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いつか見た虹の向こう側  作者: 宙埜ハルカ
第一章:再会編
31/100

#31:単独取材

お待たせしました。

また長いです。

よろしくお願いします。

 運動会後の由香里さんと西森さんの変な盛り上がりも沈静化した10月のはじめ、二学期最初の広報の企画会議が開かれた。

 10月6日水曜日夜7時に少し前、夜の学校はなんだか気味が悪いなと思いながら、会議のある図書室へ向かった。図書室のドアを開けると、西森さんが私に気付いて手を振った。他には、西森さんの後ろの机に座って話し込んでいる広報委員長と広報役員の誰か、そして、別の離れた机で3人で楽しそうにお喋りしている、顔は知っているけど名前は覚えていない人達。

 「こんばんは」と挨拶をして中に入ると、話をしていた人達もこちらを振り向き、挨拶をしてくれた。


「千裕さん、こんばんは。珍しいですね、一人なんて……」

 西森さんはいつも誰かと話をしていて賑やかなのに、今日は珍しく一人でポツンと座っている。私が挨拶をすると、小さい声で「お疲れ」と言うと、閉じた唇に一本だけ立てた人差し指を当てた。

 ……それって、喋るなって事?

 私が少し首を傾げると、彼女は手元のメモにスラスラと何かを書いた。

 『今、後ろで委員長達が、守谷先生のうわさをしてるの』

 それを読んだ私は、呆れた。

 ……それって、盗み聞きじゃないですか?!

 西森さんは私の驚いた顔を見てニッと笑うと、隣りの椅子を引き座るように促した。

 ……二人で盗み聞きなんかしたら、もっと怪しまれてしまうじゃないですか!

 

 その時、バタバタと残りの役員達がドアを開けて入って来て騒がしくなると、委員長達は話を辞めて、会議を始めるために離れて行った。

 

「美緒ちゃん、後で話すね」

 西森さんは、会議の始まる前に、小さな声で私にそう言った。

 何か、重要な噂でも聞いたのだろうか?

 なんだろう?

 気になる……


 委員長が前に立って、二学期の新聞づくりについて説明しだした。

 二学期は行事が多い。新聞のネタには困らないのだけれど、紙面をどのように配分するかが問題だった。結局例年通りと言う事で、1面には、6年のキャンプと修学旅行、2面3面は運動会と文化祭をメインで載せ、あと学年行事と遠足を少しだけ載せる。4面は企画ページとその他のページで載せきれなかった記事と言う事になった。

 夜広報の担当は、一学期同様1面と4面を受け持つ事になっている。4面の企画物は、最初の会議のときに出た案で、この小学校でのエコ活動の紹介をする事となった。


「一学期に給食試食会をしたのですが、その時に空になった牛乳パックを開いてバケツの水で洗っていました。その水も花壇に()くそうです。牛乳パックのリサイクルの為にエコなやり方だと思ったので、紹介したらどうでしょうか? まだ、去年から始めただけらしいので、保護者全員は知らないと思うので……」

 私は給食試食会の時の事を思い出して、提案してみた。周りのお母さん達もやはり知らなかったようで、「へぇ~そんな事してるんだ」と感心している。

 その他にも、給食の残飯や調理時の野菜くず等をたい肥化して、地元の農家に引き取ってもらって、野菜を提供してもらっている事とか、ゴミの分別の為にゴミ箱をゴミの種類別に分けた事を掲載する事になった。


 そして、それぞれの記事に担当者を決め、コメント依頼等の準備をして、会議を終えた。牛乳パックの件は、私と西森さんで取材する事になり、その週の金曜日の給食が終わる頃に1年3組の教室の前で落ち合う約束をした。担任には西森さんがメールで連絡をしておいてくれる事になり、私は取材の日は、職場でお昼休みの後1時間だけ暇をもらう事にした。


 私と西森さんが帰ろうと立ち上がると、委員長が近づいて来て私に声をかけた。その時、ほとんどの人がすでに図書室から出ていて、そこにいたのは委員長と、会議前に委員長が話しこんでいた役員と、西森さんと私の4人になっていた。


