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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第四章 『永遠の契約』
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第四章58 『婆ちゃん』

 リューズとピコを伴い、離れの一軒家から出たスバルは東の空がうっすらと白んできていることに気付いて、初めて眠気を意識した。


「うお、夜が明けちまう……色々、内容の濃い一晩だったもんなぁ」


 スバルの体感時間としては繋がっていないが、今夜はエミリアの第一の『試練』に始まり、スバルの『試練』介入、『死に戻り』を経て現実に回帰し、『試練』のリザルト終了後にガーフィールとの小競り合い。それから施設の場所を暴き、その内情をリューズから長々と打ち明けられたところだ。

 濃密な時間だっただけに速度を意識はしなかったが、意識と違って活動を継続している肉体の方の疲労感は隠せない。精神と肉体の協調が微妙に取れていない点も、いまさらではあるが『死に戻り』の欠点といえるだろう。


「本当なら、このまま大聖堂に戻って昼まで寝こけたいとこなんだが……」


「別にそうしても構わんのじゃぞ。儂は次のリューズと交代させてもらって、しっかりと休ませてもらうわけじゃからな」


「その羨ましい勤務体制はいいとして、時間がねぇんだ。そうもいかない」


 六日後――否、すでに一日が経過してしまったため、残す日数は五日間。屋敷への移動は往復だけで一日を費やすことを考えると、実質行動できるのは三日が限度だ。

 ここで貴重な半日を使い潰すわけにはいかず、さりとて見てきた未来を魔女を知る立場であるとはいえ、リューズに打ち明けることは躊躇われた。


「『嫉妬』の魔女が出かねないアクションを、今は軽はずみにやれねぇからな……」


 額にじっとりと汗を浮かべるスバルの脳裏を、『聖域』を飲み干す影の魔女が過る。

 あの惨状が、エキドナの城でスバルが禁忌の内容を大っぴらに口にしたことが原因であると薄々は気付いている。あの場所だったからこそ、魔女の制止が間に合わず、あれほどの怒りを買うほどの事態を招いた。

 故に、魔女の手がスバルに直接届く現実世界でならば、ペナルティはおそらく今まで通りにスバルにのみ襲いかかるものと思っていいとは思うのだが――、


「それを確かめるのに、他人の命がけってのは勘弁だよ」


 力なく呟くスバルが見下ろすのは、スバルと左手を繋いでぼんやり立っているピコだ。彼女はスバルの視線を受けると、その口から指示が出るのを待ち望むように丸い瞳をさらに丸くして見つめてくる。

 一度、スバルからの命令を受けたことで、指揮権の移譲をはっきりと認識したらしい。今や、ピコの様子は親鳥に従う雛鳥のように従順だった。


「それで、スー坊はこれからどうするつもりなんじゃ?」


「とりあえず、屋敷に戻る。話を聞かなきゃいけない奴が一人いるのと……フレデリカにも会っておきたい。色々と補足してもらいたいことが多いからな」


「フレデリカ、か……」


 思い浮かべる長身のメイド、その名前を聞いたリューズが眉を寄せ、意味ありげに名前を呼ぶのを見てスバルは訝しむ。らしくない反応に思えたからだ。


「なんか、思うところでもあるのか? フレデリカに」


「……別に、大したことではないわい」


「リューズさん。俺、できれば指揮権なんて使いたくねぇんだよ。リューズさんに命令を聞かせるとか、正直勘弁してほしいんだ」


 肩をすくめて、スバルは懇願の気配を漂わせながら願い出る。が、発言とは裏腹に、三白眼をさらに鋭くするスバルの眼差しは、言外に「必要ならそれを使う」と声高に主張していた。リューズがため息をこぼす。


「なに、考えてみれば、フレデリカが出ていってから、『聖域』の歯車が少しずつずれ始めていったような気がしてな」


「歯車がずれ始めた?」


「もともと、成り立ちが成り立ちじゃから、健全な状態だったといえるかは疑問なところじゃがな。それでも……うむ、住人たちもリューズ・メイエルの複製体も、ガー坊も今ほど揺れてはいなかったはずじゃ」


