挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 永遠の契約

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

201/443

第四章35 『少女の福音』

今回のお話で記念すべき201話目になります。
これまでの皆様のご声援あって、ここまでやってこれました。
感想、レビュー、支援絵、悲鳴、色々とありがとうございました。
まだまだ先は長いけど、今後ともよろしくお願いします!
あ、201話のご祝儀に感想たくさん言ってくれてもいいのよ?(チラチラッ


 むせ返る古書の匂いが閉ざされた部屋の中に充満している。
 開いた扉の中に足を踏み入れて、唖然と口を開けるスバルは据えた匂いと視覚情報でそれらを意識し、自分が望んだ場所と違う床を踏んだことに半歩遅れて気付いた。
 ――そして、その認識の遅れがそのまま致命的な遅れを生む。

「禁書庫……!?」

 探し求めて屋敷中を歩き回り、それでも見つけることのできなかった場所に今辿り着いていた。望まぬタイミング、思いもよらない機会、そしてそれはスバルの心に空白を生み、背後の戸が音を立てて閉まるまでの時間の一切を奪った。

「――――!」

 まるで外から風を受けたように、スバルの体は吸い込まれるように書庫の中へ。扉もまた同じように勢いよく閉じられ、風を生んでスバルのうなじをくすぐる。
 激しい音に振り返り、廊下と部屋とを扉が隔てたのを確認して、気付く。
 禁書庫がここに開かれて、そして扉が閉じられたことの意味を――。

「あ、開げろ――!!」

 ドアノブに手を伸ばしかけ、すでに腕の形をなしていない右腕に気付いてもどかしく左腕を伸ばす。激しい音を立てて血で滑る指先がドアノブをひねるが、どういうわけか回る取っ手はしかし開閉の意思を扉に伝えようとしない。虚しく空転し、激しい音を立ててスバルの焦燥感を掻き立てるだけだ。

「――いくら出ようと足掻いても無駄なのよ」

 と、そうして必死に扉と格闘するスバルの背後から声が飛んできた。
 弾かれるように振り返り、スバルは戸に背を預けながら正面――書庫の奥から姿を現し、こちらに冷然とした面を向ける少女の姿を直視する。
 クリーム色の長い巻き毛、豪奢できらびやかなドレス。小さな体、愛らしいくせに小憎たらしい顔立ち。それら全てがスバルの知る彼女となにも変わらない。

「ベアトリス……」

「ずいぶんひどい有様かしら。書庫の床が汚れるから、あまり動き回らないで……」

「今ずぐに! 扉を開げろ! 俺を外に出ぜ!!」

 冷めた様子でスバルの傷を眺める彼女に、その口上の全てを無視してスバルは怒鳴る。血を垂らすな、という言葉も耳に入らず、スバルは未だに血をこぼし続ける惨憺たる状態の右腕を振り、

「どうじで、今ざら姿を見ぜだ!? どうじ、で! 今、だんだ!? 戻ぜ! 早ぐ! 今! ずぐにぃ!!」

「……戻ってどうなるというのかしら。その無様な傷で戻って、いったいなにができるのかベティーには全くわからないのよ」

「なにもでぎだいごとぐらい、俺が一番わがっでるっ!! でも、ぞれでも!!」

 あの場所に戻って、エルザと相対することを望むわけではない。スバルが立ち入るはずだった部屋に入って、そこで眠る少女の傍にいって、そして――。

「書庫に入っで、『扉渡り』が起ぎだんだら……あの殺人鬼が、部屋に……っ」

 そうなってしまえば、あの狂人は姿をくらましたスバルの存在に首を傾げるだろう。だが、消えたスバルを探して屋敷を徘徊するより前に、部屋の中で眠る一人の少女の姿を見つけ出すはずだ。そしてあの見境のない殺人鬼が、無防備な寝顔をさらす少女にどう対応するか――考えるまでもない。

「だがら――!」

「もう、遅いのよ」

 駆け上る嫌な予感を振り払うように怒声を張り上げるスバル。そのスバルに、ふいに浴びせかけられる少女の痛切な呟き。
 目を伏せ、小さく首を横に振るベアトリスの姿にスバルは一瞬だけ硬直。それから彼女がなにを口にしたのか脳が反芻し、思考が止まる。