「篠崎さん。篠崎さんって1年3組の役員さんだよね?」

 私は委員長にいきなりそんな事を聞かれて、驚きながらも「そうです」と頷いた。


「篠崎さん、独身でまだ若いのにお姉さんの子供の面倒を見てるんだって? それなのに役員までして、偉いねって皆で言ってたのよ。なにか困った事が合ったら……」

 委員長はここまで言いかけて、恐らく私の表情を見て止めたのだろう。私がどんな表情をしてるのかは分からないけど、心が一瞬で凍りついた様な気がした。


「あ、あの……その事は誰から……」

 私がようやく口にした言葉を聞いて、今度は委員長の顔が強張(こわば)った。たぶん彼女は、悪い事を言ってしまったと思ったのだろう……。


「友達から聞いたんだけど……1年3組のクラス役員さんで篠崎さんって言う人がって言うから、広報のメンバーにいるよって話してたの。そうしたらそんな話を聞いたから……独身でまだ若いのに、お母さん達の中に混じって学校の役員の仕事をするって、結構辛いんじゃないかなって……思ったから……」

 委員長には悪気は無い。悪気は無いって分かってるんだけど……。

 

「ごめんなさい。この事は、学校に言ってないの。姉夫婦が亡くなってから、甥はまだ小さかったから、今までずっと親子として暮らして来たの。だから……この事が広まって、拓都が動揺したり、いじめの原因になったらと思うと……辛いなって思って……本当にごめんなさい」

 私も相手の痛そうな表情を見て、謝罪の言葉を繰り返してしまった。なんだか部屋中が凍りついたみたいで、隣にいる西森さんも何も言わない。


「いいえ、こちらこそ事情も分からずに差し出がましい事言って、ごめんね。……でも、本当に困った事とかあったら言ってね。それから、この事を知ってる他の人にも口止めしておくから……」

 同情と親切心から言ってくれたであろう委員長に、謝らせてしまった事が辛かった。でも、今の私はこの事が広まる方が怖かった。……本当は担任に知られてしまう事が一番怖いのだけれど……。

 ――――――――もしかして、もう知られているのかも……。

 

 そう想像するだけで、胸がキュッと痛くなる。彼に知られてしまったら、どうしたらいい?


 委員長は、黙って沈みこんでる私に居た堪れなくなったのか、「お疲れ様」と言ってもう一人と一緒に離れて行った。その後ろ姿を見送っていた西森さんは、茫然とたたずんでいた私の肩をポンと叩くと、ニコッと笑い、「帰ろうか」と言うと、私の背を押して促した。

 図書室を後にし、だまったまま玄関に向かって歩いていると、西森さんがポツリと言った。


「やっぱり、噂って、どんなに口止めしても広まっちゃうものなんだね……」

 西森さんが、私の隠しておきたい秘密が広まっている事について言ったのは、これだけだった。

 あれやこれやとその場しのぎの慰めを言われたらどうしようかと思ったけれど、何も言わずにそっとしておいてくれた。いつもならお喋りな西森さんなのに……。


「そうだね」

 と、私が相槌を打つと、西森さんは私の方を見て、フッと笑った。


「会議が始まる前に委員長達が話してた守谷先生の噂話もね、同じだなって思って……ホント、人の口には戸は立てられないよ。……夏休み前に、守谷先生に不倫騒動が起こったでしょう? あの噂だったの。あれから随分日にちは経ったけど、守谷先生の噂だとやっぱり広まって行くんだなって、妙に感心してしちゃった」

 ああ、あの噂も広まっているのか……。

 彼はこの事を知っているのだろうか?

 あの後、やっぱり何の処分も無かったのだろうか?

 本当に藤川さんの仕業なのだろうか……。

 写真に写っていたのが私だってバレているのだろうか?

