噂の顛末（その３）
美鈴に電話をした時の事を思い出すと、また出口の無い迷路を彷徨っているような気になって来る。
あの日は結局、あの後千裕さんに電話をする元気が出なかった。又翌日にしようと早々に眠ってしまったのだった。
翌日である３月２８日月曜日、出勤して同僚達に言おうかどうしようか悩んだ。でも、穂波ちゃんは今月いっぱいで辞めてしまうと思うと、やはり報告はしておかなければと思い直し、お昼休みの時間を待った。
結婚する事を報告するにしても、どこまで言おうか思案しどころ。
結婚の事実をどのぐらい説明すれば納得してもらえるだろう。
お昼休み、いつものメンバーでワイワイとお喋りしながら食事をした後、私は心を決めて皆に話しかけた。
「あ、あの、皆に聞いて欲しい事があって……」
そう言うと、３人の目が一斉に私の方を向いた。そして、穂波ちゃんがニコッと笑うと「何？」と首をかしげた。
「あの、あのですね、私……結婚する事になりまして……」
私はこちらを見つめる３人の顔が見られず、視線をテーブルの上に落として、おずおずと話し始めた。
「えっ？」と言う速水さんの声が聞こえ、視線をあげると、皆呆けたような顔をしている。
「ちょ、ちょっと、美緒ちゃん。今、結婚するって言った？」
速水さんがいつものように捲し立てる。私が恐る恐る頷くと、「うそー！」と言う叫び声。
「美緒ちゃん、付き合っている人いたの？ ねぇ、ねぇ、どうやって知り合ったの？ お見合いとか？ そんな人がいたなんて、聞いていないわよぉ」
速水さんの機関銃のような口調に、頭をくらくらさせながら、私は自分に落ち着けと言い聞かせた。そして、３人の好奇心に興奮したような眼差しを受け止めた。
「あの、大学の時に付き合っていた人と再会しまして、それでとんとん拍子に結婚と言う事になりました。皆に言わなかったのは悪かったと思っているんだけど……自分でも現実味がなくて……」
「わー、美緒ちゃん、おめでとう」
最初に反応したのは穂波ちゃんだった。そして南野さんと速水さんも我に返ったように「美緒ちゃん、良かったね。おめでとう」と破顔した。
「美緒ちゃんは子供もいるし、付き合っている人の事なんて聞いた事無かったから、結婚は考えていないのか、やっぱり難しいのかなぁって思って、その辺の事は聞かなかったんだけど、心配はしてたのよ。やっぱり一人で子育てしているのは大変だしね。それに美緒ちゃんはまだ若いんだし……本当に良かったわ」
南野さんは安堵の表情でそう言うと、ニッコリと笑った。
「そうそう、私も心配していたの。まだ若いのに恋も結婚も飛び越えて子育てに一生懸命だったものね。本当に良かったわ。それで、相手の人はどんな人なの？」
速水さんも嬉しそうに笑って、喜んでくれた。でも、その後の突っ込みは、いつもの好奇心一杯の速水さんだと思いながら、どう答えたらいいかと考えた。
「彼は今教師をしていて、４月から転勤になるので、その前に入籍したいって……あの、私達も穂波ちゃんと同じで、彼が篠崎を名乗ってくれる事になって……」
「わぁー美緒ちゃん達も先に入籍するの？ それで結婚式はいつ？」
穂波ちゃんが仲間が増えた事を喜ぶように、声をあげた。
「ええっ！ 美緒ちゃんの所も婿養子なの？ それじゃあ、美緒ちゃんの家で一緒に住むの？」
穂波ちゃんの質問に答える前に、速水さんが口を挟んだ。
「私達の場合は彼が篠崎の姓に変わるだけで、それで、我が家で一緒に住む予定です。それから、結婚式は５月の第二土曜日なの。穂波ちゃんの結婚式の一週間前で本当に申し訳ないと思っているんだけど、皆で出席してください。お願いします」
私は何とか言い終えて、彼の事はあまり追及されずにホッとした。
「えー！ 結婚式、私より先なの？ もしかして入籍も今月中にするの？」』
穂波ちゃんが驚いた声をあげたので、私は全てにおいて彼女に先んじてしまった事に申し訳なくなった。
「ごめんね。後から決まったのに、スケジュール的に先になってしまって。入籍は３月３１日にする予定なの。でも私は名字も変わらないし、仕事も今まで通り続けるし、私の方はあまり変化はないのよ」
「ううん。私こそごめんね。先でも後でも関係ないのにね。そっか、美緒ちゃんはこのまま仕事を続けるんだ」
穂波ちゃんが少し寂しそうな顔をした。彼女は仕事を辞めたくなかったのかもしれない。
「穂波ちゃんの方は大変でしょう？ アメリカへ行くんだから、英会話と書勉強してるの？」
「穂波ちゃんはね、留学経験もあるぐらいだから、英会話は得意なのよ」
速水さんがまるで自分の自慢をするように口を挟んだ。
「へぇ、そうなんだ。それなら彼も心強いね」
「いや、私も忘れている単語も多いし、今少しずつ勉強し直しているのよ」
穂波ちゃんは照れたように笑った。
