#01:夢のような現実
お待たせしました。
二人の心が通じ合った、その後です。
どうぞよろしくお願いします。
―――今朝の事は、現実だったんだろうか?
クリスマスにサンタがくれた夢だったのだろうか?
自分の頭の中にある記憶は、陶酔しきった脳では、夢か現か判断しかねている。けれど……。
私は、人差し指でそっと唇に触れた。すると一気にリアルな感触と共に記憶が蘇った。
今朝の事。
私達は、いろいろな話をした。積もる話は、とてもじゃないけれど時間が足りなくて、けれど、拓都を待たせている。その事が気になって、心残りのまま私は、『そろそろ……』と腰を上げた。
立ち上がって彼に背を向け、襖に手をかけようとした時、名を呼ばれた。
振り返ると同時に手首をつかんで引っ張られ、よろけた私は次の瞬間彼の腕の中にいた。驚いて見上げると、彼の顔が近づいてきて、思わず目を閉じ、同時に唇に柔らかいものが触れる。
それが何か分かった瞬間、唇で生まれた熱が頭の天辺にかけ上り、蒸気となってボンと突きぬけたような気がした。そして一気に顔全体が熱くなる。
4年近くぶりのくちづけは、心拍数を跳ね上げ、呼吸困難に陥らせた。
『美緒、顔、真っ赤になってる。そんな顔、拓都に見せられないな』
クスッと笑う彼を、恨めしげに睨むと、余裕有り気の彼の目元も赤くなっていた。
慧だってと言う言葉を飲み込むと『知らない』と言い捨てて、彼の腕の中から抜け出すと、部屋を飛び出し洗面所へ駆け込んだ。鏡の中の蕩けるようにのぼせ上がった赤い顔の自分を見て、小さく溜息を吐く。
ホント、こんな顔、拓都に見せられない。
今の私は母親の顔じゃない。
その事に酷く罪悪感を感じながら、冷たい水で思い切り顔を洗う。もう一度、鏡の中の自分を覗いた時初めて、自分がスッピンだった事に気づいたのだった。
母親の顔と女の顔……世のお母さん方は、どんなふうに使い分けていらっしゃるのか。
慧と別れてから、自分の想いに蓋をして、拓都の母親として過ごしてきた数年。気持ちが溢れて泣く事はあっても、けして拓都の前では見せはしなかった。
再会してから、どんどん気持ちが膨れ上がって、母親としての自分よりも、女としての気持ちの方が凌駕してしまう事があったけれど、それでも拓都の前ではまだ何とか母親の顔を保っていられた。
でも、今日の私は、拓都といても、ふと気付くと今朝の慧との事を頭の中でリピートさせている。拓都に何度も「ママ」と呼ばれてやっと我に返ると言う、情けない状態なのだ。それと言うのも……。
『美緒、拓都にはまだ何も話さないで欲しいんだ。拓都はまだ1年生だから、公私の区別を付けるなんてできないし、拓都には俺の事意識しないで、普通に1年生を過ごして欲しいんだ。だから、俺が担任を外れるまで、1年生が終わるまで、拓都には黙っていて欲しい』
あの時慧は、家族になりたいと言った後、こんな風に言った。彼はいろんな事、きちんと考えているのだと、改めて思った言葉だった。だから、私も1年生が終わるまでは、せめて拓都の前では母親の顔を保たなくてはいけない。なのにこの体たらくぶり。
『そう言う事だから、3学期が終わるまで、プライベートで美緒や拓都と会うことはできないと思う。せっかく美緒にOKしてもらったのに……でも会えなかった3年間の事を思ったら、お互いの気持ちが分かっていて会えない3ヶ月なんて、あっという間だよな。できるだけメールも電話もするから、美緒もメールや電話をして欲しい』
拓都にまだ何も話さないと言う事は、担任と保護者としてでしか会えないと言う事で……。
それでも慧の言うように、別れた後の3年間を思えば、彼の気持ちも分かった今、3ヶ月なんて大した事は無い……はず。
はぁ~ダメだね。
今日だけは許して欲しい。こんなに嬉しい日に、母親の顔で居続けられない私を。
