噂の顛末(その5)
新学期が始まり、穏やかな日々が続いていた。あれ程心配していた事は、日々の拓都の元気な様子に、慧の言うように、やはり杞憂だったのかも知れないと思い始めていた。
拓都からは、だんだんと初めてのお友達の名前が聞かれるようになった。それでも休憩時間に外に出て遊ぶ時は、翔也君や陸君とも一緒に遊んだりしているらしい。
そして、去年と同じように、拓都の口から良く出るのは担任の名前だ。どうも、今度の担任はとても面白い先生らしい。確かに引っ越しの時も、明るい先生だなと思ったけれど、拓都の話を聞いていると、教室中に笑いが溢れている様子が想像できた。
その事を慧に話すと、少し憮然として、「まあ、広瀬先生は面白い人だからな」とどこか拗ねたような口ぶりに、思わず笑ってしまいそうになった。ここで笑ったら、余計に不機嫌になってしまうので、笑いは心の中に納めておいた。
「この土日のどちらか、お天気良かったらハイキングにいかないか? せっかく拓都のパパになったのに、なかなか遊ぶ時間とれないものな」
慧は一番忙しい時に結婚したせいで、平日は連日拓都の眠った頃にしか返って来れず、新学期が始まっての最初の土日の休みも、まだ完全に片付いていない引っ越しの荷物の整理や、結婚式場での打ち合わせ、結婚式の招待客の相談も兼ねて慧の実家への帰省、と3人でゆっくりと過ごす時間は取れていなかった。
慧は、拓都の口から出るのが、今の担任の話ばかりで、自分の事が出てこない事が寂しかったのかもしれない。でもね、拓都は恥ずかしいのだと思うの。あんなに自慢のように話していた担任が、自分の父親になった途端、呼びかけるのさえ恥ずかしそうで、ちょっぴり可哀想だ。
今朝も拓都は「先生」と呼んでしまい、「先生と言うのはまちがいじゃないけれど、俺は拓都のなんだ?」と切り返され、拓都は恥ずかしそうに小さい声で「パパ」と呼んでいた。
「いいわね、天気予報では良いお天気らしいから、お弁当を持って出かけようか?」
「それいいな。そうだ、キャッチボールの用意もして行こう。拓都との約束だしな」
私はいつも拓都の事を考えていてくれる慧に、感謝の気持ちを込めて満面の笑みで頷いた。
*****
4月16日土曜日は、晴天の穏やかな日だった。
「拓都、今日はお弁当を持ってハイキングに行くぞ。グローブとボールも持って行ってキャッチボールもしよう」
朝食の時に慧が拓都にそう言うと、拓都は破顔して「ほんと! やったー!」と叫んだ。
本当は週の中頃から予定していた事だったけれど、当日になって行けなくなると拓都をがっかりさせるといけないからと、慧に当日まで口止めさせられていた。お陰で良い役は彼に持って行かれてしまったけれど。
「ママ、キャッチボール日和だね」
拓都が私の方を向いてニコッと笑った。
まだ覚えていたんだと思いながら、「そうだね」と笑い返す。
「今日はキャッチボール日和だけど、ハイキング日和でもあるぞ。さあ、用意して出発だ」
お弁当とお茶を持ち、グローブとボールも用意して、車で一時間弱の国定公園にある大きな自然公園へとやって来た。整備された遊歩道を三人で歩きながら、慧はデジカメで風景の写真を撮っている。拓都は遠足以外のハイキングなんて初めてだからか、ワクワクした表情で何かを見つけると小走りで近づき、「ママ~」と呼びながら手招きする。まだ「パパ」と呼ぶのが恥かしいらしい。
「拓都、呼ぶのはママだけか?」
拓都の方へ近づきながら、慧が拗ねたように意地悪な事を訊くから、拓都は可哀想になるぐらい首を横に振っている。
「もう、そんな意地悪言わないであげて」と慧を睨み、「拓都もパパって呼んであげてね」と苦笑しながら拓都にお願いした。すると拓都が小さな声で「パパ」と呼ぶから、嬉しそうに笑った慧が拓都の頭をグシャと掻き混ぜると、「よーし、拓都。その大きな木の前で写真を撮ってやるから、ママと並んで」とカメラを構えた。
「写真を撮りましょうか?」
慧が何枚か撮った後、慧のご両親ぐらいの年代のご夫婦が近づき、私達3人一緒の写真を撮ってくれると言う。慧は笑顔で「お願いします」とカメラを渡し、私達の所へ来ると、拓都の後ろに立って肩に片手を置き、もう一方の手で私の肩を抱き寄せた。
これが私達の家族写真第一号だった。
芝生にひいたシートの上でお弁当を食べ終わると、慧は立ち上がり「拓都、キャッチボールするぞ」と声をかける。デザートのイチゴを食べていた拓都は、彼の言葉にみるみる笑顔になり、元気に「うん」と答えるとグローブを持って彼の後を追って芝生へ飛び出していく。
私は、そんな二人をシートに座って眺めた。
こんな日が本当に来るなんて……。
千裕さんや由香里さん家族と公園へ遊びに行くたび、感じないようにしていた羨ましさや拓都への不憫さが、今ゆっくりと溶けてゆく。
慧のボールを逸らした拓都が、走ってボールを追いかける。そして拾って振り返り「パパ」と大きな声で呼んだ。その声を聞いた慧は破顔して「おー」と両手をあげて振って見せた。