良かった。本当に良かった。
穂波ちゃんの結婚の報告の時、おめでとうと言いながら、自分の中にもやもやしたものがあったけれど、これでやっと心の底からお互いの幸せを喜び合えると思うと、素直に嬉しかった。
＊＊＊＊＊
職場の同僚に報告した日の夜、今日こそは千裕さんに報告しなければと思ったけれど、昨夜の美鈴との電話を思い出し、気持ちが沈んで行く。
千裕さんは誰よりも彼の噂を聞いている人だ。彼女の所には保護者の間で流れている彼の噂の全てが集まっているのではないだろうかと思う程、この一年間に彼女の傍で聞かされ続けた。
だから余計に、噂の怖さも、噂の無責任さも知っているから、彼女はどんな反応を示すだろう。
「ええっ！ 拓都君にもう話したの？ まあ受け入れてくれるのは分かっていたけど。パパが欲しかった拓都君だものね。良かったねぇ。大好きな守谷先生がパパになるのなら、喜んでるでしょう？」
拓都が受け入れてくれた話をした途端、彼女は興奮したように声をあげた。
彼女のテンションに怯みながらも、その後の話をする。そして、その度に興奮の声が上がった。
「えー！ 守谷先生のご両親やお兄さん達にも歓迎されたのぉ？ 良かった、本当に良かった。これでもう一安心だねぇ」
千裕さんの興奮した喜びの声に煽られ、私の気持ちも高揚してくるのが分かった。
「それでね、拓都は篠崎家の跡取りだから、彼の方が篠崎の姓に変えてくれるって言う事になって……」
「えええっ！！ 守谷先生が篠崎先生になっちゃうの？！」
いや、だから、あの、そうなんだけど……ファンとしては姓が変わるのは嫌なのかな？
高揚しかけた気分が一気に萎んで行く。
「うん……そうなの。転勤先では、最初から篠崎で行くみたい」
私がそう答えると、また彼女は「エー！！」と叫んだ。
「美緒ちゃん、ちょっと待って。そう言う事は、転勤する前に篠崎に変わると言う事でしょう？ ……と言う事は、４月の前に入籍すると言う事？」
ご名答！！ と心の中で叫んだけれど、何となくそんな明るい声を出せなくて、私は事実を淡々と伝える事にした。
「そうなの。３１日に入籍する予定なの。でも、結婚式は後からするのよ。５月の第二土曜なの。千裕さんも出席してね」
私は感情を込めず一気に言いきった。千裕さんは、今度は声も出ないようで、反応が返って来ない。そうしたら、電話の向こうで「パパ、パパ、美緒ちゃんと守谷先生、３１日に入籍するんだって、結婚式は５月だって」と興奮して言っているのが聞こえた。
千裕さん、私と彼の事は、ご主人には言わないんじゃなかったの？
「千裕さん？」
なかなか電話に戻って来なくて、痺れを切らして名前を呼んでみた。
「ごめん、ごめん。あー驚いた。結婚式はもちろん出席させてもらうね。でも、さすが守谷先生だね。やる事が早い。もう、待ち切れなかったんだよねぇ」
感心するところは、そこですか？
私は彼女の言葉に気が抜けてしまった。
「千裕さん、私達の事は、ご主人に言わないんじゃなかったの？」
「あ……いや、あの……やっぱりこんな嬉しい事、黙っていられないじゃない？」
千裕さんらしくて、私は笑いが込み上げて来て、クスクスと笑ってしまった。
「ねぇ、入籍すると言う事は結婚すると言う事だよね？ だったら、一緒に住むの？」
千裕さんが、守谷ファンとしてなのか、いつもの好奇心いっぱいな口調で訊いて来た。
「その日から我が家で同居して、週末に本格的に引っ越す予定なの」
「美緒ちゃん、結婚するのに、同居って言う言い方、変じゃない？ でもでも、同じ家の中に守谷先生がいるのよね？ なんだか、良いような悪いような……」
「えっ？ どう言う事？」
「だから、同じ家で暮らしていたら、守谷先生のプライベートな姿を見られるのはいいけど、自分の全てを見られる訳じゃない？ ちょっと嫌かも」
は……そんな事、考えもしなかった。
スッピンはもう見られてるし、以前はよく慧の所へ泊ったりしてたから、私の起きぬけの寝ぼけ顔も見られてるし、何とかなると思うけれど。
「そんな事考えていなかったよ。前に付き合ってた時にいろいろ見られているから、それほど気にならないけど、私のいつものプライベートスペースに彼がいるのを見たら、ちょっとドキドキするかも」
私は脳裏に思い描いて、本当にドキドキして来た。
ああ、結婚すると言う事は、そう言う事なんだ。
生活を共にする。それが日常になる。
そんな単純な事なのに、結婚ってなんてエネルギーのいる事なんだろう。
「ふふふっ、羨ましいぞ！ 美緒ちゃん」
「もう、何言ってるんですか！」
「そうだ、引っ越しって大変だから、お手伝いに行こうか？」
「由香里さんも言ってくれてるから、また相談してお願いするかもしれない。その時はよろしくね」
「了解！」