私は溜息をつくと、壁の時計を見上げた。今はまだ夜の8時半を過ぎたところ。昼間、公園でキャッチボールやアスレチックで体を動かしたせいか、拓都は8時頃に眠ってしまった。
『今夜電話する』と慧は言ったけれど、まだこんな時間にはかかって来ない。おそらく拓都が寝たと思われる時間になってからだろう。
そう言えば、美鈴に電話しなければ……。
慧は美鈴に全てを聞いたと言っていた。
『美緒の恋は応援しない』と言った彼女が、私と慧の間にあった大きな壁を壊してくれた。彼女がいなかったらきっと、私達はお互いにお互いの心が見えず、いつまでも担任と保護者のままだったのだろう。
やはり真っ先に報告と感謝を伝えたい。それは、慧と再会した事を黙っていた罪滅ぼしの意味も有るのだろうと思う。けれどそんな事より、今は素直に彼女の友情に感謝したいと思った。
美鈴に電話をしようと思った時、携帯がメールの着信を告げた。それは慧からの写メールだった。
『この虹は、消える事無く二人を繋いでいるよ。これからもずっと』
彼が待ち受けにしていると言う、あの日私が送った虹の写真が添付されていた。そのメールを読んだ途端、胸の奥から込上げる物があり、一気に涙腺が緩んだ。
なによ、まだ私を泣かせるつもり!
心の中で慧に悪態をつきながら、それが私の送ったメールへの返事なのだと気付いた。
慧は何度私を嬉しがらせるのだろう。
お互いに形のあるクリスマスプレゼントは交換し合わなかったけれど、それ以上の物を、いいえ、何にも比べる事などできないものを、彼は惜しみなく私に与えてくれた。
私は彼に同じだけの物を返せているのだろうか?
『PM10時に電話するから、それまでに拓都を寝かせておいて』
彼のメールには続きがあった。私はすぐに『拓都はもう寝たよ』と返信した。するとまた携帯が鳴った。今度は電話だった。
「美緒、今電話しててもいい?」
「うん。メール、ありがとう」
「ああ、昨夜、メールの返事、すぐに返さなくてごめんな。どうしても直接言いたかったから……」
「うん。わかってる」
再会してから彼と電話で話したのは数回の事で、それもやはり担任と保護者の壁が常にあった。でも今は、二人の間にあった壁の事などすっかり頭の中から消え去っている。
「美緒、今日は何してたんだ?」
「拓都とおにぎり持って芝生公園へ行って、キャッチボールやアスレチックして来たの」
「いいなぁ。俺も拓都とキャッチボールしたいよ。拓都をいろんな所へ連れて行ってやりたいんだ。山登りやキャンプやスキーとか……」
「フフフ、慧は根っからアウトドアなんだね。きっと拓都も喜ぶと思う」
私は想像する。
キャッチボールをする二人、3人で行くハイキングやキャンプやスキー……。
「なぁ、拓都は俺を受け入れてくれるかな?」
「大丈夫。拓都は守谷先生が大好きだもの」
「でも、先生としては好きでも、父親として、家族として、受け入れてくれるかなって事だよ」
私はいつも彼の言葉で現実を思い知らされる。
彼の申し出が嬉しくて、ただ夢中で頷いた私と違い、彼は拓都の事も担任と保護者と言う立場の事も、真剣に考えていてくれる。
私は目の前の事しか考えられなくて、情けない。
「拓都は本当の父親の記憶が殆ど無いの。だから、拓都にとって身近な大人の男の人って、慧なのよ。入学した頃は、毎日うるさい位、守谷先生の話を聞かされたわ。それに今だって、私には見せない日記の作文を、慧だけには見せてるでしょ? それは先生だからというより、女の私からでは与えきれなかった物を、慧に求めているような気がするの。拓都の心の中では、ある意味、慧は父親に近い存在なんだと思う」
私は4月から今までの拓都を思い返して、自分がずっと感じていた事を話した。
「美緒は拓都がする俺の話を、うるさいって思ってたんだ」
突っ込むとこそこ?
