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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第四章 『永遠の契約』
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第四章49 『らぶらぶらぶらぶらぶらぶゆー』



 ――乾いた靴音を鼓膜に聞きながら、スバルは違和感を肌に感じていた。


 墓所の中に流れ込む涼やかな風が、どこか粘つくような不快感を伴っている。駆ける足はまるで地に張り付くように、踏み込み一つごとに気力を奪い取る。

 露出した肌に感じる鋭い刺激は、空気そのものに突起物が生じているかのように全身を打つ。総じて、前へ進ませることを躊躇わせるような感覚だ。


 ――この感覚によく似た感覚を、スバルはすでに知っている。


 嫌な予感に急き立てられるまま、スバルの体はまとわりつく不快感を意識的に振り払いながら墓所の入口へ。

 月明かりがわずかに差し込む通路、蔦の生い茂る出入り口を飛ぶように駆け抜け、スバルは空気の膜を破るような錯覚を味わいながら墓所を出た。

 そして、見る。


「……嘘だろ、おい」


 急制動をかけ、スバルの体が足下の土を抉って止まる。

 思わずつんのめりそうになる無様をさらしながら、正面を見るスバルの瞳にはある種の達観めいたものが浮かんでいた。

 それほどまでに、眼前の光景が桁外れに常識を見失っている。


「影……だ」


 ぽつり、とスバルの口から漏れた呟き――それが、全てを一言で表現している。

 影――まさしく、眼前の光景はそう表現するしかない。


 墓所の入口、そこから見渡せるはずの『聖域』の景色が、スバルの目に見当たらない。住人たちの住居が集合する一角から離れた場所に墓所があるのは事実だが、スバルの知る限り、この位置から建物が一つも見当たらないことなどあるはずがない。

 なにより、空に丸い月が浮かび、青白い輝きが大地に降り注いでいるにも関わらず、目の前の世界は暗すぎる。まるで、闇に落ちたように。


「――――」


 息を呑み、スバルは意を決して墓所の入口から暗闇の『聖域』へ足を運ぶ。足裏が石造りの床を抜け、土と草の地面に届く。――届いた、はずだ。

 感触こそ芝生の上を踏んだ感覚があるが、眼下はうっそうとした暗闇に呑まれていて識別ができない。肌に粘つく感覚があるのも、変わっていない。


「え、エミリア――!」


 あるはずの世界の頼りなさに、スバルは堪え切れずにとっさに浮かんだ名前を呼ぶ。そうして一度、記憶に確かにいる少女の名前を呼べば、思考が回って次々に脳裏を過る顔が、名前があり、


「ラム! リューズさん! ついでにオットー! いるだろ! 出てきてくれ!」


 今が『試練』を受けた直後なら、墓所の前にはエミリアの結果を待っていたラムたちがいたはずなのだ。彼らの制止を振り切ってスバルが飛び込み、巻き添えで『試練』に臨む形になるのがこれまでの流れだ。

