#35:写メールの真実
お待たせしました。
今回も長くなってしまって、すいません。
読むの大変だと思いますが、どうぞよろしくお願いします。
あのお誕生日メールの返事を貰ってから、いいえ、彼から誕生日のお祝いの言葉を貰ってから、私はやっぱり、浮かれていた。私の心の枷はすっかり緩み、一人の時に彼からのメールを見て、ニヤけながら癒されていた。
まるで、彼に告白された後、彼への想いがどんどん膨らんでいた頃、彼から届く写メールが嬉しくて癒されていたあの日々の様で、胸の奥がキューンとなる。
由香里さんにお誕生日メールの話をすると、「ほら、たまには自分の気持ちに素直になる事もいいもんでしょ?」なんて言う。
この気持ちに素直になってもいいんだろうか?
彼を想っていてもいいんだろうか?
彼にメールをしてもいいんだろうか?
だんだんと欲張りになって行く自分に、今は気付かないフリをした。
そして、彼から写メールが届いた。
それは10月の終わり、紅葉の山の写真だった。
いつか二人で雪を見に行ったあの山が、今は紅葉で綺麗だと綴られていた。
あの山は二人が付き合う事を決めた山だ。
あの日から始まった恋人と言う関係。
そんな山の写真を送って来たのはただの偶然?
それとも何か意味があるの?
この写メールの意味を期待している自分に浅ましさを感じながらも、彼の想いは無いのかと探してしまう。
この写メールはきっと、この間の誕生日のケーキの写メールのお返し。
ただそれだけの事。
そう思わないと心は必要以上に嬉しがって舞い上がる。
返事は写メールの方がいいだろうかと、昨日撮った写真を思い浮かべる。10月最後の土曜日、西森さん家族と由香里さん家族と拓都と私で森林公園へ行った時の写真。
10月の終わりの森林公園の紅葉はまだ始まったばかりだった。
子供達は木製のアスレチックに大喜びで、大人もその後を付いて行ったけれど、結構アスレチックってハードな遊具で、1年生には難しい物もある。西森さんのご主人はさすがにアウトドアが好きなだけあって、一番年上なのにひょいひょいと軽く制覇してゆく。私の次に若い由香里さんのご主人も、最近運動をしていないと言いながらも、学生時代は陸上をしていたとかで、西森さんのご主人に負けていない。
子供達が「パパ頑張って」と声をかける。拓都も同じように応援しているけれど「パパ」と呼べる人がいない事に辛くなった。
皆で持ち寄ったお弁当を食べて、午後からは子供達とパパ達はキャッチボールを始めた。私達女性陣は、そんな子供とパパ達の様子を見ながら、シートに座り込んでまったりとお茶とおやつでお喋りタイム。
拓都は初めてのキャッチボールなので、心配しながら見ていると、二人のパパが5人の子供達を上手に遊ばせてくれている。西森さんが拓都の分のグローブまで用意していてくれて、こんなところまで心配りのできるところが西森さんの尊敬できる点だ。時々脳天気発言やツッコミでイラッとさせられる事もあるけれど、それらも全て彼女流の場の雰囲気を和ませる話術なのだと最近は分かって来た。
楽しそうな拓都を見て、私は嬉しくなった。拓都は今まで遊んでくれる大人の男性が傍にいなかったから、私と遊ぶ時とは違って、のびのび遊んでいる様に見える。
やっぱり、由香里さんの言う様に、父親とのかかわりって成長していく上で大事なのかなと、今日の拓都を見ていて思ってしまった。
「ねぇ、由香里さん。ご主人と子供達の関係ってどう? 上手くいってる?」
私は子供がある程度大きくなってから、新たに親子関係を築く事って、実際のところどうなんだろうかと由香里さんに訊いてみた。
「ん……そうねぇ、陸はまだ1年生だし性格もあるのか、彼に上手に甘えるのよ。でもね、礼はもう4年生で、ちょっといろんな事が分かり出して来た年頃だから、素直に甘えられないし、本当の父親の記憶も薄っすらとあるから、余計に複雑な思いがあるんだと思うの」
わぁー、やっぱり大変なんだなって思いながら聞いていたけど、由香里さんはその事で悩んでいるふうでもなく、ケロリとした口調で話している。