 ――今、この少女はなにを言ったのだろうか。

「遅いっで……どういう……意味」

「お前があの部屋に戻りたいと思っている理由は、たった今、なくなったかしら」

「――――」

 途切れ途切れのスバルの問いかけに、ベアトリスは淡々とそう応じる。
 喉が詰まり、目を極限まで見開いて、気付けばスバルはその場に膝から崩れ落ちていた。肩が落ち、頭が下がり、ひどい耳鳴りが頭蓋の中で反響している。
 痛み、痛み、忘れていた痛みが呼び起こされて、スバルの意識をノイズが侵食していく。なにもかもがその雑音に掻き回されて押し流されて、そうして消え去ってしまえばいいと本気で思う。なにも理解したくない。気付きたくない。なのに、

「傷、見せるかしら。痛々しくて、見てられないのよ」

 歩み寄ってきた少女が膝を折り、へたり込むスバルの右腕と左脇、右肩の負傷を見咎めて顔をしかめる。淡い輝きが少女の掌を覆い、まずはもっとも損傷の激しい右腕へと光が当てられる。――じんわりと、ひたすらに熱ばかりを訴えかけてきていた腕の感覚に痒みに似たものが走り、じくじくと音を立てて筋繊維の蘇生が始まる。
 まず血が止まり、それから徐々に徐々に輝きに応じて傷口の表面を膜が張り、削げた部分を回復を促進される細胞が補ってゆく。ただ、

「元の太さに戻るのは時間がかかるし、なにより失くした指は戻らないかしら。……腰と、右肩の傷も」

「……なに、じでんだ」

 ぼそりと、掠れた声でスバルの口から無感情な声が漏れる。
 傷の治療に意識を向けていたベアトリスはその声に眉根を寄せ、癒しの力を発する掌をスバルに見えるように差し出しながら、

「嫌々だけど、仕方なく傷の治療をしてやってるのよ。この屋敷でここまでの傷が治せるのはベティーだけかしら。感謝するがいいのよ」

「傷……治、す……? なんの、だめに……?」

「放っておけば命に関わる傷かしら。別段、お前が生きようと死のうと知ったことじゃないけど、ここで死なれるのだけはごめんなのよ」

 片目をつむり、スバルの言葉を傷に浮かされた戯言だとでも切り捨てたのか、ベアトリスはそっけない受け答えをして治療を続けようとする。だが、

「――――っ」

「あっ」

 確かな癒しの波動に傷が埋まるのを感じながら、しかしスバルはその負傷した腕を振り払い、ベアトリスに小さく驚きの声を上げさせる。
 そのまま震える膝を酷使して横へ転がり、禁書庫の床を盛大に汚しながら少女と距離を取り、こちらを見る彼女をまさしく鬼気迫る形相で睨み返した。

 荒い息を吐き、今の挙動で腰に突き刺さる杭が床に落ちる。甲高い音。溜まった水が抜ける音がして、その傷からも血が溢れる。腿を伝い、膝立ちの床を血の川が流れる。その様子を息を詰めて見守るベアトリスにスバルは牙を剥き出し、

「傷の治療なんでいらねぇ……っ! 死ぬも生ぎるも無関係だら……お前、なんで俺を助げようどずんだよ!?」

「それは……お前があんまり無様で、見てられないから……」

「なんで……なんで俺なんだ!? 助げようっで、そう思っで動き出じでぐれるんなら、なんでペトラを……フレデリカを助げでぐれながっだ!? お前のこの力があっだら、戦わなくても逃げるだげでも……やりようなんがいぐらでも……!」

 外界と部屋との繋がりを遮断する『扉渡り』ならば、あの執拗な追跡者であるエルザすらも煙に巻くことだってできたはずなのだ。応用すればこれほど逃走に特化した能力もない。逃げ遅れたペトラも、足止めに向かったフレデリカも、そして寝たきりで動くことすらできなかったレムも――!