 バレてたら、今頃、質問攻めになってるよね……。

 今のところ、その事について、誰かに何か訊かれた事は無い。でも、こうして噂が広まってくると、相手は誰だって言う追及は大きくなって行くものだ。私だって、写真に写っているのが自分じゃなかったら、誰だろうって気になるもの。


「あ、あの、守谷先生と一緒に写真に撮られた女性って誰かわかったの?」

 私は、思わず訊いてしまったけれど、一瞬驚いた様に眼を見開いた西森さんの顔を見て、自分がまずい質問をした事に気付いた。


「あら、やっぱり美緒ちゃんも気になる?」

 西森さんは、同士を見つけたと言う様に嬉しそうな顔をした。


「そりゃ~、あれだけ千裕さんに、守谷先生の話を聞かされたら、ちょっとは気になりますよ。それに担任だし……」

 私はその場しのぎの言い訳をしながら、どうか必要以上の焦りが顔に出ません様に……と祈りながら、なんとか笑って見せた。


「あのね、綾ちゃんが推理してたみたいに、PTA会長じゃないかって話が出てたらしいけど、委員長はPTA会長と仲がいいから、会長が否定していたのを聞いたらしいの。それでね、守谷先生の以前から知り合いの男性に子供の学校の先生だからと言う事で頼まれて、たまたまその人の奥さんが子供を迎えに行った所を写真に撮られたんじゃないかって……だから、あまり面識のない奥さんだから、迷惑をかけたくなくて名前を言わなかったんじゃないのかって、言ってた」

 私はその推理に思わず笑いそうになった。良かった。まだバレていないんだ……。

 私は安堵の気持ちで、「そうなんだ」と言うと、つい頬が緩んでしまったのだろうか? 西森さんにニヤリと笑われて、ツッコミを入れられた。


「何? ホッとした顔して……あくまでも推理だよ。でも、愛先生がいるんだから、守谷先生が不倫なんて、考えられないよね?」 

 西森さんのツッコミは時として、凶器にもなる。すっかり愛先生の事を忘れていた私の心に、現実を突きつける。西森さんはいい人だし、大好きな人なのに……時々恨めしくなる。

 知らないんだから、仕方がないよね……。

 


                   *****



「美緒ちゃん、ごめん。翔也が熱があって……昨夜からちょっと熱っぽかったんだけど、下がるかなって思って、連絡しなかったんだけど……どうする? まだまだ日はあるし、別の日にしようか?」

 西森さんは、取材に行く日の朝、行けなくなったと連絡して来た。

 取材は私一人でもできると思う。ただ、一人で行くかどうかだ。


「大丈夫だよ。職場にも今日のお昼に時間を貰う様に言ってあるし、私一人で取材して来ます」


「そう? お願いしていい? ごめんね」

 来週はまた、学級役員の会議があるし、その次の週は、親子学習会だし……その後文化祭も控えてるし……、やっぱり今日行っておいた方がいいよね? せっかく職場の人達の許可を得たんだから……。


「了解。しっかり取材してきます」

 西森さんが気に病むといけないので、明るく言って電話を切った。



 お昼の休憩時間になると、私は急いでお弁当を食べ、職場の人に声をかけて職場を後にした。ちょうど食べ終わった頃に行かないと、タイミングを逃してしまう。そう思いながら、車を走らせた。


 学校に着いて、職員室で来校者用のネックストラップ付きの名札を受け取って、1年3組の教室を目指して歩いて行った。給食中のせいか廊下には誰もいなくてシーンと静まっているけれど、放送クラブが流す今時の音楽だけがハイテンションに流れていた。廊下側の窓や入り口の引き戸が開けられた教室の中からは、カチャカチャと言う食器の音と、子供達の賑やかなお喋りの声が聞こえてくる。

 時間を見ると、そろそろ食べ終わる頃か……私は、担任の席からは見えない廊下の位置から、開いている入口を通して教室を覗き込み、拓都を探す。

 あっ、拓都だ。隣の席の子とお喋りしながら食べている。

 目ざとい子供に見つかり、こちらを指差し「誰か来てるよ」と言われてしまった。

 仕方なく、担任が見える所まで移動して、担任と眼が合うと頭を下げた。担任は立ち上がると、廊下まで出て来てくれた。私は、口角を少し上げて微笑みを作り、もう一度頭を下げて「よろしくお願いします」と言った。彼も穏やかな優しい表情で会釈してくれた。

