10-1
「君はHertz、心ある人間だ」
その日の夜、パサラから連絡が入りました。
『ミリカ、「ディスト」が出た。今行けるかい?』
あの男の子のような声には懐かしさがあり、忌避するような気持ちがあったわたしも、何だか安らぐようでした。このわたしにだけ甘いように思えるこの毛玉が好きだったことが思い出されたのです。
なので、わたしはすぐに返事ができず、固まったようになってしまいました。
『ミリカ、どうしたんだい?』
懐かしい感情の次にわいたのは、パサラがわたしを咎めに連絡してきたのではないか、という疑惑でした。
そうです、タイムスリップか平行世界移動か分からないけれど、それはきっと正常な「インガ」を乱す行動です。
「そ、その……ごめんなさい!」
ああ、また謝ってしまいました。嫌になります。どうしようもないことだって分かっているはずなのに。
『どうしたんだい? 何かこれない事情でも?』
いつもの落ち着いた声音に、不思議そうな色が混じります。
『確かに二日続けてのことで疲れているのは分かるけれど……』
二日続き? わたしは眉を寄せます。パサラは確かにそう言いました。
『また鳥型なんだ。小さいがね。相性を考えると、君がベストなんだよ』
また、とパサラは言いました。鳥型と戦ったのは、わたしにとっては大昔のことです。
でも、この世界にとっては昨日のこと。パサラの口ぶりは、昨日を指していました。
これは、パサラもわたしが時間か世界を越えてきたことを知らない……?
『ミリカ、どうしたんだい? 大丈夫だよ、ランと組めというわけではないから』
「ごめんなさい!」
わたしはまた謝りました。だけどこれは、黙ってしまったことに対するお詫びです。わたしの全「ごめんなさい」中、一割程度しかない貴重な意味のある「ごめんなさい」でした。
『え、どうしても来れないのかい?』
「行けます、行きます!」
わたしは「ホーキー」を鞄から取り出します。
『そうかい……』
パサラは気圧されたような、面食らったようなそんな調子でした。
『じゃあ、よろしく頼むよ「エメラルド」』
はい、とわたしは「ホーキー」を握りしめます。久しぶりの変身でした。
「ディストキーパー」の姿になろうとしたら。左腿の付け根の「コーザリティ・サークル」を見て少し考えます。また怪物になってしまうのではないか。そんな不安が脳裏をかすめます。
大丈夫。「ホーキー」を通じて、そんな気持ちが生まれます。それは、「インガの改変」によって流し込まれる感情に似ていました。
今はそれを信じることにします。不快でも、わたしと違ってウソをつくことはしないものですから。
鍵を差し入れ回すと、見慣れた光に体が包まれ、それが解けると、わたしはあの姿に変わっていました。
白地に緑のライン、紋様の描かれたマフラー、扇風機のような羽の入った盾。鏡に映ったのは見慣れた、だけど懐かしい「ディストキーパー」の出で立ちでした。
わたしは緑に染まった髪に光る、翼を模した髪飾りに触れました。密かに気に入っていた装飾です。
やれそうだ。一つ息を吐いて部屋の窓を使って「インガの裏側」へ入ります。
色の失せた世界は何も変わらず広がっています。わたしは窓の枠でかかとを三度鳴らして飛び立ちました。
風をマフラーに集め、久しぶりに飛ぶ空は心地よく、少しの間わたしはすべてを忘れるかのようでした。
『「インガの裏側」に入ったね』
頭の中に響くパサラの声に、わたしは我に返りました。
「場所は?」
『そこから程近い小学校さ』
そこはわたしの出身校でした。だんだんと思い出してきました。あの鳥型と戦った翌日、わたしは今と同じように「ディスト」と戦ったのです。
そうです、人と同じくらいの大きさをしたツバメのようなシルエットの「ディスト」でした。一緒に戦ったのは確か……。
「あ」とわたしは声を漏らしてしまいました。あの時一緒に戦ったのは、トウコさんだったはずです。ということはこの世界なら……。
「やあ、葉山ミリカ。やってきてくれたようだね」
小学校の上空にいるわたしに、下から大きな声で呼び掛けたのは、思ったとおりの人物でした。
白地に輝くラインの入ったコスチュームに、変身しても変わらない珍しい色の髪、前衛型であることを示すショートパンツで、手には巨大な斧を携えています。
そう、十和田ディアでした。着地したわたしにゆっくりと近づいてきます。
「……『ディスト』は?」
ディアは辺りを見回して肩をすくめます。
「いやはや、やられたよ。斧をかわして、姿をくらましてしまった。やたらに素早い、Schwalbeのような『ディスト』だったよ」
つまりは逃げられた、ということのようなので、わたしは辺りの気配を探ります。
同時に思い返します。あの時は……トウコさんがさっさと片付けてしまったのです。
(こういう手合いは、わたしの『アブソリュート・ヒット』の的でしかない)
わたしはツバメ型を探しながら、ディアを視界の中に入れます。
携えた斧は大きく大雑把で、トウコさんのような精密な攻撃は期待できそうにありません。
なら、どうするか。どうやらわたしは、かつてトウコさんとよくコンビを組んでいたのと同じように、この世界ではディアと組まされていたようです。
流れ込んでくる記憶は、その経験を語ってくれました。
わたしは風を両手に用意します。ものを塵に変えたりしない、塵ならば精々巻き上げるくらいの「守りの風」です。
そして、見つけた――!
