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大晦日と怪物




大晦日になった。


ウィームは雪がやみ、真っ青な空には西の方にだけ雪雲の姿がある。

昨晩は夜空にオーロラや虹がかかり、星祭りでもないのに星屑まで落ちてきたとあって、朝になると領民達は興奮気味にその美しさを語り合っていたらしい。



ネア達がリーエンベルクを出た昼過ぎの今もまだ、季節外れの花まで満開になった花壇や、冬の花を満開にした木々など、ウィームのそこかしこに祝福に満ちた空気が残っていた。


時折、ちりりと空気が光り、祝福を溜め込む為の守り袋や、お気に入りの魔術道具や魔術書をさっと取り出す者達の姿がある。


聞いたところによると、本職の魔術師達はもっとなりふり構わずに祝福を集めていて、繋げた魔術書を首飾りのようにぶら下げて歩いていたり、家の前にテーブルを出して道具を並べていたりするそうだ。



しかしその騒ぎの張本人達は、大晦日ともなれば勿論エシュカルを飲みに行くしかなく、いつものお店までの道を、何だか随分と増えた知り合い達に祝福されながらうきうきと歩いた。



さくさくと雪を踏み、祝福結晶の煌めきの美しい植え込みを覗き込む。

輪になって踊っていた親指大の狸のような生き物が、ディノの姿に気付いてみんなでお辞儀をしてくれた。


そこでまた、通りすがりの男性から、恭しくお祝いの言葉を貰う。



(大晦日はみんなこのくらいの時間に外に出てエシュカルを飲んでいるから、誰かのお祝いの声を聞いて、知り合いじゃない人も陽気な気分で一緒にお祝いしてくれたのかな………)



そう考えて、ネアはうむと頷いた。




大晦日には怪物が現れるので、人々は早めに買い物を済ませ、エシュカルを飲んで、安全な家で大晦日のお祝い料理を食べるのがウィームの習わしだ。


なのでネア達も、そんな年末行事をこなすべく、こうして毎年恒例のお店にやって来たのである。

ここは、楽団もいるので素敵な気分でエシュカルが飲めるお店で、尚且つ、テラス席の外側の列を押さえられるとウィームの美しい街並みを堪能出来るお気に入りのところだった。



(でも、大晦日のお祝いもあるから、エシュカルは、今年も二杯までにしなきゃだわ…………)



今年は、その大晦日のお祝いにネア達の結婚祝いも兼ねさせていただき、いつもより少しだけ賑やかにやる予定であった。

まずは夕方から騎士達も交えて乾杯し、夜のいつものお祝いには、ウィリアムやアルテアは勿論のこと、グレアムや、今は同じテーブルでエシュカルを飲んでいるイーザとヨシュアも来てくれる。




かさりと音がして視線を上げると、飛んで来た小さな栗鼠妖精につつかれ、店先に吊るされた緑の葉が美しい柊の飾りが揺れた。


これは大晦日に飲む新酒であるエシュカルを取り扱っているという印で、しゃわりとした淡い金色のリボンで束ねて軒先や柱に吊るしてあるのだが、祝福の金色のリボンは小さな生き物たちの憧れであるらしい。



店によってエシュカルは味が違い、このお店のエシュカルは、ザルツ近くの村で作られているものなのだそうだ。


記念として持ち帰れる青い小さなグラスで飲む白く濁ったお酒はとても強いので、初めてのお客には二杯くらいで止めておくようにとお店から説明がある。



「ネア様、ご成婚おめでとうございます」

「イーザさん、有難うございます」

「シルハーンとネアは結婚したんだね。僕は詳しいから、色々と聞くといいよ」

「ヨシュアの伴侶はムグリスだったのではないかな…………」

「ほぇ…………?」



ネア達より先にお店に来ていたヨシュアとイーザは、これから帰ろうかというところでネア達を見付けてくれ、自分達が座っていた良い位置のテーブルに招き入れてくれた。

幸い並んでいるお客はおらず、入れ替わりになってこちらの席でどうぞというご厚意なので、有り難くご一緒させて貰っている。



「今夜はご一緒出来るようで嬉しいです。我が儘を言って申し訳ありません」

「とんでもない、我々こそご招待いただきまして光栄です」

「そうだね。僕が招待されるのを光栄に思うといいよ」

「ヨシュア……?」

「ふぇ……。ネア、イーザが睨むよ………」



実はこちらは飛び込みの招待客で、昨日出会った時に、この二人が今日もウィームに滞在するようだと知ったネアが、もし良ければリーエンベルクの大晦日の会にも来ないかと声をかけてみたところ、二人とも快く応じてくれた。



(イーザさんが来ると聞いて、ヒルドさんが喜んでくれたのが嬉しいな)



イーザは代理妖精ではないが、ヨシュアの相談役兼お守りをしている。

ヒルドは、彼とは色々と話が合うようなので、久し振りに共にお酒が飲めると嬉しそうにしてくれた。



この二人は昨年の大晦日にもウィームにいたので、寒いのが苦手なヨシュアがもこもこに着込んで我慢しているとなると、案外この土地での大晦日の雰囲気が気に入っているのかもしれない。


ヨシュアのペットである、青い人参にしか見えない謎生物ハムハムは、大晦日に雲のお城に一人にはしておけないと、ルイザとオズヴァルトのところに預けられているそうだ。


ヨシュアとイーザは、ウィームで友人達とのお祝いがあるらしく、まずはそちらに参加した後にリーエンベルクに来てくれて、お城での新年の祝いもあるので日付が変わって怪物が少し落ち着いたところで帰る予定である。



「有難うございます。無事にこの日を迎えられたのは、困った時にお二人に助けて貰えたからでもあるんですよ!」

「…………っ!」

「…………ほぇ、イーザが泣いた。涙を落としたら大変だよ」

「…………なぜか、周囲のテーブルの方にも貰い泣きされたのですが、皆さんどれだけ心が柔らかいのでしょう…………」

「みんな泣いてしまうんだね…………」

「ふふ、ウィームはとても素敵なところですね」



ネアがほわりとそう微笑んだところに、ちょうどお店のご主人が通りかかった。

厳めしい雰囲気の髭のご店主は、ネアと目が合うと無言で頷いてみせ、すぐさまお店からオリーブと生ハムの盛り合わせがサービスされた。


ことりとテーブルに置かれた青いお皿に、ネアは目を輝かせてびょいんと弾む。

伴侶になったばかりのディノが、きゃっと恥じらった。



「まぁ、いいんですか?」

「新婚さんにお祝いだ。エシュカルでもいいんだが、あれは強いからこっちにしたよ。ウィームを愛する者にウィームの民は優しいのさ」


ふっと決め笑顔でそう言ってくれたご主人に、あちこちのテーブルから歓声が上がる。

そのどれもがウィームを愛する領民達の声なので、ネアは胸がいっぱいになった。


いただいたお皿はイーザ達とも分けようとしたのだが、残念ながらエシュカルを飲みきってしまった後だったのでと店を出る二人に手を振り、ネアは早速美味しい生ハムに舌鼓を打つ。



