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第七章11 『血命の儀』



「――『血命の儀』ってのは、なんなんだ?」


「誇りや約定の価値を高く見積もるシュドラクの民にとって、決して無視できぬ習わしの一つだ。詳しくは奴らの方から話してくれよう。それよりも」


 スバルの疑問の上辺にだけ答えて、アベルがじろりとこちらを睨む。

 シュドラクの少女は、先のアベルの伝言を族長のミゼルダへ伝えにいっており、この場にはスバルとアベルの二人しかいない。

 つまり、密談に使える時間も限られているということになる。


「聞かせてもらおう。森の外の陣地で捕虜になったと話していたな。待遇は?」


「……肩と背中の傷がその功績だよ。あとは、雑用もさせられた」


 正確には、雑用と加虐は別々の周回の話であるのだが、スバルはアベルの威圧感に押されながらそう答える。

 それを聞いたアベルは「ふむ」と目を細め、スバルの左手を見ると、


「指のことに触れぬところを見るに、それは別件か。さては追っていた女にやられたな」


「うぐ……それが、何の関係があんだよ」


「貴様が、指を折るような女に懸想する馬鹿だという証にはなる」


 その認識は、スバルとレムの関係を言い表すのに適切とは言えない。が、そこに拘って長々と詳細を話している時間も、そんな義務もなかった。

 アベルも、さっさとスバルの左手の状態から意識を切り離すと、


「雑用ということは、陣の中も見たな。おおよその配置は? ない頭を絞り尽くして、記憶からそれを引っ張り出せ」


「いくつかの天幕と、陣内の人数くらいなら……おい、何の話なんだよ」


「わからぬのか? 知れたことだ。貴様の見たものを――」


 矢継ぎ早に問われ、顔をしかめたスバルにアベルが鼻を鳴らした。

 しかし、スバルの問いにアベルは答えられない。それより早く、再び複数の足音がこの檻へ向かってやってきたからだ。

 それは、あの少女に引っ張ってこられるミゼルダと、その一団――、


「ウタカタから聞いタ。お前たちが『血命の儀』を受けると言ったト」


 自分の足にしがみつく少女――ウタカタと呼んだ子の頭に手を置いて、髪を赤く染めたミゼルダが真剣な眼差しをスバルたちの方へ突き刺してくる。

 それは先ほど、スバルが彼女たちの戦士としての誇りを踏み躙ったときの覇気、それに匹敵する刺々しさを纏った視線だった。


「いったい、どこで『血命の儀』のことを知っタ? それは我々、シュドラクの間にだけ伝わっている儀式のはずダ」


「笑わせるな、シュドラクの若き長よ。今の世で、貴様らの言い伝えが誰にも知られていないなどと本気で思っているのか? 人間が二人いれば秘密は漏れる。自分たちの結束が一枚岩だなどと、絵空事を望むのはやめるがいい」


「――――」


「貴様らの大事な『血命の儀』も、例外ではない。現に俺は、それがどのような儀式であったのかも、過去に何があったのかも知っている」


 ミゼルダの視線が険しくなり、応じるアベルの口上も熱を増していく。

 その高圧的な物言いに、ミゼルダだけでなく、彼女の周りのシュドラクの民の表情も強張っていくのが見られ、スバルは内心で大きく唾を呑み込んだ。


 現状、アベルの話す『血命の儀』の内容がわからず、話に置いてけぼりにされているのはスバルだけだ。ただ、それがミゼルダたちにとって大事な儀式であることと、その思いを蔑ろにするアベルが歓迎されていないことは確実。

 だから、スバルはこれ以上の混乱を防ぐために、「あの!」と声を上げた。


「盛り上がってるところ悪いんだけど、『血命の儀』について教えてもらえないか? たぶんそれ、俺にも無関係じゃないんだよな?」


「……何故、お前はそう思ウ?」


「いや、さっきこっちの覆面野郎に脅されたんだよ。何もかも犠牲にできるかどうかみたいな感じで。できるわけねぇだろってのが俺の答えだったんだけど」


「ならバ……」


「俺が賭けられるのは俺だけだよ。ちょっと自分の影響力をでかく見積もりすぎだろ」


 何もかもを犠牲に、なんて発言はよほど力のある人間だけに許されたものだ。

 残念ながら、ここでシュドラクの民に捕まって手も足も出ないスバルとアベルには、そんな大仰な選択を前にする資格すらないだろう。

 だから、賭け金は自分の手札にあるものだけ。現状、ナツキ・スバルのみ。


「でも、アベルの言う通り、俺もミゼルダさんたちに話を聞いてもらわなくちゃ困る。さっきの話の繰り返しになっちまうが、何度でも言わせてもらう。最悪、俺は俺の大事なモノを守るために、せめて出してもらわなきゃ困るんだよ」