「…………」


「スー坊や、期待しておるぞ」


 押し黙ったスバルに、上目を向けるリューズがそうこぼす。

 期待、の単語にスバルは自分の胸がひどく軋んだのを自覚した。その単語から始まる思いを傾けられることは、スバルにとって――。


「『聖域』は長らく、見失った役割を不細工に繋いで維持し続けることでかろうじて息を繋いできた。その無理が、今になってあちこちで綻びを生んでおる。じゃから、儂は期待しよう、スー坊」


「俺に、何を……」


「魔女の妄執を、『聖域』の存続理由を、リューズ・メイエルの願いを、スー坊が誰もが望む形に終わらせてくれることを、な」


 他力本願な上に重すぎる期待だ。

 スバルはとっさに「無理だ」の一言で応じようとした。だが、真剣なリューズの眼差しを真っ向から見てしまった口は、


「――――」


 言葉を発そうとしてくれなかった。


「今はそれでいい。今はまだ、それでいいんじゃ」


 スバルの躊躇や逡巡を、全て理解したようにリューズは頷いてみせる。

 見た目が童女であるにも関わらず、この瞬間だけははっきりと、スバルには彼女が生きてきた年数に見合った価値観を持ち合わせていることを理解した。


「そろそろ、儂の時間は終わりじゃな」


 未練を感じさせる口調で言い残し、リューズの体が淡い光を放ち始める。

 それが、消える寸前の精霊の姿を思い起こさせ、スバルは思わず彼女の体に指を伸ばした。が、


「安心せい。マナに還るわけではない。消費したマナを溜め直すために、少しの間、休眠状態に入るだけじゃ。すぐ、代わりのリューズがやってくるわい」


「み、見た目とか口調が一緒でも、同じ存在ってわけじゃないんだろ?」


「そうじゃ。見た目も口調も性格すらも、意識して似せておるが……別人じゃ。故に今、こうしてスー坊に言葉をかけた儂は儂しかおらん。寂しいかえ?」


「寂しいとか、そういう問題じゃねぇよ。リューズさんは……リューズさんは、辛くないのか? 四人で一人の、リューズ・メイエルを演じ続けることを嫌だと思わないのか? 自分の人生は、どこにあるんだって、そう思ったりは……」


 言いながら、スバルはこれがあまりに残酷な問いかけであることを理解していた。

 仮にリューズ自身がどう思っていたとしても、彼女が本心では今の自分の状態に苦痛と悲しみを抱いていたとしても、それを知ってスバルに何ができる。


 魔法の原理も、マナの詳細も、術式の表層すらも紐解くことのできない身で、届かない無念に指を伸ばし続けることに、どれほどの意味があるのか。

 スバルの葛藤を、リューズは理解したのだろう。薄く微笑み、薄紅の髪が朝の色をまとった風にたおやかに揺れる。


「スー坊は、どう思う?」


「――え?」


「この問いかけへの答えも、儂がスー坊へ期待するものの一つとしておくからの」


 言い残して、霞むように薄れるリューズの体が朝焼けの中に溶けていく。

 霧散するのとは違う、と前置きされていても信じられない、幻想的な光景。人が一人、朝陽の中に溶け込むように消えていったのだ。

 存在の消失でないなどと、言われても信じられるものではない。

 ただ、瞬きののちには、リューズが消えたはずの場所には新たな人影が現れている。背格好から何まで、一切合財が消えたリューズと瓜二つの存在。

 彼女は一度、頭を振ってからスバルを見上げて、


「儂の自己紹介はいらんじゃろ、スー坊。ちゃんと、前の『儂』がスー坊と何を話しておったのか、すり合わせは済んでおるからの」


 スバルの疑問点を解消するように、新たなリューズはてきぱきと互いの価値観のずれを修正する。と、それから最後に彼女は首を傾け、


「さて、それでスー坊……まずは、どう動く?」


「そう、だな……」


 空を仰ぐ。

 朝焼けがゆっくりと夜の空を侵食していくのを目の端に入れながら、過ぎる時間と残された時間の合間に意識を滑らせる。

 それから、スバルは視線を落とし、リューズとピコの二人を見ながら、


「まずは『聖域』を脱出したい。リューズさんたちに、手を貸してもらうぜ」


 そう、申し出たのだった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夜明けを迎えた直後の竜車小屋の前に、スバルの姿はあった。

