立たせていただきました」

 はあ。白羽の矢ですか。つまり、僕は、都合のいいところにいたから、連れ込まれたというわけか。

 ん?でも、なんで都合のいいところに、都合よく僕がいたのか?

「あの、それにしても、タイミングよすぎないですか」

「だから、ロマンスカーの中で言ったでしょ。お互い何度もここに来ているんだったら、こんなこともあるって」

「それっておかしいですよ」

 さっき、ロマンスカーでこの話をしたときには「ロマンスカーでロマンス!」と言われて僕は少し舞い上がってしまったため、これで話が終わってしまったが、ここは粘るぞ。僕がそう思うと、次に佳子さんが意外なことを言った。

「ま、あたしは石井くんが今日来るの、実は、知ってたけどね」

「え?」

 僕が来るのを知っていた?佳子さん、予知能力でもあるんですか。どんな予知能力なんですか。そんな僕の神秘的になりそうだった疑問は、次の一言であっさり氷解した。

「この前、あたしがここに来たときに、宿帳を見たら、今日の日付のところに石井くんの名前があってびっくりしたの。ああ、ここに来ているんだなあ、この日に来るんだなあって。それであたしも予定をあわせて来たわけ」

「え、宿帳見ているんですか」

「何か、悪かった?」

「いえ、なんでもないです…」

 宿泊する人の名簿を第三者が見てはいけない。見せてもいけない。しかし、佳子さんはここの娘さんなのだから、いけないとは言えないだろう。そこでたまたま知り合いの名前を見かけた。それに合わせて自分も来た。それだけのことよ、と佳子さんは言いたそうだった。

「え、じゃあ、ロマンスカーに乗るのも、全部知っていたんですか」

「ロマンスカーに乗ることは想像ついたけど、何時のに乗るかはわからなかったわ」

「じゃあ、同じロマンスカーで、隣の席になったのは」

「それはほんとに、偶然。驚いちゃった。私たち、縁があるのかもね」

 佳子さんは、そう言って、笑った。

 そうか、だからロマンスカーの中で「来てくれたのね」なんて言ったのか。あれは、寝ぼけていたわけではなくて、予期しない早い場面の僕の登場を見て、言ったのか。疑問がひとつ解けた。佳子さんは、本当はホテルで僕を待ち構えて、どこかで合流しようとしたらしい。それが、少し予定が狂い、こんなことになってしまった、ということのようだ。

「で、お願いなんだけど」

 佳子さんは、眉毛をきりりと上げて、僕を見据えて言った。

「あたしを助けると思って、きょうは恋人のふり、してくれないかな」

「えー。そんな、佳子さんの彼氏のふりなんて、できません」

「なんで」

「だって」

「あたしのこと、好きだった、って言ってくれたじゃない」

「それは、そうですけど、でもそれは」

「あたしも、石井くんのこと、大好きだったんだよ」

 代々木のバーガーで言われた、この一言。また、言われて、僕はそのときのシーンを思い出し、柄にもなくキュンとなり、まともな反論ができなくなった。

「はい」

「だから、少し仲良くしてくれれば、それでいいから。じじを一回安心させたら、しばらく場がもつから。ね、あたしを助けると思って。ほら、石井くん、あたしのおかげで早稲田に受かったって言ってたじゃない。今度はあたしを助けて、ね」

 僕に「今度はあたしを助けて」という言葉が突き刺さった。

 そうだ、二十三年前に、僕は佳子さんにものすごくお世話になった。全部全部、佳子さんのおかげだった。その恩返しだと思えばいいんだな。僕の釈然としなかった心は、自然と整理がついた。

「わかりました。じゃ、きょうだけ」

「やったあ、ありがとね、石井くん」

「はい」

「あ、『石井くん』じゃ固いかな。なんて呼べばいい?」

「何でもいいですけど」

「そんな、せっかく名前考えてあげるのに。何でもいいはないんじゃない?じゃあ、ワンコはどう?」

「ワンコ?」

「そう。あたしの犬、みたいな感じで。ワンコ、いいね!」

 ええ、犬ですか。彼氏が犬ですか。僕はまた釈然としなかったが、佳子さんがワンコがいい、と言うので、とりあえずワンコと呼ばれることになった。

「じゃ、ワンコちゃん、これからよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

「よろしくお願いしますは、堅苦しいよ」

「どうすればいいんですか」

「敬語はなしで、いいんだよ」

「わかりました」

「ほらまた敬語」

「わかった・・・よ」、

「お、よくできました!さすが、ワンコちゃん!」

 もう、僕は佳子さんにすっかり遊ばれていた。まあいいか、あの佳子さんに遊んでもらっているんだから。それに、一日限定だけど、彼氏を名乗ることができるのだし。僕は、何かゲームが始まるようで、少しうれしかった。

「じゃあ、始まりね。タンタカタンタンタンタンタンタン、タンタカタンタンタンタンタンタン、タンタンタンタンターン!」

「それ、何ですか」

「ほらまた敬語」

「あ、ああ。それ、何?」

「始まりのファンファーレ」

「あ、どこかで聞いたことある曲だなあ」

「いざ青春の生命のしるし、よ」

「ああ、あの歌!」

 「いざ青春の生命のしるし」というのは、早稲田大学の応援歌のひとつだ。第一応援歌「紺碧の空」に比べると、圧倒的に知名度は低い。でも、僕は、すばらしき青春、またとないこの日のために、稲穂は揺れる、友よ燃えろ、力の限り燃えろ、という前向きな歌詞が好きだった。詞を書いたのは、ビートルズにとても詳しい僕らの大学の先輩だ。昭和五十七年にできたこの歌は、昭和の匂いにあふれている。僕が大学に入ったのは平成になってからだったが、当時はまだ平成になったばかりだったためか、歌詞に書いたような熱がまだ少しキャンパスに残っていて、この昭和の歌もキャンパスに流れていた。そして、僕の心にひっかかった。しかも、この歌の作曲は「涙をこえて」と同じ、早稲田の大先輩・中村八大先生だ。八大先生の明るい曲調と昭和のジャズのおしゃれな香りが、この歌には吹き込まれている。僕は、佳子さんの中にも、昭和がどこか生きているんだ、と思った。

「じゃ、温泉行こうか」

「うん」

 僕はいそいそと支度をし、佳子さんと一階にある温泉に向かった。温泉の大きなのれんの前に着くと、佳子さんがいつの間にか、黒髪をゴムでまとめていることに気付いた。佳子さんは透き通るような白いうなじを見せたあと、振り返った。

「何時、どこ集合?」

「じゃ、五時半に、部屋集合で」

「うん」

「僕の方が、早く上がるから、待ってるね」

「ありがと」

「じゃ」

 僕は少し、赤くなっていた。あの、僕の神様みたいな佳子さんと温泉だって。しかも、恋人のふりだって。こんな展開、一生に一度あるかないかかもな。だったら、ワンコでいいや。僕はそう少しにやけながら、脱衣場に向かった。この宿は、内湯が普通の風呂で、露天のみが硫黄泉になっている。この硫黄泉は強力なため、内湯を硫黄泉にしてしまうと、どんなに強力な換気扇をつけても換気が行き届かず、倒れる人が出るという。そのため、換気のいらない露天のみがここでは硫黄泉になっている。僕はもちろん、露天の硫黄泉に向かった。まだ早い時間のためか、誰もいない。僕は硫黄泉が流れ続けてすっかり白く変色した湧出口の岩の近くまで寄った。硫黄独特のにおいをかぎ、湯に浸かった。湯は、思いのほか、ぬるかった。きっと、寒いからだろう。

「ふーっ」

 僕は大きなため息をついた。それは、硫黄泉に入れた安堵感であり、何よりきょうは、佳子さんと思いがけずに一緒に温泉に来て、恋人のふりができると言う特典を得た喜びからくるものだった。

 それにしてもなあ。結婚していないと信じきってきたみわちゃんには離婚歴があり、結婚していると信じ切っていた佳子さんは、華の独身だった。世の中は本当にわからない。いや、わからないのではなく、実は僕がわかろうと努力していなかったからだ。断片的な周辺の状況や雰囲気だけでなく、もっと話をして、きちんと話をして確かめないといけないことって、実はたくさんあるんじゃないか。

 僕は、最近、何かというと、スマホに逃げ込む癖がある。エレベーターの中の三十秒足らずの待ち時間でもついスマホを開けてしまう。最近それにすごく飽きてきているが、でも、絶対にやめられない。なんて皮肉。なんて矛盾。

 そこで僕はふと、昔のことを思い出した。佳子さんが予備校で僕の隣の席に座って、現代文の勉強を見てくれたときに

「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。皮肉とか、矛盾とか、出てきたら、絶対チェックだからね。その、皮肉とか矛盾の対立軸から答えが出てくることが多いからね」