「助げられだはずだ……! 俺が馬鹿で、俺が弱ぐで……俺じゃ届かながった場所にお前なら届いたはずなんだ……なのに、どうじで……」

「どうしてベティーがそんなこと……ベティーに、お前の言う三人を助ける理由なんてないかしら。知らない。そんなの、知ったことじゃないのよ」

「ぞれなら……! 俺を助ける理由だっで、お前にはないだろうがぁ!?」

 嫌々と首を横に振り、スバルの懇願を否定するベアトリス。その彼女の否定に否定を重ねて、スバルは治りかけの右腕で床を叩き、

「どうじで助けた!? どうじで救っだ!? 気まぐれか? ぞれならどうじて俺だけなんだ、俺の他の三人となにが違う! レムはずっといい子で、フレデリカだっでやりたいことがあっで……ペトラはまだ小さかった……みんな、俺よりずっど……! 生きる理由が……価値があっだんだ!」

「価値? 理由? そんな後付の自己満足、どうしてベティーが尊重してやらなきゃならないのかしら。思い上がるのも甚だしいのよ、ニンゲン!」

「じゃあお前の一貫性のない行動はなんなんだよ!? あれだけ探し回っでるどぎには顔も見せないくぜに、こうして危ないときに限っでしゃしゃり出やがっで……! 俺もあの子だぢにも価値が見出だぜないなら……ずっど、この場所で一人きりでこもっでれば良がっだだろうが!!」

 どうして今、なにもかもが手遅れになってから姿を見せたのか。
 いることすら気付かせないで隠れ切ることができたはずなのに、スバルの身に起きた異変をエルザが察すれば、ベアトリスの存在が露見しないとも限らない。
 そうなればこの少女すらも、あの凶刃の前に切り裂かれる未来があるかもしれない。その危険を冒してまで、どうして半死半生の自分を招き入れたのか。
 どうして、生きることを諦めて、死ぬことを望んだ自分を救おうなどと思ったのか。

「気まぐれでもだんでもいい……俺を、俺を救う気がお前にあるなら……俺を助げるつもりが欠片でも残っでるなら……今すぐ、俺を……殺じでぐれ……っ」

「なに、を……言い出すかしら……」

「今すぐに! 俺を! 殺ぜよ! なにもがもが上書きざれる前に、なにもかもを取りこぼす今が確定ずる前に! 俺を殺ぜ! 殺ぜ! 殺ぜぇッ!!」

 唾を飛ばし、血を吐き、失くした右手と残った左手で床を掻き毟りながら、スバルは絶叫を上げて嘆願する。
 スバルの生きる意味が根こそぎ失われる前に、今こうして無為に呼吸して長らえているだけで、取り返しがつかなくなる未来が訪れるその前に。

 この役立たずでどうしようもない無能無力の塊を、終わらせてほしいと絶叫する。

 その魂からの絶叫を、懇願をしかしベアトリスは受け入れない。
 彼女は首を横に振り、その表情に困惑と嫌悪を浮かべながら、

「わからない、わからないのよ。お前というニンゲンがわからないかしら。どうしてそんな……今、命があるのにそんなことをどうして言い出すのよ?」

「命救うだけが救うじゃねぇだろう!? 命あるごどが、今俺には苦痛だんだよ! あるべきじゃない、いるべきじゃない……俺をお前が救っでぐれないっで言うなら……」

 他人に頼ることなんてせず、今すぐに自分の手でこの惨めな時間を――。

 覚悟に息を詰めるスバルを見て、ベアトリスが「ぁ」とか細い声で鳴く。それを耳に入れながら、スバルは躊躇なく口から舌を出すと、

「――――ッ!」

 思い切りにそれを噛み千切り、自決の行いに踏み切った。

 激痛。右腕のそれとも、腰と肩のそれとも違う、全く次元の異なる痛み。どれほど味わっても痛みに対する耐性などできるはずもない。どの場所に生まれる傷も、どこから生じる痛みも、全ては違うもの、新しいもの、苦しいもの、辛いもの、慣れることなどありえない。痛みはいついかなるときでも、ただ痛みとして平等に振舞う。

 血が口内に溢れ出し、スバルは白目を剥いてその場に昏倒する。
 倒れ込み、視界がぐるりと回り、手足が震えて痙攣が始まる。苦痛、息が止まる。千切れた舌が喉を塞ぎ、呼吸困難に陥っている。

「――んて、ことを!」

 即死する類の傷ではない。鋭く鈍い痛みが断続的に脳を刺し貫き、止まらない手足の震え、苦しみに血の涙が頬を伝っていく。だらりと半分千切れかけた舌が唇の端に引っかかり、自決に臨んだスバルの思い切りの足りなさを象徴していた。

