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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第三章 『再来の王都』
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第三章35 『帰路』





 ぶらり、ぶらり、ぶらり、ぶらり、ぶらり。



 揺れる、揺れる。足が揺れる。

 ぼんやりと、ゆったりと、軋む座椅子に身を沈めて、竜車の感覚に身を委ねながらクスクスと狂人は笑っていた。


 面白いことがあるわけではないけれど、笑っていると不思議と心が安らぐ。

 そうしていないと、ひどく辛い気持ちが胸の中にふつふつと溜まり、それがあんまり溜まってしまうと、頭の中が爆発したようにメチャクチャになってしまう。

 そうならないために、面白いこともないのに、クスクスと笑う。面白いことを探して、クスクス、クスクスと。


 でも、ふとその笑いが止まってしまうと、ふいに寂しさが張り詰めてくる。

 そうなると、もう堪え切れなくて涙がポロポロとこぼれ落ちてしまう。止めようとしても止まらなくて、止めようとすると息が苦しくなる。だから苦しくならないように、流れてくる涙の自由にさせて、顔も服も涙でビショビショにしてしまう。


 そうして胸が痛くないように、心が辛くないように、笑ったり泣いたりを繰り返していると、いつもどこからか青がやってきて、頭を撫でたり、濡れた頬を布で拭いてくれたりする。


 だから、青は好きだった。青が側にいてくれると、心がほんわかする。青が側を離れてしまうと、途端に周りが暗くなったように不安になってしまう。胸は泣きたくなるときと同じようにキュウキュウ痛み、笑おうとしても笑えなくて、涙ばかりがポロポロと、ポロポロと出てしまうのだ。

 きっと、悲しいことは青と一緒にいないときにあったのだと思う。青が離れてしまうと、その悲しさを思い出してしまうから泣いてしまう。だから、青にはずっと側にいてほしかった。青はそれがわかっているように、できる限り一緒にいてくれる。

 だから、青は好きだった。


 緑も、そんなに嫌じゃない。

 青みたいに優しく撫でてくれたり、青のように何度も会いにきてくれたりしたわけではないけれど、緑は固くて柔らかかった。固くて柔らかくて、嫌いじゃない。

 緑が会いにきたのは青の方で、青が一緒にいるからきたのだと思う。緑と青が色々と話していたけれど、クスクス笑ったりポロポロ泣いたりで、忙しい。

 話が終わって出ていくとき、緑はジッと見つめてくる。その目がとても固くて柔らかくて、嫌いじゃない。


 茶色と白は恐い。嫌い。恐い。ポロポロしてくる。

 茶色は青の次に会いにきてくれたけれど、茶色が触ると気持ち悪くなったり、涙がポロポロするから好きくない。怒ったような目をしているのが恐い。柔らかい顔なのに、恐い。青が泣かないように撫でてくれるけれど、ポロポロしてしまう。

 白はもっと恐い。触ったりしない。一度しか見てない。なのに、恐い。ジッと見ていた目が、まるでなにも見てないみたいな目で、恐い。嫌い。好きくない。


 夢、夢を見る。

 ぶらり、ぶらり、ぶらり、ぶらり。


 揺られながら、足を揺らしながら、肩を預けながら、風を浴びながら、ぼんやりと、ゆったりと、狂人は夢を見る。



 夢に、出てくる、銀色が、ゆらり、ゆらり。



 銀色が、わからない。

 胸が熱くてポカポカする。胸が痛くてチクチクする。胸が苦しくてキュウキュウする。胸が高鳴ってドキドキする。

 嬉しいのか、悲しいのか、楽しいのか、苦しいのか、わからない。

 青みたいに好きな気もするし、茶色みたいに苦い気もするし、緑みたいに柔らかい気もするし、白みたいに恐い気もする。

 銀色は、わからない。でも、銀色のことを考えるのは、嫌いじゃない。



 ゆらり、ゆらり、ふらり、ふらり。



 ゆらゆら、ふらふら。ゆらぁり。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 うとうとと、こちらの肩に頭を乗せて船をこいでいるスバルの様子を、レムは横目に見ながらかすかに唇を綻ばせていた。


