第一話 誕生日と擦れ違い(3)
茜色に照らされている背中は、一ヶ月前よりもしっかりした肉付きになっていた。
騎士になると両親に啖呵を切ってから一ヶ月、彼なりに今まで以上に頑張っているのは、訓練風景を見ずとも自然にわかる。
小走りで近寄ると、彼は立ち止まり、眉をひそめて振り返った。
「走るなよ。声かけてくれれば待ってやるって」
「ありがとう、気遣ってくれて」
サートルの視線がエルダの首下に落ちる。
「サートル?」
「これ、初めての細工か?」
「え?」
首からかけている魔宝珠に手を触れられた。彼はそれを反転したり、軽く握ったりしてくる。
「すげえ綺麗だな。そこら辺のアクセサリー屋に売っているのと変わらねぇ。いや、それよりも高そうに見える」
「それは言い過ぎよ。たくさん失敗したんだから。微妙に傷が残っているでしょ? こんなに傷がある宝珠、見たことない。これを他の人にやったら、きっとがっかりされる……」
「普通に見ているだけじゃ、わからねぇよ」
「それはサートルだからでしょ。ヴァランさんのはもちろんのこと、私が昔見た細工はもっと綺麗だった。出店で時間も限られた状態だったのに……。私はまだまだ駄目ね」
「……なあ、エルダ、ちょっといいか」
「なに?」
「お前、いつからそんなに卑屈になった? それと言動に保険かけているだろう。何事も言い切らないよな?」
澄み渡るような青空の色をした瞳に、真っ正面から見据えられる。
エルダは無意識に握りしめた右手を胸のあたりに添えていた。そして視線を少しだけ逸らす。
「……いつでも自信を持って発言できる人の方が、少ないと思うけど」
「そうだな。だけどさ、誉められたらそれくらい素直に受け取れよ。悪いことを言ったみたいに感じるだろう」
サートルの口調がやや険を帯びている。
なぜ腹を立てられなければならないのか――。
エルダは右手をおろして、脇で両手をぎゅっと握りしめた。
「……ごめん」
「何で謝るんだよ。何も悪いこと言ってねぇだろ。意味がわかんねぇ」
「……意味がわからないのは、そっちよ」
「はあ?」
眉をひそめられるが、それにも構わずエルダは腹の底から言葉を吐き出した。
「何も知らないのに、私のことをわかった風に言わないで!」
口が開いたまま動きを止めている彼から、荷物をひったくる。そしてエルダは彼に背を向けて、全力で走り始めた。
後ろから大声で呼びかけられる。それに振り返ることなく、走り続けた。
なぜか自然と目から涙がこぼれ落ちていく。
悔しい、切ない、苦しい――様々な感情を抱きながら、上限の月が顔を出し始めた空の下を走っていった。
* * *
サートルのことを羨ましいと思ったのは、いつからだったか。
大人に対しても遠慮なく言い放ち、すぐに行動する姿は、慎重で引っ込み思案なエルダにとっては、すごい人に見えた。
今でこそ時折サートルと共に行動したりもするが、十歳くらいまではサートルが奮闘している姿を木の陰で見守る人間だった。家の中で本を読みながら、彼の後ろ姿を眺める。それが自分だと思っていた。
そんなある日、サートルを眺めていると、突然彼が駆け寄ってきて、手を差し伸ばしてきたのだ。
自分とは性格の違う少年が出した手。その手を取って、彼のように伸び伸びと行動したいと思った。だが自分に自信がない人間が、彼の手を掴んでいいのかという考えがよぎり、躊躇ってしまった。
すると彼は一歩踏み込み、エルダの手を握ってきたのだ。そして無垢な瞳でエルダのことを見て、端的に一言いった。
「行こう」――と。
その台詞は頑なだった心を、一瞬で溶かしてくれた。
それ以後、エルダはサートルと一緒に遊んだりすることが多くなったのである。
* * *
ヴァランの店から全速力で走ってきたエルダは、住宅街の密集地から外れた道に入ると、速度を落とした。肩掛け鞄を抱きしめて、後ろを振り返る。
人通りはほぼなく、家々の間は薄暗い夜道が続いていた。人目を避けて走ってきたので、無意識に人がいない方向を進んできたようだ。
きょろきょろと辺りを見渡すが、サートルの姿はない。ほっとしつつも、どこか残念がっている自分がいた。
近くにあった路地の番号を参考に、エルダは自分の家に向かって歩き出した。
同じ町といっても場所によって随分雰囲気が違う。ラウロー町はミスガルム領の北部にあり、その地帯では最も栄えている町だ。賑やかな表の顔もあれば、静かすぎる裏の顔もあるのは当然だった。