「……なるほどナ。どうやら、『血命の儀』を受ける資格はあるようダ」


 どうにか話を成立させたいスバルの訴えに、ミゼルダがそう小さく呟いた。

 その答えにスバルは目を丸くし、アベルが微かに喉を鳴らす。だが、そんなミゼルダの呟きを聞いて、過剰反応したものが一人いた。

 それはミゼルダを囲む集団、彼女の隣に並んでいた、髪を青く染めた女性だ。


「姉上! 本気なのですカ? こんな男たちの話を真に受けテ……」


「真に受けたわけじゃないサ、タリッタ。ただ、打ち捨てるには惜しいと思っただけダ」


「姉上……」


 タリッタと呼ばれた女性は、姉上と呼んだミゼルダの言葉に顔を伏せる。

 どうやら二人は姉妹であるらしく、言われてみればなるほど、目力の強さが印象的な顔立ちは確かによく似ている。

 そうして、妹の言葉を退けたミゼルダが、改めてスバルの方を見やると、


「『血命の儀』について聞いたナ。それは我らシュドラクに古くから伝わル、一族へと己を認めさせるための儀式ダ。成人の儀と言ってもいイ」


「成人の……ああ、そういうやつか。けど、俺たちは別に……」


「シュドラクの民ではない。そのようなこと、言われずとも全員わかっている。戯けたことで時間を無為にするな。重要なのは、儀式の本質だ」


 シュドラクの成人扱いされるための儀式と知り、戸惑うスバルにアベルが呆れる。その言いように頬を引きつらせ、しかし、スバルも彼の言いたいことを理解した。

 成人の儀の本質は、その集団において挑戦者が一人前であることを認めさせることにある。つまり、『血命の儀』の本質というのは――、


「シュドラクの人たちに、対等に話を聞いてもらうための通過儀礼……」


「そういうことだ」


 スバルの思考を肯定し、アベルが腕を組んでミゼルダを見る。すると、その視線を受けたミゼルダも顎を引いて、


「『血命の儀』に挑むというなラ、覚悟をしてもらうゾ」


「撤回すればどうなる? 今さら、俺たちを解放するとでも言うのか? 生憎と、そのような都合のいい話に期待するほど世俗とズレた頭は持っていない。俺も、このナツキ・スバルも同様だ」


「うえ!?」


 勝手に盛り上がる両者の間、やる気満々の一人に組み込まれたスバルは驚くが、アベルはこちらを意に介そうともしていない。

 そのペースに揉まれながらも、スバルは「どうすル?」と聞いてくるミゼルダに、


「……やるよ。他に方法がないんなら、その儀式を受けて話を聞いてもらう。ただし、何日もかかるような儀式じゃ困るんだが」


「そうだナ。我々もそれは望まなイ。それならバ……」


「姉上、だったラ、エルギーナがよいのでハ?」


 儀式を受ける覚悟を決めたスバル、その提案に考え込むミゼルダへタリッタが助け舟を出した。その妹の提言に、ミゼルダは深く頷くと、


「それがいイ。『血命の儀』ハ、それが行われるときに最も大きな困難が選ばれル」


「最も大きな困難……それが」


「――エルギーナ」


 ごくりと唾を呑んだスバルに、ミゼルダが重ねてその単語を口にした。

 と、それを聞いたウタカタが肩を跳ねさせて縮こまり、シュドラクの女性たちもいくらかの緊張感に包まれる。

 戦士の自負がある彼女たちの反応は、スバルの不安を触発するのに十分すぎる。

 しかし――、


「俺も貴様も、後戻りすることはできん。覚悟はよいな?」


「勝手に話を進めたくせに、偉そうじゃねぇか。お前、俺に貸しを作ってるからって、やりたい放題が過ぎるだろ……」


 ナイフ一本譲ってもらった恩があるが、ここでのやり取りでそうした奥ゆかしい気持ちは全てが吹っ飛んだ。もちろん、スバルの失点を取り返し、彼女らに話を聞いてもらえる余地を作ってくれたことにも感謝してはいるが。


「俺の知る限り、顔を隠してる奴に碌な奴はいねぇ!」


「故あってのことだがな。――不敬だが、否定はすまいよ」


 物語だと、顔を隠した人物が登場した場合、その人物は主人公の関係者である可能性が高い。この場合はスバルが主人公ポジションだが――、


「アベルは父ちゃんより体が細いし、声も違う。何より、俺が父ちゃんを見間違えるはずないしな」


「……何やらくだらぬ話をしているようだな」


「くだらなくねぇよ、俺の父ちゃんの話だよ。世界一ウザくてかっちょいい」


「――――」


 あまり興味を引く話題ではなかったのか、アベルの視線の温度が目に見えて下がった。

 実際、スバルもここが帝国で顔を隠した人物が登場したから、往年の宇宙戦争映画になぞらえて益体のない話をしてみただけだ。たぶん、知らない顔を隠した人という認識でいいだろう。