「ディアさん、後ろ!」
一羽のツバメ型が突進してきました。ディアは振り向き様に斧を横に払いました。
しかし、「ディスト」は高く飛んでそれをかわし、上空で反転します。
「やれやれ。『ディスト』の相手はどうも不得手だね」
そうこぼすディアにツバメ型が迫ります。わたしは片手の風をツバメ型にぶつけ、進路を阻みます。
突風に体勢を崩し、回って落ちてくるツバメ型をディアはすかさず斧で斬り裂きました。
「Schöne Kombination! 素晴らしい」
親指を立てるディアにうなずきながら、わたしは周囲に気を配りました。
わたしの世界と同じなら、あと二体いるはず……!
わたしはディアの背後に迫る影に気付きました。
危ない! 告げようとした時にはもう遅かったようです。
「……はぐっ!?」
ディアはうつ伏せに倒れていました。斧を落としています。動かず、起き上がってくる様子はありませんでした。
わたしの頭をかすめて、ツバメ型が飛んできます。姿勢を低くしてかわし、残していた風をぶつけます。
ツバメ型は二体ぴったりと重なっていました。きりもみしながらわたしのぶつけた風を切り裂いて、真っ直ぐ突進してきます。
盾を出す間もなく、その素早い体当たりを受けて、わたしはよろめきました。
大して痛くありません。何故これでディアが気絶したのか分からないほどです。
多分、とわたしは上空へ逃げたツバメ型を目で追いながらディアに駆け寄ります。この子は、トウコさんほどは強くないのです。特に守りは弱い。その分、あの大雑把な斧攻撃の威力がトンでもないのでしょう。
流れ込んできたディアに関する記憶をつぶさに見ても、どうもそんな気がしてきます。
ともかく今は。わたしは、またあの「きりもみ体当たり」を仕掛けようとしている二体のツバメ型を見上げました。
もっと強い風を吹かせないと。でないと、突っ切られてしまいます。
わたしには大して痛くない攻撃ですが、倒れているディアに当てられては、致命傷になりかねません。
わたしはマフラー――「トルネードフィン」をはためかせ、めいいっぱい風を呼びます。それを両手に集め、意識を集中させます。
呼びたいのは、一度だけ出せたあの風、二度と使える気がしないあの力、水島を殺した「反撃の風」です。
盾の中の「羽カッター」ぐらいしか攻撃手段のないわたしです。ツバメ型の素早さを考えると、それも当てることは難しいでしょう。相手の力を利用するあの逆風ぐらいしか、敵を倒すすべは見つかりませんでした。
両の手の平に風が渦巻きます。気のせいかもしれませんが、今までと違う感触のように思えます。もっと、と意識を集中していると耳の奥で何かがひび割れる音が聞こえました。
不安を呼び起こすような高い音の響き。この風を放ってはいけないような気になりました。でも、ツバメ型はこちらに向かって来ていて、反射的にそちらへ腕を伸ばしました。
すべての水分を奪うような乾いた風が、わたしの頬をかすめました。それはよく知っている風でもありました。
風の直撃を受けたツバメ型は、二匹まとめて瞬く間に塵となりました。
「守り」でも「反撃」でもない、この風は――。
まさか。わたしは風を放ったその手で自分の身を抱きました。手の平のざらついた感触、あの砂漠の砂粒が指の間からこぼれました。
「滅びの風」はまだ、わたしの中に吹き荒れていて、それはこの世界をも砂の中に飲み込もうとでもいうのでしょうか。
やり直すどころか、わたしは失敗したまま――?
「おや、新技かい?」
青くなる私に、のん気な声がかかります。ディアでした。「シュマ……」などとつぶやきながら背中をさすっています。気が付いたようでした。
「驚くべきことだ。『ディスト』のやつめ、瞬時に塵に変わった」
見ていたのか。わたしは思わず後ずさりました。
「どうかしたかい? せっかく敵を倒したというのに。今の君は、何だか失敗を見咎められた子どものように見える」
後ずさった分だけ、ディアは距離を詰めてきました。あの、何でも見通す水晶の目をこちらに向けながら。
更に身を引こうとすると、ディアはわたしの手をさっとつかみました。ひんやりした、この世のものと思えない感触でした。
ディアは、砂だらけのわたしの手を包み込むように握り、持ち上げました。わたしは目を見開き、生唾を飲み込みました。
ここが糾弾の場、石打ちの刑の執行場なのでしょうか。逃げ出したいわたしの気持ちをよく知っているかのように、ディアはわたしの両手をぎゅっと握りしめます。
「しっかりしなさい、葉山ミリカ」
幼な子に言い聞かせるようにディアは続けます。
「ヤギの角に突き刺されたような心じゃ、その力に呑まれてしまうよ」
かつてのように。そんな言葉が暗にこめられているようでした。ディアは、やはり知っているのでしょうか? わたしがこの街を滅ぼしたことを。
「似つかわしくないと思える力であっても、その主は自分自身であるべきだ」
ディアは不意に手を離します。わたしは動揺と緊張と、色々にない交ぜになった感情につぶされるように、その場に膝をつきました。
「君はHertz、心ある人間だ。葉山ミリカ、それがどれだけ飛び跳ねようともしっかりと握りしめるんだ。心は力の手綱なのだから」
これもMeisterの教えだと言い残し、ディアは去って行きました。
わたしはディアの後姿を見るのすら恐ろしく、灰色の地面に目を落としたまま、途方に暮れていました。
飛び跳ねる心。わたしは胸に手をやりました。心臓の感覚は、そこにはありません。
「ディストキーパー」は人の形をした怪物。赤い血も流れていない、人のまがい物です。
それでも、驚き飛び跳ねる何かが口から飛び出してしまいそうでした。