と言ってくれたことがある。皮肉とか、矛盾とか。それはまさに、今の僕が包囲されているもの、そのものじゃないか。飽きているのに、やめられないスマホ。結婚していると信じきっていたのに、華の独身だった佳子さん。ついでに、結婚していないと信じきっていたのに、離婚歴が明るみに出た、みわちゃん。僕の周りには、皮肉と矛盾がいっぱいだ。まさか佳子さん、将来のこの日のことを意識して高校生の僕にそんな知識を教えてくれたわけではないよね。僕は白くもこもことした硫黄泉の湯気を薄くまといながら、そんなことを考えていた。

 するとふいに、はずんだ声がした。

「ワンコ、ちゃーんっ」

 高い塀を隔てて聞こえてきた、佳子さんの声だった。きっと佳子さんも硫黄泉の湯気をまといながら湯に浸かっているのだろう。

「ワオーンッ」

 暮れなずむ露天の空を切り裂くようにして、僕は、犬のような遠吠えを披露した。それを聞いた佳子さんは「あはは」と声を上げて笑った。してやったりの顔がこちらにも浮かんでくるようだった。

 さて、どんな顔か。あの色白のかわいらしい顔を少し赤らめているのか。そんなことを考えていると、紺の半纏をまとった初老の男性が、内湯と露天を隔てるドアを開け、露天の近くまでやってきた。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 深々としたおじきをして、男性はあいさつをした。

「あ、お世話になっております」

「いま、熱いですか」

「いえ、ぬるいです」

「お顔が赤いので、熱いかとお見受けしました」

 そこで僕は初めて、顔が赤くなっているという事態に気づいた。向こうの露天にいる佳子さんの顔を考えていたら、いつの間にか赤くなっていたようだ。初老の男性はちらりと僕のほうを見た後、

「ならば、少し熱くしましょう」

と言い、近くの小さな木戸を開けて、バルブを開いた。バルブを開いた効果はてきめんで、湧出口のあたりにいた僕の腹に、勢いのよい熱のこもった湯が殴りこんできた。

「ありがとうございます」

「まあ、あまり、興奮なさならないように」

「はい」

「興奮すると、湯あたりをいたしますので」

「ありがとうございます」

 僕は気遣いに礼を言った。その礼に対し、初老の男性は少し相好を崩し、やや小さめの声で僕に言った。

「あのう」

「はい」

「お嬢様は、大変に、大変な方です。どうか、よろしくお願いいたします」

「はあ」

 僕はそれしか言えなかった。大変に、大変な方ってなんだろう。僕がそれを聞こうとすると、初老の男性はきびすを返して立ち去ろうとした。

「あのっ」

 僕は、得意技の、相手にだけ鋭く聞こえる声で、初老の男性をわしづかみにした。初老の男性は、あまり驚かずに、僕の方を向いた。

「はい。何か、ございますか。」

「あの、佳子さんって、どんな人ですか」

 僕は彼氏の役をもらっているのに、役に合わない妙な質問をしてしまった。

「そうでございますね」

 初老の男性は、少し考えてから、言った。

「見かけによらない方、でございます」

 見かけに、よらない?僕はよく、わからなかった。僕は二の矢の質問をしようとした。しかし、初老の男性は軽く会釈をすると、するりと内湯へと去っていった。

「うーん」

 僕は、わからないまま、少し熱くなった湯に浸かっていた。すると佳子さんが、また高い塀越しに

「ワンコちゃーん、お湯加減、どう?」

と大きな声で尋ねてきた。僕は、

「いま、湯守の方に、熱いの入れてもらったから、ちょうどいいワン!」

と答えた。

佳子さんは

「よかった!湯守さんに行ってもらったのよー。男湯の方が、冷えやすいからねー」

と答えてくれた。

 そうか、佳子さんが湯守を差し向けてくれたんだな。佳子さんの温かさを感じ、僕は、また妙に意識してしまった。

 佳子さん、今、隣の露天で湯に浸かっているんだよな。佳子さん、あの白いうなじを白く濁った湯できらやかにさせているはずだな。どんなふうなのかな。僕は、高校生みたいにドキドキしていた。楽しいけど、なぜかちょっとつらいよ。この感覚。何だろう、この感覚。そういえば、昔、こんな感覚があったな。そうだ、佳子さんに、昔恋していた感覚だ。それが、今、リアルに戻ってきたんだ。恋って変と少しだけ違うって誰かが言っていたけれど、ほんとだな。僕はイヌの真似をさせられているし、高校生みたいになっているし、本当に変だ。でも、こんな変なら、僕はいいや。だって、佳子さんも、正しい変態ならいいって言っていたしな。あれ、でも正しい変態の定義って、ちょっと違うか。僕は、他人が聞いたらあまりにもどうでもいいことで頭がいっぱいになっていた。ああ、これも含めて恋の感覚だ。恋の感覚を思い出した僕は、硫黄泉の中で軽い有頂天になっていた。

 すると、僕にすかさずイエローカードが出た。

「あんまり入っていると、ノボせるから、上がるよ!」

佳子さんの声が飛んだ。

「はあい。ワン!」

 僕は従順にも人間とイヌの両方の返事をして、佳子さんの指示に従った。確かに少しノボせた。これは、佳子さんが差し向けてくれた湯守さんのおかげなのか。それとも、僕の恋心が盛り上がっているからなのか。僕にはわからなかった。そんな僕に、今できるのは、佳子さんに約束した、先に部屋で待っているということだった。僕は髪を乾かすのもそこそこに、浴衣をいい加減にまとい、脱衣場を後にした。

 部屋に戻ると、まだ五時十五分だった。約束の時間まで、あと十五分ある。ふと、部屋の様子を見た。すると、小さな佳子さんのバッグが目に入った。薄いピンクの、アメリカ生まれのスペードがついたブランドのバッグだった。佳子さんにスペード。意外な取り合わせに、僕はちょっと驚いた。そのスペードのついたバッグからは、丸くこんもりとした、かわいいピンク色の布地がちらりと見えていた。ひょっとして、佳子さんの、下着?

 僕はあわてて目を背けた。佳子さんの下着なんて、見てはいけない。僕は、うぶな高校生のようだった。僕が目を背けると、バッグから少し離れた机の上に、スマホが置かれていた。スマホはケースに覆われていた。ケースの上三分の二くらいが淡いピンク、下三分の一くらいがクリーム色だった。近づいてみると、そのケースもスペードがついたバッグと同じブランドのものだった。

 僕はそこで、いけない、と思いつつ、そのケースを少し開けてみたくなった。これを開けると、また、佳子さんに一歩近づけるかもしれない。それに、僕は今一日限定とはいえ恋人のふりができるのだから、もう少し佳子さんのことを知ってもいいのだろう。

 ん?なんで下着はダメで、スマホはいいんだ?どっちも、プライバシーの塊じゃないか。でも、スマホは生身の人間じゃないんだから、まだいいでしょ。そんな勝手な理屈を思いついた僕は、思い切ってケースのスナップボタンを外してみた。

 すると、開けた小さな扉の中にはさらに小さな鏡があり、鏡の下辺には「smile」と小さく文字が書かれていた。そしてその文字の横に、白く細いシールが貼られ、「もっと 鼻息」と書かれていた。 「もっと 鼻息」?僕には意味がわからなかった。佳子さんになぜ鼻息が必要なのだろう。僕には見当もつかなかった。

 すると、遠くからパタパタとスリッパと床がついたり離れたりする音が聞こえてきた。まずい、佳子さんが帰ってきた。僕はあわててスマホケースのスナップボタンを留めなおし、スマホを机の上に戻した。戻した瞬間、佳子さんが「ただいまあ」と言って、部屋に入ってきた。

 その様子を見て、僕は息を飲んだ。糊の効いた、ぱりっとした白地に紺の模様の入った浴衣の佳子さん。最初に会ったときより少し長く伸びた黒髪は上手にまとめ上げられ、ひとつの楕円のまとまりを作り、知られたくない後頭部の絶壁をうまく隠していた。そして、黒髪に遮られて見えなかった白く張りのある首筋が、きれいな稜線をたたえていることがわかった。さらにその稜線は、硫黄泉でほどよく暖められ、わずかに薄い桜色をまとっていた。まるで、後姿という山並みに、山桜が萌えているような風情だった。僕には、この寒い箱根の峠の宿に、一気に春が訪れたような感じがした。すると、また来た。

「こらっ、女の子をジロジロ見ちゃいけないんだよっ」

「あ、すみません…」

 代々木のバーガーと同じ台詞が、また繰り返された。僕はどうしても、佳子さんの掌の上に載せられ、時に叱られてしまう。思えば最近、誰かの掌に載せられたことなんて、なかった。三十代のころからか、周りはみんな僕をいい大人だと思っているらしく、つかず離れず、無責任じゃないかと思われるくらいの距離でしかつきあってもらえなかった。当然、がっつりと掌の上に載せられることなど、ない。以前聞いたことがあるが、人は、最初に出会ったときの年齢でずっと人を見続けるという。だから、生まれたときから見続けている親からすれば、子供はずっとゼロ歳児だ。逆に、大人になって初めて会った人は、それ相応に対応してもらえる。