 無防備に、無警戒に、こうして全身を預けてくれている事実が嬉しい。

 今のスバルが普段のスバルでなく、この状態が彼の本意でないことがレムにはわかっていたけれど、それでもこうして全幅の信頼を寄せられるのは至上の喜びだった。


「スバルくん、もっとこっちに」


「……ん、うぅ」


 寝息がかかる距離にありながら、レムはさらにスバルの身を引いて体を密着させる。御者台の椅子は一人用のもので、二人で座るにはかなり無理をしなくてはならない。本来は小柄なレムの方がスバルに体重を預けるべきだが、今はそれをするとお互いの身が危なっかしい。

 竜車に乗ってからは大人しいスバルを膝の上に半身で乗せ、レムは手綱を握るのと反対の手で彼の腰を抱き、改めて座り直しながら手綱を引く。


 できるだけ、スバルに無理をさせない体勢を維持していた。そのため、御者台の大半の面積を明け渡すレムの体勢はかなり苦しい。そのまま半日近い時間をその姿勢で過ごすのだから、常人ならば途中で体力が尽きてもおかしくない。

 その点、レムは常人より肉体の強度の上ではるかに上をいく。その精神的な忍耐力も、じっと耐えるといった方向性においてはピカイチだ。なにより、自分の苦心がスバルのためになるという状況が、レムにとっては一番の発奮材料だった。


 スバルとエミリアの間にどんなやり取りが交わされ、どんな歪みが生じてしまったのか、詳しい内容についてはレムは聞かされていない。


 王城で王選の開催が宣言されたあの日、ロズワールの指示でスバルの登城を見逃したレムは、戻ったエミリアの憔悴した様子にひどく驚かされた。

 彼女は消耗し切った様子で、城での出来事を大まかにレムに説明し、その上で城に残してきたスバルを迎えにいき、クルシュの邸宅へ出向くよう彼女に告げた。


 スバルを行かせたことへの叱責はなかった。

 エミリアがその部分を失念したとも思えないため、レムはなにか考えあってのことだろうと、自ら話題を提供することはなかった。

 ただ静々とエミリアの命に従い、スバルを連れてカルステン家に入った。ロズワールとはその前に少し話があったが、その部分はエミリアにもスバルにも内密の話だ。それに今となっては意味を為さない話でもある。


 ともあれ、カルステン家に入ってスバルの治療が本格的に始まった。

 彼の邸宅では客分として迎えられたレムは、スバルと違って治療を受ける身でもないため、行動の大半には自由が与えられていた。その自由な時間のほとんどを、レムはスバルの傍らに立つことに費やした。

 憔悴し切っていながら、普段通りを保とうとする彼の健気さを無条件に肯定したかったのもあったが、本音はもっと私的な感情が理由だ。


 ロズワールの屋敷では、レムはあまりスバルと一緒の時間を過ごせない。

 もっぱらラムの補助として屋敷の雑務に当たる彼と、屋敷の維持機能の大半の役割を担う彼女とでは持ち回りの場も量も違う。必然的に接する時間は姉と比して少なくなり、それは少なからず彼女に不満と、不安を植え付けていた。

 そのことを自覚すると、ひどくはしたない気がして口には出せなかったけれど。


「スバルくん、大丈夫ですからね」


 寝苦しいのか、身をよじるスバルを和らげるよう抱え直し、レムは手綱を握りながら優しく声をかける。

 瞼を閉じ、寝入ったままのスバルはその声に応じない。ただほんの少し、目尻の険が安らいだような気がして、レムは気を入れ直すと前を見る。


 夜を徹して屋敷を目指すつもりだったが、どこかで一度野営した方がいいかもしれない。クルシュの邸宅を出た時点で正午過ぎだった時間も、屋敷までの道のりを約半分としたところで雲に月がかかり出していた。