 その後、エミリアを連れて出てきたときには、いつもその顔ぶれが揃って二人を出迎えてくれていた。今回も、大きな違いなくそうなるはずなのだが。


「いない……どころの話じゃねぇぞ。このどんより具合はなんだよ。田舎の田んぼ道の暗さの比じゃねぇぞ」


 電灯のない田んぼ道の夜、星明かりに頼れない日などは正真正銘の闇が落ちる。

 だが、今の『聖域』の状態はそのインスタントな闇とは違う。頭上には月が輝き、その輝きは少なくともスバルの体までは届いているのだ。

 にも関わらず、その光の範囲は地面に届く前に霧散し、曖昧で不安定な夜を生み出している。――自分にだけスポットライトが当たっている感覚、とでもいうべきか。

 闇の中、浮かんで見えるのは自分の姿だけなのだ。ふと振り返れば、先ほどスバルが出てきたはずの墓所の入口すらも、闇に呑まれて見えない。


 白鯨の生み出した夜霧、その中をさまよい歩いたときの感覚が蘇る。


 頼れる人を見失い、竜車からも放り出されて、背後からいつ白鯨の顎が迫ってくるのかもわからない中、方向も生きる意味すらも曖昧になって歩き続けた記憶。

 あのときは最終的に、ただひたすらに歩き続けた先で霧を抜けて、オットーの愛竜であるフルフーに拾われたのだ。

 ならば今回も、闇雲に歩き続ければ救われることがあるのだろうか。


「馬鹿か俺は……いや、馬鹿だ俺は。なにを消極的っつーか、負け犬思考なんだよ。なにが起きたかわからねぇってことは、なにが起きるかわからねぇってことじゃねぇか。みんながどうなったのかもわからねぇのに、自分の身の心配とか馬鹿か」


 墓所の中、エキドナとの茶会で覚悟を決めたばかりではないか。

 どんな事態が起こって、どれほどの苦難がスバルを襲おうと、そこに払う対価が自分の命だけで済むのなら、それはかえってお買い得な状況なのだ。

 大事な誰かが傷付いて、取り返しがつかなくなる未来に比べれば、自分の命を支払ってやり直せる現状は、どれほど恵まれていることか。


 故に、スバルに必要なのは不可解な状況に恐れ戦いて、まともに状況把握もできないまま振り回されて命を落とすような無様さではない。

 不可解な状況に果敢に挑んで、仮に正解に届かなかったとしても、そこに辿り着く足掛かりを掴んで、次に一矢報いるための意味のある死を迎えることだ。


「とにかく、今の俺が確かめなきゃならないことは……」


 エミリアやラム、他のみんながどこにいってしまったのかを確かめることだ。


 墓所の中にエミリアの姿が見つからなかったとき、スバルは一瞬、エミリアが『試練』を突破し、自力で目覚めて出ていったものかと考えた。だが、すぐにその考えは否定された。仮にエミリアが自力で『試練』を突破し、無事に目覚めることができたのだとすれば、彼女がスバルを呼び起こさない理由がないからだ。


 『試練』の最中に触れられたり、呼びかけられたりすることで『試練』が中断されてしまうのは、スバル自身がエミリアに対して働きかけた経験で知っている。

 厳密にはあの時点で、スバルの意識は『試練』ではなくエキドナとの茶会に臨んでいるはずなので、今の前提に当てはまらない可能性もあるが。


「それでも、俺を放置して出ていくってのはエミリアらしくなさすぎる」


 目覚めないスバルを外へ連れ出すか、それでなくても壁際に寝かせるなど、彼女なりの対応があるはずだ。それもなしに、外へ出ていくことは考えづらい。

 そしてこれはあんまりと言えばあんまりな結論ではあるが――スバルは、エミリアが第一の『試練』を初見で突破できるだろうとは考えていない。

 初日を筆頭に、その後、同じ『試練』に手こずり続ける彼女を知っているということもあり、彼女が自ら『試練』をクリアして、墓所を出た説は最初から懐疑的だ。


 故にスバルの考えでは、墓所からエミリアが姿を消したのは、彼女の意思が介在していない可能性が高い。誰かに連れ出されたか、あるいは――。


「『試練』から戻って茫然自失、俺にも気付けないぐらいの余裕のなさで墓所を出ていった……ってのならまだ考えられなくはないか」


 だがそれも、こうして外の世界が闇に沈んでいる状況の異常性の説明にならない。

 エミリアが墓所から消えたことには、無理やりに今の内容で納得してもいい。しかし、この景色の理由、原因、今後についての考察には発展がみられなかった。

 少なくとも、スバルの経験上、『試練』の最中に『聖域』がこういった異常事態に見舞われたことは一度もない。


 いるはずの待ち人たちがいないことに関して、スバルの胸中をざわめかせるのは白い獰猛な兎の脅威だ。が、焦りすぎの結論をスバルは首を振って否定する。

 大兎の襲撃があるのは、スバルの計算では『聖域』で六日目を過ごした夜――つまり、今から五日後のことだ。それがどれほど早まったとしても、『試練』の初日の夜に前倒ししてくることはないと思いたい。