「ディノが、ウィームを選んでくれたのですよね」

「ここが一番整っていて美しかったからね」



そう微笑んだ魔物は、すぐさま、近くにいたウィーム至上主義のお客さん達に何杯もエシュカルを奢られてしまった。

幸い、エシュカルでは少し酔っ払ってしまうネアとは違い、ディノはエシュカルでは酔わないようだ。


恥ずかしそうにおろおろしながら、魔術の繋がりを巧みに切ったウィームの住人らしい高度さで奢られるエシュカルを受け取ったディノは、水紺色の瞳をきらきらさせ過ぎてしまい、周囲への影響などを遮断していたにもかかわらず、通りすがりのご婦人が二人ほど倒れるという事件もあった。



雪景色のウィームに差し込んだ陽光は、積もった雪の表面をきらきらと輝かせている。



あちこちの花壇には祝福を受けて咲いた花々が雪にも負けずに満開になっており、その周囲では妖精達が大喜びで飛び回っていた。

通りの店々などには、気の早い新年の飾り付けがなされている。



(新年…………。今年もあっという間だったな。来年のイブメリアには、大聖堂でエーダリア様の詠唱が聞けるといいのだけど…………)



今年の新年の飾りのリボンは、淡い灰紫に虹のような煌めきがあるもので、その色に込められた思いに気付いたネアは、虹色要素の予算は如何程だろうかとひやりとしないでもなかった。

だが、エーダリアやダリルは決して無理のある公私混同をするような人物ではないので、ここはその心遣いを有り難く頂戴しよう。



この新年の飾り付けは、イブメリアの翌日に領民達にも配られるもので、輪っか状の金属に花と幅広のリボンを飾り、細いリボンの先にはよく光る結晶石がつけられるのだが、それが欲しくて堪らない小さな生き物たちが必死に手を伸ばしていたりもする。


リボンと一緒に飾られた花は僅かに灰色がかった淡い白ピンク色で、詩的で繊細なその薔薇とリボンとの対比が華やかで美しい。




「む、知っている人がいます!」



麗しい冬のウィームを見ながら美味しいエシュカルをちびちび堪能していたネアは、お店の奥で飲んでいた男性の一人に目を瞠った。

うっかり目が合って見付かってしまった美しい巻角を持つ男性は、困ったように微笑んで会釈をしてくれる。



「邪魔をしないように気配を殺してたのになぁ。君は天性の狩人かもしれないよ」

「エイミンハーヌさん、ご無沙汰しております」



柔和な面立ちで苦笑してみせたのは、霧の精霊王だというエイミンハーヌで、その向かいに座っていた男性が振り返れば、彼の働く手袋専門店のオーナーである赤い髪の元竜ではないか。



「まぁ、バンルさんまで。ご無沙汰しておりま…」

「無事に伴侶になれたらしいな。仲睦まじい新婚さんに見守られて、これでウィームも一安心だ!」

「むむ、バンルさんもご存知なのですね…………」

「そりゃ俺は、ダリルとの付き合いが長いからな。それに、昨晩あれだけ虹が出てりゃ高位の魔物の慶事だなと分かる」

「むむぐぅ…………ぐるる」

「バンル、こんなお嬢さんを冷やかしたらいけないよ」



気恥ずかしさで小さく唸ったネアに、苦笑したエイミンハーヌがそう一喝してくれる。

叱られながら体を戻してこちらに背を向けたバンルは、エーダリアのなかなかに過激な後援者の一人なのだった。



(……………と言うか、貴族の人の婚姻もみんなそんなものだろうけれど、やはり一般人は、それを話題にされるのは恥ずかしい!)



そう考えるとじたばたしたくなったが、何しろお相手は魔物であるし、冷やかしてきたのは元竜だ。

このあたりは、深く気にしないようにしよう。



なお、魔物との婚姻を決定づける儀式がそのようなものであることに対して、不快感や拒絶感はないかと事前にダリルからヒアリングを受けたのだが、野生の獣はえてしてそういうものなので魔物もそうなのかなと考えていたと答えたところ、なぜか、その認識を決して魔物達には言ってはいけないと厳しく言い含められた。


ダリル曰く、魔物はとても繊細なところもあるので、慎重に扱わねばならないらしい。




「今年のエシュカルも気に入ったかい?」

「はい。今年は葡萄ジュース感が強めでしょうか。でもやはり、飲んだ後に口の中がしゅん!とする爽やかさがとても素敵です!」

「しゅん…………」

「…………ぷは!やはり、エシュカルは素敵ですね……」

「好きなだけ買ってあげるよ。君がエシュカルに浮気をするといけないからね」

「…………ディノ、エシュカルはお酒に過ぎませんので、新婚早々に無機物に浮気疑惑をかけてはいけませんよ?」

「新婚…………!」



その一言でぴっとなったネアの伴侶はすっかり弱ってしまい、ネアは魔物の代わりに柊の葉の下で眠りこける妖精の絵が彫られた小さな青いグラスの、持ち帰りの手配をしてやらなければいけなかった。




「おや、お帰りですか」



店を出ようとしたところで、入り口で遭遇したのはアイザックだ。

お連れ様がいるなと思ってそちらを見たネアは、嬉しい再会に目を丸くする。



「やぁ、元気にしてたかい?」

「ルドヴィークさん!ウィームにいらしていたんですね」



そう言ったネアに、ルドヴィークは微笑んで首を振った。

ウィームとは環境は違えど、ランシーンも冬には雪深い土地だ。

毛皮のついたコートに、ネアの大好きなランシーンの毛織り物を肩にかけている姿は、異国風ではあるもののウィームの街中にも不思議に溶け込んでいる。



「アイザックが、掃除を少し休憩するように言うから頷いたら、ウィームに来ていたんだ。エシュカルという新酒を飲みに来たみたいだね」

「ふふ、お二人は仲良しなのですね。エシュカルはお勧めのお酒ですよ。瓶で買って帰ることも出来ますから、ご家族にもいいかもしれません」

「そうなんだね。…………あれ、ネアは結婚したのかい?」



お喋りするネア達の横で、アイザックは恭しく胸に片手を当て、昨日、他の魔物達に見たような優雅な臣下の礼でディノにお祝いを伝えてくれていた。


そのやり取りに、ルドヴィークからもおめでとうと祝福され、ネアは笑顔でお礼を言う。

ルドヴィークはその場で短いお祝いの詠唱まで贈ってくれたのだが、珍しく慌てたアイザックが音の壁を張り巡らせ、ウィームのようなところでむやみにその歌声を披露してはならないとルドヴィークを叱っていた。



