四
それから二日後。窓の外の景色を眺めると、王宮に隣接された公園では、上流貴族の皆様方が仲良く朝の乗馬を楽しんでいた。のどかな光景を横目で見ながら、
「案外、王宮って退屈」
ステラはあくびを噛み殺しながら口の中でつぶやいた。
さすが王子様で公爵様。王宮の侍女の口などあっという間に見つけてくれた。その上、アトリー男爵令嬢、ステラ・メレディスという偽の身分もどこからか手に入れてくれてくれたのだ。詳しく聞くと、実際に存在する人物で、名こそ違うが、本人が病弱なせいで社交デビューもまだだから、王都で本人と出会う心配もない。いたれりつくせりだが、胡散臭いことこの上ない。
これが純粋な善意であれば、頭が上がらない所だが、駒にされているのがわかっている状況で感謝できるほどお人好しではないのだ。お人好しでは――生きて行けない。
(駒にされる前に、逆に駒にしてやるわよ)
これはゲームだと言い聞かせてステラは背筋を伸ばす。
ステラの直属の主人は、王宮の女主人である王妃アリスティアだ。王太子からは当然遠ざけるつもりなのだろうが、甘いと思っていた。――王太子の母である王妃に取り入るのは、目的達成への近道だから。
だが、そこは公爵もなかなかのもので、簡単にステラを王太子に近づけさせはしない。
そもそも王妃は昔から仕えている信用ある侍女たちに囲まれているわけだから、一番取り入りやすそうな話し相手やお茶の用意などの役目はすでに手が足りている。食事の世話も、着替えの世話も大抵決まった人物が請け負っていて、ステラの割りこむ余地などない。問題が発生したときに人が足りないことがないようにと多めに雇っているのだ。割り込んで差し出がましい真似をする方法でしか近づけないが、そんなことをすれば、不興を買うだけだろう。
つい鬱屈しそうになるが、それでもステラはチャンスを虎視眈々と狙っていた。いつか必ずステラに王妃の視線が留まることがあるはず。その機会を全力で掴んでみせるつもりだった。
「頑張らないと……!」
勢いも手伝い、ついつい家に居た時の癖でオイルランプを磨こうとしてメイドに睨まれる。ここでは雑用も全て配置が決まっているのだ。つまり仕事はほとんどなく、限りなく暇である。給金は立派だったから文句は全くないが、なんだかもぞもぞとした居心地の悪さにステラはずっと支配されていた。
午後の着替えのためのドレスはもう準備されていて、台の上に一式並べられていた。先輩侍女のメアリが丁寧に埃を払い、リボンの皺やレースの網を確認している。光沢のある絹で仕立てられた緑色のドレスは、きっと王妃をますます美しく見せるだろうと思い、うっとりしかけた時だった。
「あ」
ステラは王妃のドレスに小さなくすみを見つけ、思わず声を上げた。
「どうしたの?」
メアリが怪訝そうにステラを覗きこむ。
「糸が」
よく見ると、胸と腰の継ぎ目辺りから糸が飛び出して影を作っていた。ほころびからできた小さな穴を指さすと、メアリが青くなった。
「ああ、もしかしたらさっき引っ掛けてしまったのかも。お針子を呼ばないと――でも、もうおいでになる時間だわ……どうしよう、これ王妃陛下のお気に入りのドレスなのに、傷をつけてしまったことがわかったら――」
泣きそうになったメアリを励ますようにステラは針箱を持ち出す。
「私がやります」
「え、でも、そこ失敗したらきっと目立つわよ。下手に手を入れて、布地に穴が開いたりしたら――」
「大丈夫ですわ」
ステラは針に糸を通して、裏からほつれを素早く直していく。驚いていたメアリも、ステラの針がすみやかに丁寧に進むのを見て、安心したようだ。顔を輝かせてステラの手元を覗きこむ。
着古したドレスがほころぶのなど日常茶飯事だったため、できたことだった。ステラの服は大抵が母の若いころのものだったし(母だけは今も流行最先端の服を着ているが、ステラがそれを着ると布が余るのだ)、流行からもずいぶん遅れていたから、メイドのマリーと一緒に工夫して形を整えていた。ほつれや虫食いなどは上手くふせてごまかしたものだ。
「いい腕ね。刺繍ならするけれど、ドレスの直しとなるとちょっとためらっちゃう。針も糸も細いし」
メアリは苦笑いをしつつ、ステラの腕前を褒める。
「いえ、」
暇潰しですし。言いかけてかろうじて飲み込んだステラは笑って誤魔化す。そこにアリスティア王妃が入室してきて、ステラはメアリの一歩後ろで頭を下げる。
王妃の登場は、野原の花が一気に開花したような華やかさで、いつも圧倒される。
目鼻立ちのくっきりした美女。赤い髪は王太子と同じ色。焼いた銅のような情熱的で美しい髪だった。
深い紅色のドレスを纏った王妃は、赤い薔薇が人化したと言われても納得しそうだとステラは思った。
「急いで。あと三十分で次のお客様なのよ」
貴族の女性は一日四回ほど着替えるため、皆手際が良い。王妃が手早くアフタヌーンドレスを脱ぎ去ると、コルセットに包まれたたるみのない美しい体が現れる。醸し出す雰囲気は成熟した女性。だが、若々しい外見は、まだ二十代だと言っても詐欺扱いされないと思う。
用意された緑色のイヴニングドレスは、彼女の瞳と同じ色。コルセットの上に纏うと眼光の鮮やかさを際立たせるのに一役買う。
満足気に姿見を覗きこんでいた王妃が、ふと目を見開いた。
「あら? そういえばこの部分、この間ほつれていたのだったわ……言うのを忘れていたし、わかりにくいところだったから直っていないかと思ったのに。メアリ、あなたなかなか優秀ね」
王妃が嬉しそうに賛辞を投げると、メアリが気まずそうに口を開いた。
「先ほど気づいたので直しました――あの、こちらの新しい侍女が」
「あら、ほんと。新顔ね。この間入ったばかりだって聞いたけれど、見たのは初めてね――ええと、どこの令嬢だったかしら」
王妃の緑眼がステラに初めて留まる。
(ああ、来たわ。この時を待っていた!)
