#12:小さな決意
「なんだか今日の守谷先生、変だったね?」
西森さんは、担任が出て行った教室のドアの方に視線を向けたまま、ポツリとそう言った。
「そう、なんですか? 私は、入学式と今日しか知らないから、いつもああなのかと思いました」
嘘ばっかり……でも、ある意味、先生である彼は、その2回の彼しか知らないと言えるだろう。でも、私は知っている。あんな堅苦しく、冷たい感じの彼は、本当の彼ではない事を……
「いつもは、もっとにこやかで、爽やかで、楽しい話もできる先生なんだけどな……特に3人になってから、ちっとも笑わなかったし、私が笑わそうとしていろいろ突っ込んでも、真面目に返すし……何か嫌な事でもあったのかな?」
西森さんのおふざけな発言は、担任を笑わそうとしての事だったのか……ことごとく外れていたけれど……。
それに、嫌な事って……やっぱり、私の事かな……?
「ほらほら、篠崎さんまで、守谷先生の不機嫌病がうつっちゃうよ。ほら、笑って……」
「もう~西森さんには、負けちゃうな~」
西森さんは、自分の周りで緊張したり、不機嫌だったり、落ち込んだりしている人がいると、笑わせようと構わずにはいられないんだ……いい人なんだよね。でも、守谷先生と絡めて突っ込んでくるのは、堪忍して欲しい。
「ふふふ、さあ、今の内に、この専門委員会の希望のプリントを書いてしまわない?」
「そうですね。何も分からないので、よろしくお願いします」
私はぺこりと頭を下げた。西森さんと一緒に役員になれて良かったと思った。
結局、西森さんが言うまま、第一希望を広報、第二を文化、第三を福祉とした。何も分からないのだから、少しでも知っている人と同じがいいから……だからと言って同じになる保証はどこにもないのだけど。
PTA総会の会場である体育館に入ったのは、始まる少し前だった。並べられた椅子に、皆思い思いの場所で、仲の良い母親たち同士で固まって座っていた。その元気なお喋りには、母親パワーを感じてしまう。
全校生徒の数の割には少ないなと思いながらも、いろんな人に声をかけられて、にこやかに返事を返していく西森さんの後を付いて行く。前の方で席を陣取っている数人のお母さん達が、西森さんに向かって手を上げて「西森ちゃ~ん、こっちよ」と声をかけた。彼女もそれに答えて、手を振っている。
あ……お友達と約束してたんだ……
私も一緒に行ってもいいのかな……
「篠崎さん、ウチの上の子と同級生のお母さんたちなの。怖くないから、一緒に座ろ?」
私の戸惑いを察して、西森さんは優しく言ってくれた。怖くないからは、彼女特有の気配りだ。彼女は本当に気配りのできる人だ……それに、さっきから何人も声をかけられていたし、彼女の気さくで気配りのできるところが、皆に好かれているのだろう……
「すいません。よろしくお願いします」
そう言うと、西森さんを呼んでいたお母さん達の後ろの列に座った。すると前に座っていたお母さん達が振り返って、ニヤニヤしている。
「ちょっと、西森ちゃん。聞いたわよ。又、守谷先生のクラスだって? ずるいよね、西森ちゃんばかり」
「そうよ、そうよ、2年続けてなんて、千裕ちゃんだけなんだから……」
責める様な事を言いながらも、二人は笑っている。千裕ちゃんと言うのは、どうも西森さんの名前らしい……
「ふふふ、うらやましいでしょう? おまけに学級役員も当たっちゃって、さっきまでこの篠崎さんと守谷先生と3人でお話していたのよ。うふふふ」
西森さんは、自慢気に笑っている。
「何? 千裕、また役員当たったの?」
前に座っていたお母さんが、もう一人振り返った。
「そうよ、守谷先生のクラスで、役員に当たるなんて、宝くじものよ」
西森さんは、強がるように返している。
「守谷先生のクラスでも、なり手が無くて、くじ引きだったんだ……それって、宝くじじゃないって……」
「あら、さっきは1メートルも離れていない距離で、向かい合っておしゃべりしていたんだから……近くで見ても、守谷先生は男前だったわ。ねぇ、篠崎さん?」
あーー、こちらに話を振らないで欲しい。私が戸惑いながら頷くと、前に座る一人が、私に笑いかけた。