「ルドヴィークさんの詠唱は、とても素敵でしたね」

「君は、詠唱が好きなのだね」

「詠唱で好まれるような音階が好きなのだと思います。ルドヴィークさんのものは、少し異国風で初めて聞く響きでした」

「あの土地には古い信仰の魔術が残っている。ただ、彼は、アイザックの言うように、用心しないと様々な者達を惹きつけてしまう技量があるから、自覚した方がいいのかな」

「むぅ、ディノも心惹かれてしまいました?」

「ネアの歌がいい…………。君は私の歌乞いだからね」



どこか恥じらうようにそう答えた魔物は、ネアからきちんとした歌を贈られたことがとても自慢であるらしい。

また、ネアを助け共にもてなしてくれたことのあるルドヴィークとその家族に対しては、ディノはあまり荒ぶらないようだ。




二人は、アイザックとルドヴィークに別れを告げると、今年のエシュカルも二ケース買ってから、リノアールの裏手にある魔術刻印のお店でディノの指輪への刻印も済ませ、大晦日の準備の進むリーエンベルクに戻った。



本来ならネア達も大晦日の準備の手伝いをするところだが、今日ばかりはディノと伴侶になった翌日ということで、お休みをいただいている。

裏門の入り口から入ったところでゼベル達に遭遇し、そこでも温かなお祝いの言葉を貰いつつ、アクス商会からとんでもなく大きなお祝いの品が届いたと教えて貰った。



「アイザックさんからでしょうか、先程お会いした時にお礼を言えなかったのが残念です」

「品物を贈るという連絡は来ていたから、話はしておいたよ」

「それなら一安心ですね。………ふむ。結婚式はまだですが、もしこのようなお祝いをいただけるのであれば、今後はそのお返しも考えなければなりませんね…………」



ネアはついつい前の世界の感覚でそう言ったのだが、ディノ曰く、こちらの世界でのこの手のお祝いのお返しは、同階位の相手に限られるのだそうだ。

それには魔術的な階位が大きく関係しており、お礼の品を贈ることで目上の相手から祝福を授けられてしまうと、それに勝る品物のない下位の者達にはたいそうな負担になってしまうらしい。


また新しく知るこちらの世界のお作法に、ネアは新鮮な驚きをもって頷いた。




夕暮れ近くから、ウィームにはまた雪が降り始めた。


ただしこの雪は、祝祭の雪と呼ばれる、イブメリアに降ることの多い過分に祝福を蓄えた雪だそうで、エーダリアはこの雪の雪解け水で薬草を育てるのだとご機嫌だ。




「…………不思議なものだな。そうやって、お前達が齎したものを受け取ることに抵抗がなくなってきた」



そう呟いたエーダリアに、ネアは微笑む。

ある意味、誰よりも側にいた同族はこの元婚約者で、誰よりもネアを理解してくれた人は、彼だったのだろう。

隣を歩くエーダリアは、領内での儀式や教会から招かれていたミサなどの出席を終え、ネア達と一緒に騎士棟での乾杯に出席してくれたところだ。



「…………素敵なことだと思いますが、少し危ういと思っていますか?」

「…………少しだけだが、そう思うこともある。…………私は決して器用な人間ではないからな」

「とは言え現状、エーダリア様が受け入れてくれている要素の殆どは、家族のものですよ。その取り分については、遠慮なく受け取ってしまえばいいのです。その他のものについては、是非に家族に相談下さいね」

「……………家族、か」

「エーダリア様は現在、私の弟…………兄と、契約しているのでしょう?」



ネアがそう言えば、エーダリアははっとしたように目を瞠った。

暫くその複雑な色合いの鳶色の瞳を揺らし、どこかほっとしたように淡く微笑む。



「……………そうか。………そうだな。…………恐れというものは、それを失いたくない時にこそ本物の鋭さとなる。だが、私はどうやら、安心しても良さそうだ」

「でも、幻の古本市に行く為にノアと悪巧みをするのは気を付けて下さいね。ノアはとても頼もしいですが、元恋人さんが現れるとたいへんな惨事が待ち受けています」

「…………な、なぜ知っているのだ?」


なぜも何も、身内には警戒心の緩む塩の魔物がうっかり口を滑らせたからなのだが、ネアは、真っ青になってヒルドが周囲にいないかきょろきょろしているエーダリアの良心に賭け、ヒルドには言いつけないことにした。



「じゅ、充分に気を付けるようにする…………」

「ヒルドさんに見付かったら…………なにやつ」

「…………物差しの魔物ではないだろうか」

「額縁の魔物さんは立派な人型でしたが、またしても謎生物的な魔物さんなのですね…………」



騎士棟から外回廊を通って本棟に戻る予定であったネア達の前に現れたのは、荒ぶる木の定規のような不思議な生き物だ。

ただし、びったんびったんと柱の影で跳ねていて、何とも言い難い様相である。


その生き物を見たディノは、首を傾げた。



「…………定規の魔物に似ているけれど、こんな風には動かないかな。大晦日の怪物ではないかい?」

「…………そ、そうなのか?!だが、まだ夕暮れの鐘は鳴っていないのだが………」

「早いですね…………。というか、あやつはあのまま床で跳ね続けて夜を迎えるのでしょうか…………」



遠い目でそう呟いたものの、ネアはディノとエーダリアに促されて足早に建物の中に入った。


二重扉になっている入り口で靴の泥や雪を落とし、そろそろお客が来ているかもしれない広間に向かえば、ちょうどこちらにやって来たヒルドに出会った。



「ちょうどお迎えに伺うところでした。やはり今年は、実体のある怪物の出現が早いようですね。とは言えまだ害にもならないようなものですが、あまり外には出られない方が宜しいかと」