 軋む扉をできる限り音が出ないように開閉し、中にいる相棒の姿を探し求める。薄闇に溶け込むような漆黒の体躯は、小屋の最奥で主人の呼びかけを待っていた。


「ほったらかしにして悪かったな、パトラッシュ」


 声をかけるスバルに、首を伸ばしてくるパトラッシュが鼻を擦り付けて応じる。その仕草には親愛がこもっているようでもあり、放っておかれたことを拗ねていじけているようでもあり、こんなときなのにスバルにくすぐったい感慨をもたらした。


「寝起きのとこいきなりで悪いけど、仕事だ。ちょっち、俺をまた屋敷まで運んでもらっていいか?」


 寄せられる顔を手で撫でてやると、喉を鳴らすパトラッシュが「仕方ないなぁ、スバルくんは……」と仕方なさそうに言ったように思える。

 少なくとも、了承は得られたようだと安堵の息を漏らし、スバルは柵を外してパトラッシュを外へ連れ出す準備をする。

 足手まといを連れないパトラッシュの足ならば、本来は半日かかる道のりをさらに短縮することも叶うだろう。

 朝方の今から出発すれば、おそらく夕刻前に屋敷に到着することも可能なはずだ。


「何ともまぁ、やり直し前提の雑なプランではあるけどな……」


 今回、屋敷へ戻ることを心に決めたスバルは、前回までと違ってアーラム村の避難民を同行させるつもりがない。ありていに言えば、やり直すことを念頭に入れて、余計な不確定要素は全て排除して情報収集に徹する構えだ。

 リューズ・メイエルの話を聞き、リューズとそれなりの友好関係を結んだ現状、それが惜しいというのは事実だが、


「ガーフィールとの仲が最悪で、さらに悪くなる要素も噛んじまったからな」


 指揮権の移譲――もともと、ガーフィールが手にしていたらしきそれがスバルに移ったとなれば、血眼になって彼が移譲先を探し求めることは想像がつく。

 遠からず、スバルに辿り着くだろう。リューズに口止めもしていない。問われれば素直に答えていいと、彼女にはあらかじめ断ってあった。

 それも全て、考えあってのことだ。


「――それでも、エミリアにだけは置手紙を残す未練がましい俺」


 やり直して消える世界だと割り切ってしまえば、今回の世界でエミリアへの対応に苦慮する理由は、論理的には存在しない。

 どれほど彼女が苦しもうと、悲しもうと、逆に喜ばせようと、それは消えてしまう世界に置き去りにされてしまうからだ。そう、頭では理解していても、


「理屈じゃねぇからな、こういうのは」


 消える世界で、置き去りにしてしまう世界だとわかっていても、それでもスバルはエミリアに悲しい顔をされるのが嫌なのだ。

 自分が黙っていなくなってしまうことで、きっと彼女は痛切な感情を得る。縋るものをなくして、自分の足元すら見失うかもしれない。エミリアがそれほど自分に寄りかかってくれることを嬉しく思う一方、痛々しくも思う。

 そうならないように、そうなったとしてもそうであり続けないことを祈って、スバルはエミリアに手紙を残す。

 といっても、内容は当たり障りのない、よくある安心させる言葉の羅列だ。真実を伝えられない以上、上辺の安堵を取り繕うしかスバルにできることはない。


「ないよりマシ……もしくは、エミリアがそこまで俺に依存してなければ、ってとこか」


 パックがいない以上、エミリアの依存の度合いはかなりスバルに強くかかっている。

 今の考えは気休めで、おそらくそううまくはいかないだろうなとわかっていた。

 それでも、スバルはエミリアを置いて『聖域』を出ていく。救えない現在を、救える未来に書き換えるために、必要な犠牲だと心を鬼にして。


「そんじゃ、誰にも見つからないうちにとっとと……と?」


 竜車小屋からパトラッシュを連れ出す過程で、スバルは直接地竜に跨るための鞍を外された客車から引っ張り出す。軽く表面を払い、さっそくパトラッシュの背に被せようとしたところで、視界の端をあるものが掠めた。それは、


「ペテルギウスの福音書、か……」


 黒い厚手の装丁のそれは、客車の片隅に隠すように置かれた福音書だ。

 ペテルギウスの遺品であり、正直なところとっとと処分してしまいたいのが本音だが、適当に扱って人手に渡るのも困る。何より、魔女教という得体の知れない連中の目的や内情、それを知る手掛かりになればと持ち続けていたものだった。