 佳子さんの場合、初めて会った僕はグレた高校生だったわけだから、僕はずっと十七、十八歳。つまり、お子様扱いのまま、というわけか。こうした状況に、少し前の僕だったら、お子様扱いするなと怒っていたことだろう。しかし、四十になった僕は、かえってお子様扱い、つまり、掌の上に載せてもらっていることが新鮮で、少しさわやかさすら感じていた。それは、僕が達観した大人になったということなのか。それとも、単に恋心に翻弄されているバカな高校生かイヌに過ぎないのか。あるいは、僕にもまだ若者のような希望があるということなのか。僕にはまだ、わからない。僕はわからないから、きょとんとした顔をしていた。すると、佳子さんはまた、笑ってくれた。この空気、やっぱり二十三年前と、それから、代々木のバーガーで再会したときと、まったく同じだった。他愛ないことで、怒ってみたり、笑ってみたり。ただそれだけのことが、高校生みたいなことが、僕にものすごい幸福感を与えてくれていた。僕はなんて幸運なんだろう。二十三年も経って、こんな時間を過ごせるなんて。いや、神様が、二十三年前に戻してくれたんだ。タイムマシンに乗ったみたいなもんだな。タイムマシンって、あるんだな。ネコ型ロボットのアニメみたいで、すごいな。

 代々木のバーガーで思ったことと全く同じ思いが、また、繰り返された。僕をあっちこっちに揺すぶって、何度も前と同じ思いを味わわせて、引き続き僕を掌の上に載せている。僕はもはや、佳子さんのペットのようなものだった。

 そうか。だから、僕をワンコと名づけたんだな。

 しかし、僕はペットで十分だった。これ以上、複雑なことを考えずに、このまま佳子さんのそばに寄り添っていられれば、心地いい。僕は今までにない感情を持ち始めていた。

 僕がそんなことを考えているうちに、佳子さんは風呂から持ってきた洋服などをスペードのマークのついたバッグにしまいこんでいた。

「ねえ」

 佳子さんがこちらを見ずに話しかけてきた。

「なに?」

「これからもう晩ご飯だからね。ワンコちゃんも支度して」

 そうか、少し早い晩ご飯なんだな。この部屋に、運び込まれてくるのかな。僕がそう考えていると、佳子さんはすぐに

「ご飯は別の部屋だからね。鍵と大事なものだけ持っていって」

と言った。

 僕は軽くうなずいて、鍵と財布とスマホを持った。ふと、佳子さんを見ると、名刺入れのような何かのケースだけ持っていこうとしていた。

「あの、お財布とかは」

「別に、いいの」

「スマホ、持って行かないと」

「それもいいの」

 佳子さん、ずいぶん変わっているな、とそのときの僕は思った。財布もスマホもいらないのか。ま、このホテルは佳子さんの実家みたいなものだし、そういえばほかのお客さんの姿も見ないから、財布やスマホが盗まれる可能性はないのだろうけど、それにしても財布とスマホがないと僕なんかは心細くてしょうがない。金も情報もないわけだから。佳子さん、ずいぶん大胆だな。裸で過ごすようなものじゃないか。そのときの僕は、そう思った。でも、ペット扱いの僕が、飼い主様にそんなことを申し上げるのは失礼だろう。僕はそう思ったので、持ち物がほとんどないことにはそれ以上触れずに、部屋を出た。

「ご飯の場所って」

「あの広間よ」

 見ると、部屋からずっとまっすぐ行った先に広間があった。薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。いいタイミングで開けるなあ。さすが大王子観光。僕は感心しながら、ふすまの中の明るみに入った。

 すると、三十畳ほどのだだっ広い広間に、お膳が三つだけ、並べられていた。

「うわ、三つだけ」

「うん。うちらだけだからね」

 佳子さんがそう言うと、支配人のじじ、つまり、佳子さんのおじさんが現われた。

「こりゃどうも。石井くん、お湯加減はどうじゃった」

「はい。最初ぬるかったですけど、ちょうどよくなりました」

「佳子さんが、湯守さんを差し向けてくれたので」

「おお、湯守が。佳っちゃん、気がきいとるね」

 じじは、うれしそうに僕の顔を見やり、

「それだけ二人の仲がよいということかな」

と言った。

「あの、いえ、僕たちはまだ」

 僕はさすがに恥ずかしくなって、ちょっと否定に走った。

「まあまあ、恥ずかしがらんでもええんじゃよ。そういう少しずつの気遣いや思いやりがあって、仲良くなっていくもんじゃからのう」

 じじは、ちょっとうれしいことを言ってくれた。でも、有頂天になると硫黄泉に入っているわけではないのにまたノボせてしまいそうだったので、僕はあわてて話題を変えた。

「あの、僕、いつもここに来ると料理楽しみにしてるんです」

「おお、そうじゃ。腹がへっておるのじゃろ。すぐに始めようか」

 じじはそう言って、仲居さんに食事の準備を始めるよう促した。 どんなご馳走が出るのかな。普段僕が下のレストランで食べているバンキングとは違うんだろうな。僕は少し期待した。ところが、案外普通の食事だった。相模湾で取れた赤魚の刺身、しいたけの甘辛煮、きゃらぶきの佃煮、牛肉の時雨煮、白いご飯。いつもここに来たときに、バイキングで食べている食事と何ら変わらなかった。前社長の娘であっても、別に特別扱いしないんだな。

そう思っていたところ、少し大きめのどんぶりが来た。締めの蕎麦には早すぎるな、と思ってみたところ、どんぶりには、とうとうと盛られた、すりおろしの山芋が揺れていた。確かに、箱根は山芋が有名だが、ずいぶんたくさんだな。僕がそう思っていると、じじが一言。

「ま、これで元気をつけて、早く跡継ぎを、な」

 なんて、直截な一言。すると、僕が恥ずかしくなる前に、佳子さんが鋭く口を挟んだ。

「ちょっと、おじさま!恥ずかしいじゃない!」

 佳子さんは、桜色に染まった首筋の稜線をさらに赤くして、抗った。するとじじは、

「あれ、ちょっと気が早かったかの」

と言い、照れ笑いを浮かべた。

 昔の人はずいぶん直截だ。今だったら、確実にセクシュアル・ハラスメントだな。でも、ふと思った。跡継ぎということは、じじは、僕と佳子さんが一緒になることを考えているってことか。

 ええっ。それって、恐れ多すぎる。だって、佳子さんは、僕にとっては神様みたいなものだし、やっぱり近くにいると緊張する。もちろん、昔は大好きだったけど、それは、出会いの少ない世間知らずの男子校の高校生が、かわいくて親切な女の子に見惚れたのに、過ぎない。テレビに出ているアイドルを好きになるのに近い感覚だったのだろう。最近になって、佳子さんもその当時僕のことを好きだったって、言ってくれたけど、それは、子供同士の恋心の話で、今は時代が違う。しかも、大王子観光のご令嬢で、僕なんかが話すのは恐れ多い人だということもわかってしまった。ますます近寄りがたい。とりあえずきょうは佳子さんのイヌとして参加しているけど、きょうが終わったら、またなんでもないのだから。

 あと、ついでに言えば、うちにはみわちゃんいるし。あ、みわちゃん、実家で今頃何をしているのだろう。僕は少しだけ、みわちゃんのことまで、思いを馳せた。

 こんなことを考えていると、僕の顔は遠くを向いていたらしい。それを察知した佳子さんは、すかさず次の言葉を言った。

「ねえねえ、男性からしても、今のは失礼だよね」

「あ、いえ、はい、そうですね」

「でしょ。おじさま、うちの彼氏様に失礼なのよ」

「ははは。まあまあいいじゃないか」

「彼に聞くことってほかにあるでしょ」

「おお、そういえば、石井くんは、どんなお仕事じゃったかな」

 急に仕事の話を振られた。

「はい。坂の上テレビで天気予報の仕事をしています」

「天気予報。予報官かの」

「いえ、あのう、予報官ではなくて予報士です」

「予報士?」

「はい」

「この箱根は天気が変わりやすくてなあ。天気予報は大事でな」

「はい」

「明日は、どうかな」

「はい。はじめ雲が広がりやすくて、風も強いと思いますが、そのうちに、晴れて、穏やかな一日になると思います」

「おう、それはよかった」

 そういって、おじさんはいつの間にか注がれていたコップ酒をがぶりと飲んで、息を吐いた。

「あんた方の人生も、そうであると、いいな」

 じじは、なんだか意味深なことを言った。じじは、何が言いたいのだろう。僕にはわからなかった。すると、佳子さんがまた話題を変えた。

「そうね。ああ、彼、テレビで仕事しているから番組にも詳しいのよ」

 佳子さんが少し勝手なことを言った。あの、僕、天気予報をやるために坂の上テレビにいるだけで、番組には詳しくありません。僕はそう言おうとした。すると、じじが先に口を開いた。