 ――エルザの、屋敷襲撃の日数がずれたことの謎からは意図的に目をそらす。


 あのことも、スバルにとっては未だ答えの出ない謎の一つだ。だが、大兎の襲撃までもがエルザ同様、ランダム性に従って日数がずれてくるのだとすれば、それはもはや手のつけようのない事態であることを意味する。

 『死に戻り』を駆使しても回避できない悪環境だけは、ないものと信じる以外にスバルにできることがないのだ。


「今できそうなことは……声出しながらエミリアたちを探すのと、大聖堂あたりに出向いてアーラム村の人たちの無事を確認すること、か?」


 正面に目を凝らし、スバルは今しがた口にしたことの実現性の低さに頭を悩ませる。『聖域』のおおよそのマップは頭に入っているものの、それは目をつむっても歩き回れるというほど洗練されているものではない。

 そして今、この場所をうろつき回るために必要なのはそのレベルの記憶力なのだ。

 目的地に無事に辿り着くことすら、今のスバルには至難の業である。かといって、声を出しながら人を探す案も無条件での採用は難しい。


「この状況が、この真っ暗闇が誰かの仕業なら……高い確率で友好的な相手じゃないしな」


 じりじりと、身を焦がす焦燥感に焼かれながら、スバルは自分がどう行動するのが最善なのか考え続ける。

 合流を急ぐのならば声を上げるべきだ。エミリアたちの身を案じるのであれば、それが最善。しかし、闇雲に行動することの愚かしさはすでに何度も身に沁みている。それで何度、この世界で命を落としたことか。


「……クソ。せめてなにが起きてるのかだけでも確認しなきゃ、おっかない目に遭うにしてもやり切れねぇよ」


 悩みあぐねた挙句、スバルは慎重策を選ぶことに決めた。

 声を殺し、息をひそめて、目を凝らしながら闇の中、覚えている限りのマップに従って住人が集中していたはずのエリアを目指す。

 足下の感触の確かさと、スバルの出てきた墓所の存在の確実さだけが、闇に染まった世界の中で唯一の頼りだ。暗闇に落ちているだけで、変わらず『聖域』は目の前にあるはずだという――。


「――――う?」


 ゆっくりと、一歩ずつ確かめるように草を踏んでいたスバル。が、その足がほんの数歩も進まない内に止まる。

 理由は、風だ。


「――――?」


 顔を上げ、スバルは見えない暗闇の中、半ば無駄だとわかっていながらも視線をめぐらせ、今しがた違和感を運んできた風の行き先に思考を飛ばす。


 感じたのだ。今、横を吹き抜けた風に、独特の感覚を。

 草原を抜ける涼やかな風でも、墓所の中に吹き込む埃臭い風でも、血臭満ちる愁嘆場を流れる風でもない、生き物と触れた風だけが持つ独特な生っぽさを。


「なん――」


 どこから吹き付けた風なのかわからず、スバルはその答えを求めて振り返る。

 背後、まっすぐ行けば墓所があるはずだが、少し歩いただけでその輪郭すらももはや視界に捉えることができない。

 ――否、墓所が見えないのは闇とはまた別の理由だ。


「――――ぁ?」


「――――」


 息がかかるほどの距離、真っ暗な世界のすぐ目の前に、誰かが立っている。

 その人物が視界を遮っているから、墓所の入口が確認できなくなっていたのだ。


 そして、そんな距離になるまで近くに誰かがいるのに、その接近に気付かなかった事実と、そこまで近づいてきているにも関わらず、その人物がこちらに声をかけてこなかった理由、一瞬の間にスバルの脳内に疑問の嵐が吹き荒れる。

 しかし、その疑問の暴風雨も、すぐに明快な答えが出されることで消失した。


 これ以上ないほどわかりやすい形で。


「――愛してる」


 と、影は目の前のスバルに、とろけそうなほどの情愛を込めて言ったのだ。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 くぐもった声だった。