 予定よりだいぶペースが遅れている。それはレムがスバルに負担がかからないよう苦慮した結果であり、地竜に本来の速度よりかなり遅く走らせていたのが原因だ。


 あと二、三時間で予定していた半日の移動になるが、屋敷まではこのペースのままならば辿り着くのは朝方になってしまうだろうか。


「そうなってしまうと、姉様と意思疎通も難しいですし」


 共感感覚はある程度の距離と、互いに覚醒状態にあることが使用の条件だ。

 特にレム側からラムに発する場合には、気力・距離ともに条件はかなり厳しい。少なくとも今の距離からラムに現状を報告することは不可能であるし、距離的にそれが可能になる頃には深夜になってしまうだろう。


 ――やっぱり、野営しよう。


 そう判断を下し、レムは手綱を操って地竜に止まるよう指示を出す。

 速度の乗っていた地竜はその意に従い、足をゆるめるとゆっくり立ち止まり、荒い鼻息をこぼしてこちらを見上げる。

 御者台にスバルを置き、レムはするりとそこから飛び下りると、街道の地に降り立って周囲を見回す。


 すでに日が落ち、リーファウス街道に満ちるのは月明かりの光源と、レムが運転してきた竜車に備えつけられたラグマイト鉱石を利用した照明だけだ。

 幸いにも雲が少ない今夜は月明かりで十分に周囲は明るい。かえって盗賊の類の襲撃の可能性は低いと踏むと、レムはさっさと引かれてきた竜車の車両の中に乗り込み、テキパキと毛布を重ね合わせて簡易な寝所を作り上げる。そして、


「スバルくん、失礼します」


 御者台で眠るスバルをお姫様だっこし、そのまま寝所の布団にくるんだ。

 座りっ放しの走りっ放しで疲れているだろうスバルを横にし、レムは軽く身を回して調子を確かめると、自身は車両の外へ出て、野営の見張りを行う。


 盗賊の心配はさほどしていないが、街道の夜には行き交う竜車の少なさに乗じて魔獣や野犬などが襲ってくることも少なくない。

 過去、そういったケースに幾度か遭遇したことのあるレムは、それらの相手が人間よりよほど危険であることを理解している。もっとも、


「今夜はあなたもいますから、あまり心配いらないと思いますけれど」


 手を伸ばし、レムは鼻先をこちらへ下げてくる地竜の顔を撫でる。

 半日、手綱越しにではあるが長い時間を繋がれていた相手だ。それなりに愛着も湧いていたし、初対面のレムの言うことを良く聞いてくれた。躾が正しく行われているあたり、さすがは公爵家の地竜であると賞賛しか出てこない。

 もっとも、地竜の物分かりの良さには、レムが生物的に上位の存在である『鬼』だという点も無関係ではないのだが。


 地竜は竜種の中でも際立って人間と友好的な関係にある種族だ。生活の一部としてかなり多くの数が組み込まれ、地竜自体の温厚な性格もあって重用されている。

 これが飛竜や水竜となると、特別な訓練や幼体からの生育などが不可欠なので、地竜と比較すると数が限られてくる。

 ともあれ、竜種の中では人に親しい地竜ではあるが、その種族としての質は当然ながら他の獣たちとは一線を画する。純粋に地竜に襲いかかる地力のわからない野生はほぼいない上に、地竜自体が非常に危険に鼻が利く習性を持っている。


 数が多い魔獣の群れ、あるいは盗賊の集団などでなければ地竜を襲わない上、それらの集団はほぼ事前に地竜が感知してくれる。

 故に、地竜を引き連れての野営にはそこまでの心配はない


「ゆっくり、休んでください」


 地竜と自分、夜の警戒には十分すぎるほどの人員だ。

 レムはちらりと見上げた寝所にそう声をかけると、鼻を寄せてくる地竜を撫ぜて地面へと座らせる。そして座り込んだ地竜の固い肌に身を預け、運び出した毛布を体にかけると、意識を張り詰めて見張りに入った。