「そうよねぇ、4年生になってから、だんだんと幼さが抜けて、考え方とかもしっかりして来たって言うか、自立心が出て来たって言うか、そんな感じだよね」
西森さんも同調して、子供の成長していく様子を話している。
「じゃあさ、子供達にとって、結婚して良かった?」
普通ならこんなところまで訊きはしないだろう質問だけど、私と由香里さんの仲だから、あまり気にせずここまで訊いたのだと思う。それは自分の子育ての限界に不安になったから。
「あら? なあに? 美緒も結婚したくなったの? 私の場合は、子供達にとっても、私自身にとっても、結婚して良かったわよ。それも全部旦那のお陰だけどね」
由香里さんは幸せそうな笑顔で答えてくれた。私は良かったと安堵した気持ちとちょっぴり羨ましくなった。
「良かったね、いい人に出会えて」
「そうね。私は誰かさんと違って、運命の人と出会える事を諦めなかったもの」
由香里さんはそう言うと、私の心の中まで覗く様な眼差しで私を見て、ニッコリと笑った。
それは、もう結婚なんかしないと言っていた私への嫌みも込められている。それが由香里さんの心配している気持ちの裏返しの言葉だと言うことぐらいは、分かっていた。
「どうせ私は、諦めてばかりですよ」
私は自嘲ぎみに呟いた。
「あら、美緒ちゃんはまだ若いんだから、これからいくらでも出会いはあるわよ。なんならパパに会社の人を誰か紹介してもらおうか?」
西森さんがニコニコと脳天気な事を言う。
彼女は分かっているのだろうか? 子供のいる私なんかを紹介して欲しいなんて言う人が、いると思っているのだろうか?
「こんな子持ちでもいいって言う人がいたらね」
私は自虐的に笑った。西森さんは少し驚いた顔をしたけれど、「美緒ちゃんは未婚だし、まだ若いから、必ず出会いはあるよ」と慰めるように言った。
その日拓都は、家へ帰る車の中からずーっと今日の話をし続けた。よほど楽しかったらしく、特にキャッチボールが気に入ったようだった。
「ねぇ、ママ。僕の家にはパパは来ないの?」
家に着いてからも、今日の事を思い出しては話し続けていた拓都が、急にこんな事を訊いて来た。
その質問は昼間同じような事を考えていたとは言え、拓都の口から出た事が衝撃だった。
「えっ?」
私は驚いて拓都を見た。
「陸君家には、パパが来たでしょう? だから……」
私の顔を見てまずい事を訊いたと思ったのか、拓都は慌てて言い訳の様に言った。
「拓都もパパが来て欲しいの?」
私は、拓都の表情を見逃さない様に、見つめたまま訊く。
「ぼくね、キャッチボールがしたいんだ」
そうか……拓都はキャッチボールをしてくれるパパが欲しいんだ。
「キャッチボールなら、ママが相手をしてあげるよ」
私がそう言うと、パッと明るい顔になった拓都が「ママもキャッチボールできるの?」と訊いて来た。
1年生相手のキャッチボールぐらいできるでしょう。
「多分できると思うよ。ウチにはパパは来ないけど、拓都にはお空のお父さんがいるでしょう? それにキャッチボールならママがいるから、大丈夫だよ。今度西森さんところで、グローブとボールを借りて、キャッチボールしようか?」
私は心の中の動揺を抑え込んで、笑顔で拓都に話しかけた。拓都は嬉しそうに「うん」と頷いた。
拓都にとってパパと言う存在は、遊んでくれる大人の男性と言う認識なのだろうか?
今日、お友達のパパを見て、羨ましくなったのだろうか?
私は何とも言えない空虚感を感じながら、楽しそうにしている拓都を見下ろしていた。
そして、翌日、彼から届いた紅葉の山の写メール。
私が拓都の父親は必要か、なんて悩んでいたところに届いた写メールは、浮かれた恋心と現実の子育ての難しさの間で、揺れ動く私の心を余計に掻き乱した。
嬉しさの反面、恨めしさも募り、彼の真意はどこにあるのだろうと、届いた写真を見つめていた。
このまま返事をしない方がいいのか、私から始めた写メールなのに、何も返さないのは失礼なのか……。
昨日撮った森林公園の写真を送ったら、彼はどう思うだろう?