 男のものか、女のものかすらもわからないほど、不鮮明な声音。

 変声機を通したものとも、分厚い布越しに声を放ったものとも違う、もっと不透明で目に見えない力が働き、こちらの認識に作用しているような取り繕った不明瞭さ。


 にも関わらず、スバルはかけられた言葉――その愛の囁きを聞いた瞬間に、目の前に立っている影の正体を直感的に理解する。そして、戦慄した。


 思えば、スバルは墓所を出る直前から、その気配にうっすらと気付いていたのだ。

 肌にひりつくような濃密な瘴気。影に沈んだ『聖域』の状況。息苦しいほどの圧迫感が周囲に満ち満ちていて、そして生気を根こそぎ失ってしまった世界。

 これらはまさしく、禁忌を口にしたときにスバルが招かれる、時の止まった場所での『魔女』との逢瀬の状況を再現していた。

 つまり、目の前に立っているのは、


「なん、で……!?」


「――――」


 答えはない。だが、存在は間違いなく目の前に今もある。

 指先を動かし、己の息遣いを確かめて、スバルは時間が止まっていないことを確認する。今、世界は正しく時を刻んでいる。なのに、目の前に『魔女』が立っている。


 想像していなかった脅威を目前にしたことで、スバルの思考が真っ白に染まる。

 つい先ほどまで、いかなる事態が起きようと、その細部まで見極めて一秒たりとも無駄にするまい、と誓っていたはずの全てが置き去りになるほどの衝撃。

 それほどスバルにとって、今、この段階での『魔女』との接触は予想外だった。


 口の中が急速に渇き、スバルは息を呑むことすら忘れて全身を強張らせる。圧倒的なプレッシャーが体中を絡め取り、スバルは蛇に睨まれた蛙のように硬直。

 今、動けないことは間違いなく事態を悪化させる。それがわかっているにも関わらず、スバルの手足はその危険信号に従う素振りすら見せない。


 スバルの心や、思考とは別次元の問題だ。

 スバルの心が屈すまいと、思考がどうにかしなくてはと加熱している一方、肉体とそれを司る深い部分が冷めた目で状況を客観視している。

 即ち――動いても動かなくても、結果はなにも変わらないのだと。


「――――」


 目の前の影から敵意は伝わってこない。害意を感じない。

 ただそれは、スバルに対して無関心というわけではない。

 むしろ逆だ。


「――――」


 目の前の存在からは、背筋が冷たくなるほどの関心が注がれている。

 盲目的に、偏執的に、なにがそこまでと人に思わせるほどに、決して逃れ得ぬほどにスバルを絞めつける、圧倒的な情熱。

 ――影は今、スバル以外の全てに対しての関心がない。


 影の中にあるのはスバルだけだ。スバルだけ。スバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルだけスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバル――。


「――愛してる愛してる愛してる」


 ぐるぐると、頭の中を声が響いている。

 思考がめちゃくちゃになり、目の前にあるものがなんなのか認識できない。自分が立っているのか、座っているのか、呼吸できているのか、意識があるのか、生きているのか、死んでいるのか、わからない。わからない。わからなくなる。