 と、そんな益体のない考えを余所に、ミゼルダが周りの同胞に指示を出し、


「アベルとナツキ・スバル、お前たち二人ヲ、エルギーナの下へ連れてゆク。見事、『血命の儀』を遂げられるカ、証明してみヨ!」


 そう言って牢が開かれ、スバルとアベルの二人が外へ連れ出されたのだった。



                △▼△▼△▼△



 牢から出されたスバルとアベルの二人は、目隠しや拘束もされず、シュドラクの民に囲まれながら集落の外を歩かされていた。

 鬱蒼とした深い森、それは暗闇の中を手探りで歩いているようなもので、スバルは何度も足下を危うくし、そのたびに周りのシュドラクに助けられていた。


「っと、悪い。また支えてもらって……」


「大丈夫ヨ~。私、力持ちだから全然平気だもノ~」


 そう言って、転びかけたスバルを髪を黄色く染めた女性が支えてくれる。

 喋り方や顔立ちの柔らかい、ふくよかな体型をした女性だ。引き締まり、筋肉質な女性が多いシュドラクの中では珍しいタイプだが、とても親しみやすい雰囲気だった。


「ケガの調子は平気なノ~? 手当て、私がしたノ~」


「あ、これ、君がしてくれたんだったのか。ああ、大丈夫だ。まだ少し、いやかなり、っていうかだいぶ痛いけど、マシ」


「あははは、正直者さんなノ~」


 そう言って、のんびりと笑ってくれる態度にも救われる。実際、傷の手当てもしてもらっていたのだから、二重の意味で救われたというべきだろう。

 大らかで優しい、そんな雰囲気の女性にスバルも自然と心が緩む。ただ、彼女が片手にずっと骨付き肉を携帯しているのが大いに気になる。


「うン? お腹減ったノ~? お肉食べたいノ~?」


「あ、いや、大丈夫。腹減ってないわけじゃないんだけど、食べると動けなくなるし」


「あはハ、それはそうなノ~。それにお腹いっぱいだと死ぬときも苦しむノ~」


「はは……」


 はむはむと骨付き肉をかじりながら、優しげな風貌でも彼女はシュドラクだった。

 ともあれ、そんな調子でどこぞへスバルたちを案内するシュドラクの民に、こちらへの敵意のようなものは感じられない。

 ミゼルダもそうだったが、スバルたちが『血命の儀』を受ける覚悟を決めた時点で、すでに最初の交渉失敗の影響は引きずっていないようだった。


 つまり、儀式の結果はどうあれ、彼女らの心象回復は成功したということだ。

 これならばひょっとすると、仮に儀式の成果が芳しくなかったとしても、改めて交渉のテーブルにはついてもらえるかもしれない。


「――などと、都合のいいことを考えている顔だな」


「……人の顔色だの目つきだので、あれこれと考えを読み取るな。あんたもそうだけど、帝国人ってそういう人ばっかりなのか?」


「貴様の辟易の原因など知らぬし、誰と比べているかも興味はない。ただ、帝国の人間は生きる上で相手をよく見ることを学ぶ。王国人とはその差があろうよ」


「相手をよく見る、か……」


 一緒に連行中のアベル、彼の言葉にスバルは感じ入るものがあった。

 それは帝国人に限らず、飛び抜けた武力を持たない大勢が意識すべき教訓だ。それこそスバルも、相手をよく見て観察しなくては、ただでさえ少ない勝算を拾えない。

 今後も強く強く、意識すべき課題だった。


「時に、だ。貴様は今のうちに逃げ出そうとは思わないのか?」


 と、そんな風に考えるスバルに、アベルが耳打ちするように囁いてきた。

 その内容のあまりの冷淡さに、スバルは驚きつつも目を細め、


「そういう、妙な誘惑かけるのやめてくれねぇか。考えなくはないけど、やらねぇよ」


「ほう、何故だ? 今ならば、あの牢の中にいたときよりも逃げ場はあろう。うまく隙を作れば、シュドラクの目を掻い潜れるやもしれんぞ」


「そりゃ、頭がカッとなってたときはそんな無謀にも走りかけたけど……」


 アベルの愉快犯的な言葉に、スバルは改めて周囲を見る。

 森の闇は深く、スバルには数メートル先も見通すことができない。挙句、スバルが戻らなくてはならない陣地の方角と距離も曖昧で、逃げても先がない。

 その上、周囲のシュドラクは全員、両手が故障したスバルよりずっと上手だ。


「――? どうかしたノ~?」


「きっと、ホーに見惚れタ。ホー、村で一番美人」


「わひゃ~、私、困っちゃうノ~」


 スバルの窺う視線について、隣の女性とウタカタがそう話している。

 嫌々と首を横に振る女性は頬を赤らめ、大変可愛らしいが、隙がない。きっと、スバルが逃げ出そうとしても一瞬でねじ伏せられておしまいだ。

 何より――、


「俺が逃げたら、あんたはいったいどうなるんだよ」


「――。なるほどな。つまり、貴様はそういう輩か。唾棄すべき、くだらぬ英雄願望」


「あんだと?」


 視線を切り、吐き捨てるようにアベルがそう言った。

 その言われようにカチンときて、スバルはその覆面に隠れた横顔に噛みつこうとする。しかし、その真意を問い質すよりも早く、先頭を行くミゼルダの足が止まった。


「ここダ」


「ここって、何にも見えねぇんだが……」


 掲げた松明が周囲を照らしても、見えるのはせいぜいが数メートルの範囲。スバルには変わらぬ森の光景が広がっているようにしか思えない。

 ここに、いったい何があるのかと――、


「ゆけばわかル」


「だぉ――ぁっ!?」


 暗闇に目を凝らし、前のめりになったスバル。その背中が後ろに回っていたタリッタに押され、一歩、二歩と踏み出したところで足が空を切る。

 足場が失われ、踏ん張る根拠が失われた証だ。


「この感覚……またかよぉ!?」


 思わず声を張り上げながら、スバルは地面の空白――正確には急斜面だ。その斜面に足をついて、ひっくり返らないよう滑り落ちていく。

 そのまま急斜面を駆け下り、どうにかこうにか斜面の下で息をついた。


