11
今日も今日とて朝比奈は水嶋家に来訪し、百合子とお喋りに花を咲かせていた。
来訪する度に朝比奈は、百合子にはブローチや髪留め、ハンカチーフなど、椿には絵本やお菓子などをお土産として渡していた。
「朝比奈様、よろしかったらお夕飯を一緒に食べて行かれませんか?」
百合子と話し込んでしまい、もうそんな時間になったのかと朝比奈は腕時計で時間を確認した。
「いいの?せっかくの家族の団欒なのに」
ここは申し出を辞退する所であるのは朝比奈は分かっていたが、もう少しだけ百合子と一緒の時間を過ごしたかったのだ。
朝比奈からの返事を聞き、百合子は使用人に朝比奈の分の夕飯を準備する様にと頼んだ。
すぐに使用人が部屋から出て行き、ほどなくして朝比奈の分の食事の用意が出来たと知らせて来た。
さすが水嶋家の使用人、仕事が早いと朝比奈は感心するしかない。
百合子をエスコートし、ダイニングへと向かうとすでに春生と子供2人が朝比奈と百合子の到着を待っていた。
「ったく。ほぼ毎週毎週来やがって。お前は暇人か。仕事しろ」
「してるよ仕事。ただ僕は役員でもない平社員だから融通が利くってだけだよ」
さすがに仕事をサボってまで百合子に会いに来るはずが無い。
春生が本気で言っている訳では無いと朝比奈は理解していたし、砕けた口調で話しかけられるのは正直嫌いではないのだ。
「お兄様。朝比奈様に失礼ですわ。気落ちしている私を励まそうとしてくださってるだけですのに」
「百合子、お前…それ、信じてたのか」
同時に春生が同情の眼差しを朝比奈に向けて来た。
百合子に会いに来たとは勇気がなくて言ってないだけである。
いたたまれない気持ちになり、朝比奈は今夜の夕飯の話題を口にした。
「あ、今日はフレンチなんだね」
「お前な…、まぁいい。最近和食が続いていたから食べたくなっただけだ」
「お兄様。せっかくの食事なんですから楽しい話をしましょう」
と、食事中は朝比奈をいじる春生を百合子が諌めると言う状態になっていた。
尤もこれは学生時代からこうであったので、長く水嶋家に勤めている使用人は、むしろこの光景を懐かしいとすら思っていた。
前から水嶋家に来訪していた朝比奈を知っている恭介にとっては見慣れた光景なのか、黙々と食事をとっている。
逆に椿は見慣れない光景に手を止め見入ってしまっていた。
瀬川はそんな椿を見て、『お手が止まっております』とそっと囁き、我に返った椿は食事を再開するのだった。
食後のデザートの時間の事だった。使用人が紅茶を淹れる為のティーセットを持って来た。
持って来たティーセットを見た百合子は顔を綻ばせる。
「まぁ、このティーセットは初めて拝見しました。とても綺麗で品がありますわ。どこのメーカのものです?」
「…それは朝比奈陶器のものだ。3年前くらいに薫がデザインしたもので、家に押し付けてきたんだよ」
「押し付けてないよ!百合子さんをイメージしてデザインした物ですごく良く出来たから水嶋家にあげたんじゃないか」
「え?私をイメージしたデザインなのですか?確かに百合ではございますけれど」
朝比奈は自分の発言にアワアワと慌てだした。
つい売り言葉に買い言葉になってしまったが、百合子をイメージしたとは伝えるつもりは微塵も無かったのだ。
朝比奈の心情など余所に百合子はカップを手に取りしげしげと絵柄を見ている。
まるで生きてる心地がしない朝比奈は思わず元凶の春生を睨んだが、当の本人は素知らぬ顔をしている。
「やはり朝比奈様は才能がおありなのね。素晴らしいデザインですわ。あ、ねぇ覚えておいでかしら?昔、私に陶器をプレゼントしてくださった事がありましたでしょう?」
「…うん。覚えているよ」
忘れる訳がない。あの出来事が今の自分を作ったと言っても過言ではないのだから。
それに、百合子に恋い焦がれるようになったのも。
「お兄様達が初等部の修学旅行からお帰りになった時に、朝比奈様がお土産を持って来てくださって、その時に手にお持ちになっていらっしゃった陶器の湯呑に百合が描かれていて」
「百合子が自分の湯呑だって薫から強奪したんだよな」
「だってとても私好みのデザインだったんですもの。あと強奪はしておりませんわ。ちゃんと朝比奈様に了承を得ましたもの。ねぇ」
過去の自分の不名誉な行動を払拭するため、百合子は朝比奈に同意を求めた。
朝比奈も快く百合子に手渡した記憶しか無いので、百合子の意見に同意する。
「そうだね。僕は快く百合子さんに渡したよ。春生、記憶を改ざんするのは良くないな」