 指先が伸びてくる。

 周囲の影が持ち上がり、スバルの肉体を四方から覆い尽くそうと広がる。

 抵抗する気力がない。抵抗する理由がない。抵抗、無抵抗、呑まれて、そのままどうなるのか、考えることが億劫で、そして――。


「愛してる愛してる愛して――」


「っざけてんじゃァ、ねェぞこらァ――!!」


 ――次の瞬間、スバルと目の前の影の間に、すさまじい勢いで落下してきた破壊力が割り込む。

 眼前のさらに眼前、影と衝撃が激突し、見えない大地を砕き、影を巻き、そしてそれらをすぐ近くで受けるスバルの体が背後へ吹っ飛ぶ。


「うおぁ――!?」


 転がり、固いものにあちこちを打ちつけて、盛大に全身を影に浸らせてスバルはなんとか勢いを止める。頭を振り、硬直していた体と思考を同時に解す。

 ノイズだらけだった思考がいくらかクリアになり、頭には砂を詰めたような重さが残っているものの、ついさっきまでの鈍重さと比べれば幾分マシだ。

 そして口の中の土を吐き出しながら、顔を上げて自分の転がってきた方へ目をやり、スバルは驚きに瞳を見開いた。


「状況最悪だぜ、オイ。動けっかよォ、てめェ」


 じりじりと、影に相対してこちらに背を向けている人物。

 男にしては低い背丈。短い金髪と、ぶっきらぼうで粗雑な口調。臨戦態勢に入る姿勢は低く、地面を砕いた足を引いて警戒露わに牙を剥く姿。


「なんで……お前が俺を、ガーフィール……っ」


「あァ? 冗談っじゃねェぞ、状況が見えてねェのかよ」


 驚愕に声を震わせるスバルに、煩わしげに応じるガーフィール。彼は目の前の影に警戒を払ったまま、わずかずつスバルの方へ足を滑らせて、


「首根っこ掴んで跳ぶぜ。首の骨が折れっかもしんねェけど、根性で耐えろ」


「根性で首の耐久力上がるような不思議体質してね――っ!?」


 反論の途中で、ガーフィールの体が高速で下がり、その途中でスバルの体を文字通りにかっさらう。宣言通りに首裏を掴まれて引っ張り上げられ、スバルは息が詰まる苦しみに「ぐえ!」と苦鳴を上げるが、それに対する文句をつける前に、


「――――!」


 ――地面が膨れ上がり、影が爆発する。

 爆発した黒影が波を生み、飛びずさるスバルとガーフィールの二人を押し潰さんとすさまじい勢いで迫ってくる。途端、周囲の闇も影の波に同化し、後退するための踏み込みを行ったガーフィールが舌打ち、その足先が地面の影に沈みかけている。


「あァ、くそったれ! 地面がこれじゃ『地霊の加護』が利かねェ――!」


「ガーフィール、俺の足元も沈み出してるぞ!」


「全域がそうなっちまってんだよ! 『悪いことすると魔女が出るぞ』たァ、あァ、そのまんまじゃァねェかよォ!!」


 引きずられるスバルの四肢もまた、地面に接地している部分が影に呑まれ始める。水に沈むのとも、泥や沼に沈むのともまた違う未知の感覚。

 影は温く、柔らかく滑らかな生地で包むようにこちらの体を絡め取ろうとする。安寧の中でなら、その感触に抱かれてしまってもいいと思えるかもしれない。

 だが、鬼気迫るこの状況下で、そんな判断は願い下げだ。


「――ちィ、舌ァ噛むんじゃねェぞ!!」


 鼻を鳴らし、ぐるりと視界をめぐらせたガーフィールの叫び。

 彼は膝をたわめると、沈みつつある体で軽く跳躍。影に足を取られた飛距離は数メートルにも及ばないが、その着地地点で再び素早く足を伸ばして跳躍、跳躍、跳躍を繰り返し、


「と、ほ、るァ――!」


 夜に覆われて見えない世界で、しかしガーフィールは見事に建物のある場所へ到達。壁につま先を文字通りに打ち込み、それを足がかりに再跳躍。屋根の上に飛び乗り、そこへここまで引っ張ってきていたスバルを投げ出して一息。

 投げ出されたスバルは滑り落ちないようにとっかかりを掴み、肩で息をしているガーフィールの横顔――ぼんやりと闇に浮かぶ顔を睨みつけて、


「た、助けてくれてありがとうよ……!」


「んだァ? 礼を言う奴の面構えじゃねェぞ、文句でもあんのかよ、オイ」


「釈然としねぇんだよ。……まさか、お前が俺を助けるとは露とも思ってなかったから」


「ずいぶんと薄情者扱いされてんじゃねェか。俺様がてめェを助けんのがそんなに気に入らねェっつーんなら、今すぐに影に飛び込んできてもいいんだぜ?」


 口の減らないガーフィールに、「それは遠慮する」と言葉少なに応じてスバルは嘆息。

 こちらを見ようとしないガーフィールの背後から、その様子をうかがうスバルの胸中は複雑が極まっている。


 状況の不可解さもさることながら、この場でガーフィールに助けられたことが最大の理由だ。こうして再び顔を合わせるその瞬間まで、スバルにとって彼は、『聖域』における最大の障害、そして憤怒の対象としてロズワールと競っていた人物だ。