「篠崎さんって、小学校は初めて? なんだか初々しいわね。西森ちゃんはうるさいけど、いい人だから、仲良くしてあげてね」
「いえ、私の方が、何も分からなくて、お世話になりっぱなしで……」
「きゃー、ホントに初々しい。 小学生の子供がいるなんて思えない」
私はまともに母親パワーを浴びて、カルチャーショックを受けていた。
母親達のざわめきも、皆の前に用意された机の席に数人の男女が着くと、静かになった。西森さんが横から、中心にいる美しい女性が、PTA会長だと教えてくれた。
あの……彼の恩師の奥さんだと言う……ファンクラブの会長だと言う……本当に美しい女性。
議長が総会の開始を告げ、昨年度の会計報告が読み上げられ、事前に決められた議題がシナリオ通りに進められていく。承認の為の拍手、監査の報告……各委員会の長が与えられた役をこなす様に、前に立って報告を繰り返す。全て予定通りに終わると、今年度の本部役員が紹介された。
そして、学校側から今年度の方針や、変更点等についての説明があり、最後に教職員の紹介があった。
1年の担任から、前へ出て名前を言う程度の自己紹介をして行く。1年の担任5人が前に立つと、母親達がどよめいた。聞こえてくるのはやはり、守谷先生への感嘆の声。
「やっぱり、モリケイはカッコイイわね。西森ちゃん、惚れたらダメだよ。家庭崩壊だからね」
前に座る西森さんの友達が振り返って、こんな事を言う。
モリケイって……略さなくても……それに、惚れたらダメは、合い言葉なのか……
家庭崩壊って……あの事件のせいなのか……
2年、3年と紹介は進み、4年の担任が前に立った時、西森さんがまた横から教えてくれた。
「篠崎さん、あの一番右端の女の先生が、愛先生だよ」
そう言われて、視線を向ける。自分に似ていると言われても、自分ではよく分からない。愛先生の髪形は、肩より少し長めでウェーブのかかったミディアムヘアー。それは、3年前までの私のヘアースタイルとよく似ていた。今の私は、3年前にショートヘアーにしてから、伸ばした事が無い。もう二度と、伸ばさないと決めた、彼が好きだと言った長めの髪。
「私に似てる?」
小さな声で、西森さんに問いかけると、私と前に立つ愛先生を見比べている。
「髪型が違うけど……何か似ている気がする。やっぱり笑った顔かな? こう、ホッとする様な笑顔……」
西森さんはそう答えると、前に座る友達に、私と愛先生の事を問いかけている。前の3人が私を振り返り、同じように愛先生と見比べた。
「う~ん、髪形が違うから、パッと見は思わなかったけど……じっくり見たら、顔の作りは似ている様な気がする。……えっ? 笑った顔が似てるって? 篠崎さん笑って見せて」
そう言われて笑えるもんじゃないけれど、皆に言われて引きつった笑顔を見せた。その時、前に立つ愛先生が、自己紹介をしてふんわりと笑った。その笑顔を見て、どこか懐かしさを感じた。
総会が終わり、委員会の希望プリントを提出してから帰ろうと言う事になり、西森さんと担任を捜していると、まだ人々でざわめく体育館の中、片隅に立って話をしている彼を見つけた。話をしていたのは、なんと、あの愛先生だった。その時の彼の表情を見て、ドキリとした。今日は決して見る事のなかった、あの懐かしい優しい表情……私以外の人に向けられているのを、初めて見たかもしれない。
あの頃は、周りの女性に冷たい態度や、作った様な笑顔しか見せていなかった彼だけど、今では職場でそんな優しい表情をするようになったんだ……それは大人になったと言う事なのか……
西森さんが声をかけると、こちらを見て驚いた顔をしたが、すぐに真面目な担任の表情になった。さっきの優しい表情は消えていた。あれは、同僚限定なのか……
私達はプリントを提出し、「お疲れさまでした」と体育館を後にした。そして、学童へ拓都を迎えに行き、自転車を引いて、歩いて帰った。
家に帰ると、どっと疲れが出て、座り込んでしまった。何もする気になれない。なんだか意地悪すぎる運命に、もう白旗を振ってしまいたい。もう、堪忍して欲しい。こんな事続けていたら、私の気力も疲弊してしまう。これは、私がした事への因果応報? この一年、この罰を受け続けなければいけないの?