「そうですわ」
朝比奈を味方に付けた百合子が半分笑いながら兄である春生に詰め寄った。
それを受けて、春生は両手を上げ降参のポーズを取る。
「俺の記憶が間違っていたと認めるよ」
春生の言葉を聞いて、朝比奈と百合子は顔を見合わせ笑い合った。
「そう言えば、その後湯呑を洗ったら絵が消えてしまって、私ったら泣いてお兄様を困らせましたわね」
「結局もう1度薫に描いてもらう事で落ち着いたんだったか」
「泣き腫らした目で湯呑を差し出してきた時はどうしたのかとびっくりしたよ」
「その節はご迷惑をお掛けしまして。でも、あの湯呑は今もございますのよ?この間瀬川が出してきた時は懐かしい気持ちになりましたもの」
まだ持っていてくれていたのかと朝比奈は嬉しくなってしまった。
あの湯呑が朝比奈の未来を決めたのだ。
朝比奈薫は朝比奈陶器社長の三男として生を受けた。
あまり口数は多くないものの、愛妻家で子煩悩として知られていた父親と、その父親を側で支えていた母親。出来の良い兄2人とお転婆な妹。
家族仲は非常に良かった。
しかし外野は勝手な事ばかり口にしていた。
『スペアにもならない三男』『出来の良い長男次男に比べるとダメね』『跡も継げない可哀想な子』
『絵が得意?将来は穀潰しだな』
決して両親は朝比奈をその様に扱っていた訳では無い。4兄妹平等に分け隔てなく愛情を注いでくれていた。
だからこそ、自分が何をするべきか、朝比奈の為に何が出来るのか悩む日々だった。
転機が訪れたのは朝比奈が6歳の時だった。
都内の私立進学校に通う兄2人と同じく、朝比奈もそこを受験すると思っていた。
しかし両親から言われたのは鳳峰学園の初等部の受験であった。
朝比奈と同じ年に水嶋グループの御曹司である水嶋春生が入学すると言われていた。
何とか水嶋とお近づきになりたいと、その年の初等部の倍率は鳳峰学園の歴史に残る程凄いものであった。
他の家もそうであったように朝比奈家も多少は期待していたのだろう。
難なくとは言えなかったが、朝比奈は無事に鳳峰学園初等部に合格する事が出来た。
しかし、入学しても朝比奈は春生に話し掛ける事は無かった。
朝比奈から見た春生は幼いながらも大企業の御曹司としての威厳があり、自分にも他人にも厳しい優秀な人間であった。
だからこそ、春生に対して劣等感を持ってしまう。更に自尊心が傷つけられるのだ。それ故に朝比奈は春生に対して苦手意識を持っていた。
だが、何の因果か朝比奈は春生と交流を持つようになってしまった。
ただ単に朝比奈の幼馴染であった一之瀬理沙が春生と同じ委員会に入り喋るようになり、その流れで朝比奈にも春生は話し掛けるようになったのだ。
春生にとっておべっかを使わない朝比奈と居るのは楽しく、居心地が良いものだったのもあり、一緒に居る時間が格段に増えて行った。
人と言うのは不思議なもので1度仲良くなってしまうと苦手意識が薄れるもので、朝比奈は春生に対して劣等感を抱く事が次第に無くなって行った。
そしていつの間に周囲に朝比奈と春生が親友だと周知されるようになっていた。
百合子と出会ったのは朝比奈が高学年になってからだった。
朝比奈の妹と春生の妹が同い年だと言うのは知っていたが、だからと言ってこの時は百合子に対してさして興味も無かったのだ。
あれは春生の家まで借りていた本を返しに行った時の事だった。
百合子を見た時の事は今でも鮮明に思い出せる。
春生の部屋に案内され、ソファに腰を下ろしていたところ、ドアが開いて女の子が入って来たのだ。
切りそろえられた艶のある綺麗な黒髪につぶらな瞳、ぽってりとした唇にりんごホッペの可愛らしい女の子であった。
遅れて春生が後ろからやってきて、女の子が妹の百合子であると朝比奈に教えてくれた。
あまりにも自分の妹と違いすぎる容姿と雰囲気に思わず百合子を凝視してしまう。
百合子は恥ずかしいのか春生の後ろに隠れてしまった。
それが初対面だ。ただ可愛らしい子だなという印象しか朝比奈は抱かなかった。
そして前述の陶器の湯呑だが、実は朝比奈は百合子にプレゼントするつもりではなかったのだ。
ただ単に上手くできたから春生に自慢したいが為の行動だった。
それが、春生に見せる前に百合子に捕まったのだ。
来訪理由を百合子から訊ねられ、湯呑が上手くできたから見せに来たのだと朝比奈は答えた。
その湯呑を百合子は手に取り、落とさないように大事に抱えながら、湯呑に描かれた絵を見ていた。