「あ、危ねぇ……とっさに手もつけないってのに、いきなりぃっ!?」

「どけ」


 かろうじて立ち止まった背に、強烈な衝撃があって結局前のめりに倒れる。恨めしく背後を見れば、スバルの背にぶつかったのはアベルだ。

 どうやら彼も、スバルと同じように急斜面に押し出されてきたらしい。


「見たとこ、穴の底ってわけじゃなさそうだが……ここが儀式の?」


「で、あろうよ。さて、あとは何が出されるか。エルギーナ、と言っていたな」


「あんた、心当たりあったりは?」


「エル、とは大きなという意味ではあるが……む」


 斜面の下、追い落とされたスバルとアベルの会話中、何かが投げ込まれる。アベルの足下に転がったそれは布の包みだ。

 その、包みの中から顔を覗かせていたのは――、


「俺の荷物と、貴様のゴミだな」


「俺のも荷物だよ!」


 放り込まれたのは、スバルとアベルの取り上げられた装備だった。

 中にはギルティウィップはもちろん、スバルの背中に刺さっていたナイフ――アベルからもらったものが、巡り巡ってこの場に戻っている。

 アベルも、自分の剣やマントを拾い、素早く身に着けていた。


「けど、なんだってこれが……」


「ウーたちが見てル! 頑張レ!」


 アベルに倣い、装備を取り戻すスバルの疑問に甲高い声が答えた。見れば、斜面の上で両手を振る少女、ウタカタが装備を投げ入れてくれたらしい。

 ミゼルダやタリッタも、そのウタカタの行為に声を上げなかった。このぐらいの助力は儀式の進行を妨げない、ということか。

 そして、それと同時に――、


「それジャ、頑張ってほしいノ~っ」


「マジか……」


 先ほどの、髪を黄色く染めた女性がのんびりとした声で、のんびりとした調子で、のほほんと微笑みながら、大岩で斜面の入口を塞ぐのが見えた。

 見間違いでないのは、伝わってきた地響きからも間違いない。

 信じ難い怪力――あの強固な即席の檻が誰の手で作られたのかがわかる。


 そうして入口に蓋をされてしまえば、スバルたちが落とされたのは、左右に二十メートルほどの広さがある谷間の空間だ。

 蓋をされた入口と反対、スバルたちの正面には闇が広がっているが、真っ直ぐ突っ切るように走れば逃がしてもらえる、なんて甘い考えは捨てるべきだろう。


「ナツキ・スバル、両手はどれほど動く?」


「あ? 両手……見ての通りだよ。右手は上がらねぇし、左手も強くは握れない。もちろん、細かい作業も無理で……うお!?」


「マシな方の指に嵌めておけ! 時間がないぞ」


 そう言って、アベルが自分の持ち物から一個の指輪をスバルへ放り投げた。それをとっさに受け取り、スバルは有無を言わせぬ彼の言葉に、指輪を左手の中指に嵌めた。

 黒い宝石の嵌め込まれたもので、高級感と共に奇妙な威圧感がある指輪だ。


「こいつは?」


「魔を封じた指輪だ。使う前に口付けしておけ。限度はあるが、火を吐き出す」


「は? 魔? 口付け? いったい何を……」


「――くるぞ」


 展開の速さについていけないスバルを置き去りに、アベルが自らの剣を抜いた。そうして瞳を細めた彼につられ、スバルも慌てて鞭を手に取る。

 そうやって、一応の装備の準備が整ったところで――、


「……おいおい、冗談だろ」


 出口を塞がれた斜面を背に、アベルと並んだスバルは眼前のそれに唖然となる。

 ゆっくりと地面を這い、暗闇の中からぬっと姿を見せたのは、ぬらぬらと濡れそぼって見える光沢をした緑の鱗の集合体――大蛇だ。

 このバドハイム密林で、すでに二度も遭遇した大蛇の魔獣。


「まさか、エルギーナ……?」


「――――ッッ!!」


 息を呑んで、おそるおそる確かめたスバルの呟き。

 大蛇は大口を開け、まるでそれを肯定するように大きな大きな咆哮を上げた。その猛烈な風圧を全身に浴びて、スバルは身を硬くする。


 エルギーナ=大蛇、そして『血命の儀』は最も困難な問題へぶつけると。

 だとしたら、此度のスバルとアベルが突破しなくてはならない壁は――、


「さあ、戦うがいイ、戦士の証を立てヨ! シュドラクの、狩りの眼が見届けル!」


「だあああ! やっぱりかぁ!!」


 崖の上、眼下で魔獣と向かい合うスバルたちへ、ミゼルダの威勢のいい声と、それから他のシュドラクたちの「わあ――!」と高く高く囃す声が響き渡る。

 その歓声とも声援ともつかない声に見守られながら、大蛇が身構えて――、


「――くるぞ、ナツキ・スバル!」


「見えてるよ! クソ、ここんとこずっと試されてばっかりだ!」


 と、スバルの嘆きを塗り潰す勢いで大蛇がうねり、『血命の儀』が始まった。



                △▼△▼△▼△



 ――バドハイム密林に生息する、魔獣『エルギーナ』。


 アベルの話では、エルとは『大きい』という意味らしいので、蛇という単語はギーナの部分にかかっているのだろう。

 あるいはそれも、シュドラクの民の独特の呼び名であるのかもしれない。

 いずれにせよ、それを検証し、文化人類学の歴史に貢献するのは後回しだ。


「今は、目の前の敵への対処が優先――っ!」


 ぐわっと大口を開け、鋭い牙を剥き出しながら飛びかかってくる大蛇。その体長は十メートル以上もあり、意思を持った大樹が森で暴れ回っているかのようだ。

 その胴体も丸太を何本も寄り合わせたように太く、振り回される尾の勢いも、掠めるだけで十分に重傷を負わされる威力がある。

 いつものことだが、魔獣とはフィジカルからして人間を殺すつもりでいるのだ。


「ベア――」


 子、とこの場にいないパートナーの名前を呼びかけ、スバルは奥歯を噛む。

 とっさの事態に遭遇した際、スバルは考えるよりも早く、相棒であるベアトリスの判断力と対応力に委ねることを最善としてきた。

 それが、現状ではスバル自身の対応力不足として現れる――。


「まず……っ」