「そうか。そういえば去年の紅白のことじゃが」

 あの、それ、他局なんですけど。でも、他局でありながら僕が唯一詳しい番組も紅白なので、黙って話を聞くことにした。

「なんであんなに、歌が始まる前にくどくどといろいろ説明するのかのう。歌にたどり着くまでが長すぎるぞ」

「あ、それは、今の時代が、説明しないといけない時代だからだと

思います」

「なんでそんなふうになったんじゃろな」

「昔だったら、説明しなくても、みんな知っている歌というのがたくさんありました。でも、今は若い人しか知らない、年寄りの人しか知らない歌が多くなっています。それに、意味とか背景とかが複雑になってきているから、説明しないとわからないし説明する責任ということも言われています。だから、説明するんじゃないかと思います」

「面倒くさい世の中じゃのお」

「はい」

「そもそも説明しなくてもすごくはやる歌がありゃいいんじゃないか。ワシが若かったころは説明しなくても、イントロ聞いただけでみんなわーっとなる歌がいっぱいあったぞ。なんでそういう歌がないんじゃ」

「そうですね。おそらくですが」

 僕は普段思っていることを話し始めた。

「昔は歌くらいしか、世の中の公約数がなかったんだと思います。でも、インターネットが出てきて、歌のほかにも公約数がたくさん見つかるようになりました。それに、歌より公約数の小さいものをみんなたくさん見つけられるようになって、みんなそれぞれ、興味が違う方向に向くようになったんだと思います」

「うむ、ネットの存在は、確かに大きいよなあ」

「はい。あと、やっぱり不景気で、リストラが進んだのも大きいと思います。僕の会社でも、徹底的に無駄をなくす、というのをだいぶ前からやっていますけど、歌も同じで無駄な曲は経費の都合で作れなくなっているのだと思います。でも、その無駄の中に、本当は思いもかけない名作があったりするのかもしれません。僕が生まれた年の『およげ!たいやきくん』も最初は売れないと思って、歌手が歩合の印税を選ばなかったくらいなのに、あれだけヒットしたわけで、何が売れるかなんてわかんないんです。本当に天気と同じで、何が起こるかわからない。でも、その何が起こるかわからない要素をなくしてしまったから、思いがけない大ヒットが生まれなくなったような気がします」

「なるほどなあ」

僕は、普段思っていることを、もうひとつ言うことにした。

「あとは、壁ができたからだと思います」

「壁?」

「はい。僕が会社に入ったころは、テレビ局にもいろいろな人が入り込んでいて、雑多な雰囲気で、誰が誰だかわかんないような会社の中でしたけど、その知らぬ同士が話をしてアイデアが生まれ、何か面白いものができていくという感じがありました。まるで『チャンチキおけさ』の世界ですね。でも、アメリカで同時多発テロが起きたり、個人情報を守らないといけなくなったりしたころから、坂の上テレビの玄関にも、ゲートができて、警備員と監視カメラが常に見張るようになりました。ネットが発達して、情報がひとたび漏れると、誰でも全世界に発信できるようになっちゃったので、情報もれを防ぐためには、こうしないといけないのもわかりますが、これで、入り口にも、あと、人の心の中にも壁ができてしまったような気がします。そして、人と人の交流が少なくなりました。あと、そのころから、飲み会とかも少なくなりました。別に飲み会に行かなくても、ネットとスマホがあればさみしくないという人が増えたのも一因だと思います。それで、みんな見えない壁だらけになって、人と人が直接ぶつかって化学反応することが、昔より少なくなりました。だから、思いがけないアイデアも少なくなって、思いがけない大ヒットも少なくなったような気がします」

「ふーん」

じじは、僕の長い長い、込み入った説明を、うなずきながら聞いてくれた。

「石井くんは、天気の分析だけじゃなくて、世の中の分析もしてるんじゃな」

「いえ、そんな、分析というほどではありません。思っていること

を、少し言っただけです」

「思っていることを他人に言う、しかも、わかるように言うというのは大事なことじゃ。最近は、思っていることを人前で言ったり、書いたりすることができるやつがどんどん少なくなってきておる。何かあれば親しい仲間だけにスマホで言っているようじゃというのを、うちの会社でもあちこち報告が上がっとる。仲間内だけに言っているうちはまだまだなのに、それで自分は一人前じゃと思っておるからおかしいのよ」

「そうなんですか」

「そうじゃ。それに長年、人間は、出会って、語り合って、触れ合うという段階を踏んで仲を深めてきたはずなんじゃが、男同士でも、女同士でも、そして男女間でもこの要素がこの十数年で急激に失われておる」

「ああ、ソーシャルネットワークサービスができて、ネットで簡単

にコミュニケーションができるようになりましたからね」

「それで、人間関係がちゃんとできていると考えるから、おかしいのよ!」

 じじは、いつの間にか追加されていたコップ酒を、また、がぶりとあおった。

「道具としてソーシャルは便利じゃが、それでなんでもかんでも済むものではない。本当に大事な話をひざ詰めでする努力が足りない人間が、今多すぎるんじゃないか?わしは今この箱根の峠の宿も預かっておるけど、この宿という小さな共同体ですらもそういうことを感じるのじゃぞ。若者がわんさかいる本社にいるとわしは頭がおかしくなってしまうくらい、人と人のつながりが薄くて、実体がなくて、悲しいんじゃ。わしが本社にあんまり寄り付かないのもそのせいでのう。ここにいた方がまだましなんじゃ!」

じじの吐露した思いは、僕も普段からなんとなく感じているものだった。僕が深くうなずくと、おじさんはニカッと笑った。

「石井くん。君はなかなか、見込みがあるかもしれんな」

「いえ、そんな」

「こんな年寄りの戯言を、うまく引き出す奴に久しぶりに会うたわ。

佳っちゃん、さすが、いい若者を見つけてきたのう」

「えへ、そんな」

 見ると、佳子さんは、いつの間にかとろろ飯を三杯も平らげていた。あの、佳子さん、見かけによらず、結構食べるんですね。あれ、佳子さん、口元にご飯粒が一つついている。

「あの、口元にご飯粒が」

「え、やだあ」

「おう、石井くん、やさしいのう。やっぱり二人は、お似合いじゃあ。だから、早く跡継ぎを、な」

またじじが茶化した。

「もう!だから、おじさまったら、やめてよ!」

「はは。今夜はとても楽しい夜じゃあ。ははははは」

 じじと佳子さんの会話に、僕はひそかに心を赤らめていた。顔を赤くしたら、恥ずかしいから。なんとか顔に出ませんように。僕が願っていると、じじが思い出したようにつぶやいた。

「そうじゃ。あれ、行こうかの」

「え、もう、やるの?」

「そうじゃあ。盛り上がってきたから一気にいくぞ。ホイ!」

そう言って、じじがポンと手をたたくと、三十畳くらいある広間の奥にあるふすまが突然バッと高速に開いた。ふすまの開いた先にはもう一間あり、仲居さんが左側に五人、右側に五人、縦に並んでいる。そして、奥の中央には、タキシードを着た若い男性が五人、横に並んでいた。

「始め!」

 じじの合図で、大音響のカラオケの音楽が鳴り始めた。前奏で、何の曲かすぐにわかった。


「涙をこえて」。


 前奏に続いて、奥に陣取るタキシードの男性五人が、マイクを持って歌い始めた。そして、AメロからBメロを経て、サビの「涙を、こえて行こう」という歌詞が始まった瞬間に、仲居さん、ではなく、よく見たら和装の女性の踊り子さんがバッと立ち上がり、両手を高く上げてパキパキとした踊りを始めた。

 僕はあ然としていた。こんな宴会芸みたいなこと、やるんだ。これが、この宿のしきたりなのか。僕には相場がまったくわからなかった。でも、宴会芸にしては、歌は抜群にうまいし、踊りも洗練されている。どういうことなのか。僕が疑問に思っていると、二番が始まった。ふと、じじと佳子さんを見た。二人はニコニコしながら大きな手拍子を送っている。僕もこの場の流れに乗り遅れないように、あわてて手拍子を始めた。

 二番は、キーを上げての男女の合唱だった。カラオケから流れる弦楽器の伴奏が、僕の心の中の琴線をつまびく。Bメロに翻弄させられたのはもちろん、サビにはもう、酔わされた。この曲、なんでこんな感動的なんだろう。気がつくと、最後に出てくる「アーッ」「アーッ」「アーッ」という雄叫びのリフレインも終わっていた。僕はぽかんとしていた。