「騎士棟との繋ぎの外回廊に、定規の魔物に良く似た怪物らしきものがいた。騎士達には………?」

「アメリアに伝えております。ネア様のお祝いで皆が集まっておりましたから、大丈夫でしょう」



ヒルドのその言葉の終わりに重なるように、ゴーンゴーンという夕暮れの鐘の音が聞こえてきた。



大晦日の夕暮れにこの鐘の音が聞こえたら、人々はもう安易に外に出てはならない。


使い魔などを求めて外出してしまう魔術師や、見回りの騎士達もいたりはするが、あわいが開いて怪物達が這い出てくる時間になったのだ。


ネアはごくりと喉を鳴らし、伴侶な魔物の腕の中に滑り込むとさっと羽織りものにする。

魔物は少しだけ恥じらってはいたものの、この大晦日にはネアの苦手な怪物達が現れるのを知っているので、しっかりと抱き締めてくれた。




「…………まぁ!今年の飾り付けも素晴らしいですね……………」



とは言え、先ほどもまだ跳ね回る定規を見てしまったくらいのものなので、会場となる広間に入ったネアは、怖さを忘れ、目を輝かせて周囲を見回した。


今年の飾り付けは、冬の夜明け結晶石の床石の上に紫紺色の夜想曲と灰紫色の夜霧の織物を敷き、その複雑な模様は夜結晶の壁のふくよかな青さを際立てていた。


白みがかった水色の花器に生けられた花は、昨晩、リーエンベルクでディノがたくさん咲かせてしまった花々だ。

白薔薇や白百合、白芍薬に白アイリス、更には白紫陽花に白桜のようなものまでがふんだんに生けられ、あまりの美しさにネアは見惚れてしまった。



一番大きなものはその花器だが、他にも幾つもの花器があって、あちこちに花が生けられている。

鼻腔を満たす花の香りも、どこか澄んだ雪の匂いのようで決して濃密過ぎない。



「あのまま枯らしてしまうのも勿体無かったのでな。それに、ディノの祝福を帯びた花だ。これなら、厄介な怪物の出現も減るだろう」

「エーダリア様…………」

「昨年の、樹氷の魔物のような能力を持つものが現れると困るからな」

「むむ。そう言えば、ウィリアムさんとアルテアさんの記憶がなくなりましたね…………」



思い出の中のちびぽわを辿れば、憧れの金鉱脈は今年も手に入れられなかったなと自身の不甲斐なさを噛み締めた。

幸い、あわいの列車のお陰でその在り処を垣間見ることは出来たので、いつかあそこを一網打尽にしてみせよう。



「わぁ、ご馳走がいっぱいある!」



そこにやって来たのは、グラストとゼノーシュだ。


騎士達との大晦日のお祝いもあるので珍しい時間だなと思えば、こちらでの最初の乾杯に間に合わせて早めに来てくれたらしい。

ゼノーシュがいれば怪物達で溢れている時間帯の移動にも支障はないので、こちらで過ごした後に騎士棟に戻り、また日付が変わる頃に来てくれるのだとか。



「アルテアはまだなのか、珍しいな」



ばさりと純白のケープを翻してそう入って来たのは、ウィリアムだ。

戦場から直接来てくれたらしく、ネアの大好きな軍帽姿なのでこれはと思いじっと見つめていたところ、ふわりと微笑んで片手を頭の上に乗せてくれた。



「今日はゆっくり出来たか?」

「はい。ディノとエシュカルを飲んで、指輪の魔術刻印をしてきました」

「ああ、じゃあ、メイルータムに会ったんだな」

「ええ。とても緊張されていましたが、優しい方でしたよ」



ディノの指輪に魔術刻印をしてくれた優しい琥珀色の瞳をした女性の魔物は、元々は名入れの魔物であったらしい。

貴族達が自分の持ち物に片っ端から名前を入れている時代に派生したらしく、今は仕事の幅を広げて魔術刻印師になっている。


かつては王侯貴族に仕えた魔物なので、ウィリアムは彼女のことを知っていたようだ。

彫金の精霊と伴侶になり、二人でお店をやって幸せに暮らしていると伝えれば、どこかほっとした様子であった。



「職人気質の魔物なのに、職環境のせいで戦乱などにも巻き込まれていたからな。漸く落ち着いて暮らせる時代になって良かった」

「王侯貴族の方々が名入れにそこまで拘らなくなったから、なのでしょうか?」

「…………思えば、流行だったんだろうな。勿論、真名を記す訳にはいかないから通り名や銘だったりした訳だが、何にでも名前を入れてしまうので、武器の系譜の者達は辟易としていた記憶がある」

「…………確かに本体におかしな名前を入れられたら悲しいですね」



ネアがそう話していると、背後のエーダリア達の声でアルテアが来たのが分かった。

振り返ればこちらも華やかな盛装姿で、どこかに出ていたようだ。


漆黒のスリーピース姿に雪のような青みの影がある真っ白なシャツが映え、クラヴァットはこっくりとした赤紫色でそこに同色の宝石の、繊細な雪の結晶にも似た装飾のブローチを飾っている。

胸元のハンカチも白だ。



「そして、お誕生日の靴です!」

「昨年のことを忘れたのか。今年は事故るなよ?」

「なぬ。昨年事故ったのは、アルテアさんとウィリアムさんでは………。私は、ちびぽわ様に祝福されかけただけですよ?……むぐ!」



鼻をつままれてじたばたするネアに、慌てた伴侶な魔物が救出に来てくれた。

ディノがしっかりと羽織りものになってくれたところで、一度転移の間に迎えに出ていたヒルドに付き添われて、お客人達の到着となる。




「く、黒つやもふもふ!!」



そこには何と、黒い狼に擬態した明らかにギードという姿もあるではないか。

ネアの声に、ディノやウィリアムも驚いたように振り返っている。



「……………ギード、来られたのか?」


そう尋ねたウィリアムに黒い狼はこくりと頷き、前足でちょいちょいっと隣に立っているヨシュアを示している。

見事な尻尾がふさふさ揺れたので、ネアは握り締めたくて手がわきわきしてしまう。


ヨシュアとイーザは、友人達とのお祝いが少し遅い時間からになったので、まずはこちらに来ることになったのだとか。

何やらとても感動するような出来事があったらしく、エシュカルを飲んで号泣する仲間のせいでそちらの準備が遅れたらしい。



「元々の資質を残さない擬態くらい、僕が簡単に出来るからね」

「ヨシュアが擬態を手伝ってくれたのかい?」

「そうだね、僕はそういうのは得意だよ」



ディノの問いかけに自慢げにそう胸を張ったヨシュアに、ギードの反対側に立ったグレアムが苦笑している。

けれどもその片手は黒い狼に添えられているので、ここに一緒に来られたことが嬉しかったのだろう。



(ギードさんは、グレアムさんのことをまだ知らないのかな……………)