ソファーに座ってぼんやりしていると、拓都がニコニコとプリントと教科書を持ってやって来た。
「ママ、このプリントを書いて出してくださいって。それから、音読、聞いてくれる?」
拓都の笑顔だけが、今の救いだ。この笑顔を守るために、頑張らなきゃ……
気持ちが少し浮上して、「いいよ」と答えると、拓都は私の隣に座って、教科書を読みだした。まだ少しつかえる所もあるが、随分上手に読めるようになってきた。子供は日々成長しているんだなって、今更ながら感動する。そんな成長途中の拓都を見ながら、私は何をやっているんだろうって思う。
拓都の音読を聞き終えて、いつもの音読カードに感想を書き入れる。最初の頃は、このカードを担任である彼が見るんだと思うと緊張したが、もう慣れてしまった。そうだ、こんな風に彼が担任である事にそのうち慣れて、今のこの精神的疲労も感じなくなってしまうのかもしれない。人間って、どんな環境でも順応できる様になっているのかな……
拓都が持って来たプリントを見て、私は又運命を呪いたくなった。プリントには『家庭訪問のお知らせ』とあった。
彼が、この家へ来たのはもう4年以上前だ。私がまだ大学生の頃で、家の前まで車で迎えに来てもらう事は、何度もあったけれど、家の中へ入れたのは、確か1度だけ……姉がしつこく言うので、1度だけ家に招いた。でも、やっぱり恥ずかしくて、自宅へ招いたのはその1回限りだった。
彼は覚えているだろうか? あの頃と何も変わらない、この家。ただ、住む人が変わっただけ……違う、減ったんだ。私と拓都だけを残して、みんな居なくなってしまった。
……ダメだ……普段考えない様にしているのに、思いだすとじわじわと溢れだす涙。
お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お義兄さん……こんな弱い私で、ごめんね……でも、拓都は守るから、何に代えても、守るから……みんな、私と拓都を見守っていて……
テレビのアニメを見て笑っている拓都の方を見て、気付かれない内に涙を拭く。今日はどうもおかしい。こんな私は、本当の私じゃない。私は、いつも前を向いて、胸を張って歩いていたじゃないか……
いつまでも、過去の罪悪感に囚われないで、忘れる事が一番の償いなのかもしれない。
私はもう一度、プリントに目を落とし、家庭訪問の希望日を、スケジュール帳を見ながら、都合のよい日時を書きいれた。
*****
その夜、私はまた、由香里さんに電話をした。学級役員の顛末を話すために……。
「それは、オメデトウ。見事に役員に当たったんだ。でも、そのくじは、ちょっと意味深ね」
私の話を聞いた由香里さんが、苦笑交じりにお祝いの言葉を言った。
「めでたくなんかないわよ。でも、あのくじは、もしかして……仕返しとか?」
「仕返しとまでは言わないけど、試したのかもね?」
「何を?」
「美緒が昔の事を覚えているか……」
「そんな事、試して、どうするって言うの?」
「それは本人に聞かなきゃ分からないけど……ちょっとした悪戯心だったんじゃないのかな?」
そんな悪戯心で、役員にされてはたまらない……でも、私があの時、昔の事を思い出さなければ、当りを引く事は無かったかも知れない……。結局自分が引き寄せた事なのか……。
「もう、決まってしまった事だから……今更、もういいわ。もう、このグチャグチャした気持ちをリセットして、役員の仕事を頑張る事にしたから」
私の小さな決意を、告げてみる。けれど、由香里さんは、噴き出すように笑いだして、「無理しなくてもいいよ」と言った。
無理しなきゃ、私が私でいられなくなるの!
そう心で叫んだが、結局口にしたのは「無理してないよ」と言う言葉だけだった。