「それは、そのくらい沢山話してたって言う事で……」
「ははは、わかってるよ。でも、拓都がそんな風に俺の事を感じてくれてるのなら、嬉しいけどな。……実は今、実家にいるんだ」
「えっ? あれから実家へ帰ったの?」
慧の実家は、高速を使えばここから車で3時間くらいの距離だ。
「ああ、美緒の事、ずっと心配かけてた兄貴や義姉さんに伝えたかったし、両親にも話したんだよ。美緒と結婚したいって」
ええっ!
今朝の話をもう話したの?
あまりの展開の早さに、唖然とする。
でも、独身とは言え、拓都がいる今の私は、受け入れてもらえるのだろうか?
「もう、ご両親にまで話したの? それで、反対されなかった?」
慧のご両親とは一度だけ会わせてもらった事があった。とても気さくな人達だった。
「息子の決めた事に反対するような人達じゃないよ。ただ、釘は刺されたけどな。拓都の事、自分の子供として、自分の本当の子供と分け隔てなく育てていく覚悟はあるのかって、そうじゃないと賛成しかねるとまで言われたよ」
私は慧の言葉を聞いて胸が詰まった。子供のいる様な女性なんかと反対されても仕方ないところなのに、息子の決意を真正面から受け止め、あえて苦言を呈している。
「そ、それで、慧は何と答えたの?」
「そんなのとっくに覚悟できてるに決まってるだろ。だから、親父達も喜んでくれて、今度は拓都の事を思ったら、早く結婚した方が良いって……」
私が鼻水をすすったのが聞こえたのか、慧の言葉が止まった。
もう、今日は何度泣かせれば気が済むのか……。
こんなに幸せでいいのだろうか?
あまりに不幸な運命にもてあそばれ過ぎたせいか、すんなり幸せを受け入れるのが怖くなる。
「美緒?」
彼の心配気な声が、耳元で響く。
私は傍にあったティッシュで涙と鼻を拭くと、「ごめんね」と小さく謝った。
「ごめん。なんだか今日は泣いてばかりで……もう~慧のせいなんだからね」
私は急に恥ずかしくなって、最後は八つ当たりのように言った。
「馬鹿だな……あんまり泣くと、目が溶けるぞ。それに拓都も心配するだろ」
「拓都の前では泣かないようにしてるから……」
「あんがい拓都は目ざといから、美緒の目が赤かったりすると気付くぞ。大好きなママだしな」
そうかも知れない。
今まで二人きりで生きてきたのだから、拓都は私の様子をよく見ている。仕事に疲れて元気が出ない時なんかも、「ママ、大丈夫?」と訊いてくる。それは年に一回ぐらい疲れがたまって風邪をひいてしまい、寝込む事があるからだ。そんな時拓都は、自分が熱が出て寝込んだ時にしてもらっている事をしてくれる。冷蔵庫からアイス枕を出してきて、熱さましのシートを額にピタッと張ってくれる。
「そうだね……でも、もう寝たから、大丈夫だよ。……でも、もうあんまり泣かせないで、今日はいろいろあり過ぎて、信じられなくて、気持ちがついていけない感じなの」
そう、昨日までとあまりに違う今日の自分に境遇に、どこか現実感がなくて、不安の方が大きい。
「俺も同じだよ。こんな事、夢みたいなんだ。だから余計に現実にしようと思って焦ってるのかもな……美緒に相談もせずに先走った事、悪かったって思ってる。でも、誰かに言わずにいられなかったんだ。……美緒、本当に良いんだよな?」
もう、何度確かめれば気が済むのと聞きたくなるほど、今朝だって、あの後何度も訊いた慧。あの時も、夢みたいだと何度もつぶやきながら、まるで私が幻のように消えてしまうのを怯えるかのごとく、強く抱きしめた慧。そんなあなたを見て、私はとても酷い事をしたのだと思い知らされる。
「慧……慧こそ、いいの? 私なんかで……あなたに酷い事をして、苦しめてきたのに……」
「美緒、その事はもう言わない約束だろ。とにかく、ウチの家族はみんな賛成して応援してくれているから、美緒は何も心配しなくていいよ」
頬をまた新たな涙が流れ、もう何も言えなくなってしまった。電話越しなのに、ウンウンと何度も頷き、鼻声で小さく「ありがとう」と言うと、慧の嬉しそうな笑い声が聞こえた。
なんだか、今までと180度違う、糖度高めの二人でした。