「そういえば、ロズワールの話のおかげでこいつの見方もずいぶん変わったな」


 鞍を座席に置いて、スバルは何気なくその福音書を手に取った。

 ずっしりとした重みと感触に、脳裏を血濡れの狂人の姿が思い浮かぶ。


 福音書に過剰なまでの執着心を抱き、魔女への忠誠の証と信じ切っていた男。

 この内容が所有者であるペテルギウスには、未来の行動を暗示している内容に見えていたというのは皮肉なものだ。


「ロズワールもベアトリスも、ペテルギウスまで……どいつもこいつも、自分にしか読めない本なんてどうかして……?」


 悪態をつきながら、ぺらぺらと福音書のページをめくる。

 その指が止まり、喉から妙な呻き声が漏れたのは驚きが先行したためだった。


「よ、める?」


 福音書の白いページに記された文字が、スバルの目にもちゃんと見えていた。

 まるで子どもが書き殴ったような乱雑な字でこそあったが、そこにはちゃんと意味のある単語が並ぶ。それも、スバルにも読めるように『イ文字』の形で。


「何が……まさか、本が俺を所有者と認めた? でも何も特別なことは……」


 していない、と考えたところでスバルは心当たりがあることに気付いた。

 以前、スバルがこの福音書の内容を読むことができなかったのは、この『聖域』へ足を運ぶ前のことだ。王都と、王都から戻ったロズワール邸でのこと。それ以降は福音書を開く機会がなかったため確認は取れないが、このことと『聖域』での出来事に関連性がないとは思えない。


 というより、『聖域』での出来事ではなく、もっと直接的な原因が思い浮かぶ。

 それは、


「エキドナのやつが、俺に何かしやがったか……?」


 墓所で『試練』を受けられたように、エキドナはスバルの肉体に何らかの干渉を及ぼしている可能性が高い。それは茶会と称する話し合いで振舞われる、あのエキドナのお茶が関係している気がしてならなかった。

 エキドナは体液などと冗談を言っていたが、もっと別の何かではあるまいか。


 それこそ、スバルの肉体を以前とは劇的に変えてしまうような。


「実際、それが理由でかはわからねぇが、前回の変化はこれまで以上だったしな」


 エキドナに『死に戻り』を明かしたことだけが、あの『嫉妬の魔女』の暴威の原因ではなかったのではないだろうか。

 問い質す時間が今すぐに持てないのが、スバルにとっては痛恨だった。


「……けど、所有者が俺になったってわけじゃないのかもしれないな」


 魔女教の持っていた福音書に認められる、というのもゾッとしない話だが、記された内容に目を走らせるスバルは、どうやらそれがスバルへのメッセージではなく、あくまでペテルギウスへ伝えられた内容が読めるようになっただけらしいと判断。


 日付が記されていないため、最初のページがいつの出来事なのかはわからない。ただ、福音書はそこからかなりのページに亘って記述が続いており、ペテルギウスがその内容を一つずつ潰してきたのが目に浮かぶ。

 基本的にはどこへ行き、何をすべきという程度の内容で、具体的な結果にどう結びつくのかまでは記されていない。おそらくペテルギウスは結果の有無に拘わらず、全ての行いが魔女教にとって良い方向へ向かうと自己補完していたのだろう。