 事情が異なっているからこそ、こうして接し方が変わっているのがわかっていながら、ここまで対照的な態度を取られると、こちらの態度を決めかねてしまう。


 そんなスバルの内心の困惑を余所に、下を睨むガーフィールは苦い顔つき。彼は鋭い犬歯を噛み鳴らしながら、「やべェな……」と小さく呟き、


「当ったり前だが、俺様たちを見逃す気ァさらさらねェみてェだな」


 眼下の影を見下ろす彼の隣に滑り込み、スバルも恐る恐る下を覗き込む。

 思わず「う……」と呻き声が漏れる光景。影の海と化した『聖域』は、その大部分を漆黒に呑まれてしまい、遠近感も高低差もまともに測れない。

 だがそんな中にあっても、黒の中でさらに色濃い黒が蠢き、周囲の影を渦巻かせながら、這いずるような速度でこちらに進んでいるのが見てとれる。


 あれが先ほど、スバルたちを影で呑み込もうとした張本人であり、『聖域』を影の海で満たした人物でもある。そしてその正体は――、


「ガーフィール。アレがなんなのか、わかってるのか?」


「やべェもんだって見たままの結論と、まさかって可能性を考えてんのと、そんなわけねェよと楽観的に信じてる部分があんな。どれに乗るよ?」


「どれに乗るもクソも、全部限りなく正解に近いと思うぜ。お前、あれを前にして思ったよりも冷静……」


 言いかけて、ガーフィールの横顔を見たスバルの言葉が止まる。

 正直、スバルはガーフィールが自分を助けてくれたことに複雑な感慨を抱きながらも、至極状況を冷静に整理し始めていた。

 その中で、魔女の香りにあれだけ不快感を示すガーフィールが――それこそ、スバルの肉体から魔女の残り香を感じ取っただけであれだけ敵対的な態度をとるガーフィールが、その大本のような存在を前に血気に逸っていないのが不思議であった。