 朝方、日が昇り始めた頃合いを見計らって出発すれば、明日の午前中には屋敷に辿り着くことができるはずだ。

 スバルを連れ帰ることと、目的を達していないことの叱責は甘んじて受けるしかない。なにより、今のスバルを守ってあげられるのは自分しかいないのだから。


「でも、スバルくんを元に戻せるとしたら……」


 エミリアしかいないのだろう。そのことが、レムには歯がゆい。


 レムにとって、エミリアという存在は非常に接するのが難しい相手だった。

 ロズワールが客分として迎え入れ、今では彼女は王候補として自分より上の存在のように扱っている。事実、レムとラムの二人にもそう扱うよう指示が出ていた。

 主人であるロズワールより彼女を高く扱うことに、レムはさして異議はない。ロズワール至上主義のラムは不服そうであったが、レムはそのあたりの思い入れに関しては姉ほど強くない。もちろん、姉もそれを顔や言葉に出すほど愚かではないので、ラムの想いについてはレムが感じ取っただけの話だ。

 普段はさして意識していない、共感感覚に強く響くほどの不満であったればこそ。


 レムにとってエミリアに対して抱く感情が複雑であるのは、ロズワールとは無関係に彼女の出自を理由とする。

 ――エミリアがハーフエルフであること。つまりは、半魔である事実だ。


 頭では、彼女自身にはなんの咎もないことをレムは理解している。ただ、感情の部分でそれを納得し切れない自分がいるのも事実だった。

 エミリアが悪いわけではない。しかし、半魔の存在はレムの人生においては軽視するには大きすぎる影響を及ぼした存在であった。


 好意的に接することも、悪意をもって接することも選び難い。

 結果、レムのエミリアへの接し方は簡潔的に、『客人と使用人』の立場を逸脱しないものであろうと固く決めていた。

 感情を排し、エミリアの指示にレムは機械のように応じる。エミリアもまたレムのそんな態度を感じ取っているのか、殊更に構うようなことは言わない。


 そんな関係のままで日々は過ぎ、王選の結果がどうあろうと変わらないのだと思っていた。役割上、王選の終わりに立ち会える可能性は自分は少ない。自身に課した立場のことを思えば、エミリアに好悪いずれの感情にせよ、強く抱くことは余計なことであると戒めていたこともある。


 なのに今、レムのエミリアに対する感情は以前と一変してしまっていた。


 そのことが、ひどくレムの心をささくれ立たさせる。

 自身の感情を認められないほど子どもではないレムにとって、エミリアの頑なさはあらゆる意味で度し難かった。そして、エミリアにはそうなってしまう無理のない過去があることを知っていながら、そんな風に考える自分に嫌気が差す。


 それらの想いは渦を巻き、中心にひとりの少年を孕むと爆発しそうになる。


 自分の醜さに、辟易としながらレムは息を吐く。

 こうして音のない世界で、光源すらもあやふやな環境に身を置いていると、自然と思考はとりとめのないものへと移りゆく。

 時間の経過はおぼろげでゆっくりとしており、月の傾きは幾度見上げても先ほどの場所から変化していないようにすら思えた。


 夜が長い。ひとりきりの夜は、どこまでも深く冷たく長い。


 ふと、背後に庇う車両の中に潜り込みたい衝動にレムは駆られる。

 車内で毛布にくるまりながら、夢を見ないほど深く眠っている間だけ穏やかな顔をしている少年の隣に滑り込み、温もりを共有できたらどれだけいいだろう。

 いっそ、全て投げ出してそうしてしまってもいいのではないかと誘惑が湧く。


 このまま戻っても、彼を待つのは理想からかけ離れた苛烈な現実だ。

 今ならば、竜車を駆ってどこへ向かおうと、それを咎めるものは自分の良心以外にない。スバルだって時間をかけて接し続ければ、いずれは幼子のような状態から人間性を取り戻し、以前とは違うながらも同じ時間を共有できるようになるかもしれなかった。