 私はドキドキしながらも、彼に笑いかけられた事に満足した。


「西森さんのところの翔也が休みだったから、違う日になったのかと思いました。お一人ですか?」


「はい、一人でもできそうでしたので……後で牛乳パックを洗っている所の写真を撮らせて下さい。それからお話も少し訊かせて頂けたら……」


「わかりました。写真を撮る場合は、自分のお子さんを撮っていただくか、よそのお子さんを撮る場合は、後ろ姿等の本人が特定できないアングルでお願いします」

 彼が『自分のお子さん』と行った時、ドキリとした。噂はまだ彼のところまで届いていないのだろうか? それとも……。


「わかっています。広報の方でも注意を受けていますので……」

 そうなのだ。最近は個人情報保護法の観点からも、また犯罪などの予防の観点からも、児童が特定できるような写真を掲載する場合、親の許可が無いといけない。また、子供の写真を勝手に撮ったと怒る親がいないとも言えないからだ。


 その時、拓都が私に気付いて「ママ」と廊下まで出て来て呼んだ。私は拓都にニッコリ笑うと、今日は驚かそうと思って学校へ来る事を言っていなかった事を思い出した。


「学校の役員のお仕事で、給食の牛乳パックを洗ってる所の写真を撮りに来たんだよ。拓都はもう給食を食べ終わったの?」


「うん。じゃあ、牛乳パックを持って来るよ」

 拓都はそう言うと自分の席に戻って行った。他の子供達も、突然現れた来訪者に興味シンシンなのか、私の周りに集まって来る。


「拓都君のお母さんなの?」

 可愛らしい女の子が私の顔を見上げて訊いて来た。私は「そうだよ」と答えると、「何をしに来たの?」と質問が続く。他の子が私の手に持っているデジカメを見て「写真を撮るの?」と訊く。また別の子が「何を撮るの?」と訊く。そして、次々に質問が飛び出し、私は困ってしまった。

 小学校の先生って、大変だと思って、今は教室の中へ戻ってしまった担任の方へ、助けを求める様に視線を向ける。


「こらこらおまえたち、そんなに質問攻めにしたら、拓都のお母さんが困るだろ? 今日は学校の役員の仕事でみえてるんだから邪魔をしない様に」

 担任は私の窮状を見てとったのか、すぐに子供達に注意をしてくれた。1年生の子供達は素直に「はーい」と言って、私から離れて行った。

 こうして近くで、彼と子供達のやり取りを見ていると、夢の様な気さえする。最後の時は大学生だった彼が、希望通り先生になって目の前にいるなんて……。


 拓都が切り開いた牛乳パックを持って来たので、バケツに入れた水で洗っている様子を写真に撮った。やはり顔がはっきり映らない様に、しゃがんで(うつむ)いている姿を横から撮った。

 当番が、そのバケツの水を花壇に撒きに行くと言うので、付いて行き写真を撮らせてもらった。

 そして給食を終えた子供達は、いっせいに校庭へ遊びに行ってしまった。拓都も私に手を振ると、友達と一緒に行ってしまった。他の教室からも子供達がどんどんと廊下へ出て来て、あっという間に外へ流れ出して行き、後は数人残った静かな教室と、担任と私だけだった。


「篠崎さん、この後仕事に戻られるのですか?」

 私がぼんやりと廊下の隅に立って、子供達が校庭へ出て行くのを見送ると、担任が声をかけてきた。


「え? あ、はい」

 いきなり訊かれたので、驚いて慌てた返事をしてしまった。そんな私を見て、彼はクスリと笑った。


「まだ時間はいいですか? このあと少し話したい事があるので、この給食ワゴンを返して来るまで待っていてくれませんか?」

 えっ? 

 話したい事? 

 もしかして……?


