#11:見えない壁
いつもありがとうございます。
昨日は更新できなくて、すいませんでした。
今回は、少し長いです。
覚悟をして読んでください。
「やだ~、篠崎さん、そこは笑う所よ」
固まったまま顔を引きつらせる私に、ガハハと笑いながら突っ込む西森さん。
……あなたはいったい何を考えているんですか……
突然ガタンと音がして、驚いてそちらを見ると、担任が立ちあがっていた。
「書類が足りないので、もらってきます。少し待っていてください」
担任はそう言うと、長い脚でさっそうと教室を出て行った。私は彼の後姿を見送ると、ホッと息を吐いた。私のそんな様子を見ていた西森さんが、楽しそうな声で、また私に突っ込んでくる。
「やっぱり篠崎さんも、守谷先生の様なイケメンが、タイプなの?」
「タイプって……」
西森さんの突っ込みは、戸惑うばかりで、なんて答えたらいいのか、分からない。それでも西森さんは、私の返事などお構いなしに、話を続ける。
「守谷先生ってさ、この辺では見かけない程、男前でしょう? 俳優とかモデルと言っても通用するぐらいだし、背も高いし、性格も真面目で爽やかだし……でもね、恋愛から遠ざかっている主婦には危険なのよ。去年、本気になりかけたお母さんがいてね……修羅場だったんだから……守谷先生は、まったくの被害者みたいなものだけどね……」
本気になりかけた? 修羅場? 被害者? ……それって……さっき聞いた、あの事件の事だろうか?
「もしかして、それって、旦那怒鳴り込み事件って言うのですか?」
私は恐る恐る訊いてみた。すると、西森さんは、驚いた顔をして、「知っているの?」と訊き返した。
「授業参観の時、廊下で噂話をしている人たちがいて、そんな事を言っていたから……」
「そっか……結構噂広まっちゃったから、2年生以上の子供を持つお母さんなら知っているかも知れないね。でも、今年初めての人は、そんな話、驚いたでしょう?」
「ええ、まあ、事件なんて言うから、何があったのかなって、ちょっと気になりました」
「あれはね、去年、ウチの上の子のクラスのお母さんが、不登校気味の子供の相談を担任の守谷先生にしたのが始まりなのよ。ご主人が単身赴任で、余計不安だったんだと思うの。それに、守谷先生も初めての担任で、一生懸命だったから、保護者との距離感が上手く掴めなかったんだと思う。そのお母さん、守谷先生の携帯へ何度も電話して相談していたみたいで、守谷先生も一生懸命対応してくれるから、きっと勘違いしちゃったのよね。自分の為に一生懸命になってくれているって……その内、相談は口実になって、声を聞きたくて電話をするようになってしまったみたいで……単身赴任のご主人が、奥さんの様子がおかしいって、携帯を調べちゃったらしいの。そうしたら、担任に電話をかけている数が普通じゃないもんだから、不倫だと思っちゃったのよね……それで、ご主人が学校へ怒鳴り込みに来た訳。その時ちょうど、本部役員の人達が集まっていたらしくて、一気に噂が広まってしまったのよ。その後、ご主人は奥さんと子供を赴任先に連れて、転校して行ったんだけどね……守谷先生は気の毒って言うか、一生懸命だっただけに、可哀そうと言うか……ねっ」
そんな事があったんだ……それで、携帯番号を教えない事になったのか……彼もその外見ゆえに、余計な苦労をしているんだな……相変わらず。
「そうだったんですか……大変だったんですね」
「そうだね、守谷先生は大変だったと思うけど、あの後も子供たちや他の保護者には、変わらない態度で接してくれて、本当にいい先生だと思うのよ。だから、先生に迷惑かけちゃうから、本気で惚れちゃだめよ。……でもねぇ~私もあと10年若くて独身だったら、絶対に惚れてたな……」
そう言って、西森さんはまた、ガハハと笑った。
いったいこの人の頭の中はどうなっているのだ……