ネアは、そこもまた要経過観察であると頷き、ディノを見上げて微笑んだ。

ディノやウィリアムも、ギードが来てくれたことがとても嬉しいのだろう。

乾杯の前に料理の方に行ってしまい、イーザに叱られながら連れ戻されるヨシュアを待つ間、ネアをアルテアに預け、二人でギードのところに行っていた。




「さて、本日はこのリーエンベルクでの大晦日の祝いの…」

「すぐ食べよう!大晦日とシルハーンとネアのお祝いだよ。乾杯!」

「ヨシュア!!」



さて、みんなで揃ったのでと、エーダリアが挨拶をしようとしたのだが、割って入ったヨシュアが勝手に音頭を取ってしまった。


慌ててイーザが叱っているが、ヨシュアはもうグラスに口をつけてしまったし、ゼノーシュはもうグラスを空っぽにしてしまった。

くすりと微笑んだグレアムもグラスを持ち上げ、ネアもそれに合わせると慌ててディノもグラスを持ち上げる。


ウィリアムとアルテアは何とも言えない顔でヨシュアを見ているが、エーダリア達と顔を見合わせてノアもまぁいいかと微笑んだ。



「ヨシュアなのが気に食わないけれど、祝福は貰えたし、乾杯は乾杯だからね」

「ノアベルト…………」

「申し訳ありません。ヨシュアが……」

「い、いや、気にしないでくれ。高位の魔物の、乾杯による祝福が得られることは珍しいからな」



恐縮するイーザにはエーダリアが慌てて首を振り、ヒルドがあなたのせいではないと慰めていた。



「ネア、あらためておめでとう」

「ワフ!」

「グレアムさん、ギードさん、今日は来てくれて有難うございます。この通り、大好きなお二人が来てくれてディノも大喜びですよ」



ネアがそう言ってしまえば、何やら恥じらう魔物達が生まれたので、ゆっくりと対話させることにしてささっとウィリアムも押し込んでおき、ネアは乾杯の杯を飲み干した敵に負けないように、慌ててお料理のテーブルに向かった。



「ネア、去年の鶏があるよ!」

「ゼノ、私もそやつを狙ってました!!…………は!二つある………?」

「うん。人数が多いからかな。それとね、月光鱒の塩釜焼と、ローストビーフもあるの。僕達の棘牛も残ってたみたいで、タルタルもあった!」

「タルタル様!………ま、まさかタルタルが三種類も……………幻?」

「それはね鮭のタルタルで、こっちが海老と帆立のタルタルなんだって」



大晦日のお祝いは、様々な料理が並ぶ。

この料理を食べながら最後の一番怖い怪物が出てくるまでの時間を過ごすので、長くゆっくりと楽しめるような一口料理も沢山あった。


さりげなく、卵揚げやグヤーシュもあるので、ディノも喜ぶだろう。




「…………何だ?」

「ふむ。アルテアさんはやはり、海老と帆立のタルタルから取るのですね………」

「放っておけ。それよりお前の皿はなんだ」

「全種類盛りにしようとしたのですが、殻付き牡蠣が上手く乗りませんでした」

「……………なくなりやしないだろう。落ち着いて食べろ」

「ふっ、甘いですね。今年は空気を読まずに気に入ったものだけを食べるヨシュアさんがいるんですよ?」



ネアにそう言われ、アルテアは雲の魔物が牡蠣競合であることに気付いたようだ。

すっと目を細めて満遍なく食べるように叱りに行ってしまい、ネアとゼノーシュは顔を見合わせる。




「こっちにネアの好きな鴨もあるよ」

「むむ!これは鴨肉様の三種盛り!!皮目をぱりっとした塩と香草焼と、甘辛く味付けしたもの、そしてコンフィ様です………むふぅ」



ご機嫌でその至高の景色を眺めるネアが飲んでいるのは、お酒ではなく杏の果実水だ。


今食べているものはお酒ではなくても合うと判断し、また今日はエシュカルを三杯飲んでしまったので、少しだけお酒とお酒の間を空けていた。

決して弱くはないのだが、何しろ怪物が現れるので油断ならない夜なのだ。



その時、こつんと窓が鳴り、ネアはぎくと体を揺らす。


慌てて近くにいたノアにくっつきに行けば、おやっと眉を持ち上げたノアが片手を腰に巻きつけてくれた。



「ありゃ。僕の妹は怖がりだなぁ」

「妹…………むぐるる」

「えっ、まだ唸るの?!もう変更なしだよ?」

「弟よ、窓のところにまで奴らが来ています。いつ、お部屋にも……………ほわ………」



その会話の最中に、ノアの隣にいたヒルドがもこりと膨れた絨毯を足でぐぐっと踏み均しているではないか。

ぞっとしたネアがふるふるしながらそちらを見ると、ヒルドは瑠璃色の美しい瞳をこちらに向け、安心させるように頷いてくれた。



「まだ、ネア様が気にされるようなものは出てきておりませんからね。安心してお食事されていて下さい」

「…………ふぁい。有難うございます」



ほっとして頷いたネアの背中に、今度は何かが張り付いてくる。

一瞬、怪物かと思ってぞっとしてしまったが、踏み滅ぼさずに振り返ればヨシュアのようだ。




「ふぇぇ、アルテアが虐めるんだ。君が躾けないからだと思うよ!」

「まぁ、アルテアさんにどうして虐められてしまったのでしょう?」

「牡蠣は僕が全部食べるんだ」

「悪い子はヨシュアさんでした。まずは全体数をこのお部屋の人数で割った数だけが、ヨシュアさんの取り分です。それ以上に食べたら暗黙の了解での制裁が待ち受けているのをご存じなかったのですね?」

「……………制裁」

「はい。食べ物の制裁は怖いですよ?」

「ふぇ、…………じゃ、じゃあ。五個でやめる」



ネアは、それでも誰かの二個が犠牲になったのではと思わないでもなかったが、黒つやもふもふは殻付き生牡蠣を食べるのは難しそうだ。

とは言え上手にスープも飲めているので、案外平気なのかもしれない。



「ネア…………鶏を取ってあげようか?」



そこに、仲間達に何か知恵を授けられたのか、ネアの伴侶な魔物が戻ってくる。


そちらの鶏は既にいただいたと告白しても良かったのだが、合法的に二回目を食べられるとあれば、狡猾な人間は口を噤むしかない。

目をきらきらさせて頷いたネアに、なぜか目元を染めてよろよろしながら、ディノは上手に詰め物をした鶏を切り分けてくれた。



「まぁ、私が去年、この鶏さんは中のお米の部分がとっても美味しいと話していたのを、ディノは覚えていてくれたのですね?」

「鶏だけの時とは違うのだよね?」

「はい!では、そんな優しい魔物には、私が取り分けてあげますね」

「ご主人様!!」



なぜいつもそちら側に受け止めてしまうのか大変悩ましい問題でもあったが、契約の魔物という関係がある以上は諦めも必要なのだろう。


ネアは大事な魔物にも鶏肉と詰め物のバランスのいい美味しいところを切り分けてやり、奥で鶏皮の採取に余念のないエーダリアを観察しながら、二人で美味しくいただいた。



(あ、エーダリア様とグレアムさんは珍しい組み合わせかしら。………ふふ、ゼノとグラストさんに、黒つやもふもふも初めて見たかも)