 曲が終わると、間髪入れずに、おじさんと佳子さんが大きな拍手を送る。僕も負けずに、手をたたく。三人の、しかし、万雷の拍手が終わると、奥の間のふすまはあっという間にまた高速で閉ざされた。一瞬で終わった、あまりにもにぎやかな、どこか大きな寺の周年のご開帳のようだった。僕は聞いた。

「あの、今のは、なんですか」

佳子さんが答えた。

「お客様への、特別サービスです」

「ええ?」

 じじが口を挟んだ。

「そうじゃ。うちは大事な客人がくると、歌でもてなすことにしておってな。今のはうちの精鋭音楽団じゃ」

「え、精鋭?」

「そうじゃ。音楽大学を出ておるやつを歌い手、体育大学を出ておるやつを踊り手にしてな」

「そうなんですか。でも、なんで『涙をこえて』なんですか?」

「あたしが頼んだのよ。彼が好きなのは『涙をこえて』だから、って」

 そう言えば、代々木のバーガーで、佳子さんと好きなもの大全の話をしたときに、「涙をこえて」が僕も死ぬほど好きですって、言ったな。佳子さん、そのこと覚えていてくれたんだ。僕はうれしかった。

「ええ、佳子さんが頼んでくれたんですか」

「そうじゃ。佳っちゃんから『彼氏は涙をこえてが好き』と聞いて、わしは涙が出そうじゃった」

「え、どうしてですか」

「この歌は、うちの兄貴、つまり佳っちゃんのお父さんの大学の先輩が作った歌での。兄貴はこの歌をテレビで見て、好きになって、佳っちゃんによう教え込んでいたんじゃ。この広間でも、よう歌った。兄貴が死んだときに、葬式で流すよう遺言に書いてあったのも『涙をこえて』じゃった。明るく、生きるのが好きだった人だからのう。なのになあ、急に死んじまって」

 じじは、そう言うと、急に目に涙を浮かべた。見ると、佳子さんも、目頭が熱くなっている。そうか、佳子さんのお父さんも早稲田だったんだ。お父さんの早稲田の先輩が、「涙をこえて」を作った中村八大先生。そんなつながりがあったんだ。そしてこの歌に惹かれていた僕も、早稲田に入った。歌を知ったときは、早稲田の人が作った歌だなんて、意識してなかった。結果的に、僕と早稲田とこの歌はつながった。

 そして、大学を卒業して二十三年も経った今、今度は、佳子さんや佳子さんのお父さん、そしてこの宿とも「涙をこえて」を通じて、つながった。僕は人間の縁の持つ不思議さ、そして昭和の歌がひきつける力に、驚いていた。

僕は、しんみりとなった空気の中、切り出した。

「そうですね。人はいつか別れがくるものですけど、こうやって、歌を通じて、僕も佳子さんのお父さまとつながるところがあったことがわかって、本当にうれしいです。できれば、お元気なうちにお会いしたかったです」

「そうじゃの。歌は、つながりを作って、そして、何年もたって、また思いがけない、そして意外なつながりを作る。いいもんじゃな。最近の世の中が、つながりが薄くてさびしく感じるようになったのは、こういう力を持った歌が少なくなって、歌のもたらすつながりも少なくなったからかも知れんな」

 じじはそう言うと、鼻で息を強く吸った。

「そこでだ、石井くん。君ががんばるんじゃ。佳っちゃんのこと、頼んだぞ」

「あの、僕、まだ」

 僕はあわてて火消しに走った。

「まあまあ、みなまで言うな。君なら、佳っちゃんを背負える。楽しみじゃ。ほれ、そろそろお開きにするか」

 じじは僕の言葉をほとんど無視して、席を立った。そして、仲居さんにつかまるようにして、足元をややふらつかせながら、部屋を後にしようとした。

「あ、あの、きょうはありがとうございました!」

 僕はあわててお礼を言った。

「おう、楽しかったぞ。あとは、よろしくな」

 じじはそう言って、姿を消した。僕は冷めた残りのお膳を前に、佳子さんと向き合った。

「ありがとう、ワンコちゃん」

「いや、あんな話で、よかったのかなあ」

「満点よ。じじを納得させられる男って、いないんだからね。さすがあたしの、カ・レ・シ・サ・マ!」

「えへ、そんな」

 僕は佳子さんにカレシサマと言われて赤くなるのを隠せなかった。

「なーんてね」

 佳子さんは、すぐ混ぜ返す。植木等みたいだ。こんなところにも、昭和が香っている。

「でも、本当にありがとう。これで、じじも納得よ」

「そうかなあ」

「そうよ。今夜はこれで気が楽ですっ」

佳子さんは、そう言って、伸びをした。

「じゃあ、あたしたちもお開きにしようか」

「うん」

 僕がそう言うと、仲居さんがものすごい勢いで近づいてきて、お膳を下げていった。よく見たら、佳子さんの方が僕より食べていた。すごいなあ、佳子さん。こんなスリムなのに。僕は小さく驚いた。

 そして、広間を後にした。長い廊下を歩き切ると、僕は佳子さんに部屋の鍵を渡した。

「じゃあ、おやすみなさい」

「え、もう寝るの?」

 佳子さんは、けげんそうに聞き返した。

「あの、すぐ寝るわけじゃないけど、僕は部屋が別だと思うからここで」

 そう言うと、佳子さんは吹き出した。

「何言ってるのよ、同じ部屋に決まってるじゃない」

 僕はフリーズした。この人、何を言っているんだろう。おかしいと思って、僕は反論した。

「あの、何言っちゃってるんですか。一緒の部屋なわけないでしょ」

「あら、一緒の部屋なわけですけど」

 佳子さんは、またまた混ぜ返す。

「あの、誰が決めたの」

「あたし。悪い?」

 佳子さんは悪びれた様子がまったくなかった。僕はそれが少し面白くなかった。

「悪いです」

「ほらまた敬語」

 いちいち、僕の言葉に突っ込んでくる。

「…悪いよ!」

「あら、そうかしら?だって、今夜は彼氏役をやってくれるって、約束したじゃない。ワンコちゃん、約束破るの?」

 佳子さんは、有無を言わせぬ口調だった。

「え、そんなつもりはないけれど」

「じゃあ、いいじゃん」

「うーん」

「え、あたしと一緒の部屋じゃ、いやなの?」

「そ、そ、そ、そんなことないよ!」

「じゃあ、いいじゃん」

「だって」

 そこで僕は赤くなってしまった。すると佳子さんは、僕の言ってほしくなかったことを言った。

「あ、ワンコちゃん、ひょっとして、あたしと夜どうなるか、考えてるの?」

さらに佳子さんは畳みかけた。

「やらしー」「エロワンコだよね」

 僕はエロワンコだなんて言われるとは、思わなかった。あの、佳子さんの口からエロワンコだなんて!僕は、佳子さんの清純さが破れたところが許せなかった。

「そ、そんな、失礼だ!」

 僕はとりあえずそう言ってみた。本当はこの後に

「いやらしいことを考えたわけではありません。一緒にいるとただでさえ緊張感満載なのに、一晩一緒の部屋にいるなんてことになったら、寝られないから困るんです」

というような回答を用意すべきだった。

 しかし僕は、情けないことに、やらしいと言われて、かえってやらしいことを考慮に入ってきてしまった。それを除外するための言い訳を考えていたところ、二の句が告げられず、佳子さんに付け入る隙を与えてしまった。

「あら、ごめんね」

「でも、文句はないんでしょ。それに、ワンコちゃんがここに来る前に頼んだ部屋は、あたしがもうキャンセルしておいたからね」

「もし、この部屋で一晩過ごすのがいやだったら、お外で待つんだよ。犬小屋あたりでね」

 え、お外で待つ?そう言われて、僕はふと窓の外を見た。あたりはもうすっかり真っ暗になっている。窓の枠に取り付けられている温度計を見た。

「-9℃」

 宵のうちでこの寒さだから、夜がふけたら、氷点下十度は軽く下回るだろう。一晩外にいたら、確実に凍え死んでしまう。さすが箱根の峠の上だ。予報士であってもなくても、この寒さが命にかかわることは、明白だった。

「お外で待つのは、できないよ」

 僕が弱音を吐くと、佳子さんは待ってましたとばかりに笑った。

「じゃ、入ろうね」

「う、うん」

 僕は小さな声でうなずくしかなかった。どうしよう。今夜は緊張して寝られないよ。緊張して鼻血出して、布団につけたらはずかしいなあ。僕は修学旅行に行った男子高校生のような心配をしていた。 