「戯けが! 呆けている場合か!」


 しくじったと顔を強張らせた直後、怒声と共にスバルの後頭部が髪の毛ごと掴まれる。そのまま「ぎえっ」と悲鳴を上げ、のけ反ったスバルが引きずり倒された。

 その倒れたスバルの頭上を、大蛇の牙が容赦なく閉じ、強烈な音が発生し、大気が噛み殺される。同時、巻き起こる噴煙と風が大地を豪快に吹っ飛ばした。


「うおおお――っ」


 その強烈な爆風に押されて、スバルは為す術なく地面を転がる。だが、いつまでも転がってはいられない。九死に一生を拾って、そのまま取りこぼすのは馬鹿の仕事だ。

 勢いそのままに立ち上がり、大蛇から距離を取ろうとして、


「何度も言わせるな、愚か者が。息を潜めろ」


「うご」


 ガッと頭を押さえつけられ、スバルは土の上にねじ伏せられる。見れば、同じく土煙に塗れたアベルが、自分ごとスバルをマントの中に包み込んでいた。

 とはいえ、あまり大きくないマントだ。二人でくるまるにはサイズ不足は否めず、スバルはアベルに馬乗りになられた状態だった。


「な、何の……そうか、『姿隠し』!」


「そうだ。息を殺していれば、とっさに奴もこちらを見つけられぬ。……それにしても運のない。『血命の儀』が腕試し以外であれば、目もあったものを」


 すぐ間近で大蛇の気配を窺いながら、アベルの瞳に怒りと悔しさが混じる。

 その言いようから、スバルにも彼の考えが痛いほどわかった。


『血命の儀』の内容は、どうやら毎回異なるものとなるらしい。

 中にはきっと、魔獣と戦う以外の方法もあったことだろう。しかし、スバルとアベルが放り込まれたのは、大蛇と戦って戦士の証を立てる道だった。


「こっちの両手は故障中で、アベルの剣技は二流……クソみたいな状況だ」


「二流とは言ってくれる。貴様など現状、俺の足を引っ張る腕も使えぬ有様ではないか」


「言い返す口は残ってんだよ……そうだ、さっきの話だが」


 朦々と噴煙の立ち込める中、スバルは左手を掲げ、中指の指輪を見せた。

 アベルに投げ渡された、説明不足の指輪だ。口付けとか火が出るとか、あれこれとわけのわからないことを言っていたが――、


「どう使う?」


「言ったはずだ。宝珠に口付けし、所有者と認めさせろ。あとは魔法を使う感覚だ」


「なんだその、ラノベの武器みたいな指輪……!」


 半信半疑に指輪を見ながら、スバルはその説明に顔をしかめる。と、そんなスバルの感想を余所に、アベルは噴煙の向こうの大蛇の動きを窺っている。

 牢の中では余裕のあった彼も、現実的な脅威を前にしては緊迫感を隠せない。深い息を重ねながら、アベルはぎゅっと剣の柄を握りしめ、


「接近できても、あの鱗を貫けるかは危ういな。鱗のない部位……目か口、あるいは鱗の薄い部位を狙わなくては攻撃が通らぬだろう」


「そのための隙を作らなくちゃ無理だろ。どうにかして……」


「その隙を貴様が作れ。何のために、俺と貴様の二人がかりだ?」


「言おうと思ってたけど、人に囮になれって言われんのムカつくなぁ……!」


 とはいえ、装備の内容と体調的にも役割分担はそれしかない。

 スバルがサポート、アベルがオフェンスというわりと見慣れた役割だ。相変わらず、アシスト役しか務まらないのがナツキ・スバルの役どころ。


「現状、魔獣はこちらを見失っている。指輪の炎で奴の注意を引け。その隙をつく」


「ああ、わか――」


 リソースを最初につぎ込み、最大の効果を狙うのは戦いの基本だ。

 偶然にも、魔獣が作ってくれた煙幕を利用し、環境を用いて敵を打倒する。

 スバルもそう考えたところで、ふと違和感を覚えた。


 違和感の正体は、魔獣『エルギーナ』だ。

 大蛇の姿をした魔獣、その巨大さからアナコンダなどに相当するサイズ感だが、脅威度は積極的に人間を狙うことからアナコンダよりも上。

 そして、相手が蛇型の魔獣であるなら、その生態が蛇に近いものだとしたら――、


「――っ」


 戦慄した瞬間、スバルは無意識に指輪に唇を押し付けていた。それから指輪を頭上へと伸ばし、アベルの睨みつける噴煙の方へ向ける。

 その行為にアベルが疑問を抱くよりも早く、スバルが唇を開いて――、


「――ゴーア」


 瞬間、噴煙を突き破ってスバルたちを狙った大蛇の鼻面で、炎が炸裂した。



                △▼△▼△▼△



 ――ピット器官と呼ばれるそれは、蛇の持つ熱感知器官のことだ。

 森や岩陰などに生息し、夜行性であることが多い蛇には、暗闇でも獲物の位置を把握するためにピット器官が備わっている。それにより、獲物の温度を探知して、闇の中でも蛇は素早く獲物を捕捉、捕食することを可能としているのだ。

 この原理が応用されたものがサーモグラフィーなどと呼ばれる代物だが、蛇はそれを天然で有している、まさしく暗闇の中の暗殺者なのである。

 そして忌々しいことに、この大蛇にもピット器官は備わっていたらしい。


「――――ッッ」


 じりじりと忍び寄り、襲いかかる瞬間を迎え撃たれた大蛇。鼻面を焼いた火力に絶叫する大蛇が顔を跳ね上げると、アベルが即座に斬りかかった。

 好機を逃さないアベルの剣撃、最も貫通力のある刺突が大蛇の喉元へ迫り、鋭い刃が魔獣の鱗を深々と抉る――かに思われた。


「く……っ!」


 アベルの呻き声があり、衝撃に彼の右腕が弾かれる。

 先端を浅く鱗へ突き刺したところで、剣撃はそれ以上の侵入を阻まれた。体勢がよかったとは言えないが、渾身の一撃だったのは間違いない。

 それが、通らなかった。


「もっぱぁつ!!」


 後ずさるアベルを睨み、追撃を放とうとした魔獣の横っ面に火球が衝突する。

 熱風と共に赤い光が炸裂し、密林の湿った空気が焼かれるが、大蛇へのダメージは微々たるものだ。魔獣は長い舌を出して焦げた頬を舐めると、その黄色い瞳をスバルの方へと向けて、大口を開けて咆哮した。