白い花を飾り、ぼうっと儚く、けれども艶やかに輝く月光のシャンデリアに照らされた広間の中には、何だか胸の中がほこほこするような光景があった。


今年もやはり、簡易更衣室のような悲しさで設置されている遮蔽カーテンの区画に、さっそくゼノーシュが進出しているデザートのテーブルまで。


お酒も様々なものが用意されており、ネアは夜の盃もご自由にお使い下さいとその並びに設置しておいた。



「グレアムさんやギードさんも来てくれて、今日は素敵な一日ですね」



そう微笑んだネアに、隣でお皿を手に持ったディノが澄明な瞳をこちらに向ける。



「……………ネア、私の伴侶になって、………不安なことや苦しいことはないかい?」

「何の申請もなく、お風呂に入ってくるのをやめていただきたい」

「……………ご主人様」

「一緒に入ることがあっても構いませんが、普通に入ってくるのはなしです。お風呂大好きなディノなら、あの場所はゆったりほかほかとお湯に浸かる聖地であると、分かってくれますよね?」


すぐに不満が出されてしまいしょんぼりした魔物だったが、幸いにもお風呂の偉大さを身をもって知っていてくれたからか、その説明にこくりと頷いてくれた。



「それから、ウィリアムさんからのお誕生日の贈り物を隠してはなりません」

「…………昨日読もうとした…………」

「い、一章だけです!あんなに気になる書き出しで、どうして読まずにいられるでしょう!」

「えっ、僕どうなっちゃうの?っていうか、昨日読もうとしたの?!」



そこにやって来たノアは、まだお姫様を悲しませていない筈の本編の一年前の物語が、とても気になっているようだ。



「スムッティが、暗い夜の森で塩の魔物を破滅させることを誓う場面から始まるんですよ」

「え、何で?!やめて!!」

「ノアは、ボラボラの亜種であるあの生き物に、一体何をしてしまったのでしょう………」

「わーお…………」



スムッティとは、本編でも何度も現れる、塩の魔物の転落物語の人気ゆるふわキャラクターだ。

ボラボラの亜種なのでネアは苦手だが、人気のあまり公式グッズも出ているらしい。



「ネアは、塩の魔物の転落物語が好きなのか?」



この輪に加わったグレアムにそう言われ、ネアは力強く頷く。



「私が読んだ中でも最高の物語です。手に汗握る展開と、抱腹絶倒のノアの苦難の日々が堪りません!」

「ネア、そこで貶められているのはお兄ちゃんだからね!!」

「お誕生日にウィリアムさんが新しい一冊をくれたので、それを読むのが楽しみなんですよ」

「…………本なんて」

「ディノはその間、紐で繋いでおけばいいのですよね?」

「…………ずるい」



それは満更でもないらしく、目元を染めて羽織られに来る魔物を仕方なく受け止めてやり、ネアはそんな光景を嬉しそうに見ているグレアムの灰色の瞳を心から綺麗だと思った。



ウィリアムとギードはどうしたのかなと思って視線を巡らせたところ、部屋の隅でアルテア達と何かをしているではないか。


ウィリアムは手に剣を持っているし、黒つやもふもふに前足でげしげしと床に均されている生き物がいたようなので、戦いの最後の場面であるに違いない。



「む、…………怪物さんでしょうか?」

「わーお、あの感じだとそれなりの大きさのものが出たのかなぁ…………」

「むぎゅる…………」



警戒心を強めて部屋を見回していたネアの元に、イーザを伴ったヒルドが初めて見るお酒を持って来てくれた。



「ネア様、イーザが成婚の祝いにと持って来てくれたものなのですが、如何ですか?お好きな味だと思いますよ」

「まぁ、不思議な瓶のお酒なのですね。…………雨音が聞こえます!」



ヒルドの手にあるのは、水色の宝石をくり抜いたような美しい瓶だった。

葡萄酒などではなく、ウィスキーなどの瓶の形状に似ており、中身は宝石と果実のお酒なのだそうだ。



「霧雨の領地にあります、宝石の谷で熟成されたものなのです。元は、氷河の酒などを手がけた酒造家の息子が作り始めたものでして、市場に出回るようなものではありませんが、気に入られるようであれば幾らでもお持ちしますよ」

「氷河のお酒の……………!!」



これは期待大だぞといそいそとグラスを受け取ったネアに、ヒルドがそのお酒をとぷりと注いでくれる。


優しい満月のような色合いのお酒からは、さあさあと優しい雨音が聞こえていた。



「雨音が聞こえていますが、このまま飲んでしまっても大丈夫なのでしょうか?」

「あ、イーザの家のお酒だ!!そのまま飲んでも大丈夫だよ」



目聡く見付けたヨシュアがそう教えてくれたので、ネアはこくりと一口飲んでみた。



「……………まぁ!雨上がりの果樹園のような、とても爽やかで瑞々しい香りがします!!…………お酒としては、きりりとした辛口の果実酒のようなお味で、とっても美味しいですね」



そう喜んだネアの隣で、ディノもそのお酒を飲んでいた。

初めて見るお酒にエーダリアもやって来て、みんなでそのお酒をいただくことになる。



「芸術家や音楽家達が、美しき瞑想の酒と呼ぶものだな」

「アルテアさんはご存知なのですか?」

「前に飲んだことがあるからな」

「……………は!ルイザさんに………」



そう言えばアルテアは顔を顰めたが、否定はしなかったのでルイザから貰ったことがあるのだろう。


このお酒についてはエーダリアも気に入ってしまい、この一本とは別にもう一本貰えることになったので、今から楽しみだ。



逆に、ヨシュアがすっかりリーエンベルクの牛コンソメスープを気に入ってしまったので、お世話係のイーザにはそのレシピが贈られることになった。

特定の誰かと契約のないイーザやヨシュアなのだが、二人とも魔術に長けた高位の生き物なので、ある程度の飲食物のやり取りには支障がない。



残念ながらその辺りでイーザとヨシュアは時間になってしまい、騎士棟に一度戻るというグラスト達に案内され、またの機会にと別れを惜しみながら帰って行った。


何やらイーザがグレアムと頷き合っていたような気がしたが、この二人に特別な接点があるとは聞いていないので、見間違いだったかもしれない。



二人を見送っていたネアが体を捻ろうとした時のことだった。




「おっと、ネアはシルだけを見ててね」



どこか張り詰めた声のノアにそう言われ、ネアはぎゅむっとディノの腕の中に押し込まれる。



「むぐ?!」



目を丸くしてディノを見上げれば、魔物は優しく微笑んでネアを抱き締めてくれた。

耳元で囁くように怖くないからねと言われたが、背後からどったんばったんと音が聞こえてくるので、大物が出現してしまったのだろうか。



「…………もういいぞ」



ややあってそんなアルテアの声に振り返れば、疲弊したように冷たい葡萄酒を飲んでいるウィリアムとノアに、呆然とした面持ちのエーダリア、剣を鞘に戻しているヒルドに、けばけばの黒つやもふもふを撫でているグレアムがいる。


