叶える狛犬
蒸し暑く息苦しい日。『狛犬神社』と呼ばれる人気のない場所を、男は散策していた。
入り口付近を覗いてみると、狛犬が見える。ただし、一体だけだ。通常二体いるはずの狛犬、そのうちの一体は忽然と姿を消していた。それがこの神社の特徴であり、通り名の由来でもあった。
『悪い輩』が夜中にそれを持ち出したという現実的な噂もあるが、それ以外の噂もちらほらと耳にする。
狛犬が神社を出て、人を呪っているという噂。
誰かが、その狛犬を式神として使役しているという噂。
あるいは――
「おにーさんも、こまいぬにお願いしにきたの?」
賽銭箱の前で五円玉を握りしめていた男は、ふと顔をあげた。いや、目を落とした。
隣には、小さな女の子が立っていた。両の手があれば年齢を示せそうなくらいに、幼い子供が。
少女は男の顔を見据えたまま、微塵も動こうとしない。肩よりも長い黒髪は、いくらか頬に張り付いている。赤と白のワンピースだけが、ゆらゆらと揺れていた。
「おにーさんも、コマちゃんにお願いする気なんでしょ?」
「コマちゃん?」
男が尋ねると、少女は入り口を指さした。
「ここからいなくなっちゃった、お口を開けてるこまいぬ。んっとね、本当の名前はね……」
「阿形?」
男がそっとフォローすると、少女はうれしそうに目を輝かせた。
「そう! でもその名前、あんまり可愛くない。だから『きい』はね、コマちゃんって呼んでるの」
きい、という名前らしい少女は楽しそうに笑う。まるで狛犬の友達のように、誇らしそうに語った。
「コマちゃんはねえ、みんなのお願いごとをかなえる旅に出かけてるんだって。だから今は、ここにはいないの。でもね、ここでお願いしたら、コマちゃんが何でもかなえてくれるんだ。だからみんな、ここに来ていろんなお願いごとしてるよ」
「……君も、コマちゃんに何かお願いしに来たのかい?」
男が尋ねると、少女はぶんぶんと首を振った。先ほどとは対照的に、ブラウスはひらりともしなかった。
「きいはね、『絶対に』お願いごとが叶う方法を教えてもらったの。だから、コマちゃんにはお願いしない」
その言葉に、男は首をかしげた。少女からは笑顔が消え、代わりに酷くぎこちない表情を浮かべている。
男は掌の中で五円玉を弄びながら、少女に微笑みかけた。
「その方法って、どんなの?」
少女は答えない。ワンピースの端をぎゅっと握りしめ、口をきつく結んでしまう。男は、質問を変えた。
「その方法って、誰に教えてもらったの?」
「…………お父さんと、お母さん」
逃げ場のないような顔で、少女はぽそりと呟いた。小さな手が若干震えている。「だけど、誰にも教えちゃダメって言われてるから」と少女は困った風に付け加えた。しかしそこには『困った』だけではなく、他のメッセージも含まれていることに男は気づいた。
「……ねえ、教えてくれないかな? お父さんとお母さんには絶対に言わないし、二人だけの秘密にするから。絶対にお願い事が叶う方法、お兄さんも知りたいなあ」
「…………」
「お願い事はね、口に出した方がいいんだって。知ってた?」
男がそう言うと、少女は顔をあげた。本当にないしょにしてくれる? と小さな声で確認してくる。男は頷いた。
すると少女は、落ち着きなく身体を揺すりながら、声を出した。
「……せなかにね、二十回ジュッてするんだって」
その意味が分からず、男は首をかしげた。少女は狛犬よりも格段に近い場所――足元を指さす。そこに落ちているのは、煙草の吸い殻だった。
「これをね、せなかに二十回ジュッてすればいいんだって」
男は一瞬、凝り固まった。彼女の背中を確認しようと試みると、少女は首を振った。
「ダメなの。見せちゃダメって言われてるの」
無理強いすると少女が逃げてしまいそうなので、男は手を止めた。だが、化膿しかけた小さな円形の傷跡が、ワンピースの端からちらりと見えた。男は唇を噛みしめる。少女は笑った。
「お父さんとお母さん、仲が悪いの。いっつも喧嘩してばっかり。それにね、お父さんもお母さんも、きいのことが嫌いなんだって。きいは悪い子だから、なぐられても仕方ないんだ……」
少女は寂しそうに、笑ってみせた。男は、笑顔を返せない。少女はふっと俯き、
「きいなんか、生まれてこなければよかったんだって。毎日そう言ってる」
でもね! と少女は声を弾ませた。
「お父さんが教えてくれたの。せなかに二十回ジュッてしたら、お願いごとがかなうんだって。この方法はコマちゃんよりもすごいから、ホントは誰にも教えちゃダメなんだって。だけどお父さん、きいには教えてくれたの。痛くても熱くても、これはきいのためにやってるんだからなって、お父さんはいつも言ってくれるの」
男は、何も言わない。ただただ、黙り込んでいた。
「ジュッてするときはね、お父さんもお母さんも、きいのこと見てくれる。だから、痛くても熱くても、がまんできるの。きいはねー、いままで十九回、ジュッてしてもらったんだ。だからもうすぐ、お願いごとがかなうの」
思い出したかのように吹いた風が、少女と男の間を通り過ぎた。揺れるワンピース。男はそれを見ながらもゆっくりと、口を開いた。
「――次にジュッてしたら、君は何をお願いするの?」
その質問に少女はまたしても、秘密にしてくれる? と念を押した。男が頷くのを確認すると、少女は嬉しそうに笑った。
「あのね、」
大切な大切なお願い事を、少女はこっそりと男に教えた。
「きいがいなくなって、お父さんとお母さんが仲良くできますよーに」
どこまでも邪気のない笑みで、少女は確かにそう囁いた。
夕日の沈んだ神社に、男は一人で立ちすくんでいた。少女の姿は、もうない。
暗がりの中、狛犬のいなくなった柱に男はそっと凭れ掛かる。そうして掌の上で五円玉を転がしながら、溜息をついた。
「自分がいなくなって、両親が仲良くできますように……か」
『――……きゅん』
男が呟くと、足元で小さな鳴き声がした。か細い声のした方へ、男は顔を向ける。そして、微笑んだ。
「残念だけど、神様は仕事を選ぶんだよね。――あの子の願い事は、叶えたくない。なあ、阿形?」
『きゅうん』
「コマちゃんの方がいいかい?」
からかうようにそう言うと、男は賽銭箱へと向かった。その足元で、砂埃が舞う。少女が指さした煙草の吸い殻も、風に巻き取られ宙を舞った。
「俺はあの子の両親のことを知らないし、彼らの事情も知らない。けれど……両親の味方には、なれそうにもないなあ」
男は賽銭箱の前に立つと、親指で五円玉をはじいた。回転しながら、弧を描く五円玉。それを見ながら、男は囁いた。
「お願いします、神様」
五円玉は見えなくなり、賽銭箱の中でからん、と音が鳴る。
男は、笑った。
「あの子の両親が地獄に堕ちて、あの子は幸せになりますように」
――わん! という鳴き声とともに、疾風が男の足元をすり抜けていった。