 僕のそんな心配をよそに、佳子さんは部屋に軽やな足取りで入っていく。部屋の中のふすまが開いた。

 中の様子を見て、僕は唖然とした。十五畳の部屋の中に、なんと、布団が仲良く二つ並べられている。しかもくっつけて。僕は早速鼻血が出そうだった。

「あのう、これは布団が近いんじゃないかなあ」

「そう?ごく普通だと思うけど」

 佳子さんは、にべもない。

「あの、だって、これだけ近いと、手が触れちゃうかもしれないし」

 僕は抵抗した。

「手が触れると、何かまずいの?」

 相変わらず、佳子さんは、にべもない。

「まずいよ」

「なんで?」

「だって」

 僕はそう言うと、さて、次にどんな言葉を言おうか、迷った。もし、「手が触れると興奮しそうでまずいです」なんていうと、また「エロワンコ」と言われて、佳子さんの清純さが失われてしまうし、「つきあっている彼女がいます」というと、それもまずいし。

 ん?ここで僕は気づいた。そういえば、僕に彼女が、しかも同棲している彼女がいるって、佳子さんには言ってなかったな。そろそろ、みわちゃんのこと、言わないといけないんじゃないかな。それを言えば、ストッパーになるだろうし。何のストッパーなんだかよくわからないけど。でも、佳子さんにみわちゃんの話だけはしたくないのも事実だ。佳子さん、みわちゃんの話なんて聞いたら悲しむかもしれないし。それに、きょうはちょうど僕は佳子さんの彼氏役を任されていることもあるし。そうだ、きょうは言うのをやめよう。

 僕はそんなことをグルグル考えていたため、「だって」の次の言葉が出てこなかった。すると佳子さんはすかさず

「だって、何よ」

と強気の発言をしてきた。

「えっと、その」

 僕は言うべきコメントがまとまっていなかった。

「『えっと、その』では、回答になっていません。ですので、ここは布団の距離は変えないことにします」

 まずい、判定が出ちゃった。また押し切られたよ。僕はどうしていつも佳子さんに押し切られているんだ。僕の中では、この押し切られるというのが、おなじみの悩みになろうとしていた。

「でも、まだ寝るの早いよね」

 僕は少しでも抵抗しようとした。すると佳子さんはそれもそうかという顔をして、言った。

「そうね。じゃ、ちょっと飲もうか」

 佳子さんはそう言って、部屋の隅にあるやや大きめの冷蔵庫を開けた。

 僕はびっくりした。その冷蔵庫の中には、宿の冷蔵庫とは思えないほどにびっしりと、二十本以上の缶ビールが入っていた。確かに、代々木のバーガーで好きなもの大全をやったときに、ビールが冒頭に出てきたけど、ここまでびっしりと缶ビールを宿に並べさせるとは、思わなかった。

「いくらでもあるから、飲んでね」

 佳子さんは缶ビールのロング缶を二本左手につかむと、次に、冷蔵庫の上の棚から彫りの深いカットグラスを二個取り出し、右手の指の間にきれいに挟んだ。グラスが二個挟めるんだ。指、長いなあ。僕は初めてそのことに気づいた。そして、佳子さんは、缶ビールとグラスを丁寧に机の上に置いた。そのとき、僕は初めて佳子さんの指先に目がいった。細長い爪に、きらきらとした銀河のような金銀のラメが入っていた。

「ネイル、いいね」

「あらあ」

 佳子さんは、口をアヒルのように開けて、ほほえんだ。

「ありがとう。見てくれて、うれしい」

「いえ、そんな」

「ネイルを口に出してほめてくれる男性って、案外いないのよ」

「そうなの」

「そう。ちゃんと見てないと、見えないネイルだしね。ワンコちゃ

ん、よく気づきました。さすが、カ・レ・シ!」

 さっき、広間で食事をしていたときは「カレシサマ」だったのが、今度は「カレシ」に変わった。「サマ」がとれたのはなんでだろう。僕はその細部が気になった。神は細部に宿るからな。ひょっとして、本物の彼氏に近づいてしまったとか?僕はまた勝手なことを考えていた。

「どうしたの?飲むよ」

 気づいたら、僕のグラスにも、佳子さんのグラスにも、あっという間にビールが注がれていた。佳子さん、動きが早いなあ。僕が注いであげなくて、申し訳ないなあ。僕は少し後悔した。

「じゃ、おつかれさまでした。カンパーイ」

「カンパーイ」

 僕がビールを一口だけ飲んだ。すると、ビールに柔らかい唇をつけていた佳子さんが、ビールから唇を放した。

「あ、ワンコちゃん、カンパイだよ」

「え、カンパイ、したけど」

「カンパイっていうのは、杯を乾かすんでしょ。一気に飲まないとだめなのよ」

「ええっ」

 僕はまた驚いた。大学のコンパで、先輩が後輩に言うような他愛もない台詞を、ここで佳子さんに言われた。

「あたし、一年の秋の早慶戦の後の、コマ劇前でやったコンパで言われたの。カンパイは杯を乾かすまで飲まないと、ねっ」

 また、言われたよ、この手の台詞!僕はそれについて突っ込もうと思った。

 しかし、その瞬間、ふとおかしなことに気づいた。いま、佳子さん、「一年の秋の早慶戦の後の、コマ劇前でやったコンパ」って言っていたな。そんな昔のこと、よく覚えているな。

 待てよ。佳子さんは、昔のことを思い出せなくて大変だったんじゃないかな。その割には、昔の話が結構ここまで出てきているな。きょう聞いた話だけでも、「お父さんがロマンスカーで買ってくれたオレンジジュースの話」「大学のマイナーな応援歌の『いざ青春の生命のしるし』の話」そして「お父さんに教えてもらった『涙をこえて』の話」今の「早慶戦の後のコンパの話」。これだけある。

 どうして、思い出せないはずなのに、昔の話が結構出てきているんだ?僕のなかに、突如として疑問がわきあがってきた。僕はその疑問を、佳子さんに聞かずには先に進めない、と思った。そこで僕は、杯を一気に乾かして、佳子さんの方を向いた。

「わあ、ほんとに乾かした。すごーい」

 佳子さんはそういうと、自分も杯を乾かした。ふっと軽くアルコールを帯びた息をついた姿が、大人なのに大人びて見えた。

「あたし、高校三年の文化祭のあと、こっそりビール飲んだことあるんだよね。そのときパパが怒って」

 ほら、今度は高校のときの話が出てきたよ。おかしいじゃん。僕は、切り込んでいこうと決意した。

「あのう、佳子さん」

「なあに、ワンコちゃん」

「あのう、この間代々木で会ったとき、若いころの記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、思い出せる思い出がすごく少なくなっていたって言ってたよね」

「うん」

「それなのに、こんなに事細かに昔のことをすらすら言えるって、おかしくない?」

 僕はわりと、決定的なことを言ったつもりだった。しかし、佳子さんは、またしても、にべもなかった。

「別に。おかしくないと思うけど」

「ええ、だってずいぶん記憶が鮮明だと思うけど」

「そうかなあ。あたし、だいぶ過去の記憶をたどっていくきっかけ、なくしたんだよ」

「じゃ、なんでこんなすらすら出てくるの」

「えー、これでもたどたどしい方よ」

 僕は、何を言っているのかと思った。

「全然、たどたどしくないじゃん」

「あら、そう?昔に比べるとかなりたどたどしくなったのよ」

「じゃ、昔はどんだけだったの?」

「昔?ああ、世界史の本は、全部覚えたわ。一晩で。」

 僕は一瞬言葉に詰まった。さらに佳子さんは続けた。

「あと、英語の単語帳もだいたい一晩ね。高校三年のとき、英語で三十分話す弁論大会があったけど、これも一晩で台詞覚えたの」

 え?どれだけ記憶力が抜群だったんだ?そういえば、予備校のチューターとしての佳子さんのキャッチコピーは「偏差値七十八の歌姫」だった。模試では平均で偏差値七十八をとっていたって予備校の先生が言っていたな。その上、歌がうまいという触れ込みだった。そんな思い出話を思い出している僕を尻目に、佳子さんはさらに続ける。

「あと、円周率も一万桁くらいまで覚えたなあ」

 ずいぶんすごい話をさらりとする。

「あとね、予備校の生徒の顔と名前は、みんな、一致してたんだよ」

 僕と佳子さんが通っていた予備校は、当時ものすごく生徒が多くて、同じ学年だけで五百人はいた。その顔と名前を全部覚えていたなんて、すごい。

 ん?でも、全部覚えていたはずなのに、なんで僕は「覚えていない」と言われたんだ?この疑問は答えによってはまずい疑問なので、できればそのままにしておきたかったが、そのままにしておくと僕の心の中で腐って異臭を放ってしまいそうだったので、思い切って聞いてみた。

「あの、そうすると、僕はどうして、記憶から抜け落ちてたの?」

「んふ」

 んふ、というのはコメントではなく、口を閉じたまま、飲んでいたビールと笑いが噴き出るのをこらえたときに発した音だ。

「ワンコちゃあん、わかんないかなあー」

 少し酔ったような佳子さんの言葉は、僕にはわかんなかった。

「覚えていたに、決まってるでしょ」

 佳子さん、それって、どういうことですか。

「じゃあなんで、記憶がよみがえって泣いた、みたいな展開になったの?」

 僕は少し怒り始めていた。すると、佳子さんは、冷徹に言った。

「そしたら、盛り上がらないじゃん」

「ええっ!」

 盛り上がらないから、忘れたふりをしていた?そういうこと? 僕の中で、佳子さんとの代々木のバーガーの感動の名場面のページがビリビリと音を立て破れていった。僕は次に、疑問に思ったことを聞いた。

「あの、いつから僕のことに気づいていたの?」

「最初から」

 佳子さんは、また悪びれずにさらりと答えた。

「最初って、いつ?」

「手帳を拾ったときよ」

「ええ!」

 僕はまたびっくりしてしまった。

 ちょっと、ちょっと。僕がありったけの勇気を出して、面倒くさいのも必死の思いで乗り越えて、なんとかかんとか、ひょっとしたら、この人が佳子さんなんじゃないかって全力で聞いた話は、全部、全部、佳子さんは僕の素性を知った上ではぐらかしていたのか!