「クソ――ッ」


 たったの一合、戦い始めてからなら三十秒ほどしか経っていない。

 だが、たったそれだけの時間で、すでにスバルとアベルの勝算がないのがわかった。アベルの剣は鱗を突破できず、故障者スバルの小細工も相性が悪い。

 元々、圧倒的な暴力には勝ち目がないのが、スバルの限界でもあるのだ。


「ゴーア! ゴーア! 重ねてゴーアぁ!!」


 飛びかかってくる大蛇へ向け、スバルは左手を振るい、闇雲に魔法を連射する。

 一発ごとに光を放ち、指輪の炎が魔獣を外れ、谷間の戦場の崖を崩し、スバルたちと魔獣とを一時的に分断する。


「おい、ミゼルダさん! こいつは――」


 かなりきついと、そう訴えようとしたスバルは息を呑んだ。

 頭上、スバルたちの奮戦を見守っているシュドラクの民――彼女らが全員、弓をつがえてスバルたちへ狙いを付けていたからだ。


「――――」


 表情を消し、冷酷に獲物を見定める眼差しをしているシュドラクの民。

 それはミゼルダも、タリッタも、あの黄色い髪の穏やかな女性も、ウタカタさえも、誰一人例外なく、スバルたちを冷たく睨みつけていた。


「――ぉ」


「一度始めた儀式だ。『血命の儀』に逃げ道はない。あれを打倒せねば、貴様の望みは叶わぬどころか、その命さえも拾えはせぬ」


 シュドラクの冷たい眼差しを受け、凍り付くスバルにアベルが告げる。

 それはこうしてヴォラキアへ飛ばされ、帝国の陣地からここまで幾度も感じさせられた死生観の違いだ。――彼女たちは笑い合った相手と、一秒後には殺し合いができる。

 ウタカタを見れば、それが幼い頃から染みついた死生観なのだとわかった。


 その死生観の是非を、ここで問うことに何の意味もない。

 ここは主義主張をぶつけ合い、相手を論破することが求められる場ではないのだ。

 必要なのは、彼女らのルールに則り、『血命の儀』に勝利すること。


「胴体の鱗は抜けん。心の臓を貫くのが無理なら、目や口から脳を狙うか?」


「弱点は脳、ってのは生物共通の弱点だが……たぶん、それも難しい。なら、俺たちの狙う勝利条件は、もうちょぴっと上だ」


「――上」


 致命傷を与え、勝利をもぎ取るのは困難と発想する。

 ならば、致命傷以外で勝利をもぎ取る他にない。ここが魔獣の巣であれば、大蛇の卵を人質に取って降伏を迫るなんて外道戦法が通じたかもしれないが、そうではない。

 ならば、魔獣が共通して有する弱点を狙うしかない。


「角を折れば、魔獣は折られた相手に服従する。――そこしかない」


「策は」


「さっきの提案通り。俺が囮、攻撃役は怪しい覆面男」


「怪しい? ここにいるのは高貴な覆面男だけだな」


 口の減らないアベルとやり取りし、スバルは深々と息を吸って、吐いた。

 勝利条件を共有し、やるべきことは固まった。


 背後と頭上、シュドラクの民の凍えた眼差しに見張られたまま、スバルたちは戦士の証を立てるべく、森を我が物とする大蛇へと挑む。

 戦士の証なんて、似合わないし欲しいとも思わないが――、


「それがなくちゃお前のところにいけないなら、俺はそれを手に入れる」


 ――帝国兵の陣地に残してきてしまったレムを思い、スバルは強く踏み出した。


「――――ッッ」


 噴煙を突き破り、大口を開けた大蛇が突っ込んでくる。

 正面、その大蛇目掛けて、スバルは左手を突き出した。それを見て、大蛇の黄色い瞳が警戒を帯び、口を閉じて頭部を横へずらす。


 最下級の炎は大したダメージにはなっていなかったが、当たるのを拒ませる程度には大蛇の嫌悪を引き出せていたらしい。

 その警戒心が仇になった。今、スバルの左手に指輪は嵌められていない。


「左手の狙いはお前の面じゃなく、その上だよ!」


 そう言いながら、スバルの左手から投じられたのは鞭の先端だ。

 右でも左でも、ほとんど変わらず扱えるように師匠のクリンドには技を仕込まれた。肩より上に上がらない右手より、指二本でもまともに動く左手を酷使する。

 鞭の先端が狙ったのはもちろん蛇の鱗ではなく、その蛇の頭上、生い茂る密林の太い枝だ。そこに鞭を絡ませ、スバルの体が勢いよく跳ね上がる。


「――っ!」


 勢いよく飛び上がったスバルを追いかけ、体を伸ばした蛇の顎が迫る。

 とっさに膝を畳んでいなければ、スバルの体は閉じた牙に引っかけられ、両足の腿から下が引きちぎられていたに違いない。


「――っ、姉上! あの男ガ、逃げル!!」


「いヤ――」


 急上昇し、戦場となった谷間の上を旋回するスバルの姿に、弓をつがえるタリッタが悲鳴を上げた。が、そのスバルへ向けられる弓を、ミゼルダが手で下ろさせる。

 そして、ミゼルダは緑の瞳を輝かせると、


「逃げるんじゃなイ、戦う気ダ!!」


 喝采するように叫んだミゼルダの視界、鞭でスバルは空をぐるぐると旋回する。

 まるで、遊園地の空を飛びながらぐるぐる回るアトラクションのような旋回軌道を描きながら、スバルは右手の指輪で崖の縁に狙いを付ける。


「ごおおぉぉぉぉ――!!」


 それは詠唱というより、雄叫びのような声だった。