人気のない道を黙々と歩いていく。すると後ろから足音が聞こえてきた。
意図して早歩きにすると、後ろの人も歩調を早めてきた。
心の中で舌打ちをする。
明らかにつけられている。人通りのない道を女一人で歩くのはまずかった。
町の中心部にある時計塔への道のりを、頭の中でうっすらと思い浮かべる。少し進めば比較的大きな通りにでるはずだ。それまで後ろの人が大人しくしてくれればいいが、世の中うまく事は進まないだろう。ならば先手を打つまでだ。
早歩きだったエルダは、小刻みに震える手を握りしめて、駆けだした。一瞬の間をおいてから、後ろにいる人間も走り始める。
正面だけでなく左右にと、人気がありそうな道を選んで町の中を駆けていく。
しかし人の量は思ったほど多くなく、時折酔っぱらいとすれ違う程度だった。
なぜ――そう思っていると、前方にある路地裏から男が飛び出てきた。
右足を強く踏み込んで、無理矢理足の動きを止める。にやついた男が寄ってきた。
「お嬢ちゃん、こんな通りに一人で歩いては危ないよ? お兄さんが送っていってあげるよ?」
「結構です!」
睨みつけながら、じりじりと後ろ歩きで下がる。そして踵を返して、再度走り始めた。だが走ろう出した瞬間、一本に結んでいる髪が引っ張られた。
「痛っ……!」
「おい待てよ」
さっきの猫撫でのような声とはがらりと変わり、どすの利いた声になる。髪が後ろに引っ張られると、男の胸に背中が当たった。吐息が耳にかかる。
「送っていってやるって言っているだろ。好意を仇で返す気か?」
髪が上へと引っ張られる。結んだ髪に手を添えて、少しでも引っ張られる力を押さえようとしたが、逆にその手を捕まれてしまった。
体を反転させられて、男と対面する形となる。男はなめ回すようにして、エルダの体を上から下までじろじろと見た。
「可もなく不可もねぇ体だな。少しは楽しませて――お?」
男の視線がエルダの胸元で止まった。ごくりと唾を飲み込む。
露出の高い服は着ていないはずだ。お世辞にも胸は大きい方ではない。なぜそこで視線が止まるのだろうか。
「綺麗な宝珠を持っているじゃねぇか。これくれよ」
浅緑色の魔宝珠に手が触れられると、硬直していた思考が一気に動いた。
これを捕られるわけにはいかない。
男の股にある急所を右足で蹴りつける。衝撃で男の手が離れた隙に数歩下がった。
「この女……っ!」
キュロットのポケットから小さな光宝珠を取り出し、それを男に投げつける。目映い光が男の視界を覆った。その間に結宝珠を地面に転がす。
男が左手で顔を覆い、右手を伸ばしてくるが、それを寸前のところでかわした。
エルダはさらに数歩下がると、男に背を向けて、その場から一目散に逃げ出した。
「待ちやがれ!」
男が声をかけた瞬間、電撃が走るような激しい音がした。後ろを軽く一瞥する。
男は手を引っ込めて、眉間にしわを寄せながら手のひらを見ていた。エルダの姿を垣間見ると、険しい形相で前に踏み出していた。その瞬間、再度電撃がほとばしった。
それからはいっさい後ろを振り返らずに、エルダは駆けていった。
足がもつれそうになりながらも、どうにか踏みとどまって走っていく。心臓が早鐘を打っており、今にも爆発しそうだった。
やがて薄暗い通りを抜けて、裏路地から大通りに飛び出ると、談笑しながら歩いている男女と目があった。二人はぎょっとした表情をしている。そんな彼らに向かって苦笑いをしてから、顔を逸らした。
裏路地から人が追ってくる気配はない。どうやら危機は脱したようだ。
胸に手を当てて、深々と息を吐く。そして人の流れに乗りながら、エルダは通りを歩き出した。
ポケットがある腰の辺りに軽く手を添える。凸凹していたが、今は平らになっていた。
さっきまでここには小さな宝珠が入っていた。光を照らし出す光宝珠と、結界を張る結宝珠だ。
結界の種類には二種類ある。一つが効果は弱くても長く使えるもの。もう一つが時間は短いが、強力なのを張れるものである。
その後者のものを、エルダの研磨の練習もかねた宝珠として、最近ヴァランから譲り受けたのである。
人間相手でも拒絶の結界を張れる結宝珠は、とても高価な物であろう。捨てるには忍びないが、あの時逃げるためには、背に腹はかえられなかった。
自分が不快な思いをさせられるのは、もちろん嫌だ。
だがそれ以上に、自分の一部分になった宝珠が捕られるのは避けたかった。
エルダにとって大切なものとなった宝珠にそっと触れて、肩を小さくしながら人々が移りゆく通りを進んでいった。