 路銀も、ロズワールに渡された分は金額にしてかなりのものだ。これを持って行方をくらまし、スバルと二人で隠遁することもできるだろう。


「ふふ、夢物語ですね……」


 首を振り、抱えた膝に頭を押しつけながら、レムは自分の妄想に苦笑する。

 そんな全てを蔑にした選択などできるはずもない。本来ならば、頭に思い浮かべることすら忌避すべき残酷な考えだ。

 姉を、ラムを置いて屋敷を去ることなどできるはずがない。姉は正しくレムにとって半身そのものであり、なによりあの屋敷に彼女を置き去りにした場合、彼女にかかる負担はどれほどのものとなるだろうか。優しく、レムに甘い姉はきっとそれでも自分を許すだろう。だからこそ、姉を裏切ることなどできるはずもない。


 そんな背信すら思考するレムに大金と重大な役割を任せたロズワール。その信頼を裏切ることもまた、潔癖なレムの性格ではできるはずもない思想だった。

 そしてなにより、


「スバルくんを……このままにしておいていいはず、ありませんから」


 スバルの世話を甲斐甲斐しく焼いている間、レムを支配していたのは多幸感だった。

 もともと、レムは自分が独占欲の強い性格であると自覚している。できるなら大切な人は全員、自分の手許に置いておきたい。他人に尽くすことで、自分の存在の価値を実感できる――生まれながらに、メイド気質であるといってもいい。

 故に、現状のスバルの世話を焼いている状態はレムにとって苦ではない。むしろ、自分なしではいられないスバルに満たされるのを実感する日々だ。


 だが、それは、本来の、スバルではない。


 レムにとって、ナツキ・スバルという人物はいつだって――。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 朝靄の大気の湿り気に前髪を揺らし、レムはゆっくりと顔を上げた。


 意識を半覚醒とでもいうべきか、睡眠と現の狭間に漂わせる感覚に酔いながら、レムはそろそろ出立する時間であると認識を新たにしていた。


 夜の間、目立った変化はなにも訪れず、魔獣や盗賊は気配すらも彼女らの前に現すことはなかった。とはいえ、レムも疲労していないわけではなかったらしい。変化らしい変化のない時間に耐えかね、意識が睡魔に負けかけるに至り、前述の半覚醒状態に意識を移行し、自身の休息にも時間を費やしていた。