私は、脳天気な西森さんの笑い声を聞きながら、つられる様にクスリと笑った。そんな私の笑顔を見た西森さんは、「そうそう、笑わなくちゃ。篠崎さんは、緊張しすぎだよ」と言って、またニッコリと笑った。
西森さんは、やっぱり、私の緊張を解くために、楽しく話をしてくれていたんだ……
いい人だな~と思いながら、私は緊張の解けた心からの笑顔を、彼女に向けていた。
「篠崎さんって……」
私の顔をじっと見た西森さんが、何かを思い出したように言いかけた時、教室に入って来る足音が聞こえた。二人揃ってそちらに目を向けると、先程から話題になっていた担任、守谷先生がプリントを持って近づいて来るところだった。
「お待たせしてすいませんでした」
担任は、席に着くと、持って来たプリントを私達二人のそれぞれの前に置いた。私はプリントに目を落としたが、西森さんはプリントに目もくれず、目の前の担任に話しかけた。
「ねぇ、ねぇ、守谷先生。篠崎さんって、愛先生に似てると思わない?」
大発見をしたように、西森さんは嬉しそうにタメ口で話す。私は自分の事を言われたので、驚いて顔を上げた。その時、担任は一瞬顔を歪めたが、すぐに真面目な顔つきに戻り、私の方をチラリと見た。
「そうかな? あまり似ているとは思わないけど……」
「髪型が違うから、少し雰囲気が違うけど、さっき篠崎さんが笑った時、そっくりだと思ったのよ。ほら、篠崎さん、笑って」
……そ、そんな事、言われても……。
「あの、愛先生って?」
私に似ていると言う先生とは、どんな先生なのだろう?
「去年3年2組の担任だった大原愛先生なんだけど、他に男の先生で大原先生って言う人がいるから、みんな愛先生って呼ぶのよ」
西森さんはニコニコと説明してくれた。
私に似ている大原愛先生って、どんな先生なんだろう?
「そろそろ説明しますので、雑談はそのぐらいで……」
放って置けばそのままいつまでも雑談していそうな西森さんを、たしなめるように話を絶ち、担任は不機嫌なのかと思うほど冷たい表情で、説明を始めた。
……どうしたのだろう?
今日はずっと穏やかな表情をしていた彼が、さっきから急に酷く真面目と言うか、冷たい表情をしている。西森さんは気づいているのだろうか?
なんだか、これ以上近づくなと言わんばかりの、見えない壁を感じた。それは、私だから? ……もしかして、私が役員なんかになってしまったから? 近づき過ぎたのだろうか?
そもそも、私の事は認識しているよね? 私の事を恨んでいるから、そんな表情になってしまうのか……3年経って、許されたなんて思っていないけど、謝ると言うのも何か違うし……でも今は、担任と保護者と言う関係なのだから、過去は持ち出さないで欲しい……いいえ、彼は担任と保護者と言う距離を、私に分からせようとしているのかも知れない。過去を持ちだすのではなく、なかった事にしたいのかも知れない。
担任は硬い表情で、私達の目の前に置いたプリントの説明を始めた。それは、学級役員が参加しなければならない専門委員会の希望を書きいれるプリントだった。専門委員会は5つあり、第三希望まで書きいれるようになっていた。担任は、それぞれの委員会の説明を淡々とすると、まだよく理解できない内に「今週中に書いて子供に渡してください」と、取り付く島も無く言った。
私は途方に暮れた。何も分からない状態で、何を基準に希望を書きいれればいいのか……
私が不安げな顔で西森さんの方を見ると、彼女は私を安心させるかのようにニッコリと笑った。
「私は前回広報委員をしたのだけど、広報誌を作るのは楽しかったから、また広報にしようかな? 篠崎さんも、広報にする?」
西森さんの笑顔はとても安心ができた。担任の固い説明よりも、ずっと魅力があった。
「はい、何も分からないので、西森さんと同じにしてもいいですか?」
私は藁をもすがる思いで、西森さんに問いかけていた。
「広報って、会議とか多いんじゃないんですか? 篠崎さん、お仕事そんなに休んで大丈夫ですか?」
えっ?