 そうして声を上げるスバルの右手から溢れ出す炎が、崖の縁――谷間へ向かって伸びている蔦や枝に燃え移り、凄まじい業火となって谷間を焼く。


「うきゃあああ――!?」

「わわわわ! ウタカタ、危ないノ~!」

「あああ、姉上! 姉上! 本当にいいんですカ!?」


 燃え上がる谷間の光景を見て、戦場を見守っていたシュドラクたちが騒ぎ始める。

 ウタカタと黄色髪の少女が抱き合い、タリッタがスバルを射抜く許可を姉に求めた。だが、目を輝かせるミゼルダはその訴えに気付いていない。

 ただただ、ぎゅっと拳を握り、瞳を釘付けにされていた。


「いいゾ、いいゾ、面白いゾ!」


「ああああぁぁぁぁ――っ!!」


 ミゼルダの喝采と、スバルの息が切れる前の最後の叫び声が重なった。

 炎をまき散らした指輪の光が消えて、最後っ屁となる吠え声に呼応し、射出される火球が崖の一部を崩し、落石を避けるように大蛇が下がった。

 しかし――、


「――――」


 じりじりと下がった大蛇は、自分の周囲に逃げ場がないことを理解する。

 すでに谷間は倒木にも火が燃え移り、煌々と輝く炎は松明の光さえも必要としない。

 何より、これだけ盛大にまき散らされた炎は――、


「大方、熱を見るといった手法か。――それも、もはや通用せぬ」


『姿隠し』のマントに自らを隠し、飛びかかるアベルの姿を大蛇に見失わせた。


「――――ッッ!!」


 危険な気配を察し、大蛇が猛然と瞳を光らせる。が、頭上には瘴気を漂わせるスバルの存在があり、熱感知は炎によって死に、アベルの姿は透明化している。

 大蛇にできたのは、その場から火勢の少ない道へ飛び込むだけだった。

 そしてそれは、スバルが炎をばら撒きながら作った偽りの逃げ道――、


「はああぁぁぁ――!!」


 瞬間、逃げ道へ飛び込む大蛇の頭部へ、崖から飛び降りるアベルが襲いかかった。

 振りかぶられた剣が弧を描き、蛇の頭部にあるねじくれた角へと銀閃が奔る。それは斜めに角の中心へ侵入し、一気に両断せんと――、


「――――ッッ」


 角が斬り飛ばされ、魔獣が自我を喪失する決着の寸前だった。

 大蛇が吠えながら、最後の苦し紛れに頭部をひねり、剣撃から逃れようとする。だが、悪足掻きは悪足掻き。そんな苦し紛れは成立しない。

 ――それが、戦士の一撃であったなら。


「が――ッ」


 ひねった頭部に剣閃をずらされ、アベルの一撃が角の半ばで止まる。そのまま、さらに腕に力を込めて一撃を再開する前に、薙ぎ払われる尾がアベルを捉えた。

 衝撃に揉まれ、アベルの細い体が真横へ吹っ飛ばされる。受け身も取れず、アベルの体は火の手に包まれる谷を転がり、咳き込む喉から血を吐いた。


「かふっ……く、ぬかった……ッ。あの戯けもののようにはいかんか……」


 土の上に這いつくばり、血を吐くアベルへと大蛇が顔を向ける。

 千載一遇、逆転の好機に双眸を凶気にぎらつかせ、大蛇が滑るようにアベルへ迫った。一撃を受けたアベルは立てず、『姿隠し』にくるまる余裕もない。


 大口が開かれ、大蛇らしい丸呑みがアベルへ襲いかかる。

 それを目の当たりにしてしまえば、もはや考える暇はなかった。


「俺は、『死に戻り』して――」


 いると、そう口走ったのはずいぶんと久しぶりのことだった。

 だが、プレアデス監視塔の中、『死者の書』で自分自身の足跡を追体験したスバルにとっては、そうして魔獣を引き寄せようと試みた経験も先日のことのように鮮明だ。

 だからこそ、とっさの瞬間、この手が思いついたとも言える。


「ぎ、が――ッ」


 世界から色が抜け落ち、音が消えて、空気の流れさえ感じなくなると、代わりにスバルの下へやってくるのは、静止した世界へ溢れ出る黒い影だ。

 それは『試験』を片付け、シャウラを失い、打ちひしがれるスバルの下へ押し寄せた、あの膨大な量の黒い影と同質の存在――、


『――愛してる』


「……ああ、耳にタコだよ」


 短い一言に、スバルもまたそう応じる。

 直後、滑り込んだ掌に心の臓を握られ、全身が指先からすり潰されるような激痛、視界が赤く染まったというより、眼球が破裂したような衝撃がスバルを破壊する。

 慣れることのない痛みと、終わりを予感させない執着と絶望感。

 しかし、それがやがて遠ざかれば――、


「俺を、見ろぉ――っ!!」


「――――ッッ!!」


 世界に色が、音が、臭いが感触が戻った直後、スバルは力強くそう叫んだ。

 その存在の回帰に伴い、膨れ上がる瘴気を感じ取った大蛇が振り向く。目の前の、いつでも殺せるか弱い覆面男ではなく、頭上の元気で臭いスバルへと。


「頼んだ、ぜ――!」


 振り向いた大蛇と目が合う瞬間、スバルは右手の指輪に口付けしていた。

 そこから一気に鞭を手放し、スバルの体が放物線を描いて大蛇へと飛ぶ。――その頭部へと届かせるには、振り向いてもらわなければならなかった。

『死に戻り』の告白はそのために。アベルを死なせないためも、ちょっとある。

 そして――、


「あ、あああぁぁぁぁ――っ!!」