 異世界において、スバルが自決の選択をしたのはこれが三度目。
 一度目は屋敷でのループの最中、取り返しのつかないものを取り返すための覚悟の自決。
 二度目は王都を発端としたループを終わらせ、レムの存在を取りこぼしたと知ったときの自失の中での自決。ナイフで喉を突き、しかしなにも変わらなかった。

 そして三度目の自決――戻れる保証などどこにもなく、だがこの時間を続けて生きていくことなどスバルにはできない。重すぎる。無理だ。ならば一握の可能性に賭けてでも、取りこぼしたそれを取り戻すために――。

「……やぁ。置いて、いかないで……」

 震える声が、遠くなり始める世界のどこからかスバルを呼んでいる。
 その声すらも遠くなり、遠くなり、やがて消えて――。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――目を覚ましたとき、スバルの鼻孔を最初に突いたのは埃臭い香りだった。

「う……?」

 意識の覚醒を待ち、瞼を閉じたまま首を振ってスバルは目覚めを理解する。
 床に横倒しになっていた体。ひんやりと冷たい地の感触を体中で味わいながら、リスタート地点は墓所の中だったなとぼんやり考える。

 体を起こし、薄暗い中で瞼を開いて周囲を見る。目覚めて間もない視界の確保はまだ覚束ず、涙混じりの視界はぼやけていて求めるものを見通せない。
 ただ、どうやら再び『死に戻り』することができたようでそのことに安堵する。戻ってきた場所が墓所であるならば、リスタート地点に変化はない。

 墓所の『試練』の間で、時系列はスバルが『試練』を乗り越えて帰還した直後。部屋の傍らにエミリアが倒れていて、彼女を目覚めさせるところから始まるはずだ。

「頭、痛ぇ……」

 眉間を揉み、軽く頭を振りながらスバルは状況の整理に頭を奔走させる。
 考えなくてはならないことが無数にあったというのに、前回のループの中でまたしてもそれが増えてしまった。どうすればいいのか真っ当な解決手段が今は何一つ浮かばない。見えたはずの光明すら、新たな罠へ誘うための誘蛾灯だったように感じられる。
 絶望への落とし穴を迂回して越えようとした先で、別の落とし穴に落ちた気分だ。

「それも、剣山のオマケ付きの悪辣なやつだ……」

 致命的、という意味での例えとしては間違っていない。
 『聖域』の『試練』。ガーフィールとの関係。屋敷の襲撃。あるはずの猶予が消えた謎と、エルザへの復讐心――レムたちを救い出す方法の確立。
 頭が茹だってしまいそうな問題の頻出、だがそれをどうにかしようと思い悩む機会を与えられたことがすでに幸いなのだ。
 あるいはここで終わるかもしれない、と諦念を意識しないでもなかった状況。それを打破できただけで、どれほど救いがあるものか――。

「またなにも知らん顔して、エミリアに接しなきゃいけないのは辛いけど――」

 言いながら、スバルはそれまで霞んでいた視界がクリアになり始めるのを認める。据えた匂いに鼻を鳴らして、まずはエミリアの姿を探さなくては。
 そう考えて、軽く額に右手をひさしのように当てて、ようやく気付いた。

 ――己の右手に、三本の指の欠損がある事実に。

「な――!? あ!?」

 あるはずのない負傷、持ち越すわけがない傷跡を見つけてスバルの喉が驚愕に呻く。そしてあまりに自分にとって都合のいい世界を見ていた事実を、震える瞳が世界を映してようやく叩きつけられた。

 冷たい床、乾いた石の壁。据えたかび臭さ。スバルの求めていた墓所の空間。だが現実としてスバルの前にあるのは、書を満載した書棚の並ぶ書庫の一角、時間の経過した皮紙の生む独特の香りが漂う一室であり、

「禁書庫……どうし、て……」

 別れを告げたはずの場所に未だ自分の肉体が置かれている不可解。そして最悪の事態を想定したスバルはまず自分の体を確認する。
 最悪の可能性――それは、スバルが禁書庫に踏み込んだあの瞬間に、世界の繰り返しが固定されてしまった可能性。