千裕さんの元気の良い返事に、私はまたクスクス笑ってしまった。
彼女の明るい反応に気を良くしたけれど、まだ心の片隅で燻っているもやもやを、千裕さんに相談してみた方がいいだろうか？ 彼の噂話については、彼女が一番詳しいから。
「あの、千裕さん。私と守谷先生が結婚するって言う噂は、すぐに広まると思う？」
最初は千裕さんに何を言われるかと不安だったのに、あまりに明るい反応に、反対にこちらから相談したくなってしまった。このもやもやした気持ちも、彼女の明るさで吹き飛ばして欲しいと念じながら。
「そうだねぇ、守谷先生は転勤していなくなるし、拓都君の名字は変わらない訳でしょう？ でも、虹ヶ丘小学校の先生は知る訳だから、そこからバレルかな？ 結構今までも、先生達の間の事が噂となって漏れてくるのは、先生の中に保護者に話す人がいるのかなって思ってたの。一度保護者の間に漏れたら、守谷先生の噂は一気に広まるでしょうね」
千裕さんのやけに冷静な分析に、肩すかしをくらったような気がした。私が訊きたいのはそんな事じゃない。
「だから、その噂が広まったら、それに付随して訊いた人の感想もいろいろ広まるでしょう？ たとえば不倫じゃないのかとか、担任と保護者と言う関係で、どちらかが誘惑したのかとか……」
「美緒ちゃん。美緒ちゃんはそんな噂が流れて欲しいの？」
さっきまでの明るかった千裕さんとは別人のように、冷静な声で訊き返された。
「そうじゃないの、そんな風に噂されると困るから、どうしたらいいかと思って」
「美緒ちゃん、それは最初から分かっていた事でしょう？ 担任と保護者と言う事は否定しようがないんだから。いいじゃない？ 勝手に言わせておけば。美緒ちゃん達は悪い事なんてしてないんだから、堂々としていればいいのよ。って、私も守谷先生の噂を喜んでしてた方だから大きな顔をして言えないけど、でもね、保護者にとってはしょせん他人事なのよ。自分の生活とは別で、アイドルよりは近い好奇心の対象でしかないの。だから、勝手な事が言えるんだけどね。まあ、私みたいに守谷先生を応援したいと思っている人は、彼が幸せになる事は嬉しい事だけど、それでも、不倫だと思ったら応援できないか……とにかく、いろいろ憶測で噂されるだろうし、人の口には戸は立てられないけど、噂は７５日って言うから、陰で何を言われても知らんふりをしてたらいいのよ。守谷先生は転勤する訳だし。ただ、美緒ちゃんが小学校へ行く時だけ、ちょっと我慢しなくちゃいけないかもしれないけど、そのぐらい、好きな人と結婚できる幸せに比べたら屁でもないでしょ？」
最初突き放すように話し出した千裕さんが、最後はフフフッと笑った。
千裕さんの言う事はもっともだし、私もそう思う所はあるけど、それに、私が何か言われるのは我慢できるけど、でもね、拓都はどうなんだろう。
「千裕さんの言う事は分かるし、私が悪く言われるのはいいの。彼が悪く言われるのは嫌だけど、それも仕方ないと思える。でもね、拓都は自分が選んだ事じゃないのに、大人の噂を聞いた子供達に、嫌なこと言われないかな？」
「あ―――、そうだね、拓都君の事を忘れてたよ。美緒ちゃん達はある程度の覚悟があるからこんなに早く結婚を決めたのだろうけど、拓都君は自分でどうしようもないものね。ウチの子達はまだ何も知らないけど、その内話さなくちゃいけないと思うの。その時は口止めしておくね。拓都君にも学校では言わないように口止めしておいた方がいいよ。それでも、噂が広まったら……う～ん。美緒ちゃん達の事情を知ったら、ある程度は祝福できるとは思うんだけど、せめて不倫疑惑だけは起こらないようにしたいよね。ママ友同士が話している噂を鵜呑みした子供が、拓都君に不倫とかの言葉をぶつけたら、ショック受けるよね。できるだけ、そんな噂を聞いたら、否定するけど、本当の事、話してもいい？ 理由を言わなければ否定しても真実味が無いものね」
千裕さんは、やはり親として、子供が傷つく事は避けたいと思ってくれる。
私は、何か噂を聞いたら教えて欲しいとお願いして、私の事は千裕さんの判断で言ってもらってもいいからと委ねることにした。
そう、本当の事を言えば、少しは分かってもらえるかな？
不倫でもなく、どちらかが誘惑したのでもないと……。
それでも、止めきれない噂は、拓都にも覚悟させた方がいいのかな？
悪い事していないのに、悪い事をしたと言われる理不尽について、拓都は理解できるだろうか？
私は千裕さんの言った事を思い出し、改めて覚悟をしなければと思い直した。
番外編で慧が結婚によって篠崎姓に変える事を婿養子に入ると表現していましたが、ご指摘があり調べましたら、妻側の親と養子縁組をして初めて婿養子と言うようです。
間違った使い方なので、訂正しました。