 大蛇の上顎に足をかけ、無様につんのめるように前に飛んだ。

 眼前、その半ばまで刃を埋めた白い角があり、あと一歩で角を断ち切れるだろう刀剣、その柄頭へとスバルは体を回転させ、渾身の右拳を叩き込んだ。


 無論、ただのスバルの拳撃で、この太い魔獣の角が断ち切れるとは思わない。

 だが、それはただの拳撃ではない。――魔力のこもった、魔石ごとの一発だ。


「――――」


 柄頭と衝突した指輪の宝珠が割れ、赤い光が漏れる。

 刹那、漏れ出した赤い光は膨れ上がり、スバルの右腕と、大蛇の頭部の角を中心に爆裂を起こし、全ての視界と音が消し飛んだ。


「は」


 ぐるぐると、回転しながらスバルは地面へ落ち、二転三転と転がる。

 全身を激しく打ち付けたが、それがもたらした被害のほどもわからない。ただ、右半身が焼けるように熱く、どういう状態なのか見ることもできない。


「――――」


 仰向けの体が痙攣を起こし、黄色い胃液を口の端からこぼしながら、倒れているスバルは地響きを感じる。

 それが、スバルのすぐ真横に頭を落とした大蛇の倒れた震動だったのだと、我が事の一大事に瀕死のスバルは気付けない。

 だが――、


「――ナツキ・スバル! おい、ナツキ・スバル! 立て! 今すぐ、立て!」


 もはや、意識すら一本の千切れかけの糸で繋がっているような状態のスバルへ、乱暴に駆け寄った誰かがそう呼びかけ、体を揺すられる。

 どこを掴んで揺すっているのかわからないが、とにかく揺すられる。灼熱がぶり返し、声なき声をこぼして、スバルは顔の穴という穴から液体を垂れ流した。


 もう、何も考えられない。

 今すぐに、意識を手放させてほしい。痛みと、熱さと、渇きと苦しみと、とにかくこの世に存在するあらゆる悪い言葉が頭の中で渦巻いていて――、


「立って、言うべきことがあろう! 女を、レムという女をどうする!」


「――ぁ」


「貴様の口から語れ! 貴様の望みを、俺の口が語ることはできん!」


 強く熱い訴えを無理やり耳にねじ込まれ、その上、体を引き起こされる。頭と足のどちらが上なのか、それもわからないような状態なのに、引き起こされた。

 体は持ち上がらない。たぶん、上半身だけ何とか起こしたような状態で。


「聞け、シュドラクの民よ! 見ての通りだ! 『血命の儀』を果たし、俺たちは戦士の証を立てた! ならば、同胞たる貴様らにはすべきことがあろう!」


「――あア、シュドラクの族長、ミゼルダが見届けタ! 戦士ヨ、我が同胞ヨ! 何を望ム! 何をしろと叫ブ!」


 すぐ真横と、頭上からの声がガンガンと頭の中に響き渡る。

 まるで、脳みその防御がなくなったみたいに素通りして聞こえる声、それらの意味がよくわからないながらも、肩を揺すられ、頭を揺すられ、魂を揺すられる。


「答えろ、ナツキ・スバル。貴様の望みを語れ。貴様の全てを、絞り尽くせ」


「――ぉ」


「その閉じた瞼の裏に、己が欲するものを描け。己が望みを語れぬものに与えられるものなどない。――怠惰な豚に、くれてやる餌などないのだ!」


 閉じた瞼の裏に、欲するものを思い描け。


 銀髪の少女が見える。クリーム色の髪をした幼い少女、桃色の髪の少女、灰色髪の青年や金髪の少年、他にもたくさんの、人の顔が、見えて。


 ――青い髪の少女が、その人たちの中にいるのが嬉しくて。


「れむ、を……」


「なんだ!!」


「た、すけて……」


「――――」


 ぽろぽろと、自分が剥がれ落ちるような感覚を味わいながら、スバルの唇がそう紡ぐ。それをした途端、肩を、おそらく肩だろう部分を掴む手に力がこもった。

 そして、声の主は「ああ」と静かに頷くと、


「聞いたか、シュドラクの民よ。これが新たな同胞の願いだ。これは、己の命を賭けて証明したはずだ。己の望みを、見たものを、ならば!」


「皆まで言うナ。――我らには誇りモ、勇気もあル」


「――――」


 ぐったりと、体の力が抜けて、意識が遠ざかっていく。

 強引に繋ぎ止めようとした声も、今度はそれをしようとしない。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと遠ざかり――、


「――貴様は己の務めを果たした。女は任せるがいい」


 最後の最後、意味のわからない、しかし、頼もしい声だけが聞こえた、気がした。

 気がしたのだ。




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― 新着の感想 ―
すごい、ずっとハラハラし通し!!! おもしろくて、読む手が止まらない。 ……ベアトリスちゃんは今頃心配でたまらないだろうなあ。いつ会えるんだろう。
Nossa...porraa!!! Meu herói nunca desisti!!! ..aaahhhh droga!! Que herói incrível e tolo !!
エル…エルフーラ… エルおっばい!
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