 戦慄を隠せない形相のまま、スバルは己の顔に触れる右腕を凝視。指三本の欠損と、左腕に比べて三分の一は太さを失ってしまった右腕。だがその腕の傷はすでに塞がっており、歪な肉の盛り上がりと変色が肉体の再生中である事実を伝えてくる。
 杭の刺さった腰と右肩にも目立った外傷はなく、皮が突っ張る感覚と時折引きつるような不快感が残留するのみ。
 少なくとも、負傷直後だった禁書庫に踏み込んだ瞬間ではありえない。そうなれば残された可能性は消去法で一つしかない。

「――ようやくお目覚めかしら」

 それは事実に気付いてしまったスバルにとって、今最も聞きたくない声音だった。
 澄ました様子で、世界に飽いているような響きで、だというのに関心を消し去ることもできないで、繋がりを求めているかのようなソプラノ。

 床に座り込んだまま、スバルは首を巡らせる。
 背後、そこに捨て切れない願いを込めて、銀髪の少女がいてくれる幻想を求める。そのまやかしを打ち砕くように、木製の脚立に腰掛けるドレス姿の少女。
 意識を失う前となにも変わらない姿で、ベアトリスが本を手にスバルを見下ろしていた。

 抜けるような息が無意識に漏れる。そのスバルの前で彼女は音を立てて本を閉じ、脚立からゆっくりと降りると、

「お前が馬鹿なことをするから、本当に苦労をさせられたのよ。腕の傷も、肩も腰も舌も、みんなまとめて癒してやったかしら。不都合はないはずなのよ」

「…………」

「命を拾った事実に言葉もないかしら。まあ、これに懲りたらもう馬鹿なことをしたりしないで……」

「お前は……自分がなにをやったのか、わかってんのか?」

「は……?」

 恩に着せるような言葉を並べながら、ベアトリスは押し黙るスバルに近づいていた。その彼女に押し殺した声を浴びせ、彼女が顔をしかめた瞬間、

「――――!」

 立ち上がり、伸ばした左腕でベアトリスの装飾の多いドレスを掴む。「あ」と驚きに口を開く彼女を引き寄せ、その顔に叩きつけるように己の顔を寄せ、

「誰が助けてくれなんて――そんなこと頼んだんだよっ!!」

「――――ぁ」

「自分がなにしたのかわかってるのか!? お前のせいで、なにもかも台無しだ! なにもかもが、どうにかできるはずのなにもかもが、お前のせいでご破算だ! どうして死なせたままにしてくれなかった!? 生き残って、それでどうなる……どうなるってんだよ! ええ!?」

 文字通り、命を惜しまず使うことでスバルはやり直しの権利を得るはずだった。
 だがそれは眼前の少女の手で遮られてしまい、叶うことがなかった。スバルの手の中に残ったのは言い知れぬ喪失感と、ベアトリスに対する尽きぬ怒りだけで。

「気まぐれに助けて、傷の治療もしてやって……それでお前は満足か? 感謝してほしいのかよ! ああ、ありがとうよ! おかげで命が助かったよ! 命以外のなにもかも、全部落っことしても、命だけは助かったよ!」

「べ、ベティーはただ……ただ……」

「この期に及んでなんだよ、感謝の言葉なら尽きねぇぞ!? いつもみてぇに余裕ぶっこいた澄まし顔で、当たり前みたいに俺を見下せよ。得意なんだろ? 好きなんだろ? 人間風情を、見下してせせら笑うのがさ――ぁ」

 憎悪の限りを込めて、醜悪な笑みに頬を歪めて、スバルは引き寄せたベアトリスへ罵詈雑言を浴びせ立てる。そうして己の心に満ちる不服と失望、喪失感を埋めてしまおうと浅ましく振舞った。しかし、その言葉尻がふいに途切れる。

「――っく」

「あ……」

 掴んで近づけた少女の眼から、大粒の涙がこぼれ出すのを目の当たりにしたからだ。
 それを目にした途端、カッと頭に上っていた血が急速に引き、自分が口走った醜く悪意に満ちたそれが恐ろしくてたまらなくなる。
 ゆるんだ指先がベアトリスの体を憎しみから開放し、突き放されるように下がった少女の体が背後の書棚にぶつかってその場に膝が落ちた。