私は初めて……いいえ、3年ぶりに、彼に声をかけられた。それまで西森さんの方に向けていた顔を、驚いて思わず、この至近距離で、彼の方へ向けてしまった。視線が絡み、フリーズする時空間。
「守谷先生、酷いわ。私だって働いているのに、私にも訊いてよ」
固まった空気を切り裂く様に、ワザと拗ねた様な声を出す西森さん。彼女は脳天気なのか、確信犯なのか……
それでも彼女の発言は、今の私には救い以上のものがあった。
「西森さんは広報の実態を知っていて、広報を選ぶんだから、お仕事をしていても、大丈夫なんでしょう?」
担任は、溜息を吐いた後、西森さんを諭すように言った。悪戯を見つけられた子供の様な顔をした彼女は悪びれもせず、エヘヘと笑うと、また私の方を向いた。
「篠崎さんは、平日の昼間は、あまり休めないお仕事なの? だったら夜は出られるの?」
西森さんは、年上の先輩お母さんとして、未熟な母親を諭し導く様に、優しく訊いてくれた。
「ええ、平日なら夜の方が確実に出られると思います。でも、子供も連れて行っていいのかな?」
「広報の仕事をしている間、おとなしくしていられるなら、いいと思うけど……見てもらう人はいないの? 旦那は帰り遅いの?」
旦那?
一瞬何の事か分からなかった。今までそう言う存在がいた事も無かったし、保育園の時は母子家庭だと分かってもらえていたから、そんな事を訊いて来る人もいなかった。
私は、ここで否定をした方がいいのだろうか? 旦那はいないと言ったら、彼はどう思うのだろうか?
いずれは分かる事かも知れないけれど……
それでも、彼の方を見る事ができなかった。別れて3年で、違う人と結婚して子供までいると思っているだろう彼から、軽蔑したような目で見られたら、息が止まる様な気がして……。
「えっ? あの……」
私が言いあぐねていると、得心がいったと言う表情をした西森さんが、また優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。広報はね、夜しか出られない人と、昼間出られる人のグループに分けて、作業するから……みんな親だから、子供を連れて行っても理解してもらえると思うわ」
西森さんは私に向かって優しくそう言うと、今度は担任の方を向いて苦笑しながら、話を締めた。
「守谷先生、そう言う事ですから、広報でも大丈夫なんですよ」
「そうですか。そう言う事なら、何も言う事はありません。それでは、学級役員の仕事について説明します」
担任は、また硬い真面目な表情と声になって、説明しだした。
学級役員は、学期ごとの父兄参加の行事の手伝いをして欲しいとの事。
1学期は、給食試食会。2学期は、親子ふれあい学習会。3学期は、親子レクリエーション。
ほとんどの学期が、企画と打ち合わせと準備に2日、そして行事の当日の3日間、学校へ来てもらわないといけないと説明は続く。
「学級役員の会議は、夕方の4時からと言う事になっています。お二人は、時間的に大丈夫ですか?」
さっき委員会の話の時に、散々、昼間は無理だから夜にと言う話をしていた所なのに、また同じような事を、訊いて来るこの担任は、何を考えているのだ。彼がうかがう様にこちらを見る表情は、何の感情も表れていない、硬い真面目な表情だった。
「守谷先生、なによぉ~さっきも時間の話ししていたじゃないの。私はもちろん大丈夫だけど、篠崎さんは、4時だとまだお仕事終わらない時間でしょ?」
「あ……そんなに頻繁じゃ無ければ、大丈夫です。早退します」
「そうですか……それじゃあ、全ての日程が決まっている訳じゃないですけど、第一回目の会議は、来週の木曜日の午後4時に会議室で、初顔合わせと、今後のスケジュールについて話し合います。学級役員の会議は、学年単位でしますので、5クラスの役員10名と担任5名の予定です。都合が悪くなったら、学校へ連絡してください」
一通り説明し終わると担任は、広げていたファイルをパタンと閉じた。私は、さっき聞いた来週の予定をスケジュール帳へ記入していた。西森さんは、携帯電話を鞄から取り出すと、なにやら操作し始めた。こんなところでメール? といぶかしんだ目でちらりと見ると、西森さんはニコッと笑った。
「私、スケジュールは携帯で管理しているの」
ちょっと自慢気な顔をして、西森さんは携帯の画面を見せた。
「へぇ~すごいですね。私、携帯を使いこなせなくて……」
「あら、簡単よ~ ねぇ、守谷先生」