声をかけてくれたアルテアは、おしぼりで手を拭いているようだ。



「な、何があったのでしょう…………」

「うーん、ネアは聞かない方がいいだろうな」



そう微笑んだウィリアムだったが、ネアとしてはエーダリアの顔色の悪さが気になってしまう。



「……………エーダリア様?」

「…………なぜ、私の足元から現れたんだ…………」

「まぁ…………、その、お気を確かに」

「触手系は昨年限りだと思っていたのだが…………」

「と言うことは、ギードさんもそやつに驚いてしまったのですね…………」



そう呟いたネアに、グレアムが苦笑して首を振る。



「いや、こっちには逃げ沼のようなものが現れたんだ。あと一瞬でも飛び上がるのが遅ければ、ギードは落ちていた」

「に、逃げ沼……………」

「おい、何で俺を見るんだ。落ちたのはお前もだろうが」

「アルテアさんを助けようとして落ちたのです……………。と言うか、帰り道のヨシュアさんが落ちないといいのですが…………ぎゃ!!!」



ここでネアがアルテアの背後に見たのは、ぐわんと口を大きく開けた牙のある麦袋のようなものだった。


すぐさま振り返ったアルテアが取り出した杖で打ち滅ぼしていたが、初めて怪物らしい怪物を見てしまったネアは、両手でばくばくする胸を押さえる。



「怖かったね、もういないから安心していいよ」

「………むぎゅ。袋ごときにすっかり慄いてしまいました。……………エーダリア様、足元に…………」

「ネア?…………っ?!何でまた私の真下なのだ?!」

「…………む、無理でふ。………きゅっ」



その次にエーダリアの足元から這い出して来たのは、真っ黒な髪の毛を持つ手足の長い毛むくじゃらの生き物だ。

外見がとてもホラー寄りだったので、可憐で繊細なネアはくらりとしてしまい、すぐさまディノに抱き止められる。



薄れてゆく意識と視界の端に昆虫族的な足を持つ大きな生き物の影が見えた気がしたが、ぱたりと意識を閉ざして見なかったことにした。




「大丈夫かい?遮蔽カーテンの中に入れてあげようか?」

「……………む」




暫くすると、ネアは、そう頬に手を当ててくれたディノの声にぱちりと目を覚ました。


慌てて周囲を見回せば、先程の騒ぎは収まったようだ。

なぜかノアがちょっぴりだけ半裸になってヒルドに叱られているが、誰かが食べられてしまってもおらず、みんな元気そうである。



「髪の毛もじゃもじゃは滅ぼされました?」

「うん。ヒルドとグレアムがね。その後の百足の…」

「ぎゃ!」

「…………虫の怪物も、ウィリアムがすぐに倒してくれたから安心していい。君は十分くらい意識を失っていたかな。その間に、現れた酒精の怪物を追い返す際に、ノアベルトが少し酔ってしまったくらいかな」

「…………だから、脱ぎ始めてしまったのですね……………」



とは言え、嵐は去ったようだ。

相変わらず窓の外からは不吉なみしみしがりがりという音が聞こえてくるが、ひとまずこの室内には怪物の姿はない。


そう思ってほっとしたネアが、気を取り直してタルタル戻りをしようとした時のことだった。



「ふむ。哀れな小娘よ、お前の知る限り最も恐ろしい事故を再現してやろう」



そんな低い声が足元から聞こえ、ネアはゆっくりと視線を下に向ける。



するとそこには、毛だらけの棍棒のような謎生物が佇んでいるではないか。

特に顔があるようにも見えないが、慌てたディノがネアを抱き上げていると、ふっと笑うような気配がした。



「ふむ。お前の記憶が私に届いたぞ」



直後、ずばんと音がして、毛だらけの棍棒生物は、穏やかな顔に見合わず武闘派のグレアムの大剣で圧殺されてしまった。




「ネア、大丈夫だったか?」

「グレアムさん、…………その、もしかして私の記憶の何かをあやつに読み取られてしまったのでしょうか……………」

「かなり高位の怪物だったようだから、術式が成就していると厄介だな。シルハーンから離れないように。ノアベルト………は無理そうだから、…………アルテア、手を貸してくれるか?」

「ったく、案の定事故りやがって」

「むぐる……………」



とは言えそう叱りながらも、グレアムと一緒に魔術証跡を調べようとしてくれていたアルテアに、ネアは言おうとしたのだ。

いや、アルテアだけではなく、駆けつけてくれたウィリアムとギードや、この部屋にいる全員にその危険を伝えようとした。




けれども、心の何処かに邪な欲望があったのだろうか。



僅かな躊躇のその間に、先程の怪物が残した呪いは発動してしまった。





「…………わぁ、ひよこだらけだね」



暫くして、こちらの部屋に帰って来たゼノーシュにそう言われ、ネアは笑顔で振り返った。



「はい!私が謎の怪物に呪われてしまい、その時に思い浮かべてしまったノアの前のお誕生日会の惨劇が再現されてしまいました。なお、お料理のテーブルには怪物よけの結界があるので、無事ですからね」

「うん!」



それを聞いて安心したのか、笑顔で頷いたゼノーシュは、グラストに飲み物と料理を取ってくるねと伝え、ひよこをものともせずに部屋を横断していった。



「ご主人様……………」

「まぁ、こんなに可愛いのに、ディノはしょんぼりですか?ひよこさんだらけで、何て愛くるしいんでしょう!」

「ネアがひよこに浮気する……………」

「残念ながら、ウィリアムさんとアルテアさん、そしてエーダリア様はひよこに飲まれましたが、羽のあるヒルドさんはご無事ですし、お客様なグレアムさんとギードさんは動物好きということで、ご機嫌です!」