「はい……わかりました」

 私が答えると、彼は給食ワゴンを押して給食室の方へ向かって行った。

 

 話したい事……なんだろう?

 もしかして……拓都の事だろうか?

 分かってしまったのだろうか? 

 拓都が姉の子供だと……


 私は窓から外の景色を見ながら、彼の話について考え続けていた。

 ……それとも、役員としての話だろうか?

 学校で話す事だから、きっとそうだ。

 こんな所で個人的な話はしないだろうな……。


「篠崎さん」

 ぼんやりと外を眺めていた私は、近づく足音にさえ気付けなかった。呼びかけられて、驚いて振り返ると、彼が先程と同じ穏やかな表情で微笑んだ。


「お待たせしてすいません。牛乳パックの事で何か訊きたい事はありますか?」

 なんだ……そんな事を言うために待たせたのか……。


「いえ、説明頂いた事で、よくわかりましたので……写真も撮れましたし……」

 では、これで帰りますと言おうと思ったら、言葉を遮断する様に彼がまた口を開いた。


「篠崎さん、ちょっとこちらへ……」

 と言って、彼は窓の傍を離れ、廊下の片隅へ誘導した。片隅と言っても廊下の途中の壁際だ。それも階段の傍だった。担任と保護者が廊下で立ち話をしていても、特に変だとは思われない様な場所だろうか……。

 窓から見えるのがダメだったのかな?

 単に教室の前から外しただけなのか……。

 私は場所を移動した意味も分からないまま彼に従うと、彼は私を見つめて小さな声で話し出した。


「1学期の個別懇談の時言ったと思うけど、拓都を預かった事を誰かに尋ねられても、否定して欲しいって言っただろ? あの事なんだけど……」

 彼の口調がいきなり砕けたものになり、私は戸惑った。彼の担任モードと昔の知り合いモードは、どこで切り替わるのだろう? いきなりスイッチがオン、オフになる様に、見事に切り替わる。


 「ええ」と、取りあえず相槌を打つが、なぜいきなりこの話を? それも学校で? と頭の中で疑問がグルグルと回り出す。


「あの事、もう心配しなくていいから……誰かに尋ねられる事もないと思うし、もう巻き込む事もないから……」


「えっ? あの写真の件、解決したんですか?」

 私は彼の言葉に、思わず尋ね返していた。しかし、言った途端に驚いた彼の表情を見て、私はまずい事を言ってしまった事に気付いた。


「どうして、その事を知ってるんだ?」

 彼は少し声を荒げた。私はその声にビクリとし、動揺して視線を泳がせる。

 その時、階段を下りて来る足音がし、私は気まずくなって一歩後ろに下がった。そして、階段の方を見上げる様に視線を向けると、下りてくる女性の足が見えだした。

 彼も階段に背を向けて立っていたけれど、半身(はんみ)になって、同じように階段のほうに視線を向けた。


「あっ、守谷先生。丁度良かった。お借りしたい資料があるんですが……」

 階段を下りて来たのは愛先生だった。私はその姿を見た途端、胸にチクリと痛みが走った。彼女からは、長身の彼の向こうに私がいるのが見えなかったのか、階段を駆け下りながら彼に声をかけている途中で、やっと私の存在に気付いたようだった。


「今夜にでも連絡しますので、よろしくお願いします」

 彼は素早く私にそう言うと、愛先生の方に向き直り、「何の資料ですか?」と訊いている。


「あの、お話し中だったんじゃないんですか?」

 愛先生は、私に気を使って、戸惑いながら言う。


「大丈夫です。もう終わりましたから……」

 彼は愛先生にそう言うと、私の方を向いて「今日はお疲れ様でした。また来週、会議の方お願いします」と言った。私もすぐに「ありがとうございました」と頭を下げると、彼は頷いて踵を返した。そして、私に軽く会釈をする愛先生と一緒に職員室の方へ歩いて行った。


 私は二人の後姿を見送りながら、冷たい風が吹きすさぶ荒野に一人取り残された様な気がした。

 

 

 


 

 




 




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