 そうして流し読みで進み、記述されている最後の部分まで辿り着く。

 まだページは残っているものの、その先は白紙が続くだけだ。最後のページにはでかでかとスバルが血文字で書いた『おわり』が赤黒く残っている。

 その手前の、福音書本来の記述にはこう残っている。


「メイザース領にて、銀髪の半魔に試練を……か。意味がわからねぇな」


 『試練』の内容がわからない以上、この記述はペテルギウスがエミリアを襲おうとした以上の情報ではない。

 ただ、スバルの知るペテルギウスの凶行は、この福音書の記述によって引き起こされたことなのだという確信が得られただけにすぎなかった。


「……ああ、悪い悪い。もうすぐ行くよ」


 客車に背を預けていたスバルに、焦れたパトラッシュが鼻先を押しつける。その仕草に苦笑して、スバルは福音書を客車の元の場所へ戻した。

 今、見たばかりのことは記憶に留めつつ、それとは別の問題へ意識を移行する。

 すなわち、『聖域』からの脱出と、屋敷への帰還だ。


「なるたけ、『聖域』の中で騒ぎにならないように出るぞ。静かに、静かに隠密行動で頼む」


「――――ッ!!」


 回収した鞍を被せた背にまたがり、しがみついて頼み込むスバルに、パトラッシュが見事に高々と任せろとばかりに嘶く。

 何一つわかってくれていない相棒に頼りがいを感じつつ、興奮するパトラッシュをなだめてスバルは『聖域』の外へ針路を向けた。


 東の空、すでに全身を見せ始めた太陽の瞬きが遠く、森の木々の頭を陽光が照らし出している。急がなければ、早起きの住人たちが起き出し、夜駆けの難易度が上がってしまうだろう。


 パトラッシュを急がせ、スバルに最初の加速の威力を味わわせてパトラッシュが走り出す。駆け出した地竜の体がすぐに『風除けの加護』の影響下に入り、揺れと風の影響がスバルの肉体に届かなくなった。

 そのまま『聖域』を飛び出して森に入る。獣道めいた道のりを、屋敷の方角へ向かって迷うことなく疾走するパトラッシュ。以前の出来事で、スバルが手綱を握るまでもなく、パトラッシュが己の意思でスバルにとって最善を選ぼうとするのはわかっていた。

 一抹の寂しさはあるが、パトラッシュに任せてしまうのが能力的に賢明だ。手綱を形だけ握り、全身で硬い肌にしがみつき、スバルは森を駆けるパトラッシュと一体になる。そのまま邪魔が入らなければ、小一時間もしない内に森を抜けて、『聖域』から脱出と相成ったことだろう。だが、


「ちょっと……待ァてや、こらァ!!」


 上空から振ってきた縦回転の踵が、進路上の地面に突き刺さって大地を爆砕。

 吹き荒ぶ土煙と木々の破片にパトラッシュが急制動をかけ、横を向いた足が地面を抉りながら速度を殺す。背に乗せたスバルを振り落とさないよう、神がかり的なバランス配慮で体の中心の軸を守りつつ、制止したパトラッシュは前を睨み付ける。

 同時、パトラッシュの背で衝撃に呑まれながら堪えたスバルも、パトラッシュが睨み付けていたのと同じものを見た。


「てめェ……一体全体、何のつもりでどういう考えで何をやらかす気ィでいやがんだァ、あァ、オイ!」


 憤懣やるかたない、といった憤激の表情で、地を蹴りつけるガーフィールだ。

 鼻面に皺を寄せ、苛立ちと不快感を露わにするガーフィールは、パトラッシュの背の上から自分を見下ろすスバルに牙を剥き、


「見下ろしてんじゃァねェよ、降りろ。目線の高さ合わせて話し合いだ。そっから始めろ。叩っき潰すぞ、この野郎……ッ」


「お前の邪魔が入るのは、なんとなく想像がついてたよ、ガーフィール」


「俺様ァてめェがこんなふざけた真似やらかすたァ欠片も思っちゃいなかったけどなァ! 今さら、尻尾巻いてこっから逃げ出そうってかァ? ふざっけんじゃァねェぞ! てめェも! この『聖域』も! 半魔もロズワールも! 全部全員! 一蓮托生だろうが! 『試練』が終わるまで、こっからは絶対に出しゃしねェ……」


「それがお前の建前だろ?」


「――――」


 怒り狂った表情でいたガーフィールが、スバルの短い問いかけにその表情を変える。

 尖るほど鋭くなっていた目が激怒の熱をひそめ、息遣いを静かに牙を噛み鳴らす音だけが断続的に響く。


「ガーフィール、お前はそうやって俺たちをこの『聖域』の中に閉じ込めたままにして、『試練』をクリアさせたいみたいに振舞ってるけど……本音は、違うだろ?」


「そりゃァ、どういう意味だよ、オイ」


「どういう意味もクソもねぇよ。お前が本気で『聖域』の解放を願ってるってんなら、お前は俺の行動を見逃すべきなんだ。それをしない、できない時点で、面倒な思惑が絡んでる。違うか?」