西森さんはすぐに雑談に、担任を巻き込もうとする。なんだか西森さんって……おばちゃんパワーって言うか、脳天気って言うか……どちらもあまり嬉しくない表現なので、本人には言えないが、今の私には、そのパワーがありがたかった。
「簡単かどうかはその人に寄ると思いますけど、自分のやりやすい方法で管理すればいいと思いますよ。携帯と言えば……役員の方とはいろいろと連絡を取る事が多いと思うんですが、今年から個人情報保護の観点から、教職員の携帯番号は公開しない事になりまして……でも、役員の方の時間的都合もあると思うので、携帯メールで連絡を取り合いたいと思います。それから、こちらの携帯から電話をかける時は、非通知で電話をしますので、非通知拒否の設定をしていたら、解除しておいてください」
担任は、そう言うと、ポケットから携帯電話を取り出した。そして、携帯の画面を見ながら、紙にアドレスを書き写し、私達の方へ向けて示した。私は慌てて携帯電話を鞄から取り出すと、机上の紙を見ながら、間違わない様にゆっくりと入力した。
「守谷先生、今時手で登録しなくても、赤外線で送って下さいよ」
西森さんは、何やら操作をすると、担任の方へ携帯を向けている。
「西森さん、赤外線だと、携帯番号まで送ってしまうので……すいませんが、手で登録してください。それから、アドレスを登録できたら、件名に名前を入れて、空メールを送ってください」
「あ、そうか……でも、守谷先生はずるいね。自分は受信したメールで登録するんだから……あ、そうそう、篠崎さんの携帯アドレスと番号も教えて?」
西森さんはそう言いながら、手早く担任のアドレスと登録すると、即座に空メールを送っている。
私は、そんな西森さんのくるくる変わる表情と動作を、ボケっとして見ていた。
「え? あ、私の携帯アドレスと番号ですか? ちょっと待ってください」
私はプロフィール画面を出すと、西森さんに見えるように向けた。
「ちょっと、篠崎さん。赤外線で送ってよ」
「あ、ごめんなさい。私、赤外線のやり方、分からなくて……」
私は恥ずかしくなって目を伏せた。西森さんは「ええっ?」と驚いた後、「やった事無いの?」と問いかける。私が頷くと、テキパキと指図し、携帯を向かい合わせ送信を完了させた。そして、私の方へも、彼女のデーターを送ってくれたので、すぐに登録した。
「あの、もういいですか? 篠崎さん、私の携帯へ空メールを送ってください」
あっ! まだ送っていなかった。
彼は、私と西森さんのやり取りが終わるのを、待っていてくれたのだ。
私は「すいません」と謝って、すぐにメールの新規作成画面を開くと、先程登録した担任のアドレスを捜す。登録する時、名前を「1年3組担任」にしようかフルネームにしようか迷った末「守谷先生」と無難な名前で登録した。件名に自分の名前を入力しながら、このメールは3年ぶりの彼へのメールである事に気付いた。3年ぶりのメールが中身の無い空メールなんて……今の私達を象徴している様だ。
あの頃、幾度となくやり取りした写メールは、3年前に携帯を新しくした時、一旦はデーターを移したけれど、その日、時間をかけて、一つ一つ開きながら、一つ一つ削除していった。それは、思い出にさよならを言う様に、彼から送られた写真を心に焼き付ける様に……たった一つを残して、全てを削除したのだった。
私は空メールを送信した。ほどなく、担任の携帯がメールの受信を告げた。彼はその長い指で、テキパキと登録の操作をすると、パチンと携帯を閉じた。
「言い忘れましたが、携帯アドレスを教えるのは学級役員だけで、他言しない様にしてください。そのアドレスは、1年後に変えますので、今年度限りだと言う事も、覚えておいてください」
そう言うと、担任は立ち上がった。その姿を見上げた西森さんは、笑顔で「了解しました」と言い返している。そして……
「ねぇ、守谷先生。今日はいつもと違うのは、私たちみたいな美人を前にして、緊張したからですか?」
キャー! 西森さん、何を言うの!!
ここにきてまた地雷ですか?
私は驚いて、西森さんと担任の顔を交互に見た。すると担任は、フッと笑うと「そうかもしれないですね」と答えた。
「もうすぐPTA総会が始まります。体育館へ入ってください。では、1年間、よろしくお願いします」
それだけ言うと、担任は長い脚で教室のドアに向かって歩き出した。私は呆けた様にその後ろ姿を見送っていた。
その時、私の心の中では、先程西森さんが言った言葉が繰り返されていた。
……先生に迷惑かけちゃうから、本気で惚れちゃだめよ……。
それはもう、今更なのだけれど……。