長椅子の一つに腰掛け、膝の上にたくさんのひよこを乗せてご満悦のネアの隣で、ディノはすっかり怯えてしまっていた。

向かいの長椅子には、自らの手で掬い上げたひよこ達を膝に乗せ、満足げな様子でお酒を飲んでいるグレアムがいるし、ギードはひよこの波間をびょいんと弾んで楽しそうだ。



「ネア殿、ノアベルト殿は…………」

「酔っ払いなノアは、真っ先にひよこに飲まれました。しかし、先程はあちらで、ひよこの中をご機嫌で泳いでいましたよ?」

「…………成る程」



少し遠い目で一つ頷いたグラストは、エーダリアをひよこから引っ張り出したヒルドを見てほっとしたらしい。


またしても服の内側までひよこに侵入されてしまい、扇情的なご様子のウィリアムとアルテアも、よろよろとネア達の長椅子の方にまで避難してきた。




「くそ、…………よりにもよって何でこれを思い浮かべたんだ!………っ、」

「…………っ、………っく、服の中に………」

「酔っ払いなノアが脱いでいたので、あの日のことを思い出していたところだったのです。逃げ沼や、保冷庫事件を思い出さずにいて良かったとは思いませんか?ボラボラだってあり得たのですよ?」

「やめろ……………」



隣に座り、すっかり弱ってしまったアルテアに寄りかかられ、むぐぐっと眉を寄せていたネアのところに、ひよこの海から救出されたエーダリアと、そんな弟子を抱えてふわりと飛んできたヒルドも合流する。



「なかなか賑やかな大晦日になりましたね。時折怪物も現れているようですが、ひよこの下になってしまって視界に入らないようで、ネア様には宜しかったのかもしれません」

「…………なぜ、また私の足元からだったんだ……………」

「そりゃ、前に茶葉をひよこにしたのが、エーダリアだったからだと思うよ」



長椅子の肘置きに捕まるようにして、ひよこの海から顔を出したノアがほろ酔いでそう微笑む。


そのまま上がってこようとしたので、ネアは慌てて止めなければならなかった。




「ノア、下はまだ穿いていますか?」

「ありゃ。裸だけど駄目?」

「ひよこの海に帰るが良い」

「わーお、僕の妹が冷たいなぁ。…………ありゃ、シル?」



ノアの表情におやっと隣の魔物を見れば、頭の上に乗ってきたひよこが怖いようで、ふるふるしている。

ネアは手を伸ばしてそのひよこを取ってやり、ディノにひしっとしがみ付かれた。



「よしよし、もう怖くないですからね」

「ご主人様………」

「グラスト、ケーキを取ってきたよ」

「ゼノーシュ、大丈夫だったか?」

「うん。砂漠と同じ歩き方をするの。ひよこだし怖くないよ。…………あ、最後の怪物だ」

「ぎゃ!」



テーブルの上にケーキを乗せたお皿を並べていたゼノーシュが、ふと、窓の方を見てそう言った。


この騒ぎに巻き込まれている内に、いつの間にかそんな時間になっていたらしい。

慌ててディノの胸元に顔を埋めたが、すぐに拍子抜けしたようなエーダリアの声が聞こえてきた。



「…………ひよこで見えないな」

「おや、可愛らしくなってしまいましたね」

「ありゃ、ひよこまみれだね」

「……………ほわ………」

「ネア、見えないから怖くないようだよ」

「……ふぐ、……………むむ!ひよこ巨人です!」



そこにいたのは、ひよこまみれの巨人のような何とも言えない生き物だ。

ひよこまみれの怪物はとても苦しそうに踠いていたが、何しろ多勢に無勢で完全に圧倒されてしまっている。



呆然と見守るネア達の前で、大晦日最後の怪物は、ばたんとひよこの海に倒れ込み、そのままひよこに飲まれて見えなくなった。



ゴーンゴーンと鐘が鳴る。



まだ呆然としたままみんなで顔を見合わせていると、きゅぽんという音がして、あれだけ溢れていたひよこ達も消えてしまった。




「…………新年です」

「ありゃ。何だかいつの間にか年が明けたなぁ…………」

「ネイ、あなたはまず、何か着なさい」

「わーお、新年早々叱られたぞ…………」

「ディノ、新年ですよ!」

「うん、ネアが可愛い…………」



ふと隣を見ると、立ち上がってほっとしたように服を直していたウィリアムは、グレアムと、可愛かったひよこが消えて呆然と床の上に座り込んでいる黒つやもふもふを見て微笑んでいる。



「…………む。すやすや寝ています…………」



そしてアルテアは、ネアの肩にもたれたまますっかり眠りこけていた。



「…………アルテア様が寝ているところは、初めて見ましたね」



そう微笑んだヒルドに、エーダリアやグラスト、ゼノーシュも頷く。

ネアは寝顔を見た事があるし、ディノやノア、ウィリアムやグレアムは、ちびふわな寝顔を何度か拝見しているので、初めてというのも何だか違う気がする。



「新年初ちびふわにしておきます?」

「拗ねるんじゃないかな…………」




ヒルドがカーテンを開けにゆけば、窓の外にははらはらと雪が降り始めていた。



(こんな風に、大晦日をみんなで過ごせて良かったな……………)




相変わらず、決して穏やかな夜にはならなかったが、これがリーエンベルクの大晦日だという気もする。




今年も何だか賑やかな一年になりそうだと、ネアは手に押し付けられた三つ編みを受け取りながら思ったのだった。














本日の更新で、「薬の魔物の解雇理由」は完結となります。

(最後の更新の今回、とうとう二万文字近くになってしまいました…)


短編のつもりで書き始め、いつの間にか長編になってしまぅたこの物語ですが、長い間この物語にお付き合いいただき、本当に有難うございました。


読者の皆様に支えていただき、ネアとディノの物語もここまで来られたのだと思います。



今後の活動につきましては、本日中に活動報告にてご報告させていただきますね。


続編を!というメッセージを、ほんとうに沢山いただきましたので、薬の魔物の物語を今後も(少し更新の頻度は落ちてしまいますが…)残してゆけたらと思っています。





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[良い点]  はじめは全ての感想のところに書いていたのですが、こっちの方が良いのではと思い、移しました。  最近解雇理由をやっと読破できました。  ここまでポテンシャルのを感じた作品は初めてかもしれ…
[気になる点] >「エイミンハーヌさん、ご無沙汰しております」 >「まぁ、バンルさんまで。ご無沙汰しておりま…」 昨日(ディノのお城に行く前のお散歩中に公園で)会って会話もしていたので、ご無沙汰では…
[良い点] ひと月半掛けて最後まで読ませていただきました。 これぞファンタジーという感じの他にない素敵な世界観で、とても大好きな物語でした。終わってしまうと思いつつも、きっと素敵な終わりに違いないとワ…
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