 僕は、頭にきた。

「ちょっと!それって、おかしいじゃん!」

「何が?」

 佳子さんは、まったく表情を変えない。

「だって、僕が最初の電話のとき、『ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください』って言ったときに『…何ですか?』って不信感ありありの返事をしてたよね。あと、僕が、必死に、笑っちゃうくらい熱っぽく『あのう、覚えていますか』って言ったら、『申し訳ないんですけど、覚えていません…』とか言ってたよね。それってものすごく失礼じゃない?」

「そうかなあ」

 佳子さん、それは失礼ですよ。僕はもう断定するしかなかった。

「失礼だ!」

「そんなこと、ないと思うよ」

 熱くなる僕を尻目に、佳子さんはなおも冷静さを崩さない。

「なんで?」

 僕のありったけの熱意をこめた抗議をした。しかし、佳子さんは無表情で反撃した。

「だってさ、盛り上がったから、それで、いいじゃない」

「盛り上がったら、いいの?」

「うん」

 あまりにも簡潔にうなずく佳子さんを見て、僕は、代々木で会ったときのひとつの出来事を思い出した。

「そしたら、もしかしたら、あの白いワンピースを着てきてくれたのも、盛り上げるためだったの?」

「そうよ。だって、ワンコちゃん見事にびっくりしてくれていたじゃない。真冬になんでこんな真っ白な服来てるんだって、顔に書いてあったわよねえ。もうあたし、笑っちゃいそうだった。狙い通りで。」

 僕は佳子さんの仕掛けにまんまとはまったということか。真っ白な服の裏話を聞いて、僕の頭が真っ白になった。

「下手な映画見るより、よっぽど面白いし、すごい展開だったよ、私たち。あの様子、ずっと撮影しておきたかったくらい」

 佳子さん、なんてこと言うんですか。僕たちの素敵なはずの、大事なはずの思い出は、単なる映像素材なんですか。僕はそう言ってさらに抵抗を試みようとしたが、佳子さんはさらに戦意を失わせる一言を先に言った。

「これくらい、面白いことにならないと、あたし、ノラないのよね」

 ノリですか。僕と佳子さんはノリの関係ですか。

「だって、恋愛とか出会いの話って、最近、ほんっとつまんないじゃない。ていうか、昔から、あたしはすごいつまんない恋愛とか出会いしか、なかった」

 そういうと、佳子さんは、机の上で結露して汗をかきまくっていた二本目の缶ビールにさっと手を伸ばした。プシュッという音が、佳子さんの長く細い指の先から、小さく響く。

「恋愛とか、出会いとかが、つまらない、の?」

「そうなのよ!」

 一言いうと、佳子さんは、ビールを勢いよく、すでに泡で曇ったカットグラスに注いだ。間髪入れずに、がぶりと飲んだ。さっき日本酒をあおっていたじじに、飲み方が似ている。そう思った。

「だって小さいころから、パパのお金目当てであたしに言い寄ってくる人は本当にたくさんいたし、男の人だって、あたしそのもののことじゃなくて、大王子観光のことだったり、あたしの顔とかだったりをチヤホヤチヤホヤして、ほんとにあたし、ウ・ン・ザ・リ・なの」

息を一瞬継いで、佳子さんは続けた。

「だから、仕事に熱中したんだけど、うまくいかなくて、病気になっちゃってね。うら若き時代が失われてつらかったわあ」

 あの、佳子さん、うら若き時代が失われたって言いますけど、今でも僕よりうんと若く見えるんですけど。そんな突っ込みを入れる隙も見せずに、佳子さんはしゃべり続けた。

「だから、あたしは、なんかドキドキするような話とかにあこがれて、それで雑誌の仕事を始めたわけ。でも、ドキドキする前に雑用が死ぬほどあって、本当に徹夜続きで死にそうになって、病気になっちゃったんだけどね。世の中ってなんなのよねえ」 

佳子さんの話は少し愚痴になっていた。

「あの、それで何か面白いことをって、思った、というわけ?」

「そう!」

佳子さんは力強くそう言うと、一気に乾かしたグラスをカタン!と机に置いた。

「ワンコちゃんの手帳を拾ったのは、本当にたまたまだったのよ。でもね、あたし、ピーンときたの。これって、何かの始まりじゃないかなって。『初めて電話するときにはいつも震える』っていうけど、あのときはほんとに緊張したのよ」

 ニア・プリンセスの佳子さんが、プリンセスプリンセスの代表曲の歌詞を引用して、始まりのときの自分の心境を、力説した。そんなことに気づいた僕は、ようやく、少し冷静になって話ができるような気がした。

「うーん、でも、それってリスクがある話だよね」

「リスク?何が?」

「だって、僕が最初の電話を受けた時に『では、近いうちに中野坂上駅前の交番に、届けておきます。失礼しました』って言って、佳子さんわりとすぐに電話を切ろうとした、よね。もし僕が『ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください』って言わずに、あっさり電話を切ったらどうするつもりだったの?」

「ああ、そしたら、しょうがないじゃない」

 僕は少しがっかりした。

「ええ、だってそうしたら、僕たちもう会えなかったんだよ!」

「そんなことないわよ」

「なんで」

「もしそうなっちゃっていたら、違う手を考えていました」

「違う手?」

「そう。違う手」

「どんな手?」

「それは、言えないなあ」

「なんで?」

「だってまだ、どこかで使う手かもしれないじゃん」

 僕は息を飲んだ。この人、僕を相手にロールプレイングゲームでもやっているつもりなんじゃないか?少し僕は不信感を持った。

「そんなのロールプレイングゲームみたいで、いやだ」

「何言ってるの。人生ってロールプレイングゲームみたいなもんよ」

「なんだか遊ばれているみたいで、いやなんだ」

「なんで遊ばれるのが、いやなの?」

「だって、僕」

そこまで言って、僕は次の言葉をどうしようか、迷った。「だって、僕、佳子さんのこと、本気で好きだから」というのが言いたいことだった。でも、それを言ってしまうと、みわちゃんに悪いし、それによく考えたら少し違うので、「佳子さんにはいつも圧倒されていて、単なる好きとはちょっと違う感情があって、緊張するし、そこによくわからない感情もあるから」というようなことを言いたかった。

 しかし、少し興奮していた僕は、違う言い回しをしてしまった。

「だって、僕、佳子さんといると、緊張するから」

 これは、正確な表現ではない。緊張するのなら、社長の前に行けば緊張できる。それと同等に伝わってしまわないか。僕が心配してすぐに訂正を入れようとしたところ、すかさず佳子さんが先にコメントした。

「あらあ、よかったわ」

「何がよかったの」

「あたし、緊張する人って好きなのよ」

「ええ、なんで」

「だって、緊張っていいことじゃない」

「ええ、だからなんで」

「昔の紅白歌合戦とか、そうだったじゃない。歌手が思いっきり緊張して、キーが少し上がって、バンドも緊張して、少しテンポアップしたりして、紅白独特の世界があるでしょ。あの緊張感が、すごく生々しくて、人間らしくて、熱があって、パワーがあって、あたし大好きなの。何度でも見たくなっちゃうのよね、ああいう真剣勝負。ワンコちゃんがあたしのこと見て緊張するって言ってくれるってことは、あたしとも紅白みたいな関係だってことよね。それって、すごい、素敵だわあ。あたしに言い寄る男ってなんだかみんな自信があるか空威張りかどっちかで、緊張感、ぜんっぜんなかったのよね。なんだかワンコちゃんって、新鮮!いいわあ!」