 猛烈な吐き気がこみ上げる。自分がなにを口走ったのかを意識して、その醜悪さに自分自身が耐えられない。
 醜い。歪んでいる。八つ当たり以外のなんだというのか。『死に戻り』の事情を知らないベアトリスからすれば、彼女は死に瀕したスバルの傷を癒しただけだ。命の恩人と感謝されこそすれ、罵倒される謂れなどあるはずもない。
 理性ではそれを理解している。だが、感情がそれを認めようとしてくれない。スバルは自分の内側でせめぎ合う両極端な情感に翻弄されながら、それでも倒れ込んだベアトリスになにか言葉をかけなくてはと顔を上げ、

「違……わ、悪い。そんなこと、言うつもりじゃ……お前が、悪いわけじゃ……」

 誰か一人が悪いとすれば、それは紛れもなくスバル自身なのだ。
 なにが起きるのか知っていたのに、無警戒にも虎の巣穴に足を踏み入れてその尾を踏んだ。そのツケを周りの人たちに払わせて、自分だけは非難される理由はないと嘯いているなど傲慢にも程がある。

 感情面で、情報の足りない彼女を責め立てる気持ちはある。スバルから身を隠していたのに、あの瞬間にだけ姿を現したことへの飲み下せない感情はある。
 だがそれは少なくとも、声高にスバルが彼女を非難する免罪符にはならないのだ。

「ごめん。傷、治してくれてありがとう。でも、俺はすぐに……」

 せめて彼女の前から姿を消して、別の場所で自決を選ばなくてはならない。
 この世界を続ける理由がスバルにはないのだ。ここはあまりに失いすぎた。失ってはならないものを失った世界を生きていけるほど、スバルは強くあれない。
 だからスバルは言葉少なにベアトリスへ感謝を告げて、禁書庫を辞そうと視線をさまよわせ――、

「――――」

 崩折れたベアトリスの傍らに、黒い装丁の本が落ちていることに気付いた。

 無地の表紙。厚手の造り。辞典ほどの大きさで、持ち運ぶのにやや難儀しそうな重量感のある見栄え。いずれも、見知ったそれにスバルの視線は釘付けになる。
 なぜそれが今、この場にあるのか。

「だって『福音』は、竜車の中に……手元に、書庫にあるわけ……」

 ペテルギウスの所持していた魔女教の福音は、戦利品として回収してスバルの手元にある。しかしそれは書庫に収める本としての扱いをしているわけではなく、用途不明扱い厳重注意の意識の上で保管しているだけであり、この場にあるはずがない。
 わけのわからない状況に首を横に振り、スバルは落ちた福音へ手を伸ばす。その中身を確かめて、この不安を否定してほしいと。だが、

「――ダメ!」

 とっさに手を伸ばすスバルの前で、福音が横からかっさらわれる。
 見れば衣服の裾を乱し、息を荒くするベアトリスが両腕でその福音を抱いてスバルから遠ざかっていた。距離を取り、彼女は喉を嗚咽に引きつらせたまま腕の中の福音を見下ろすと、ほぅと安堵に似た息をこぼして指で表紙をなぞる。
 その仕草が、愛おしいものに触れるようなその仕草が、スバルの嫌な予感をこの上ないほどに掻き立てるものだったから、

「なんでお前がそれを、そんな大事そうにしてるんだ?」

「…………」

「それは、魔女教の奴らが持ってた本……じゃないのか? じゃないよな? すげぇ似てるけど、違うもんだよな? 見た目そっくりで誤解を招きそうだから、俺にそう思われないようにわざわざ遠ざけただけだよな? だよな、俺って早とちりしやすい性質だし、思い込み激しいし、口は悪いし目つき悪いし性格も歪んでるし……」

「…………」

「なぁ――否定、してくれよ」

 早口に彼女への弁護を並べ立てるスバルに、しかしベアトリスは沈黙を守る。しまいには懇願でしかない言葉を投げかけるスバル。
 そのスバルの前でベアトリスは小さく吐息を漏らし、両手に抱いた本をスバルに見えるように前に突き出すと、

「お前が想像している通りなのよ。……これは福音。お前が言う、魔女教の奴らが手にしているものと同じ、幸いへの導。生きる拠り所。ただ一つの真実、かしら」

「ど、どうして……そんなもん持ってる? どこで売ってんだ? み、未来を教えてくれるとかラッキーアイテムすぎるだろ。リアル人生に攻略本ありとかどんだけゲームバランス崩すんだよ……なあ、オイ」