二人で初めてハイキングに行った、あの森林公園の写真。彼もこの写真の意味を考えるだろうか?
私一人が思い出にしがみついているだけなのだろうか?
そして、考えれば考える程、彼への想いに囚われて、私は『森林公園も少しずつ紅葉が始まっていました』と言うメッセージと共に、写メールを送信していた。そんな私の心の中は、苦しさよりも、ドキドキと恋する乙女そのものだった。それは現実逃避だったかもしれないけれど。
*****
11月7日日曜日、小学校の文化祭の日だ。こう言う学校イベントには、必ず役員は駆り出され、役割を与えられる。委員会単位で仕事を割り振られ、広報はバザーの担当だった。
前日のバザーの値付けや陳列を担当する人、当日の販売を担当する人、最後の片付けと売上金の集計を担当する人に別れる事になり、私は最後の片付けの当番になり、西森さんは前日の準備になった。
私はその日、後片付けの当番だからと午後から文化祭に行く事にした。由香里さんと西森さんも時間を合わせてくれて、3人で子供達の展示物を見に行った。
午前中子供達は体育館で観劇し、午後からは各教室に展示されている展示物の見学になっていたのか、子供達がグループ単位で見学に歩いているのに何度も遭遇し、先生達も子供達の様子を見守るため各教室を見て回っているようだった。
私達は、まず1年3組の展示物を見て回った。拓都の作品を見つけると、携帯のカメラで撮影した。1年生は、運動会の時の絵と書き方と工作、そして、親子学習会で作った折り紙作品。自分も一緒に作ったのだと思うと、なんだか恥ずかしい。
その後、4年生の教室を回っていた時、愛先生に会った。子供達と一緒に見て回っているようだった。私達は愛先生に軽く会釈して、特に会話をする事も無かった。その後バザーを覗きに行ったり、PTAの手芸クラブの作品展示を見て、最後にPTAの写真クラブの作品展示をしている部屋に入った。
「あれ? この写真、守谷先生が撮った写真だ」
西森さんが驚いた様な声を上げた。私はその声に引き寄せられて、その写真を見に行った。
それは、角度は違うけれど、彼が私に送ってくれた写メールの写真と同じ、あの山の紅葉の写真だった。よく見ると、他にも同じ山の紅葉の写真が展示されていた。
「あ――、キャンプの時に一緒に来ていた先生達の写真もある。皆で写真撮りに行ってたんだ。仲がいいんだねぇ。あっ、やっぱり、愛先生のもある。守谷先生とよく似た構図だねぇ」
西森さんはいい事を見つけたと言わんばかりに、写真を見ながら嬉しそうに喋っている。
私の顔は一瞬強張ったと思う。その時由香里さんと目が合うと、慰めるような眼差しで、気にするなとでも言う様に首を横に振った。
だめだ。西森さんの前では笑顔でいないと。
彼女と行った時に撮った写真を送って来たんだ。
それだけで、あの写真には、何も意味がない事が分かる。
バカみたい。何を期待してたんだろう。
その後、何とか二人と笑顔で別れて、私はバザーの片付けに向かった。
売れ残った商品を段ボールの箱に詰めて、売上金の計算をした。5人でしたのですぐに終わってしまった。そしてバザー会場の戸締りをすると、解散となった。私は一人廊下をとぼとぼと歩いていると、「篠崎さん」と呼ぶ声に振り返った。
私の名を呼んだのは、愛先生だった。
「お疲れ様です。篠崎さん、もう帰られるのですか? あの……すいませんが、少しお時間頂けないでしょうか?」
私は怪訝な表情をしたのではないだろうか? 今一番会いたくなかった愛先生の申し出に、その意味をはかりかねていた。
「あっ、深刻な話じゃないんです。ちょっとだけお話してみたかったんです」
愛先生は、私の顔を見て慌てて言い訳をした。
「わかりました。ここでいいんですか?」
私はどうにか笑顔を貼り付け、承諾を告げた。
「すいません、無理を言って。ここではなんですので、こちらへ」
そう言うと愛先生は片付けの済んだ会議室へ入って行った。この部屋はさっきまで写真が展示されていた部屋だった。
心の中に黒い雲が広がる。嫌な感情に支配されそうで怖い。愛先生はいったい何を話したいのか?