 立ち上がり、朝の涼やかな空気の中で体を伸ばす。

 だらしなくはしたない仕草だ。他人の目がある前では絶対にやらないが、今は見られるとしても傍らで寝息を立てるスバルだけで――。


「す、スバルくん!?」


 驚いて飛びずさり、レムはすぐ隣に毛布にくるまる少年がいた事実に気付く。

 こちらに寄り添っていた少年は支えを失い、ゆっくりと草原に転がり、顔をしかめて身じろぎしているところだった。


 慌て、レムはそのスバルの姿と背後の竜車を見比べる。深夜、レムの意識が覚醒から離れた間に降りてきて、レムの隣に転がり込んだのだろう。

 そのことに気付かなかった事実にゾッとしつつ、反面で自分がどれだけスバルに心を許しているのかを自覚して今さらながらに顔が赤くなる。

 そんな乙女的な反応をしつつ、レムは内心でスバルの今の行動が良い兆候なのではないかと考えていた。


 起きていれば無表情でいるか、笑うか泣いているかだけの反応が大半だったスバル。その彼が自ら竜車を下り、こうして意思ある行動を実行したのだ。

 次第に壊れてしまった心がまとまり始め、彼という人格を再構成しているのではないかとレムは希望を抱いた。


「――よし、帰りましょう、スバルくん」


 変化が生まれたのならば、きっとこれから良い方向へ向かう。

 自分らしくない考え方だが、それも目の前の少年に感化された結果だろう。そしてその内面の変化は、レムにとってはどこか愛おしいものに思えるのだ。


 まだ眠ったままのスバルを改めて抱き上げ、御者台に乗り込むとレムは地竜を起こす。目覚めた地竜に一声かけて、水を飲ませてから再出発。

 車輪が街道の地面を噛み、ゆっくりと速度を上げて移動を始める。


 道のりはおおよそ半分、時間にしてみれば七、八時間程度になるだろう。

 気力・体力ともに悲壮感だけを抱いて出発した昨日よりは充実している。深く寝入るスバルの横顔を眺め、レムは逸る気持ちを手綱に伝えて速度を上げた。


 きっと、全てが良い方向へ巡る。


 ――レムはそう、信じていた。




※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 ――空気がおかしい。


 竜車を走らせるレムがそのことに気付いたのは、寝苦しそうなスバルの頭を自分の膝の上に載せて、支えていた腕を彼の黒髪に差し込んで撫でていたときだった。


 昨晩、ゆっくりと考える時間があったせいかもしれない。

 自分の中の複雑な感情にある程度の納得を得たレムは、深夜に自ら寄り添ってきたスバルの姿に内心でどこか浮かれていたものがあった。


 それが理由で、こんなにも明白な異常に気付くのが遅れたのだとしたら、自分で自分があまりにも救えないほど愚かだった。


「あまりに静かすぎる……」


 リーファウス街道を走る道行き、これまで一度も他の竜車とすれ違っていない。

 街道に沿って走っているとはいえ、レムが地竜を走らせるのは屋敷への最短を目指してやや正道からは外れている。車輪が草を噛む感触を尻に感じながら、しかしレムは遮蔽物のない周囲に一切の他者の存在がないことを気にかけるべきだった。


 昨晩の魔獣や盗賊の襲撃を警戒したときにも、おかしな点はいくつもあった。

 敵対者の存在が一切感じられなかったこと以前に、虫の鳴き声ひとつすら聞きとることのできない異常というものに。


 嫌な予感が彼女の脳裏を駆け巡る。

 この手の静けさ、そして生き物たちが息をひそめる状況――そういうものはいつだって、人知を越えた異変が起きる前兆であるのだから。


 メイザース領が、屋敷への距離が縮まるにつれて強くなる違和感。

 レムは内心の不安を手綱を握る手に込めて、すでに必死の速度で走る地竜をさらに急がせる。

 無理をさせていることは承知の上だが、今は一刻も早くこの不安の正体を確かめなくてはならない。杞憂であるのならそれで構わないのだ。スバルにも、地竜にも無理な旅路に付き合わせたことを謝罪し、改めて問題と向き合えばいい。

 だが、もしもこの胸に燻る不安が現実ならば――。


「――姉様?」


 ふいにレムの心に到来したのは、自分のものではない感情の紛糾であった。


 ――それが堪え難いほどの不安で、すぐに掻き消えた事実にレムは焦る。


 普段から表面上泰然としている姉は、実際に内心でも豪胆に構えている。基本的に動じるということと縁遠い彼女が動じるのは、主人絡みか僭越ながら妹であるレム絡みであること以外にはそうない。

 そんな彼女がレムに対して共感で伝わるほどの『不安』を抱いた。そしてすぐにそれが掻き消えたということは、レムに伝わらないよう自制したということだ。

 距離が離れていれば伝わらなかっただろうその不安が、王都からの帰還中であるレムには届いてしまった。

 そしてそれを受け取ったレムは、


「早く、戻らないと――!」


 急ぎ、さらに手綱を手が白くなるほど強く握りしめる。

 現状、予定通りに屋敷で事が進んでいた場合、あの場所にいるのは姉とエミリアしかいないはずなのだ。もしもそんな状態でなにか、二人の手には負えないような問題が発生したとしたら。そしてそれがこの不安と無関係でないなら――、


 焦燥感に導かれるレム。表面上は無表情を、内心では努めて冷静でいることを自分に任じている彼女は、その実、懸命になると周りが見えなくなる欠点があった。

 その欠点は今回も、彼女に対して牙を剥いた。




 ――目の前で、地竜の首が吹き飛ぶのをレムは時間の停滞した世界で見た。






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