 そう言って、佳子さんは、少しビールで赤くした顔で、笑った。

「あのう、でも、僕、あの、遊びだったら、やだなあ」

 僕はなおもつぶやいた。

 すると、佳子さんは、まじめな顔をして、言った。

「遊びっていうけどね、これは、ものすごく、真剣な遊びなの」

「真剣な遊び?」

「そう。遊びを遊んでやったらダメ。ワンコちゃんとは、真剣に、ねっ」

 佳子さんはいつもの「問題文は最後まで読まないと、ねっ」に似た決め台詞を言うと、立ち上がって、窓の方へと歩いた。

 僕は後ろ姿を見ていた。あのかわいらしかった、若くてかわいい佳子さんの後ろ姿が、いつのまにか、ものすごい大人びた後ろ姿に変わったような気がした。その上、得体の知れない厳しい雰囲気が漂っていた。夜叉の後ろ姿のような気さえした。

 すると、佳子さんはくるりと僕の方に振り返った。正面の姿は、やはりいつもの、若くてかわいい佳子さんだった。佳子さんは少しほほえんで、言った。

「ワンコちゃん。きょうはありがとう」

「ううん、僕の方こそ」

 佳子さんと僕の間に、少し沈黙が流れた。五秒よりも、さらに長い沈黙だった。こんなに沈黙が流れたのは、再会してから初めてだった。  

 佳子さんが、少しだけ顔を上げた。

「寝ようか」

「うん」

 僕は軽くうなずいた。また、僕の中で緊張感が高まってきた。

 


 十五畳の和室を照らしていた電灯が消された。部屋の隅にあるぼんぼりのような照明に、電球の色をした光が淡くぼんやりと見える。部屋の中の明かりは、非常灯のようなそれだけだ。今、僕の心の中も非常灯で照らされているようなものだった。だって、佳子さんが、隣の、というか、くっついている布団に横になっている。そんなこと、信じられない。まるで、サンタクロースが隣に寝ているようなものだと思った。僕は今、サンタと背中合わせだ。このサンタは、一体何を持っているのだろう。このサンタは、一体どこから僕の心の中に入ってきたのだろう。このサンタは、一体何を考えているのだろう。このサンタは、僕をソリに乗せて、どこに連れて行こうとしているのだろう。僕はまったくわからない。寝られない。緊張する。

 ちなみに、みわちゃんとは、毎晩同じベッドで寝ているけど、まったく緊張しない。あまりに緊張しないためか、僕のいびきはうるさいようで、いつのころからか、僕の頭の前にみわちゃんのつま先、僕のつま先の前にみわちゃんの頭がくるようになってしまった。

 でも、今夜は、いびきなんて、かけない。いや、いびきをかく前に、そもそも寝られない。僕がちょっといらいらとして、限られたスペースの中でダンゴムシのようにもぞもぞと動くと、僕がかけている大そうな布団はこんもりと盛り上がった。

 そのときだった。隣の布団から、寝息のようなかすかな呼吸が聞こえた。やった。佳子さん、寝てくれたのかな。僕は緊張感の源泉の佳子さんが寝てくれたようで、少しほっとした。盛り上がった布団を直そうと、少し、佳子さんの側に体を向けた。

 すると、暗闇に、猫のような鋭い瞳が、らんらんと輝いていた。ひゃっ。僕は逃げ出しそうになった。しかし、鋭い瞳は、僕が逃げ出すことを許さなかった。

「ワンコちゃんっ!」

「起きてたの?」

「起きてたよ!」

「寝息みたいなのが聞こえたから、寝たと思った」

「だってワンコちゃんがずっとむこう向いてるから、振り返っても

らおうと思ってニセ寝息をたてたの」

ニセ寝息!佳子さん、面白いこと言うなあ。そう思うのと同時に、僕は、佳子さんが僕に振り返ってもらおうと思って、ニセ寝息を立てた、という言葉がちょっとうれしかった。女の子が、僕に振り返ってもらおうとして何かしてくれるなんて、いつ以来だろう。少なくとも、最近はなかった。僕は少し、幼い喜びに浸った。

「ねえ」

「なあに」

「ワンコちゃん、昔に比べて、かっこよくなったよね」

 ええ!佳子さん、今なんておっしゃいましたか。

「どこが」

「全体が」

 ええ!佳子さん、何言っちゃってくれるんですか。僕はまた鼻血が出そうだった。

「全体がって。どんなところが、いいのか、知りたいなあ」

 僕はそんな、高校生みたいな感想を漏らした。

「そうね」

 佳子さんは、丸い頭の上に布団を巻きつけてるようにして、言った。

「今のワンコちゃんは、あたしにいろんなことを教えてくれるようになったんだよね。じじも、感心していたけど、天気予報のことだけじゃなくて、いろんなこと、あたしに教えてくれてるんだよね。今まで、お金をくれるとか、ブランドのバッグをくれるとか、そんな人はいっぱいいたけど、知恵とか、知識とか、見えないものをくれる人って、なかなかいなかったのよね。あたし、それがすごく新鮮に見えるの。それが、たぶんかっこいいって思う理由なんだよね」

「そんな、僕はそんなにたいしたこと、言ってないよ」

「ううん、そんなことないよ。だって、知恵とか、知識とかって盗まれないじゃない」

「盗まれない?」

「そう。お金とかブランドのバッグとかは、盗まれることもあるけど、知識とか、知恵とか、考え方って、どんな大泥棒がきても、盗まれないのよね。あたしの頭の中にちゃあんと残っているの。だから、ワンコちゃんからは、どんな大泥棒がきても、大丈夫な、素敵なプレゼントをもらったんだなあって、思ったんだよね」

「いや、そんな、僕は佳子さんの役にまだ、立っていないし」

「そんなことないよ。あたしの宝物がきょう、いっぱい増えた。ありがとね、ワンコちゃん」

 佳子さんはそう言うと、暗闇の中で瞳をキラキラと輝かせて、僕を見つめてくれた。僕はその瞳が、どんなダイヤモンドよりもきれいだと思った。

 僕も、佳子さんをじっと見つめた。佳子さんは、頭を枕から下ろして少し前に動かし、暗闇に映える、色白のつややかな顔を少しだけ僕の方に近づけた。僕も、暗闇の中で、頭を枕から下ろして少し前に動かし、佳子さんの方に、少しだけ顔を近づけた。僕たちの距離は、二十センチ足らずに近づいた。再会するまでにかかった年の数の二十三、そして、僕たちの背丈の差の二十三センチよりも、わずかに数字は小さくなった。

 ここで僕は、耳を澄ませた。佳子さんの鼻息が、かすかに聞こえた。まるで、押し殺すような鼻息だった。そして、僕の胸の高鳴りも、はっきりと聞こえた。どく、どく、どく。どりゅん、どりゅん、どりゅん。体中の血液のめぐる音が、いま、佳子さんの前でうなりをあげて大きくなっていた。佳子さんは、目を大きく見開いて、僕のことを見た。僕もきっと、同じように佳子さんのことを見ていたと思う。 

 不意に、佳子さんが、目を閉じた。柔らかく美しい曲線を描いた、瑞々しい桃色の唇を、僕に向けて、丸く、軽く、わずかにすぼめた。僕は息を飲んだ。こんな瞬間が、僕みたいな人間の人生に、訪れるんだ。僕は、自分の運のよさが、信じられなかった。僕は、胸がつぶれそうだった。しかし、ここでつぶれたら、男がすたる。僕はすぐに気持ちを切り換えた。

 いや、気持ちの切り換えには、五秒かかった。僕にしては、ずいぶん時間がかかった。なんでだろう。そんな思いを抱きながら、僕は、顔を、佳子さんさらに近づけた。

 その瞬間だった。僕の目の前で、驚くべきことが起きた。


 ぶわっ。突然竜巻が現われたような轟音がした。見ると、佳子さんが、大そうな厚い掛け布団を、ありったけの力でぱあっと空間に広げた後、すっぽりとかぶったところだった。

「ダアー、シャリヤスッ!」

 呪文のような言葉だったが、僕はすぐにその意味がわかった。

「ドア、閉まっちゃったの?」

「わかった?」

 布団の中から、くぐもった声が聞こえた。

「だって、『ダアー、シャリヤス』でしょ。もう発車してください」

「えへっ」

 少し説明すると、佳子さんの言った「ダアー、シャリヤス!」というのは、京急の電車が出発するときに、ホームにいる駅員さんや車掌さんが「ドアが閉まります」という言葉を崩して言うときの言葉、とされているものだ。実際には、こんな乱暴な言い方はしないけど、京急の雰囲気にこの言葉がよく似合うため、鉄道ファンの間では「ダアー、シャリヤス!」と言うと、それは京急の電車が出発するときのこと、ということで通っている。鉄道好きで、しかも京急沿線に住んでいた佳子さんは、おそらくこの言葉が好きなのだろう。小田急沿線の僕には、実感がわかない話だけど、僕も鉄道は好きなので、これくらいの話は知っている。

「ワンコちゃん、京急知らないのに、よく知ってるね」

「たまたまだよ」

 僕が少しあきれてそう言うと、また、僕の心に刺さる鋭い返事が返ってきた。

 

(「後編」につづく⇒ http://ncode.syosetu.com/n3151dx/1/ )

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