「……その質問に答えるように、ベティーは指示されていないかしら」

 震える声で問いを投げるスバルに、ぺらぺらとページをめくってベアトリスは酷薄に告げる。本の内容に目を落とす少女に、スバルは舌が痺れるような感覚を味わいながら、

「その本の言う通りじゃなきゃ、なにもしないってのか」

「その質問も本には書いてないのよ」

「傷を治してくれたのは? 殺されそうな俺を、禁書庫に匿ってくれたことだって」

「その質問も本には書いてないかしら」

「今、こうして俺と話してるのは? 死のうとした俺を、助けてくれたのは……?」

「――知らない」

 本に目を落としたまま、ただ無感情に答えを投げ返すベアトリス。
 その人形めいた姿に、感情を見失った態度に、スバルは肺が痙攣するような怖気を、呼吸の仕方すら忘れそうな目眩に襲われながら声を上げる。

「なにもかも、その本の言う通りじゃなきゃできないってのかよ!?」

「……そうかしら。そうなのよ。なにもかも全て、福音の導に従うかしら。そうすることがベティーの生きる意味で、そうするためだけにベティーはいるのよ」

「俺を……こうして助けてくれたのも本がそうしろって書いてたからか!? 魔獣の森で死にかけた俺を助けてくれたのも! 心が摩耗した俺を助けてくれようとしたのも! ふざけ合って、怒鳴り合って、馬鹿みたいにはしゃいだ時間も……全部、お前の意思なんてどこにもなくて……そうだっていうのかよ!?」

「だから……そうだって、言っているかしら!!」

 縋るようなスバルの言葉。その終端に被せるように、怒りに顔を赤くしたベアトリスが叫ぶ。足を前に踏み、彼女はスバルを指差して、

「これまでベティーがしてきたことも、見てきたことも、言ってきたことも、全部ここに記されていたことかしら。お前が……お前なんかが、ベティーの心を動かせるはずがないのよ。思い上がるのもいい加減にするかしら、ニンゲン」

「――――」

「ベティーはベティーに望まれたことを、生かされている意味を全うするのよ。そのための命、そのための時間、そのためになにもかも費やしてきて、それだけをするためにこうしているかしら。……それを、お前なんかに、否定されてたまるかなのよ……!!」

「ベア……」

 堰を切ったように溢れ出すベアトリスの感情。とっさに声をかけようとしたが、それは唐突に生じた前方からの圧迫感に遮られる。
 風を浴びるような感覚に後退り、スバルは自分の体が抵抗できずに部屋の扉の方へ押しやられる事実に気付く。――このままだと、外に弾き出される。

「やめ……ベアトリス!」

「ベティーの全てはお母様のために! お母様との繋がりだけがベティーの全て! お前のことなんか知らない……知らない……」

「――――」

「知らない。嫌い。嫌い。――大嫌い!」

 首を振り、涙の溢れる顔を隠して、少女の叫びにスバルの体が弾き飛ばされる。
 開く扉。空間がスバルを禁書庫から追いやろうとしている。その扉の縁にスバルの右腕が手をかける。だが、指が三本足りない。人差し指だけでかろうじて体を支えたが、ほんの数秒の猶予しか残らない。
 顔を上げ、スバルは泣きじゃくる少女に声を上げようとして――。

「ベアトリ――!」

「……ぅさま」

 か細い声にかき消されて、スバルの言葉は彼女の下へ届かない。
 吹き飛ぶ。かき消される。空間が歪み、あるべき場所からあるはずのない場所へスバルの肉体が弾き出される。

「――――」

 扉が音を立てて閉まり、叩きつけるように吹いていた風が止んで静寂が書庫に落ちる。
 取り残されるのは少女が一人。彼女は嗚咽を堪えた顔のまま、ゆっくりとした足取りで部屋の奥――定位置である脚立へふらつく素振りで座り込み、膝を抱えてその上で震える指先で福音を開く。そして、

「どうして……ベティーには、なにも……」

 なにも記されていない白紙のページを前に、彼女の嗚咽だけが静かな部屋に虚しく響き続けていった。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