 だからこそ、今の言葉が出たのだが――それも、彼の横顔を見て帳消しだ。


「今、なんか言ったかよォ?」


 そう言って、血走った目を眼下に向け、心なしか牙の長さが伸び始めているガーフィール。

 怒気。憤怒。激怒。激情。瞳孔の細くなる瞳に浮かぶ、真っ赤な感情の渦を見て、彼が冷静だなどとどの口で言えるものか。

 そして同時に、スバルは聞かなくてはならないことがあったことを思い出す。


「――ガーフィール。他の……ラムたちは、どうした」


「…………」


「俺が墓所から出たときには、もう『聖域』は影の中に沈んでた。お前はこうしてピンピンしてるけど、他の人たちは……?」


「……影の中だ」


 否定してほしくて言葉を重ねるスバルに、しかし告げられたのは残酷な答えだ。

 息を呑むスバルにガーフィールは悔しげに喉をうならせると、


「異変に気付いたときには、もう地面が影の海に変わった直後でよォ。ラムが風で吹き飛ばしてくれなきゃァ、そのまま俺様も呑まれちまっただろうよ」


「……そのまま、ラムは呑まれたのか? リューズさんや、オットーも?」


「あァ、そうだよ。ババアもうるせェ兄ちゃんも、いっぺんにだ」


 眼下、蠢く影の怪しげな波を見て、スバルは呑まれたという言葉に彼女らの生存の可能性がどれほどあるものか、と悲観的な考えに走りかける。

 あれが呑み込んだものを、異空間かなにかに閉じ込めるタイプのものなら希望も持てる。だが、実際に触れ合ってみた感覚からすれば、その可能性は楽観的すぎる。


「なん、なんなんだよ、ホントに、あれは……なんであんなのが、急に……!」


 エルザ、大兎、ガーフィール。

 『聖域』と屋敷を襲う脅威に対し、対処する覚悟を固めてスバルは出てきた。いずれの障害にも果敢に挑み、正解を掴むための努力を惜しまないつもりでいた。

 その固めたばかりの覚悟が、こんなわけのわからないものに押し流される。

 いったいなぜ、唐突にこれは湧き出てきたものなのか。


「ガーフィール……エミリアは、どうした」


「――――」


「墓所の中にエミリアの姿がなかった。……あの子も、呑まれた、のか?」


「――――」


 目覚めて異変に気付き、墓所の外へと飛び出したエミリア。

 彼女のことだ。『聖域』が影に沈んでいるのを見て、手をこまねいているような判断をするはずがない。誰かを救おうとその身を惜しまず飛び込み、そして――。


「影に……だったら、あいつは……!」


「ラムたちが呑まれたあと、『聖域』の中に入ってって影であれこれ飲み干しやがった。俺様も追っかけて攻撃ぶち込み続けたんだが、びくともしやがらねェ。それが急に引き返しやがるから慌てて追っかけてきてみりゃァ」


 さっきの場面に出くわした、ということらしい。

 『聖域』をひとさらいしておきながら、スバルが墓所から出たのを感じ取った途端に取って返した影。ならばやはり影の目的はスバルなのだ。


 全てを飲み干す影。愛の囁き。そしてこの圧倒的な力。

 その正体は、言うに及ばず。だが、


「どうして、ここにいやがるんだ……『嫉妬』の魔女!!」


「言ってる場合じゃァ、ねェぜ、こいつァ」


 絞るように吐き出したスバルの横で、ガーフィールが好戦的な笑みを浮かべながら屋根の上に立つ。その隣でバランスに気を払いながら立ったスバルも、彼が見ているものを同じく見下ろし、歯の根を噛みしめた。


 膨大な量の渦巻く影が、スバルたちが足場にしている建物を取り囲む。

 そして渦はその効果範囲に建物を呑み込むと、大地ごと建物を剥ぎ取り、その渦巻きの軌道上に強引に巻き込んだ。


「う、おおあ――!」


 大津波か、大規模な洪水に家ごと押し流される感覚。

 質量のないはずの影にそれをやられる異質な感覚、それを体感しながら、揺れる屋根から振り落とされないように堪える。

 堪えるが、それは根本的な解決にはならない。


「ちっ、また飛ぶぞ、捕まってろ!」


「――――!」


 屈んだガーフィールの体に慌てて取り付き、彼の跳躍に合わせて流される屋根から脱出。弾丸のように斜めに射出された二人の体は、そのまま目測を誤って木々の群れへと突入し、枝をいくつもへし折りながら太い幹に直撃。


「うがァ――!」


 ガーフィールの腕がその幹に突き刺さり、乱暴な制動で影に落ちるのを回避。彼の服に縋りつくスバルも、どうにか腕を伸ばして枝を取ると、そっちに体を移して姿勢を維持した。

 そしてどうにか息をつく背後、木材がひしゃげ、砕け散る音が盛大に鳴り響く。

 慌てて振り向けば、そこには先ほどまでスバルたちが乗っていた建物が、渦の中心へと引きずり込まれて、細かく細かく粉砕されていく様がありありと見えた。

 建物の元の形を崩壊させながら、影の渦は呑み込んだそれを影の本体――蠢く影の内へと流し込み、いっそうその質量を増大させる。


「――――」


 破壊と蹂躙、それを目にしてスバルとガーフィールは言葉を継げない。

 そして沈黙が落ちているわずかな間に、影がゆらりとその輪郭をぼやけさせ、次の瞬間――全体像すら曖昧な影の目と、スバルは目が合った確信を得た。


「――愛してる」


「う、あ……」


「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」


「――――」


「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」


 膨大な愛が、目に見える黒い、影の形をした愛が、溺れさせようと迫ってくる。

 愛に溺れさせようと、『嫉妬』の魔女の愛が、迫って、くる――。


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