「ハッ、馬鹿言ってんじゃァねェよォ。俺様ァただなァ、魔女の臭いを垂れ流してやがるてめェみてェな奴が、うろっちょろしてやがんのが気に食わねェだけで……」


「お前、本当に、俺から魔女の臭いを感じるのか?」


 またしても、畳みかけるスバルの問いかけにガーフィールが言葉を見失った。

 目が泳ぎ、ガーフィールは唇をわななかせる。腹芸に向かない男だ、とその反応を見ただけでスバルは苦笑が込み上げてきそうになった。


「はっきり引っかかったのは、昨日の夜に墓所から出たときだ。正直言って、あの瞬間ほどお前に殺されるかもしれないと思って身構えてた場面はなかったぜ」


「……あァ? 何を言ってやがんだァ?」


「俺の言ってる言葉の意味がわからないから、俺はお前の鼻が利いてるって発言が嘘なんじゃねぇのかって疑ってんだよ」


 『死に戻り』直後で、おまけに死んだ理由が魔女との接触だ。

 相当に濃密な魔女の残り香を漂わせていたはずのスバルに、ガーフィールは墓所に入る前と変わらぬ態度で接した。それから一度別れたあと、思い出したようにスバルを呼び出し、昨晩のやり取りだ。――不自然にも程がある。


「話をこじらせないために、あの場では気付かないふりをしたって線も考えちゃいたんだが……お前の直情径行っぷりからして、それはないなと判断した」


「ずいぶん、好き勝手言ってくれやがってよォ。俺様が、てめェから魔女の臭いを嗅げるのが嘘? ハッ、馬鹿馬ッ鹿しい! そんな嘘ついてなんの意味があるってんだァ、オイ。何の意味もありゃァ……」