拓都の投げたボールが、幸せの弧を描いて、今慧のグローブに収まった。
私はじわじわと込み上げるものに気付き、慌ててハンカチを出して目元を押さえた。そんな私に気付いたのか、慧が「どうした?」と傍に歩み寄って来た。拓都がボールを拾いに行っているのを確認して、慧を見上げた。
「なんだか、幸せすぎて、怖いみたい」
私がポツリと言うと、彼は驚いた顔をした後、呆れたような表情になった。
「ばーか。幸せ過ぎるぐらい幸せなら、喜んでればいいだろ。ほら、拓都が心配するから」
その時、拓都が「ママ」と呼びながら駆け戻って来た。
「どうしたの?」
私が目に溜まった涙を慌ててハンカチで拭いたので、拓都は心配気な表情をした。
「ううん、なんでもないの。欠伸をしたら涙が出ちゃった」
私が苦笑しながら言うと、拓都はホッとした顔をして「なーんだ」と笑って返した。
*****
何事も起こらず穏やかに日々が過ぎても、油断してはいけないと自分に言い聞かせる。拓都の名字が変わっていないから、気付かれずにいるだけで、別なところから結婚の事実が広がれば、あっと言う間に噂の渦中へと引きずり込まれてしまうのだ。
私はいつもと変わらない日常を過ごしながらも、心の片隅で来るべき嵐に備えるように緊張していた。慧は新しい学校に慣れる事と仕事の忙しさからか、もう噂の事など忘れたかのように口にする事は無かった。
そんな日々の中でふと目に留まったのは、慧との結婚によって新しく取り始めた新聞のひとつのコーナーの記事だった。
その新聞と言うのは、私達の住むT市とその周辺の地域のみのニュースを載せた地元新聞だった。彼が教師になってから取っていたと言うその新聞は、この地域で開催されたスポーツ等の大会結果やこの地域出身の子供から大人までの活躍が掲載されるため、自分が関わった子供達の活躍が分かるからと、彼はいつも楽しんで見ていた。だからだろうか、子供のいる家庭で良く読まれていると、最近になって知った。
その新聞を拓都が寝て慧が帰って来るまでの間に、何気なく見ていた私の目を止めたのは、『結婚しました』と言うコーナーで、地元の一組の新婚カップルの写真と出会いから結婚に至るまでのインタビュー記事を載せたものだった。
もし、私達の事がこのコーナーに載ったら、私達の結婚に至る真実を載せてもらったら……もしかすると、不倫とか担任と保護者の間で誘惑したとか、言われなくて済むのじゃないだろうか?
そう思い始めると、とてもいいアイデアの様な気がしてきた。
「ねぇ、ねぇ、この新聞のこのコーナーだけど……」
帰って来た慧が夕食を終え、リビングのソファーに座ったのを確認すると、私は新聞を片手に、彼の隣へ座った。テレビのリモコンを持ったままテレビ画面を見ていた彼は、私の差し出した新聞を一瞥すると、「なんだ?」と私を見た。
「このコーナーって読んだ事ある?」
「えっ? この『結婚しました』ってやつか?」
彼の驚いた顔が可笑しくなって、笑いを堪えながら「そーそー」と言うと、途端に怪訝な表情になった。
「まさか、この『結婚しました』に俺達の事を載せようって言うんじゃないよな?」
えっ? 何か機嫌悪い? って言うか、もう私の考えが分かったの?
「いい考えだと思うんだけど……」
私は恐る恐る彼の顔を覗きこんだ。けれど彼は憮然としたまま、大きく溜息を付いた。
「美緒の考えてる事は分かるけど、そこまでしないとダメか? 自分達のプライバシーを公開しなければいけない程、噂に怯える必要があるのか? それとも拓都が何か言われたのか?」
私は首を横に振った。慧にそう言われると、そんな気もして……。
そうだよね、私達芸能人でも何でもないんだから。
「ごめん。浅はかだった」
私はそう言うと、彼の肩に頭を持たせ掛けた。何となく彼のぬくもりに触れたかったのかもしれない。
反省している事を彼に分かって欲しかったのかもしれない。
「なぁ、美緒。美緒はみんなに祝福してもらわなければ嫌なのか?」
彼は私の肩を抱き寄せると、私の方を見て訊いて来た。
「そこまで思ってる訳じゃないの。私はただ、慧や拓都が悪く言われたり、嫌な思いをして欲しくないだけ」
「俺だって一緒だよ。美緒の事を悪く言われるのは嫌だし、拓都にも嫌な思いはして欲しくない。でも、自分達のプライバシーまでさらけ出すような事なのかなって思うんだ。……結局は俺が悪いのかな」
彼はまた溜息をつくと、遠くを見つめている。私は慌てて「そんな事無い」と言ったけれど、彼は私の方を見て力なく微笑んだ。
「去年、いや、もう一昨年か……不倫騒動があったせいで、皆が俺のスキャンダルに敏感になってるんだろうな」
そうじゃないと言おうと思ったけれど、彼の自嘲するような薄い笑いに、何も言えなくなってしまった。
彼は、被害者だと言いながらも、どこかで自分の責任も感じていたんだ。
私は彼のそんな心を少しでも暖めたくて、彼の体をぎゅっと抱きしめた。