『わぁ。なんて素敵なんでしょう!これもしかして朝比奈さまが?』
『うん。陶芸体験の時に作ったんだよ。これ実は百合なんだ。百合子ちゃんのお花だね』
『はい。私の名前にも百合が入ってますから。おそろいですね!…いいなぁ』
『気に入ったのなら貰ってくれる?家には陶器類が山のようにあるからね』
朝比奈がそう言うと、百合子は顔をパッと輝かせ本当に良いのかと問いかけて来た。
そこまで喜ばれるとは思っていなかった朝比奈は何度も頷き、湯呑を百合子にあげたのだ。
『私の花。私の湯呑。とても素敵です。朝比奈様は絵の才能がおありですのね。私、朝比奈様の絵が大好きです。この湯呑大事にしますね。本当に素敵…。今度は私に絵を描いてくださいね』
百合子の言葉を聞いた瞬間に朝比奈は自分のやりたい事が定まった気がした。
本当に嬉しそうに率直な感想を言う百合子に朝比奈は喜びで胸がいっぱいになる。
身内以外に初めて自分を認めて貰えた気がして嬉しかったのだ。
『朝比奈さま!?どうなさったの?私何か悪い事を言ってしまったでしょうか?』
心配そうに朝比奈の顔を覗き込む百合子を見て、初めて自分が泣いている事に気が付いた。
周りの言葉なんて気にしないようにしていたが、知らぬ内にストレスを溜め込んでいたのかもしれない。
百合子が朝比奈の足枷を外してくれたのだ。
それが始まりだった。
最初は恋では無かった。いや、そう思い込もうとしていたのだ。
相手は妹と同い年の低学年の女の子。恋愛感情を抱く方がおかしいと朝比奈は否定していた。
だが、中等部に進学して随分と大人びた百合子を見て、自分の気持ちに嘘がつけなくなった。
さらに、その神々しさから百合子ちゃんから百合子さんと思わず呼んでしまい、それが定着してしまったのは失敗だった。
まさかそれから15年近くも百合子に片思いする事になるとは思ってもいなかった。
両親にも春生にも自分の気持ちはバレバレで、周りから固めて行けとのアドバイスにより、徐々に自分の足場を固めたり、百合子にはそれとなくアプローチをしたりしていた。
そうして、朝比奈が水面下で動いていた時期に百合子は他の男性と恋に落ちてしまう。
周囲は何とか目を覚ませと説得していたが、初めての恋に浮かれる百合子には全く効果は無く、彼女は家を飛び出してしまったのだ。
それから数か月後、朝比奈は春生に呼び出され、水嶋家へと向かった。
そこで春生からある事を知らされた。
『百合子が結婚する事になった』
初めは春生の言っている事が朝比奈にはさっぱり分からなかった。
どういう事なのか脳が処理しきれない。
『百合子があの男の子供を妊娠して、親父が折れた。すまない』
百合子に子供が出来たと聞き、朝比奈はその場に膝をついた。
春生の声など全く聞こえて無かった。
春生からの報告の後、朝比奈はどうやって家まで帰ったのかすら覚えていなかった。
ただ、気が付いたら家に居たのだ。
『そうだ旅に出よう』
朝比奈は思い立ち、スーツケースに手当たり次第に荷物を詰め込んだ。
そしてその勢いのまま朝比奈は空港まで行き、海外に旅立ったのだった。
朝比奈陶器に勤めていた朝比奈が突然姿を消した事で朝比奈家は騒然となったが、チケットの購入履歴から海外に行った事が分かり、長兄が話をする為に朝比奈の元まで来る破目になった。
そこで長兄と色々と話をし、定期的にデザインを送る事を条件に海外放浪を許可してくれた。
そして4年前に朝比奈はようやく日本に帰って来たのだ。
傷が癒えた訳でも吹っ切れた訳でも無かったが、2年の間に百合子を祝えるくらいには回復していた。
どれだけ忘れようと努力しても無理であった。どのような女性が近寄って来ても百合子を基準に考えてしまい、先に進むことは無かった。
これからも自分は百合子を好きなままなのだと2年間の放浪で思い知ったのだ。
兄2人には既に男児が複数居り、後継ぎも居る。自分が独身のままでも問題は無いのが救いだった。
独身のままで生きると決意し3年後、朝比奈は自分の意見を見事にひっくり返す事になる。
朝比奈の妹の恵美里から百合子が離婚するかもしれないと言う情報を得たからだ。
残念ながら妹は裁判の準備で忙しく、様子を見に行くことは出来ないと言う。
だから兄である朝比奈に代わりに行かせようとしたのだ。その妹の申し出を朝比奈は快諾し、あの日水嶋本社の春生の執務室まで押しかけた。
海外に行っていた時にやけくそで結婚しなくて良かったと心から思いながら、朝比奈は春生に百合子を下さいとお願いするのだった。