「意味なら、あるさ。お前がそう言って自分に対する警戒心を引き上げさせれば……肝心の、『本当に鼻の利く』相手から注意をそらせるもんな」


「――――」


 ガーフィールの、おそらく真意を突いただろう発言。

 それを聞いた瞬間、ガーフィールの表情が本当の意味で変わる。

 これまではまだ、話し合いで場を収めようとしていた姿勢から、暴力による解決を辞さない、短絡的なものへと。


 ガーフィールの腕が、一回り肥大化する。露出した肌を金色の獣毛が覆い始め、猫背の姿勢をさらに丸めて、前傾姿勢というより四つん這いに近い体勢へ。


「てめェの言葉はもう聞かねェ。知っちゃァならねェことを知っちまったらしい。やりたかァなかったが、生かしちゃおけねェ」


「そう言うなよ、ガーフィール。もうちょっと、俺の話は聞いておいた方がいいぜ。そうじゃなきゃ、どっからお前の魂胆が漏れたのかとか、わからねぇだろ」


「俺様の魂胆……?」


 ぎらつく目を向けながら、ガーフィールが疑問の声を上げる。

 その彼の不信感を払拭してやるために、スバルはパトラッシュの背の上で手を天に向けて、指を高く鳴らした。と、


「あ、あ?」


 ガーフィールが喉を鳴らし、眼前の光景に目を疑う。

 彼の視線の先、地竜を囲むように続々と現れたのは、スバルの指示に従って集まったリューズ・メイエルの複製体、その数は二十一体。

 見覚えのある光景を、今度は自分の手で再現したスバルは指をガーフィールに突きつけ、


「この状況を見れば、俺が今、どういう立場かお前にはわかるよな?」


「なんっで……どうやって、あの場所を!」


「悔恨と苦痛を生贄に、真実を召喚した。そしてまだ、俺のターンだ」


 掌を上に向けて、スバルは狼狽するガーフィールを竜上から見下ろす。

 その視線を受けて喉を詰まらせるガーフィールに、スバルは暴いた真実を叩きつける感覚に酔いながら、


「指揮権は俺に移譲してる。お前に気付かれないように、一晩の間、ガーフィールの命令をこれまで通りにこなすことと、聞くように命令しておいたからな」


「――ぁ」


「その隠れ蓑もここまでだ。いいか、ガーフィール。俺はこれから『聖域』を出て屋敷に戻る。やるべきことがあるからだ。そのために、お前に邪魔されるわけにはいかねぇ」


 スバルがなにを命令するのか、うっすらと悟ったガーフィールの表情が崩れる。

 先ほどまで確固たる決意に塗り固められていた表情が氷解し、困惑を覗かせる彼の顔つきはまるで道に迷った幼子のように弱々しく見えた。

 体の獣化も止まり、膨れ上がっていた体躯も元の小柄なものへと戻る。


「追ってくるな、ガーフィール。お前にも聞きたいことは山ほどあるけど、それは今回は後回しだ。指揮権のことも含めて、聞かなきゃいけねぇことが多すぎる」


「ふざ……ふざけやがって。俺様が、こんなことで諦めてやるとでも……ッ」


「止まるさ。お前、根っこの部分で甘っちょろいもんな」


 挑発めいたスバルの物言いに、吠えるガーフィールが跳躍する。そのまま彼は牙を剥き、パトラッシュの上にいるスバルを地竜ごと押し潰そうと迫る。が、そこへ割り込む小さな人影。

 複製体だ。はね飛ばし、進路を確保しようとガーフィールが腕を振り上げる。しかし、その振り下ろす腕が当たる直前、


「――ガー坊」


「――!?」


 愛称を呼ばれたガーフィールの表情が一変し、叩きつけるはずだった腕は空を切った。そのまま、中空で泳いだガーフィールの体が背後から伸びる複数の腕に捕らわれて、なすすべもなく地面に組み伏される。

 複製体がガーフィールの体中に手を伸ばし、その体を拘束したのだ。そして、先頭に立ってガーフィールを悲しげな顔で見下ろすのは、


「これで、足止めの役目は十分じゃろ、スー坊」


「ああ、助かったよ。ガーフィールなら絶対に、この手は思いつかないだろうと思ったからな」


 『嫉妬』の魔女との一戦で、ガーフィールは容赦なく複製体たちを手駒として利用して戦いを繰り広げた。が、その場に意思あるリューズ・メイエルは一人もいなかったはずだ。そのとき、活動状態にあったリューズが早々に魔女の影に呑まれたということもあっただろうが、それ以外の理由があったものとスバルは睨んでいた。

 それはある意味、残酷以上に残酷と呼ぶべき算段であり、


「肉親扱いのリューズさんを、他の複製体と同じようには扱えない。お前と俺との間で、指揮権の使い方に差が生まれたとしたらそれが理由だ」


「て、めェェェェ!」


「それでなくてもお前、自分の手でリューズ・メイエルの複製体を壊したりはできないだろ? 大人しく、今回は俺を見逃せ。悪いようにはしない」


「これ以上、どう最悪の状況があるってんだ。ふざっけんな、ふざっけんなよォ!」


 遠吠えが聞こえるが、スバルは聞こえるそれを意識的に無視してパトラッシュの背を叩く。スバルの意図を察した地竜が小さく鳴き、取り押さえられるガーフィールに背を向けて森の出口へと首を向けた。

 走り出す前に、スバルはリューズへ振り返り、


「嫌な役目、やらせてごめんな」


「必要なことじゃと、判断したんじゃろ。嫌でも逆らえんのじゃ、儂に気遣いを向ける必要なんてありはせんわい」


「それでも、ごめん」


 同情的な目をガーフィールに向けるリューズに謝罪の言葉を残し、スバルはそれを別れの挨拶としてパトラッシュを走らせる。

 再び、展開される『風除けの加護』が音を、風を、置き去りにしていく。


「待て! 待てよォ! てめェ、冗談っじゃねェぞ、オイ!!」


 遠ざかる声が、スバルを追いかけてくる。

 それを振り切るように加速させ、スバルは森を、『聖域』を抜ける。


「離せよ! あいつを、外に出すわけには……なんで、なんでなんだよォ! ババアは俺様より、あいつの味方だってのかよ。なァ、なんでなんだよォ……」


「――――」


「婆ちゃん――ッ!!」


 悲痛な声が、親愛を裏切られた声が森に響いている。

 それら全てを置き去りにするように、スバルはひたすら真っ直ぐに森を駆ける。


 必要な犠牲で、必要な悲しみで、全ては未来のための礎だと。

 唇の端を噛み切って、血が滴るのを感じながら、大団円のために、スバルは今この瞬間のガーフィールの悲しみを、犠牲と割り切った。




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