私と彼との関係を知っているのだろうか?
彼が言うとは思えない。だったらなぜ?
愛先生に勧められて椅子に座る。長机に並んだ椅子に二人で座る。並んでいるから顔を正面から見なくて済む。それだけでもホッとした。
「あの、篠崎さん。私と篠崎さんが似ているって言う噂、ご存知ですか?」
いきなりこんな事を訊かれて、少し拍子抜けした。
「あ、はい。あの、運動会の時、愛先生と間違われて、先生のクラスの子供だと思うんですが、愛先生って呼ばれて抱きつかれて、びっくりしました。その子も違うと分かって驚いていたみたいだけど……」
私はその時の事を思い出して、フフッと笑って言うと、愛先生も笑顔で「あ、私のクラスの子です。何処かのお母さんと間違えちゃったって言ってました」と嬉しそうに話す。
「それに、西森さんは最初から似てるって言ってたんだけど、運動会の時に、先生、髪を切られていたでしょう? あの時、私の髪形に似ていたからだと思うんですけど、沢山の人に似てるって言われました」
私は愛先生が笑顔で話してくれたので少し気が緩んで、話を続けた。
「そうなんですよ。私も髪を切った時に同僚の先生から誰かに似てるって言われて、そうしたら、1年生の担任の先生から、3組の役員の篠崎さんに似てるって言われて、篠崎さんを知らない先生まで、運動会の時に篠崎さんを教えてもらって見たらしくて、よく似てたって言われたんですよ。篠崎さんは自分で似てるって思いますか? 私は良く分からないんです」
愛先生は話をすると、とても可愛らしい人だった。声も私と違って少し高音の可愛い声で、話し方もプライベートのせいか、少し甘えた様な喋り方に感じた。きっと性格も素直で可愛い人なんだろうなと、話を聞きながら想像していた。
「私も似てるかどうか分からないです。でも、こうしてお話してると、雰囲気は全然違うなって思うんです。愛先生ってすごく可愛い雰囲気がするんですけど、私は負けず嫌いで、いつもしっかりしてる委員長タイプって言われてました」
「いや、可愛くなんてないですよ。でも、篠崎さんはしっかりしてる委員長タイプって分かる気がします」
こんな話をするために呼びとめたのだろうか?
それなら廊下での立ち話程度でいいはずだ。
それともまだ何か話があるのだろうか?
彼と関係している事だろうか?
「そう言えば、愛先生の写真見ましたよ。写真の趣味がお有りなんですね」
私は、さっきここで写真の展示を見てから、ずっと心の中にくすぶっていたモヤモヤを思い出して、つい話題を振ってしまった。
私はいったい何を訊きたいのだろう? 聞いたら余計に悲しくなるかもしれないのに、何を確かめたいのだろう?
「いえ、写真なんて旅行に行った時に友達同士で撮るぐらいだったんですけど、最近写メールを友達とやり取りするようになって、何かいい構図はないかなって探す様になったんですよ」
写メールと聞いた途端、私は自分の馬鹿さ加減を思い知った。
彼から写メールを貰って、浮かれていたんだ。
彼が写メールを送る相手が自分だけなんて、心のどこかで思っていたんだ。
「そうですか。今回はキャンプの時のメンバーで撮影のために行かれたんですか? 紅葉が見ごろでしたね」
どうしてまだこんな会話を続けているのか分からないまま、笑顔で話し続けている自分を止められない。
「文化祭の展示用の写真が足りないから、撮影に行こうって誘われたので……本当に紅葉が綺麗でした」
「いいですね、皆さん仲が良くて……」
私はいったい何が言いたいの? そう思いながら心の中で溜息を吐く。これ以上話す事がないのなら、もう帰りたい。
「あ、あの、話は変わりますが……篠崎さんの下の名前は、『みお』って言うんですか?」
「えっ? そうですけど……」
それがどうしたのだろう?