またとないいい機会だと思ったステラは、腹に力を入れる。
「はい。アトリー男爵の娘で、ステラ・メレディスと申します。あの、雇っていただきありがとうございました」
偽りの名を内心ヒヤヒヤしながら名乗ると、王妃は花が溢れるように笑う。
「礼は家政婦に言ってちょうだいね。わたくしは時間がなくて全員の選別には関与できないのよ。それにしても、ミス・ステラ・メレディス。しっかり縫えているわ。これならダンスをしても大丈夫ね。悪い意味ではなく、侍女にしておくのがもったいないくらい」
「ありがとうございます。この位の事でしたら、お針子をわずらわせることもありませんから……また使っていただけると幸いでございますわ」
ステラは上手く印象づけようと微笑んだ。
だが、ステラの思惑はそこで行き詰まることとなる。王妃はまず忙しく、一介の侍女に注意を払うほど暇ではない。さり気なく目立とうと、隙間の仕事を見つけ出してこなすなど、地道な努力は重ねるものの、王妃の傍付になるまでにはいったい何年かかるかわからない状態だった。
下手すると、婚期を逃し、一生侍女として王妃に仕えることになるかもしれない――そんな考えに支配され怯えかけた頃、ステラは公爵邸に呼び戻された。どうやって前に進もうか考えるのに精一杯で忘れていたが、義務を果たすときがやってきたのだった。
公爵家に到着するなり、ステラは強引に着替えさせられた。メイドに新品のドレスを着せられ、化粧をされ、髪を結い上げられ、飾りあげられた。
(な、なに、なんなの!?)
纏っているのは裾の広がっていないドレスだ。開いた襟ぐりには上質なレースや造花が縫い付けられ、細やかな刺繍も入っている。シフォンでできた袖口は可憐に膨らませてある。おそらくは流行最先端のドレス。しかも色はステラの瞳の色に合わせた空色で、彼女のために誂えられたものだとすぐにわかった。自画自賛だとしてもとてもよく似合っている。鏡の中にいる自分がまるでどこぞの裕福な貴族の娘に見えて、戸惑いを隠せない。こんな贈り物をしてもらう理由はないはずだった。
ホールで目を白黒していると、ステラの仕上がりをヴィンセントが確認しにやってきた。
「うん、これなら母に気に入ってもらえるだろう」
聞いたとたん、ステラは呆然と立ち尽くした。
「え、ええ!? 母って――今から!?」
「うん、紹介するよ。もう応接室で待っている」
彼の母ドリスは、普段は郊外にある大邸宅サウザン・パレスで過ごしているが、ヴィンセントの交際の報告に飛ぶようにやってきたらしい。
いきなりで心の準備ができていない。予行演習でもしておけばよかったと悔やむ。
「恋人のふりって、本気だったの?」
そう問うと、ヴィンセントは不思議そうに青い目を瞬かせる。
「どういう意味? 交換条件だったろう?」
ステラは顔をひきつらせる。相手の魂胆に――彼がステラを見張るために王宮に送り込んだと――気づいているとばらしてしまうのは利口ではないと思ったのだ。
誤魔化すためにすぐに話を切り替える。
「どうすればいいの?」
母親対策がいるでしょうと問うと、ヴィンセントは失敬にも言った。
「うん、いつもの調子でいられると困るかな。反論はせず、にこやかに頷いていればいいよ。――できるだけ普通の男爵令嬢らしく、おしとやかな淑女でいてくれるとありがたい」
「ちょっと。それじゃあ私が令嬢らしくないみたいじゃない」
「……あ、そうだ。思い出した」
反論をさらりと無視すると、ヴィンセントは侍従のオスニエルに合図する。
オスニエルは銀盆の上に載った手紙を差し出す。ヴィンセントはそれを手に取ると、ステラに手渡した。
「トマス・アボットって?」
「……え」
にやりと笑いかけられてステラは耳まで赤くなる。
(ああ、もう、なんでこの場所がわかったの!?)
怒りと羞恥で顔を赤くするステラに、ヴィンセントはさらりと打ち明ける。
「メイドだけ帰すと心配するだろうと思って、田舎のご両親に連絡しておいたんだ。うちで就職先を世話するって」
「それは――ありがとう」
メイドのマリーを丁寧に送ってくれたことには感謝するが、余計なことをとも言いたくなる。アボット家としては『爵位』にみすみす逃げられる訳にはいかないはずだ。追ってくることも予想できたし、できれば姿はくらましたままにしたかったのに。
中身を手早く見る。文面に鳥肌が立ち、くず入れに近づくと、文字が読めないくらいに細かくちぎり捨てる。そして「地元の恋人? 案外モテるんだなあ」という声に追い立てられるようにして、応接間へと進んだ。