「あっ、今日、展示物の見学をしていた時、お会いしましたよね? その時西森さんが篠崎さんの事『みおちゃん』って呼んでいらしたので……可愛い名前だなって、思って」
「そうですか? ありがとうございます」
私はそう答えながら、愛先生がだんだんと挙動不審になって行くのが気になった。私達はお互いに並んで座りながらも、体を斜めにして少し向かい合う様にして話していた。私はできるだけ相手の目を見て話そうと思っているけれど、今回はあまり目を合わす余裕がなくて、彼女の口元ばかり見ていた。しかし、彼女の方もだんだんと視線を彷徨わせるようになり、私と目を合わせるのを避けている様な気がする。
「あ…あの、篠崎さんは、もしかして、守谷先生と以前からお知り合いですか?」
「えっ?」
驚きと共に、ああ、やっぱりと言う思いが胸に広がった。けれど、なぜ彼女は、そんな疑問を持ったのだろう?
「あ、いや、ちょっとそんな風に思ったから……」
愛先生は、そう言うと俯いてしまった。
ああ、彼女はなんて素直で可愛い人なんだろう。どんな事でそんな風に思ったか分からないけど、不安になって確かめずにいられなかったんだ。
「どうしてそんな風に思ったんですか?」
こちらも確かめずにいられない。どうしてそんな疑問を持ったのだろう? 以前不倫騒動の時に撮られた写真が私だってわかったのだろうか? それとも彼が何か言ったのだろうか?
「あの、それが……守谷先生が私に間違って『みお』って呼びかけたから、気になっていたんです。それで、私と似てるって言われてる篠崎さんが『みお』って名前だと知ったので、もしかしたらって思って……」
私はこの時、どんな表情をして聞いていただろう。もしかしたらバレてしまう様な表情をしていたかもしれない。それでもここは、シラを切り通すしかないだろう。
それにしても、どうして?
……最近彼と話をするようになって、以前の様に『美緒』と彼が呼ぶ。だから、つい出てしまったのだろうか? 私と愛先生が似ていたから?
「違いますよ。守谷先生とは担任として初めて会っただけですから……私じゃないですよ。よくある名前だから、兄弟とか親戚の子とか、呼びなれた誰かの名前がつい出てしまったんじゃないですか?」
私は彼女を安心させるようにニッコリと笑って言った。そんな自分の冷静さに何処か呆れながらも、彼女の不安を取り除かねばと思ってしまった。
「そうかな? すいません、こんな話をして……どうか忘れて下さい」
愛先生は恥ずかしそうにそう言うと、頭を下げた。
「いえ、大丈夫ですよ。誰にも話しませんし…忘れるようにしますね。それじゃあ、これで失礼します」
私は笑顔でそう言うと、立ち上がった。こちらを見上げた愛先生は、まだ恥ずかしそうに「本当にすいませんでした」と言った。
保護者にこんなプライベートな事を訊いてしまった自分を恥じているのだろうと思うと、愛先生の素直さや健気さを感じて、そこまで彼の事を思っているのかと思うと、私はもう踏み込めないんだと認めるしかなかった。
心の中で「こちらこそごめんなさい」と呟いて、私は会議室から出た。
少し俯き加減で玄関の方へ向かって歩き出した時、前から歩いて来る人の気配を感じて顔を上げた。
どうしてこのタイミングで会うかな?
本当に私の運命はどうなっているのだと恨みたくなる。
こちらへ向かって歩いて来た担任と目が合うと、彼は優しく微笑んだ。
その笑顔を勘違いしてはいけない。
少し速足で近付いて来た担任に「お疲れ様です。失礼します」と頭を下げて、通り過ぎようと歩調を早めた。すれ違う時、彼の顔を見ずに俯いたまま行こうとした私に、彼は「美緒」と呼んだ。
私は驚いて足を止めて顔を上げると、睨んでしまったのだろう。彼は少し怯んだ表情になった。
「守谷先生、失礼します」
私はもう一度、ハッキリとそう言うと、頭を下げて歩き出そうとしたその時、背後で会議室のドアが開くのが聞こえた。
「篠崎さん」
彼がもう一度私に呼び掛けた時、彼も会議室のドアが開いた事に気付いたのか、そちらに顔を向けたようだった。
愛先生が出て来る。そう思うと、心臓がドキドキしだした。このシチュエーションは、運命が用意した物なのか……私はその運命を振り切る様に、もう一度「失礼します」と言うと、速足で玄関へと逃げだしたのだった。